とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

038

最終更新:

NwQ12Pw0Fw

- view
だれでも歓迎! 編集

とある妹達編の後日談(アナザーストーリー) 1



絶対能力進化-学園都市において表にされることなく秘密裏に行われ、一人の少女を絶望の淵に追い込んだその実験は、8月21日夜に行われた実験-絶対能力進化第10032次実験、被験者・一方通行、戦闘相手・ミサカ10032号、実験条件・反射を適用できない戦闘における対処法-の最中に第三者の予期せぬ介入により失敗に終わり、計画自体が中止される事となった。
この実験を中止に追いやったとも言える第三者-上条当麻-は戦いの直後に気絶したまま、第七学区にあるとある病院へと運ばれ、冥土返しの治療を受けた。
冥土返しの治療は的確で、上条当麻はいたって健康な状態…になったはずであった。
しかし、見舞いに訪る人間も当初は数多くいたが、個室のドアが開くたびに、皆同じように暗い表情を浮かべるしかなく、徐々にその数も減っていった。一歩外に出れば、大覇星祭や一旦覧祭、クリスマスや正月といったイベントが行われたにも関わらず、である。
なぜなら、上条当麻の姿はこの病院に搬送されたその日、その時から病室以外で見ることはなく、その声も聞く事もない。

-上条当麻は、まるで毒林檎を食べた白雪姫の様に、眠りについたまま目を覚ましていないのだ-

         ☆

キーンコーンカーンコーン
「起立、礼、着席」
ガラガラと椅子が動く音が聞こえ、建物一体に女性特有の甲高い、かしましい会話が聞こえはじめた。
ここは第七学区の一角、学舎の園内にある常盤台中学。その2年生の教室である。
もうすぐ3年生が卒業し、新しい一歩を踏み出そうとしている時期でもあり、彼女達を送り、新しく自分達が最上級生になるための準備が着々と進められていた。
そんな周囲の喧騒をよそに、今日も一人の少女が足早に教室を後にした。
そのこと自体は今に始まった事ではなく、もう半年近くも続いている事なのだ。

「御坂様…今日もお早いご帰宅ですね」
「また本日も病院の方へ行かれるのでしょうか?」
「2学期からでしたか…御坂様を街中で見かけることがなくなったのは」
「一体どうされたのでしょうか…こうも毎日毎日ですと、流石に心配ですわ」

足早に教室を去った少女-御坂美琴-は、今日も今日とてとある病院へと足を向けるのだろう。
美琴が足早に教室を去るようになったこと、そのことに最初に気づいたのは誰だったであろうか…。
常盤台外部学生寮への帰宅時刻が毎日ほぼ同じで、そこから逆算すると病院の面会終了時間とピッタリと一致するということを見つけたのは誰だっただろうか…。

盛夏祭から夏休み終了までの間に美琴に何やら重大な出来事が起きたということは誰の目にも明らかなのだが、その理由は誰も掴めないし、美琴も喋ろうとしない。ポルダーガイスト事件で、仲間で協力することの大切さについては知ってはいたし、実際話せば手伝ってくれるであろう友達は少なからず居た。
しかし、美琴は上条がこうなってしまった理由も含め、「あの実験」については誰かに話すつもりは毛頭ない。あまりにも強烈で、過酷で、凄惨で、そして何よりも学園都市を敵に回すかもしれないというその内容は、俄かには信じがたい出来事であるし、他人に預けるにはあまりにも重過ぎるのだ。

-あの実験は、永遠に私(とアイツ)の中にしかいちゃいけないのよ-

美琴は、いつの間にかそう考えるようになっていた。だからこそ、感付いていたかもしれないが、それでも何も聞かずに、何も言わずに、以前と変わらぬように接してくれる友達の存在が有り難かった。そして、以前と同じように対等な立場で接しようとしない常盤台の生徒にも救われていたのかもしれない。

-対等な立場で接されると、アイツを思い出してしまうかもしれない-

そういう考えを、美琴自身全く持っていないというわけではなかったのだから…。

美琴が病院に通うようになってからしばらくしたある日、いつものように足早に学校を去る美琴を見て、誰かがこう言った。
「御坂様に何が起こっているのか私達には知る由もありませんが、また御坂様がお元気に学校に来られるお姿を、街中を闊歩される姿を見たいものですわ…。時間が解決してくれれば、それで良いのかもしれませんし…。とにかく、今の御坂様は見るに耐えられません…」
その言葉にその場にいた誰もが首を縦に振った。そして誰もが、御坂美琴という少女に平穏が戻ることを願った。
しかし、その思いに神が応えることはなく、時だけは無常にも流れすぎていった…。

コンコン
キイッ…ガチャ…
…ピッ…ピッ…ピッ…

ここは、第七学区にあるとある病院の一室。
半年もの間、上条当麻がこの個室のベッドの上で、規則正しい呼吸をし、平日の夕方と休日の面会時間の間だけ、御坂美琴の話し声が聞こえるだけの、物寂しい病室である。

「今日、久しぶりにシステムスキャンがあったのよね」
「黒子には大能力者の中でも上位になれば一日くらい付き合ってあげるって言ってあったんだけど、結果が良くなかったみたいでへこんでたわ」

今日も、御坂美琴の声だけが病室の壁に反射し、虚しく虚空に消えていく。
話の内容自体は何も分からなくても面白く感じるように仕立ててあり、それを伝える顔には笑顔が見えている。
しかし、彼女の本当を知っている人間から見れば、その笑顔はまやかしのものであるのは一目瞭然で、痛々しさが伝わってくる物であった。

「私もね、一応システムスキャンはしたの。でも、本気を出しちゃうとまずいから、やっぱり手加減しなくちゃいけなくて…」

そこまで言うと、美琴は言葉を詰まらせ、視線は徐々に下がりその表情は徐々に曇っていった。
幾ばくかの後、それまでからは考えられないほどの弱弱しい声で、頬を伝う涙を拭おうともせずに、美琴は言葉を紡いだ。

「…もう、あれから半年経つんだよね…私、半年も…本気出して…無いんだな…って…」


-病室に備え付けられているデジタル時計は、今日が2月21日であるという事を示していた-


時をさかのぼる事半年、絶対能力進化実験の悪夢が終わってから数日たったある日。
第七学区のとある病院では、カエル顔の医者が美琴に事の推移を説明していた。
あの実験で殺されるはずだった妹達が全員確保され、10名前後が学園都市に残り、他の妹達は世界各地に送られ、平和利用に用いられるという事。
実験に参加していた研究所や研究員は学園都市の直轄となり、元々実験そのものが無かったかのように扱われていくだろうとの事。
美琴にとって、それは吉報以外の何物でもなかった。
美琴は、事が良い方向に進むのを理解し、自然と顔を綻ぶのを抑えながら、上条の眠る病室に足を進めていた。

しかし、万事が吉報だとは限らないのかなとも美琴は思う。
人間、死んだように眠る事はあっても、こう何日も目を覚まさないというのは果たしてどうなのだろうかと。

上条の眠る病室に入ると、美琴は部屋においてある花瓶の花を入れ替えたりしながら、上条の様子を伺っていたのだが、上条に変化は見られなかった。
「全く…私だって暇じゃないんだからね…早く起きなさいよ、馬鹿」
時折上条に向けて悪態をついたりして、美琴は素直になれない自分の嫌気がさし、上条が目を覚ました時には素直になって、真っ直ぐな自分の気持ちを伝えようと思った。
そして、その手始めとして、上条が目を覚ました暁には、まず最初に、私を、妹達を助けてくれてありがとうと言おう、と。
「でも、その前に」と思いながら、美琴は上条の顔を見て、そのまま視線を唇に落とした。
暫しの静寂の後、周囲に誰も居ないことを確認して、「これは、ただのお礼だから…」と、美琴は上条の顔に自分の顔を近づけた。もう少しで、美琴と上条の距離は0になるはずだった。

その時、病室のドアが開き、誰かが入ってきた。
入ってきた人間、それはこの病院の中でもトップの腕を誇るカエル顔の医者-人は彼を冥土帰しと呼ぶ-だった。美琴はこれでもかと言わんばかりに顔を赤くし、わたわたと慌てふためいた様子を見せた。
カエル顔の医者は上条と美琴を一瞥して、何やら物言いたげな顔を一瞬だけ見せた後、少々真面目な顔をして、
「まだ居てくれたか。ちょっと大事な話があるんだけれども、時間はあるかね?」
と切り出した。

「残念ながら、彼は…ここに運ばれてから目を覚ました事が無いんだ」

その一言目は、美琴を浸りかけていた甘い夢から現実に引き戻すのに十分すぎる説得力を秘めていた。
そんな美琴の動揺をさらに増幅させるかのように、カエル顔の医者は話を続けた。

一つ、上条当麻に目立った外傷及び致命的な内臓の負傷は見受けられないということ。
二つ、呼吸は安定しており、刺激に対しても反応が見られ、脳波にも異常が感知されないということ。
三つ、意識だけが戻っておらず、いつ意識を取り戻すのか、いつ目を覚ますのかだけが分からないということ。

美琴は、口を開く事はおろか、手の指一本動かす事ができなかった。
顔は表情を失い、瞬く間に青ざめ、焦点の合わない虚ろな目で、まるで自分だけが時間に取り残されたかのような状態に陥っていた。

ミサカ9982号を失った時、20日に上条とあった公園で妹達から実験が終わってない事を聞かされた時、原子崩しや一方通行と対峙した時、それら以上の衝撃を、美琴は受けていた。
上条がどう思ったとしても、上条をこのような状態にしたのは自分自身なのだ、自分のせいで上条が二度と目覚めない可能性があるのだ、いくら甘い妄想に浸れても、現実はそう甘くはないのだと美琴はほんの少し前まで舞い上がっていた自分自身を責めた。

結果として、美琴の精神状態は21日に鉄橋の上で上条と会ったときと同等かそれ以上の絶望でもって、周囲の力ではどうしようもない程の無力感に包まれていた。
おもむろにイスから立ち上がろうとするのだが、足に力が上手く入らずに踏ん張れず、そのまま上条の眠るベッドの方へよろけてしまう。意識は今にも飛びそうで、そもそもそんなものは存在しないのだと言わんばかりの勢いで心の平静は崩れていき、美琴は昏倒寸前の非常に危険な状態に陥っていた。

美琴は傍から見ても危険な状態に陥っていた。普段であればただの笑い話で済むかもしれないが、今日に限っては何があってもおかしくなかった。外に出れば常盤台の制服を着た不審者扱いは間違い無し、一歩間違えば周辺が大惨事になる可能性が捨てきれないほどの状態は到底放っておけるような状態ではなかった。
カエル顔の医者は一度美琴をイスに座らせ、気持ちを落ち着かせながら、何処でその情報を知ったのか、美琴の住んでいる常盤台外部寮へと電話を入れた。

『超電磁砲を猛烈に慕う空間移動』を呼ぶために。
美琴の日常が完膚なきまでに叩きのめされた、その事実を寮長に伝えるために。


「お姉様…どうされたのでしょうか?」
白井黒子は過去最大級とも言える疑念だけをもって、寮長から指定された第七学区のとある病院、その一室へ向けて自身の持つ能力をフル活用していた。
待機任務とは言え、風紀委員の仕事中ではあったのだが、寮長から直々のお達しであること、非常事態であることなどから特別に任務として動いて良いという事になったのだ。
-空間移動-大能力者である彼女の能力をもってすれば、瞬時に短距離の移動が可能となる。もちろん、連続で使ったりするとそれだけ能力の精度が落ちるわけだが、こと『お姉さま』が絡むと黒子の能力が疲れを知ることは無いといっても過言ではない。黒子にとって、お姉さま、つまり御坂美琴その人は、それだけ大切で、かけがえなくて、常に慕っている、自分の理想そのものなのだ。

『御坂美琴が精神的に動揺している状態にある。至急第七学区のとある病院の指定された病室まで行き、彼女を誰の目にも認めさせる事なく常盤台寮の自室まで連れてくること。寮内での能力使用は原則として禁止だが、今回についてのみ寮の出入りでの能力の使用を特別に許可する』

寮長から黒子に来た指示は簡単に纏めると、こういうことになる。黒子にとっては、美琴が非常事態に陥っているというのがそもそも考えられないのだが、美琴が誰の目にも見せてはいけないほどの状態である、そして搬送では特別に寮内での能力使用を許可するということ、それを伝える寮長の様子が明らかに常軌を逸しており、事の重大性を薄っすらとではあるが黒子へと伝えていた。
それでもまだ、この時の黒子は事態を深刻な方向で捉えてはいなかった。確かに一大事ではあるが、すぐに何とかなるだろう…と、そう考えていたのだ。

この時、黒子は失念していた。
つい2,3日前まで、美琴に元気がなかったことを。
元気を取り戻した後の美琴は、何か吹っ切れたような表情を見せていたことを。
「お姉様…お迎えに…!?」
病院内の指定された場所に到着した黒子を待っていたのは、体中から微弱な電磁波が漏れ出し、焦点を合わせることも忘れ、顔面は蒼白で表情も無く、全身からは生気でさえも失ってしまった廃人同然の美琴の姿だった。

黒子にとって、その姿はあまりにも衝撃的だった。

幻想触手事件で(間接的にではあるが)友人を追い詰めた時の姿も、乱雑開放事件で敵の襲撃に逢い(周りの存在に縋る余裕も無いほど)精神的に追い詰められた時の姿も、見たはずだった。
でも、それらの時とは、美琴の様子があまりにも違いすぎた。黒子は、ただただ呆然と、指一本動かす事も出来ずに、真っ白で思考が纏まらない頭でもって、美琴の身に何があったのかを考える他なかった。
外傷は見当たらない。
着衣の乱れも見当たらない。
内臓器官に異常があるというわけでも無さそうだ。
では、最愛のお姉様に一体何が?
纏まらない頭で考え続ける黒子に、そのヒントは思わぬところから現れた。
「彼女がどうしてこうなったか…気になるかね?」

黒子は、話しかけてきたカエル顔の医者に誘われるがままに、彼の診察室と思しき所へ入っていった。向かう途中、彼が話した内容は、美琴はここ数日間とある事情から病院に通い続けている、という事だった。
黒子はカエル顔の医者と会話をしながら、その内容から更に日を遡った時のことを思い出しつつあった。

美琴の生活はどうだっただろうか?
美琴はおかしな行動をしていなかっただろうか?
そして、美琴はその時どんな顔をしていただろうか?

カエル顔の医者は、診察室に黒子を招きいれる際、彼女の顔色の変化に気付いていた。先ほどの美琴までとはいかないものの、それでも最初に見たときとは様子が異なっていた。連れてくる時には難しい顔をしていたのに、今となってはもう真っ青な顔で、何か取り返しの付かない事をしてしまったとでも言わんばかりであった。

カエル顔の医者から話された内容は黒子にとって衝撃的だった。
あくまでも僕が聞いた範囲内で話をするとの前置きがあった上で聞かされたものだったが、それでも、途中で耳を覆いたくなるような強烈な話だった。

曰く、美琴に関連して、壮絶で、過酷で、陰鬱な出来事が起こっていたこと。
曰く、美琴は、肉体的にも精神的にも追い詰められ、打ちひしがれ、絶望感で胸が一杯になり、死をも覚悟したこと。
曰く、誰にも悟られないように隠し続けていたのに、ある一人の人間にそれを知られ、その人がその難事件を解決、美琴を救ったこと。
曰く、そんな命の恩人が、その事件の解決を最後に倒れ、未だに意識を戻す気配すら無いということ。

途中までの話は、黒子にも心当たりがあった。
夜な夜な寮を抜け出す姿を薄目に見かけたのは一度や二度ではないし、ここ二週間ほどの美琴の様子は、共通の友人である佐天涙子や初春飾利でさえも薄々感付けるほどおかしかった。しかしそれも、ほんの数日前には元に戻ったように見えた…はずだったし、復調してきた美琴を見て、佐天や初春とも喜んでいたのだ。

それがどうだろう。実際には美琴の悩みは解決するどころか更に泥沼に嵌っていき、答えの見えない迷宮の中へと入ってしまったのだ。或いは、一旦は迷宮を抜け出したのにも関わらず、その手助けをした道案内人が居なくなって、それ以上の深みに嵌ってしまったと考えても良い。
その事実は、黒子でさえも立ち直るのに相当の時間を要した。病院に来た時にはまだ陽が高かったのに、空間移動に必要な演算が出来るようになったときには既に暮れかけていたのだから、その動揺は計り知れないものだった。
ならば、と黒子は思う。自分でもこれだけの衝撃を受けたのだ。美琴の受けた衝撃はこんなものではないだろう。度重なる絶望の淵から、幾多の困難を乗り越えてきた美琴をも飲み込むほどの泥沼から引きずり出した、そんな命の恩人なのだ。もしかしたら、今の美琴は自分だけの現実を構築できないのかもしれないのだ。
救いようのないほどの悲惨な現実は、時として残酷な運命しか指し示す事が出来ないのだ。

その前に、一つだけ確認しておかなければならない事があった。美琴を助けた人物、その人。
数日前、美琴がとある公園のベンチに居たのを、黒子は知っている。あの時美琴の傍に居た、翌日には常盤台の寮まで乗り込んできたとある殿方、その人でないことを黒子は願うほか無かった。少なくとも自分の知る限りにおいて、美琴とあそこまで接触できる殿方は彼しか居ないのだ。

しかし、現実は、想像以上に残酷だった。
その名前と、医者に見せられた昏睡状態のその人間の写真。
それらが指し示す人物は、あの時の殿方-上条当麻-その人だったのだから。
「それでは、失礼します、ですの」
黒子は一人、病院を後にした。向かう先は寮ではなく、風紀委員第一七七支部である。
本来の任務では美琴を連れて帰らなければならないのだが、ショックが大きく未だ能力制御の効かない美琴を寮まで連れて帰る余裕は今の黒子には無かった。そのため、美琴が漏電している事を理由にして、寮監に連絡後、風紀委員の仕事に戻る事を選んだ。
ただでさえ自身にも少なからずショックはある。これだけなら演算に支障が出ることはあまり無いが、美琴の漏電次第では大惨事につながりかねない。一晩経っても漏電が収まらなければ別だが、その時はその時、まずは様子を見なければとの思いが強かった。
また、同じ様に美琴を心配していた初春や佐天にもこの事を伝えておきたい。三人揃えば文殊の知恵ではないが、今の自分達が美琴に出来る事は何なのか、それを考える時間が欲しいと心の底で考えていたことも、その一因であるのだが。

暫くして、風紀委員第一七七支部。
任務中に一休みを貰う事の出来た初春飾利とたまたま遊びに来ていた佐天涙子は、病院から戻ってきた白井黒子から聞かされた事実を、ただ呆然と聞く事しか出来なかった。
ショックの大きさは黒子のソレと何ら変わりなく、ただ違う事があるとするならば、一歩退いた目線で見ることが出来た、ということだけだろうか。だからこそ、自分がその身になった時にどう接して欲しいのか。二人にはそれを考える余裕が僅かではあるがあったのが幸いだった。

時として、親切が凶器になる場合もあるのだということを、彼女達は知っていた。
甘い誘惑に頼り、一時の慰めに縋り、自分の望んだ結末だけを信じさせる事で深い傷を背負う可能性があることを、彼女達は知っていた。

ほとぼりが冷めるまで、美琴を一人にさせてあげよう。
少し落ち着いて、それでも苦しんでいたら、いつもの様に、何も知らないフリをしていよう。

それが、三人で話し合った結論だった。

それ以上に、自分がその立場なら声をかけられることを望むだろうか、ということも一つの要因となった。いくら、困難な問題は仲間で力を合わせて解決すべき、が心情であったとしても、今回はあまりにも状況が状況で、きっと自分達がどれだけ言葉を贈り、態度を示したとしても、それはきっと無用の産物であって、きっと何の慰めにもならないだろう。
それならいっそ、何も知らなかったさまを装い、あくまでも「御坂美琴の友達」として接していこう。例え理解ある友人であったとしても、人には詮索してはいけない領域がある。その事を彼女達は身をもって知っていた。
その奥には、美琴にかける言葉が見つからない、という意味が含まれているのだが、それは決して表に出さないし、出してはいけない。今後どうなるにせよ、変に美琴に気を遣わせてはいけないのだ。
だからこそ、彼女達にとっても辛く、苦しいであろう選択をしなければならなかった。

気分転換に、と先輩の固法美偉がやってきて、近くの窓を開けた。
空はもう闇に包まれていて、丁度のタイミングで数多の流れ星が学園都市の漆黒の空に流れた。

彼女達は願う。
御坂美琴の命の恩人が無事に意識を取り戻す事を。
御坂美琴の一転の曇りの無い笑顔がまた見れることを。
御坂美琴の迷いの感じられない元気な姿が学園都市で再び見られることを。

そして何より、御坂美琴が平穏な生活を取り戻すことが出来ることを。

とある妹達編の後日談(アナザーストーリー) 2



「…う、ん…?…こ、ここ、は…?」
御坂美琴は、病院のとある一室、そのソファーで目を覚ました。
辺りは暗く、どうやらその病室にある時計を見る限りでは、深夜三時頃のようだ。
ふと、美琴は周囲を見渡した。
「…あっ…」
元からあったであろうベッドの上に、とある少年が寝ていた。
その姿を見た瞬間、美琴は何があったのかを瞬時に思い出した。

あの浮かれていた瞬間から、突き落とされた奈落の底。
思い出したくもない、その理由と原因。
そして何故、自分が今こんなところで寝ていたのか。

「…アハハ…柄にも…無い…コト…しちゃった…な…」
それは、誰に、何に、向けた物だったのか。
確固とした自分だけの現実を持ちながら、能力の制御を自分の意思で出来なかった事なのか。
自分を尊敬し、慕い、気持ち悪いほどの愛を投げかけてくる後輩に晒してしまった醜態に関してなのか。
それとも、自分の中ですら認めていない感情に、気づきたく無い感情に気付かされつつあるが故なのか。
呟いた美琴にでさえ、その答えとなる道筋は見えていない。

少し頭を落ち着かせてから、美琴は上条の前へと足を運んだ。
その顔は本当にただ寝ているだけの様に見えて、昏睡状態であるという事実がウソであるかのようだった。
「ん…」
なんとなく、美琴は頭を撫でようとした。
…したが、手はピクリとも動かなかった。
「…どう…して…?…」
あの日、あの時、あの場所でやったように、自分の膝に上条の頭を乗せ、その頭をゆっくりと撫で、涙の一つでも流せれば目は覚めるかもしれない。
そんな悠長な事を考えたのが拙かったのか、それとも、自分が上条を今の状態に追いやったという罪悪感でも心のどこかにあるのか。
とにかく、美琴の手は動かなかった。
「…うご…いて…動いて…動いてよ…!」
幾ら念じても、どれだけ声に出そうと、嗚咽が混じった涙声で言っても、何も変わりはしなかった。

美琴の手は動かない。
上条の目も開かない。

その、届きそうで届かない、一メートルにも満たない空間が、まるで何十キロとある途方も無く長くて大きな壁の様に思えてきて、美琴はその場に泣き崩れるしかなかった。
美琴の中の悪魔が囁く。
「妹達を10031人も殺して、つい二、三ヶ月前まで全く見ず知らずだった男までも昏睡状態にして…。もう君は人を幸せにする、人と幸せになるなんてことは出来ないんだ」


次に美琴が落ち着くことが出来た時、空はすでに明るくなっていた。
美琴は泣き腫らした顔を洗おうと思い、一旦病室を出ようとした。
そのとき、パタパタパタと足音が聞こえてきたかと思うと、次いでドンと、病室のドアを開ける音がした。

「とうま、またせすぎなんだよ!いつになったらかえってくるの!?」

美琴は目を見開いた。いきなり入ってきたのは銀髪でシスターの格好をした少女。上条のことを「とうま」と呼び、会話の端々にはなにやら只ならぬ台詞も聞こえる。

「えっと…その…」
「!?」

美琴の声で、ようやくシスターの格好をした少女は病室に美琴が居た事に気付いたらしい。
しかし、それは関係ないと言わんばかりに、少女は上条の頭に噛み付いていた。
それでも、上条は目を覚まさない。それどころか、まるで死んだかのように、ピクリとも動かない。
「…とう…ま…?」
ようやく少女も異変に気付いたのか、上条を見る瞳が不安を映し出していた。

その流れを静観しようと決めていた美琴だったが、その意に反して、口は言葉を紡いでいく。
「この人はね…ここに入院してから、目を覚ましてないの。そして、これからも…」
美琴の口から発せられた言葉は、冷たくて、そして重かった。
「そんなことはありえないんだよ!とうまはとうまなんだよ!だから…!」
少女の言葉に、美琴の頭は理解をしようとする。

けれど、口は黙っていなかった。「やめて」という心の叫びも虚しく、美琴の口は淡々と、己の心にも刻み付けるように、言葉を連ねていく。
「この人があなたにとってどんな存在だったかなんて知らない。けど、そんなことは知った事じゃない。ここにある事実は一つだけ。上条当麻というこの男は原因不明のまま、何時目覚めるかも分からない夢の世界に居る。もしかしたら、このまま死ぬまで一生このままかもしれないわね」
締めにはアハハ…と乾ききった笑いまでつけて、美琴の口はまるで鋭いナイフのような切れ味で、その場に居る少女二人の言葉に刃を突き立てる。美琴自身、制御できない感情に振り回され、自分ではどうする事も出来ない状態になっていた。

「!?」
異常事態を察知したのか、それとも耐え切れなくなったのか。
シスターの格好をした少女が病室を飛び出した。
その場に残された常盤台の制服を着た少女は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

戻りかけていた表情はその色を再び無くし、色の灯っていたその瞳はただただ濁り…。
その目に宿っていたはずの光は、跡形も無く消え去っていた。

「…というわけなんだよ!だから…」
「なるほどね。魔術、というのは良く分からないけれど、言いたい事は分かったよ」
「…!」
「でもね、君が思っている以上に彼の容態は深刻だし、学園都市では魔術はあり得ないものだとされている。僕だって実際に見たわけではないからね。君が彼とどういう関係かは分からないが、今の彼には付ける薬は何も無いんだ。それが事実だということは分かって欲しいね」

冥土返しは落ち着いて、シスター姿の少女の話を聞き、そして少女を落ち着いて行動させるべく、言葉を選びながら会話をした。
彼女の言い分によると、彼-上条当麻-の昏睡状態の理由はこうだ。
3週間ほど前に彼が担ぎこまれてきたとき、彼は記憶喪失に陥った。どうやら、その前後で竜王の殺息と呼ばれるものの光の羽が頭部に入り込んだことがあり、その際に羽の一部が幻想殺しの消す力で包み込まれていたらしい。この時、体内での幻想殺しの力と羽根の一部の力が均等化され、羽は消滅せずに幻想殺しでコーティングされる感じになっており、この前までは頭の中に異物がある状態だった、というのだ。つい先日までは脳への障害がない位置にあったそれが、先日の戦闘で移動してしまい脳への障害となり、昏睡状態になった、と少女は考えているようだ。
確かに、最初に少年を診た段階では外傷も多くあったし、軽い脳震盪を起こしていた形跡もあった。また、感電でもしたのか、脳に多少電撃が流れていた影響が見受けられた。そういう解釈になっても不自然ではない。

この調子なら、原因は後ででも調べていけば分かるかもしれないなと、冥土返しは思った。
しかし、今はそれよりも成すべきことがあった。
それは、医者にとって最も大事な事で、何よりも最優先でやらなければいけないこと。

「それで、君は彼を治す方法を知っているのかい?」
「ううん。私の知ってる情報の中には解決策は無いよ。魔術で羽のみを消すことは出来るけど、当麻の場合は幻想殺しが邪魔で不可能だし、仮に幻想殺しを無効化できたとしても、今度は羽が活発化して脳を攻撃してしまって今より悪い状態になるかもしれないし、一歩間違えたらとうまは死んじゃうかも」
「つまり、幻想殺しと羽を消す作業を同時にしなければいけない、と?」
「そういうことなんだよ」

冥土返しは考える。
もしその話が本当だとするのならば、少なくとも現時点では上条当麻が目覚める可能性は限りなく0に近い。
それに、今も居るであろう常盤台の少女。
彼女にこんな話をしても、恐らく彼女は受け入れないだろう。
それどころか、話す内容を間違えれば、彼女の方も危ないかもしれない。
ハッキリとした自分だけの現実を持つ彼女があそこまで取り乱している。その事が上層部に知れてしまえば、彼女に影響が及ぶ可能性だって捨てきれない。

ならば、自分が一つ一つ解決の道筋を見つけていかなければならないだろう。
まずは目の前の少女に事実を伝える。
次に病室に居るであろう常盤台の少女に可能性を伝える。
その上で、二人に選択をさせるのだ。
彼女達自身の、身の振り方を。

「えっと、インデックス…と言ったかね?」
「…?…そうだけど…」
「彼…上条君は、二度と目覚めないかもしれない」
「…!」
「自分でも薄々気付いているんだろう?先ほど君のしてくれた話には治療となるヒントがあったかもしれない。けれど、そういう意味なのだと捉えることもできるからね」
「…じゃ、じゃあ…」
「君と彼の関係は知らないけれど、君は彼から距離を置くべきだと思うね。僕が見る限り、彼は他人のために自分が傷つくことがあっても、自分のために他人が傷つくことは許さないタイプだ。今の君を彼が見たら、きっと悲しむだろうね」

「…そう…だよね…とうまはとうまだよね…」
「そう。彼は彼、君は君、だ」
「…ありがとう。私、イギリスに帰ることにするんだよ。今は当麻が保護者代わりなんだけど、この状態じゃどうなるか分からないし、私が来てから当麻は入院ばかりで…イギリスに帰って、当麻の回復を祈るんだよ。そして、当麻の幸せを祈るんだよ」
「そうか…」
「そうと決めたらすぐに動くんだよ。お医者さん、ありがとうなんだよ!」

少女は、嵐の様にやってきて、嵐の様に去っていった。
冥土返しは、少女の微かに潤む瞳に、それをねじ伏せた感情の強さ、シスターとしての誇りに、少女に幸あらん事を願わずに入られなかった。


それから少し時が流れ、上条当麻の寝ているベッドの横では、冥土返しから美琴に先ほどのやり取りの一部始終が伝えられていた。
記憶喪失の件、魔術の件、脳に見られた電撃の痕。この三つを隠して話そうとすると一気に難易度が上がる難しい話ではあったが、それでも冥土返しは話を一つのストーリーに組み立てた。
結局の所、状況は違えど脳障害に陥りかけていた事は事実で、先日の戦闘の影響が少なからずあった、という話にしか持っていけなかったのは、流石の冥土返しでもどうすることも出来なかったのだが。

やはり、というべきだろうか。美琴の様子は人の話を聞いているようには見られなかった。
容態は昨日と比べて変わっておらず、むしろ悪化している印象を受ける。
生気をなくしたその姿は、話をするにつれてなお元気をなくし、最早なんの慰めも効かないようにみえた。
冥土返しは、一通り話したいことを話し終わると、美琴を病室の外へと出した。

もしかしたら、外に出て何か変わるかもしれない。
変わらなかったとしても、自分の心ともう一回向き合って欲しい。
恐らく、この少女が少年に対して持っている感情は、自分自身でしか見つけられないものだから。
このまま少年を見て、どれだけ負の感情を溜め込んだとしても、それは泥沼に歩を進めていく自殺志願兵そのものなのだ。
嵌ったドツボからの抜け道が何処にあるのかさえ分からないけれど、その抜け道への道しるべを示すのもまた、医者の仕事だ。
そう、自分に言い聞かせて。

美琴を病室から出した冥土返しは、一人そのまま庭へと出た。
空は青く、澄み切っている。
「そういえば、今日はあの子の検診日だったね…もしかしたら、彼女を外に出したのは失敗だったかな?」
もう検診が終わっていて、友達と仲良く遊びにでも行っていればただの杞憂なのだが…、と冥土返しは呟くと、その歩を病院内へと進めた。
まだお昼にもなっていない。既にいろんな事が起こっていたが、本来の医者としての仕事は、まだまだ始まったばかりなのだ。

★         ☆         ★         ☆         ★

初春飾利と佐天涙子は定期健診に訪れたとある共通の友人を迎えにいくために、第七学区のとある病院、そのロビーに居た。
「しかし、お見舞いでも何でもないのに病院に行くなんて何だか不思議だね、初春」
「そう…ですかね?確かにそういったことってあまり無いですけれど…。あ、春上さーん!」
友人の名は春上衿衣。乱雑開放事件の鍵となった異能力者である。
「ごめんなの。絆理ちゃんとお話してたら夢中になっちゃって…」
「ううん、全然オッケーだよ。友達は大事にしなきゃ、ね!そう思うでしょ、初…は…る…?」
そう言いながら佐天が初春の方を見ると、初春がどこか一点に視点を集中させたまま、身動き一つ取れなくなっている事に気付いた。
いや、正確には初春の両手が、佐天の腕に縋るような形になるように、僅かではあるが動いていたのだが。
佐天は何事かと思いながら、初春が凝視している方向を見た。

そこには、御坂美琴が居た。
髪はほつれ、全身の締まりが一切無く、その視線は虚ろで何かが見えているのかさえ分からないような、憔悴しきった、感情の「か」の字すら忘れてしまったかのような痛々しい姿。
詳細を知らない人から見れば、武装無能力集団に襲われ、心に深い傷を負ってしまった、と取られてもおかしく無いようなその姿。
その様子は、精神的なショックが今でも抜け切れていないことをはっきりと写し出していた。

佐天は、無意識の内に目線をそこから外していたことも分からないほどに、衝撃を受けていた。
昨日の黒子の話である程度耐性は付けていたはずだったのに、いざその姿を見たとき、見るに耐えられなくなってしまったのだ。
ならば、昨日、黒子が見たという美琴の状態は、最早想像に難くなかった。一晩経ってもこの状態なのだ。暫く復活には時間がかかるだろうし、今後の事の運びによっては二度と元には戻らないのかもしれない。
そんな最悪の想像をしながら、ショックで言葉すら発する事の出来ない初春と、自身の能力で異常を察知し不安げな目線でこちらを見てくる春上の二人を引き連れ、佐天は病院を後にした。

とにかく、今はこの場から離れて、落ち着ける場所へ行こう。
白井さんには後で連絡を入れて、電流が漏れている様子が無かった事だけでも伝えよう。
春上さんには掻い摘んで事情を説明して、なるべく平静を装うようにしよう。
そして、先ほどの最悪の想像を、初春に伝えよう、と。

『もしもし、白井ですの』
「あ、白井さん、私です。佐天です」
『あら、佐天さん、どうかされましたか?』
「実は…さっき春上さんを迎えに初春と第七学区の病院に行ったのですが…」
『もしかして…お姉さまを…?』
「はい。…漏電?ですかね…それは無さそうだったのですが…」
『根本的な状態は変わってない、と』
「はい。昨日を見て無いので何とも言えないですけど、あれはちょっと…」
『…初春は?』
「ショックで言葉も出ないみたいです。さっきからずっと私の腕に縋ってて…」
『…でしょうね。お姉さまを知ってる人間からすると、あんなお姿は誰も見た事が無いはずですし』
「ですね。私も、自分が思っていた以上に御坂さんが憔悴していて、ショックです」
『…お二人の気持ちは痛いほど分かりますわ…それで…?』
「ああ、すいません。連絡と確認があって…」
『連絡の方は言われなくても了解ですの。私も今日は落ち着いていますし、お姉さまを寮までお連れしますわ。それで、確認とは?』
「実は、私と初春の様子から、春上さんが何かを感じ取っちゃったみたいで…」
『そういえば、春上さんは精神感応でしたわね…』
「はい。それで、大雑把にでも私と初春に何が起こっているのか、話をしたいと思うのですが…」
『構いませんわよ。精神感応で繋がっている枝先さん…でしたわね?彼女までの口外秘と言うことであれば』
「すみません。そこら辺は重々伝えておきますし、なるべくその話をしないように出来ればとは思ってますし」
『それなら何の問題も無いですわ。佐天さん。初春をよろしくお願いします、ですわ』
「オッケーです。白井さん」

ピッと携帯の通話が切れる音がして、佐天は携帯を耳から離し、大きく息を吐きながら、青く澄んだ空を見上げた。
結局、静かで落ち着けそうな場所、として佐天がチョイスしたのは第七学区内にある小さな公園だった。
そこにある木製の長イスに、彼女を中心として、右に春上、左に初春が座る形をとっている。
「次は…っと」と言いながら、佐天はおもむろに春上のほうを向き、笑みを作って、「枝先さんと私達、四人だけの秘密だよ?」と優しく語り掛けてから、更に空に一息吐き出してから、ゆっくりと喋りだした。

「春上さんは、御坂さんは…知ってるよね」
「実は、ね…御坂さんがちょっと大変な事に巻き込まれちゃったみたいなんだ…」
「みたい…っていうのは、私も何があったかまでは分からないからなんだけど…」
「とにかく、御坂さんは、心も体もボロボロになってるみたいなんだ…」
「だから…私と初春、それに白井さんは…ちょっと距離を置いてみようって決めたの…」
「私達じゃ…ボロボロの御坂さんを…どうすることも…出来ないから…」
「…私達じゃ…本当の意味で…御坂さんを救うことは…出来ないから…」

そこまで言って、佐天は視線を定める事が出来なくなった。
自分でもどうする事も出来ないほどに、涙がとめどなく、溢れ出てきたのだ。
あの美琴の姿を見たとき、本能的に悟ってしまった美琴の感情。

それは、本当に自分の大切な人が居なくなりそうな時の、悲愴感。
それは、自分では何もする事が出来ない、無力感。
それは、自分の望みが、思いが断たれたときに感じる、絶望感。

苦しみが、悲しみが痛いほどに伝わったあの姿は、思い出すだけでも耐え切れないものがあった。
やるせない悲しみが、体を、心を蝕んでいた。
そっと、柔らかい感触が押し付けられる。瞬時に、春上に抱きしめられていることに、佐天は気付いた。
「我慢しなくても良いの。よく分からないけど、大変な事だけは分かるの。それに私は…ずっとここに居るの…」
佐天は泣いた。その横で何時の間にか抱きしめられていた初春も、泣いていた。

春上は思う。
どうして、自分を含めて自分の周りの人間はこんなにも苦しまなくてもならないのか、と。

少しだけ、二人を抱きしめる力を強くすると、二人はとうとう声を上げて泣き出した。
春上は願う。
神様、もし見ているのなら、もっと優しい世界を見せて下さい。
私も含めて、周りの人たちが皆、皆、笑顔で居続けることが出来るように。
そして、こんなにも友達思いの二人が、このまま儚く壊れてしまいませんように。

★         ☆         ★         ☆         ★

ジリジリと照り付ける日差しを浴び、額から止め処なく流れる汗を拭いながら、白井黒子は例の病院へとやってきた。
昨日、黒子はこの中で一種のトラウマを見せ付けられたも同然だった。

-目も当てられないほどに痛々しく傷ついた、最愛のお姉さまの姿-

その姿は、黒子の生活の中で最上級に衝撃的な出来事だった。
無論、超能力者を赤子の様に操る現・常盤台外部寮寮監との初対面以上だったのは言うまでも無い。
そしてそれは、さも当然の様に一晩中黒子の頭から離れず、それは同時に、黒子に不十分な睡眠と、不十分なエネルギー充電という形を与えた。

結果として、黒子は行きの道中での能力使用を禁じられたも同然だった。
今日こそは、美琴を常盤台寮まで連れて帰る必要性がある上、後々風紀委員の仕事も入っている。
風紀委員中の能力使用はさほど無いが、それでも移動時などには効力を発揮する能力であり、その重要性は黒子も十分に理解していた。
また、美琴を送り届けるにしても、道中は全行程で能力使用が必須であり、必要に応じて全開で突き抜けなければいけない場面もあるだろう。
それに、昨日の美琴の様子。あれから改善されていれば…と淡い期待を抱いたりもしたのだが、午前中にたまたま病院に居たという佐天からの連絡を聞く限りでは、それも望めないだろう。となると、自身に心理的な影響が生じて能力使用が上手くいかないかもしれないのだ。
どれだけ確固として、優れた自分だけの現実を持っていたとしても、壊れる時は儚く、あっけなく壊れてしまう。それを回復する手立てを、自分は持っていない。
知ってしまったその事実が、黒子にはずしりと重い枷になって、圧し掛かっていた。

しかし、それ以上に、黒子には知らなければいけないことがあった。
彼は美琴にとってどんな存在なのか。
そして、今後美琴はどうするつもりなのか。
他にも聞きたい事はあるけれど、最低でもこの二つは聞いておかなければならない。
自分の与り知らないところで美琴とあの彼は急速に近付いていた。
それだけでも黒子には納得の出来ないことなのに、更に距離を置かれるようでは拙いと、黒子の心は訴えていた。

-どれだけ美琴が口を閉ざしても、必ず口を開かせて見せる-

その為には拳を交える事も、最愛のお姉さまに疎まれることも厭わない。
どんな手を使ってでも、と黒子は固く誓う。


「お姉さま、お迎えに上がりましたの」
「…黒…子…?」
「しっかりしてくださいまし。私の見初めたお姉様はそんなやわな方ではありませんでしてよ?」
「…放っておいてよ…別にどうだっていいじゃない…」

昨日も話をした医者と、美琴の容態について一言二言会話をした黒子は、いつもと同じように接してみた。
しかし、その感触は良くなく、むしろ悪化したような印象さえ受けるものであった。
自暴自棄になっているなんて想像以上に深刻だ、と黒子は思う。
美琴の彼への依存度は自分が予想していたよりも遥かに根強い物であるらしい。
まさか、彼の傍に居ることだけが心の拠り所、はありえないだろうが、昨日からの美琴を考えるに、誰も気付かない内にそうなっていたとしてもおかしくは無い。
それに、この場が美琴の思考をネガティブなものにしているのかもしれない。

『この調子ならば…。お姉様を連れて、一刻も早くこの場を離れるべきですわね』

起こったことは別にして、少しでも距離を置いて見れば意外とあっさりとしている、というのは犯罪などでもよくありがちであって、決して軽視することはできないものだ。
ならば、その可能性に賭けてみよう、と、黒子は思った。
どのみち今のままでは一進一退どころか二歩進んで三歩下がっているのだ。他に手早く打てそうな手は思い浮かばなかった。

そこが一番良いだろうと黒子は考え、やや強引に美琴の手をとると能力を使おうとした。
目指す先は常盤台女子寮、その一室。

その刹那、黒子の頭の中に、一箇所だけ美琴が口を開いてくれそうな場所が思い浮かんだ。
8/20の昼、黒子がはじめて上条を認識した場所。
そう、美琴がよく自販機を蹴る、あの公園。
もしかしたら、美琴の心境に変化があるかもしれないという、一縷の望みをもって、黒子は空間移動を開始した。

とある妹達編の後日談(アナザーストーリー) 3



「さて、と。着きましたわよ。お姉様」
目的地に到着した美琴と黒子は、自販機の傍にある一脚の長椅子に腰を下ろした。
相変わらず美琴の表情には生気がなく、感情にも乏しい。
それでも、少しばかり、美琴の心境にも変化が表れたようだった。
それは、初春や佐天のような友達でも気付かないであろうほどの、ほんの些細な変化だった。
それはまさしく、白井黒子という存在が御坂美琴という存在に四六時中スキンシップを試みていた故の、結果だった。
それでもまだ、つい先日までの様子と見比べると大差ないというのが、黒子の心を締め付け、痛めつける。

解決する為の明確な方法を、黒子は持ち合わせていない。
黒子は何も言わずに、ただただ、美琴が口を開くのを待った。


10分とも、1時間とも取れるような、長く長く感じた空白の時間を経て、ようやく美琴が口を開いた。

「…わ、私…」
「…」
「…どうしたらいいのか…分からないよ…」
「…」
「…アイツが、目を覚ましたことがないって知った時…目の前が真っ暗になって…何も考える事ができない…」
「お姉様…」
「…アイツと私の間に起こったことは…例え相手が黒子であったとしても、話せないようなことなの…」
「そうでしょうね…。あれだけ初春や佐天さんと一緒に戦っておきながら、今更一人で抱え込んだという事は、それだけお姉様にとっても、私達にとっても危険な事。立場や力、のせいにはしたくありませんが、やむを得ませんわ」
「…ありがとう、黒子…」
「…」
「…」
「…」
「…それでね、その一件で…私は、この世界に、学園都市に、裏切られた…」
「…!!」
「…自分の力で何とかしようとしても、その都度邪魔が入ってね…鼬ごっこ、とでも言うべきかしら…。…とにかく、私一人ではどうしようもなかった…」
「そんな…」
「…黒子には信じられない話かも信じられないけれど…。私ね、死のうって思ってたんだ」
「…え…?」
「…もう、この状態を解決するには自分がこの世から居なくなるしかないって、そう、思ったんだ」
「…」
「…そんな時にね、アイツが、私を助けてくれたのよ」
「…」
「…ヤメテって、こっちに来ないで、って言ったのに、私には救いなんて無いんだから、そんなに事を終わらせたければ戦えって、戦わないならアンタなんか殺してやるって言って、本気の雷撃を何発も何発も直撃させたのに、さ…。その度に立ち上がって、戦わないって、何で私が死ななきゃいけないのかって、そんなのおかしいって言ったんだ…。それでさ、心臓が止まってたかもしれないような雷撃をまともに受けて、気を失って…。私、もうアイツは死んだって、そう思ったの」
「…」
「だけど、アイツは立ち上がった。私の考えもしないようなところから答えを示して、ね…」
「成功、したんですの?」
「ええ、それ自体は…。だから、今こうやって私は生きてるわけだし」
「と、いう事は…」
「…そう。私を闇の中から引っ張り出すだけ引っ張り出しておいて、一人で深みに嵌っちゃったのよ、アイツ…」
「…そ、そんな…」
「…私ね…まだ…『ありがとう』も、言えてないの…」
「…」
「…『ありがとう』って言って、またアイツと勝負したり、売り言葉に買い言葉でケンカしたり、したかったのにな…」

黒子にとって、衝撃的な会話であった。
美琴が死をも覚悟した、上条が美琴を助けた、そういった言葉が耳に流れてくるたびに、黒子の心は痛み、歯痒く思った。
また、美琴の中に居る上条の存在感が、最早自分ではどうしようもないくらいに大きなモノになっていたことも、黒子の心を掻き乱した。
前々から、美琴との会話を上条が占めるようにはなっていたが、流石にここまで来るともうどうしようもなかった。時が立てば解決するだろう、という甘い目論見は、脆くも崩れ去る事となった。

何故なら、上条に対して敵対心を持っている黒子でさえも、上条の存在が美琴にとってのヒーローに映ったのだから。
状況は既に八方塞、自分ではどうすることも出来ない状態に陥り、自らに残った選択肢は『死』のみ。
そんな状況のところに颯爽と現れて、自分の能力の持てる力全てを解き放った一撃を受けてもなお立ち上がり、事態を収束させたのだ。
こんなのはご都合主義的に仕組まれたモノと相場は決まっているはずなのに、それを平然とやってのけたのだ。

ただでさえ少女趣味な美琴が惹かれないわけがない。
ましてや、その相手はかねてから美琴が話題にするアイツこと上条当麻だ。
これは最早、運命と言う名の赤い糸で結ばれているなんてロマンチックな事を言ったとしても、誰も疑う余地は無いだろう。

黒子は思う。
もしかして、いや、もしかしなくても、美琴は上条に恋をしているのであろう。

でも、恐らく美琴は気付いていないし、黒子もそれを気付かせるつもりはなかった。
この感情は、人を縛り付けるものになりかねないということを、黒子は知っている。
この感情は、人によって様々な模様を描く事も、黒子は知っている。
そして何よりも、この感情は、人に言われて気付くものではないと、黒子は知っている。


「お姉様…それは、とても辛いですわね…
「黒子…」
「まだまだ、あの殿方とお姉様にしか分からない事の方が多いのでしょうけれど、それも仕方ない事、なのでしょうし」
「…」
「ですが、お姉様、夏休みはあと一週間ありますの。その間に、しっかりと殿方…上条さんとの思い出に浸り、上条さんが何時目覚められてもおかしくないように、目覚められた時にはいつものお姉様が見せられるように、ご尽力下さいまし」
「…」
「九月に入れば、学舎の園も通常営業に戻ります。きっと、様々な方がお姉様をご心配になられると思いますの」
「そう、よね…」
「ですから、学舎の園ではいつものお姉様であって欲しい、と黒子は思いますの。その代わり、学び舎の園を一歩出れば、そこから先はお姉様の動きたいように動いてもらって結構ですの」
「…!!!」
「私から事情を掻い摘んで初春や佐天さん達にはお話しておきますわ。きっと、初春たちなら協力してくれると思いますの。ですから、日常生活の範囲では、私達が精一杯をお姉様をサポートしますの」

これが、黒子に出来る、精一杯の約束だった。
それでも、美琴の涙腺は我慢の限界を突破してしまったらしい。
黒子は、顔を両手で押さえて大声を上げて泣く美琴の正面に回り、その華奢な体を力強く抱きしめた。
黒子のサマーセーターが、まるで大雨が降っているかの如き勢いで濡れていく。
しかし、今の黒子にとって、そんな事はほんの些細な出来事にしか過ぎなかった。

どれ程の時間が経っただろうか。黒子がふと、空を見上げると、既に太陽は完全に昇りきっていた。
美琴は一頻り泣きじゃくった後、今に至るまでてグッスリと眠っている。
精神的な疲労も重なっているのだろうか、時折苦しそうな表情を浮かべる顔に、黒子の心は痛んだ。
黒子は自身の膝の上に美琴を寝かしていた。
いつもなら、こんな降って沸いた状況を逃がすわけが無いのだが、流石に今日ばかりはそうもいかなかった。
相変わらず人通りの少ない公園ではあるが、それでも何時何が起こるか分からないことに変わりは無い。

今、自分は何をするべきなのか。
美琴に対してどう振る舞い、接していくべきか。
そして何より、今、この状態を打破する為には、どうするべきか。
黒子の導き出した答えは、単純だった。
今のお姉様を街中に出すのは賭けに近い。
あれだけ上条の事を気にしているのだ、自然と足が病院に向かうはずだし、その後の展開は最早想像に難くない。
それならばいっそのこと、暫く寮内で隔離の方が良いのではないか、と黒子は思う。
割とアウトドア志向の強い美琴を寮内で拘束し続けるのは難しいかもしれないが、現状との選択であれば止むを得ない、といったところだろうか。

そうと決まれば話は早い。
黒子は、直ぐに寮監に電話を入れ、美琴と共に寮に戻る旨を告げた後、自分の持てる能力を最大限に活用して、寮へと歩を進めた。

寮へ戻った黒子はその足で美琴を自室へと送り、そのまま事情を説明する為に寮監室へ。
美琴はその覚束ない足取りのまま自分のベッドへと倒れこむと、そのまま頭から布団を被り、その中で体を丸めた。

美琴は、その後の夏休みの間、一度も自室から出ることは無かった。
ただただ、布団の中で体を丸めて、無力感や虚脱感に絶望感といった負の感情に支配された自分の心に、ひたすらに苛まれ続けていた。


~経過報告~
~さる8月21日より当院に入院している患者、上条当麻であるが、依然として意識は回復していない。
脈拍や呼吸などは非常に規則的であり、特に目立った外的損傷は見られないため、回復には時間の経過を見守るしかないものと思われる。
尚、数日後に一時データの取れなかった時間帯が存在しているが、これは患者を見舞いに来た後、一時的に精神に変調をきたした能力者の影響であるものと思われる。
その能力者であるが、精神に偏重をきたした翌日、同居人の手を借りて帰宅した後、消息が掴めておらず、学園都市内での目撃情報も一度として無い。
寮の自室に篭りきりになっていると思われるが、詳細は不明。~

月が変わった。
今日は9月1日。
学生にとっては夢のようだった夏休みが終わり、いよいよ二学期が始まるのだ。
時期、の話をするのならば、うだるような暑さから開放され、身を縮こまらせるしかなくなる冬へと向かう、そんな時期。

もっとも、学園都市に居る大多数の生徒は、能力者で有る無いを別にして、新学期に胸を膨らませていた。そう、二学期といえば、行事である。
今月の大覇星祭を皮切りに、(誰もが嫌がる中間試験を挟んで)11月には一端覧祭、(これまた嫌がる期末試験を挟んで)12月にはクリスマスが待っている。
そういった個別の用事を抜きにしても、部活動を嗜む生徒は最上級生が去った後の新体制のスタートでもあるし、最上級生は最上級生で自分の輝かしい未来を切り開く為の努力を始める時期でもある。
学園都市のあちらこちらで、生徒が一生懸命に何かに取り組む姿が次第に目に付くようになる。そんな時期なのだ。

しかし、そんな学園都市の青々とした空に似た明るい展望を持った生徒達の中で、一人極寒の地へと心を飛ばされたままその心が戻ってきていない少女が居た。
御坂美琴、その人である。

結論から言えば、美琴の心は、約一週間の回復期間をもってしても一向に回復しなかった。

流石に能力制御が出来るくらいには回復しているのだが、如何せんそれも諸刃の剣。
黒子が美琴の望むがままにゲコ太グッズの大人買いをしてみたり(お財布は勿論美琴から)、初春、佐天らが遊びに来たりしたのだが、結果は決して芳しいとは言えなかった。
というか、寧ろ悪化の一途を辿っていた。
流石にゲコ太グッズではそうではなかったものの、美琴の思考の中心が上条一色になっているがゆえに、結局の所、どんな話をしても「アイツなら…」と美琴が考えてしまい、「あ、そうだった」と思ってドツボに嵌る、悪の無限ループに陥っていたのだ。
次第に会話での解決は困難と言うよりも不可能に近い状態にあり、時が経つか上条が意識を戻して元気になるかという、全く先の見えない二択を選ばざるを得ない状況になっていったのだ。

そんな精神状態である。
夏休み中に、黒子は美琴と自分が本来行く予定だったアメリカ・学芸都市行きのキャンセルを申請したのだが、それは受け付けてもらえなかった。
といっても、実際にキャンセルが認められなかったのは黒子だけである。
美琴に関しては常盤台外部寮長からも同様の申請があったことがあり認められたのだが、黒子に関してはわざわざその看病の為に残るというのは出来ない、不安であるのならば一時的に精神病院にでも隔離させれば良いだけだとの通知が来た。
当然黒子はそれに反発しようとしたのだが、その過程で初春と佐天が一緒に学芸都市に行くということを知り、何やら予感めいた不安を感じたことも手伝って、渋々学芸都市行きを決めている。

黒子としては、夏休み明けすぐに学芸都市に行かなければならないということが不安で不安でしょうがなかった。
何せよ美琴が精神に変調をきたして以来、自分の知っているお姉さまな美琴を見ていないのである。
出来れば出発前の二日間位、外面的にでも良いから元に戻ったお姉さまを見ておきたい。そう思っていた。

しかし、神は美琴に残酷であり、非情だった。
常盤台の始業式のイベントとして、超能力者によるデモンストレーションが行われることとなったのである。
外面は常盤台生の学習・開発意欲向上のためだが、実際には休みボケで気合が入っていなかったり、無駄に浮かれていたりする生徒を引き締める目的がある。
常盤台生といえど、所詮は子供。どうしても始業式には浮かれてしまうのだ。
だからこそ、教師が怒るよりも強烈な一撃で生徒の目を覚まさせよう…と考えていたわけだ。

勿論、その役目を任されたのは心理掌握ではなく、美琴である。
目に見えない心理掌握とは違い、超電磁砲は目に見える。単純では有るが、分かりやすい理由である。
美琴は体面を繕い、スッと超電磁砲を放つ体勢を取った。
後はコインを指で一旦真上に弾き、落ちてきたところで正面に向かって放つだけ。
いつもと同じ様に標的に視線を向け、コインを右手の親指と人差し指で挟んだ。

その時だった。
「…え…う、嘘…」
美琴の視界の中の標的が消え、その位置に上条当麻の姿が見えたのは。
8月21日の夜、大の字を作り、美琴の電撃を正面から受け止めたあの体勢。
その姿のまま、凛とした顔で立つ上条の姿が、はっきりと美琴の目に見えたのだ。

「…そ、そんな…そんなこと…」
刹那、美琴の動きが止まった。
微かに手が震えたかと思うと、コインがその手が滑り落ちていった。
そして、コインが地面に落ちたのを一つの合図として、美琴は泣き崩れた。
突然美琴を襲った異変に、その場に居た誰もが身動きを取る事もできないまま、ただただ呆然としていた。

美琴の現状を知っている、黒子一人を除いて。

「まさかの事態、ですの」
黒子は即座に美琴を回収すると、保健室へと駆け込み、そのままベッドで横にした。
まだショックが有るのか、今は少し気を失っている状態である。
「しかし、あんなことになるなんて…」
一頻り落ち着いた頃合いを確認して、黒子は思う。
多少威力に変化はあるかもしれないが、それでも何とか大役はこなせるだろう、と考えていたのだ。
事実、今日ここまでの美琴は見事なまでに今までの御坂美琴を演じきっていたのだ。
「ここまで完璧でしたのに…どうされたのでしょうか…?」
黒子ですらも美琴を襲った謎の感情の変化に、戸惑いが隠せなかった。
しかし、黒子の心を支配したのは、そんな事ではなかった。
お姉様が周りから慕われなくなるのでは、とかそんな事でもなかった。

美琴の心は、もう元に戻れないのではないか?

その疑念だけが、黒子の心を掻き乱していた…。

そんな黒子の不安をよそに、時は流れていく。
常盤台中で精神に変調をきたした美琴を連れて帰った黒子は、美琴に無期限静養が通達された事を知った。
当然ながら、翌日に予定されていたシステムスキャンの無期限延期も、である。
黒子は仕方ないと思う反面、僅か10日間ほどの間に現れた美琴の『異変』に、今まで自分の知らなかった美琴を見た気がして、ショックを隠せなかった。
同時に、美琴の全てを見た気になっていた自分に対して、恥ずかしさや悔しさ、憤りなどの混ざった複雑な感情をぶつける事しか、出来なかった。

舞台は半年間進んで、上条が寝ている病室へと戻る。
美琴は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をそのままに、半年間の出来事を思い出していた。

この半年間、様々なイベントがあった。
広域社会見学に始まり、大覇星祭、一端覧祭、クリスマス、正月、そしてバレンタイン…。
イベントは多々あれど、その毛色は前三つと後三つで大きく異なる。
公私で分けるとすれば、前三つは『公』、後三つは『私』と取る事が出来るからだ。
広域社会見学は『学園都市の代表』として派遣されたわけで、大覇星祭や一端覧祭では『常盤台中のエース』、『超能力者の超電磁砲』といった看板を背負っていく必要がある。
逆にクリスマスやバレンタインは、『寮監の監視の目を如何にして潜り抜けるか』になる上、正月は届けさえ出せば帰省を含めて一切の自由が利く。
勿論、黒子や柵川中組をはじめとする、学園都市に住む大多数の人間は、(ジャッジメントの仕事など、一部を除けば)そういう縛りも皆無であり、充実した半年間を過ごしていた。

ただし、こと美琴に関しては話が異なっていた。
9月1日、常盤台中学から無期限静養を言い渡されたあの日から、美琴の足は寮の自室と上条の眠る病室を行き来するだけのものと化してしまった。
朝、皆が登校準備をしている間に寮を出て、寮に帰ってくるのは寮の門限2,3分前。
誰も、何も言わず、ただその美琴の行動を黙ってみている他無かったのだが、思いの外事態は良い方向へと転がった。
黒子達が広域社会見学から帰ってきた時には、どことなく影を感じるのは否めなかったが、それでもお盆前位までの時期の、あの美琴が戻ってきていた。
本人のやりたいようにやらせること、その重要さが、少しずつ形となって『御坂美琴』を取り戻しつつあった。


そんな中で迎えた大覇星祭。
初日から美鈴・旅掛と合流した美琴は、ひょんな事から上条刀夜・詩菜夫妻と遭遇する。

「おや、御坂さんではないですか」
「上条さんですか。こんにちは」
「え?ママ、知り合い?」
「ええ、そうよ、美琴ちゃん。こちらは、上条詩菜さん。同じフィットネスクラブに通ってて、子供さんを学園都市に預けたってところから意気投合しちゃって」
「そうでしたわね。あ、上条詩菜といいます。貴女が噂の美琴さん…」
「はい。御坂美琴と言います。よろしくお願いします」
「礼儀正しいお嬢さんだな。私は、詩菜の夫の上条刀夜という者です。よろしく」
「上条…刀夜…?…!ああ、イギリスの時の!」
「ん?そういう貴方は、もしかして…」
「ああ、御坂旅掛と言うものだ。あの時は世話になったな」
「いえいえ。こちらこそ」
「え?…う、嘘、パパも知り合いなの?」
「ああ、酒場で色々とあって、な。私とあそこまで意気投合できた漢は刀夜さん以外に知らないな」
「そ、そうなんだ…」
目の前で色々と起こる事態を飲み込めず、軽く混乱する美琴。
しかし、その美琴を現実に引き戻る一言が、刀夜の口から出た。

「御坂さんのお宅は早くもお嬢さんと合流できて何よりですね。ウチなんて、当麻の姿を見かけないんですよ。ま、色んなことに首を突っ込みたがる子ですし、中々見つけられないのも納得ですが」

その瞬間、美琴の顔色が変わった。
上条当麻、その名前には心当たりがある、どころの話では済まされない。
同姓同名と言う線も考えられるが、性格まで近いものを持った同姓同名の人間がもう一人居るとは考えられなかった。

「美琴ちゃん?どうかしたの?」
美鈴がそう尋ねてきて、美琴ははっと我に帰った。しかし、時既に遅し。
旅掛の視線は鋭くなり、家族サービスをする父親のそれではなくなっていた。
他の三人も、例外なくこちらを心配そうに見ている。
美琴の豊な感情表現は、既に上条夫妻にも伝わってしまったようだ。
美琴は一瞬誤魔化そうかとも考えたが、旅掛が居るという事情もあり、ありのままを正直に話すことにした。

「あのね、私、学園都市に利用されてたの」
「私のクローンを作られて、それを実験材料として利用されてた。私一人で止めようとしたけど、出来なかった」
「でも今はもう、その実験は行われてない。その実験を中止させる為に、私の代わりに敵と戦ってくれた人が居るの」
「私を一人の『中学生の女の子』として見てくれた。そんな人は学園都市では初めてで、凄く嬉しかった」
「実験を中止させた時だって、死ぬしかないって思って、絶望してた私の前に現れて、来ないでって、構わないでって、助けようなんて思わないでって叫ぶ私の前に立ちはだかって、私の持てる全力を出した電撃をその身で受け止めて、それでも私を地獄から引っ張り上げてくれた」
「それが、私の知ってる上条当麻君」
「当麻君は、実験を終わらせる戦いが終わった後からずっと寝たきり。ただ単に意識が戻っていないだけなのだけれど、何時戻るかも分からないって、お医者さんは言ってる」
「私ね、その事を知ってから、「自分だけの現実」が確立できないの。心の制御が出来なくなって、友達や後輩に迷惑ばかりかけてて…」

そこまで言って、美鈴が美琴の口を塞いだ。
ふと周りを見てみると、詩菜は何がなんだかといった表情をしており、旅掛は怒りを身に纏っていた。
美鈴や刀夜は、なにやら思案顔だったが、二人の頭の中は似たような物で、美琴が当麻の事を好きなのではないか?と言う事を考えていた。
ただ、まだその感情を出来ていないであろう美琴には、それを話すのは拙いというのも察していた。
美琴が、幼くして学園都市に預けられ、努力で超能力者にのし上がった学園都市唯一無二の存在だということは有名な話であり、この二人も当然ながら、それを知っている。
だからこそ、の思案であった。

人間の感情は人によって異なる。
100人中99人が同じ考えだったとしても、残りの1人が違うといえば、それは感情としては万人に共通と言い切れる訳ではないということを意味するのだ。
だからこそ、美鈴は思う。
『当麻君の事で何か思いつめているとしても、「自分だけの現実」の確立が出来なくなるというのは、美琴ちゃん的には考えにくいのよね…。一時的に取り乱すことで、心の制御が難しいというのはあるかもしれないけど、予め確立できてる物を崩されるまではいかないはず。無意識の内に当麻君のことを好きになっているのに、それを認めることが出来ない、と言ったところかな?それなら、美琴ちゃんには『好き』って言う感情を身をもって知ってもらわないとね』

『当麻がそこまでやるとは、恋愛感情とかそういうのは一切抜きにしても、美琴さんの事を好意的に見ていたのかもしれないな。ただ、当麻は万人に対して優しい反面、自分に向けられる愛情や好意にはかなり疎い。美琴さんも似てるのかもしれないし、私が口を挟む必要は無いだろう』
と、刀夜も漫然と考えていた。

そんな感じで、一時的に重苦しい雰囲気になってしまったものの、その後は皆で当麻の病室に見舞いに行き、当麻の分までと言わんばかりに、一週間にも及ぶ祭りを満喫した。
後日、学園都市上層部と日本政府の間に緊張が走った事は、公然の秘密である。

一端覧祭については特記することがない。
単純に御坂・上条両家とも学園都市に来なかったのだ。
美琴も、ほぼ上条の傍に付きっ切りの状態であったし、周囲の喧騒を他所に、普段と何も変わらない空間を作り上げていた。

年末、クリスマスから正月にかけても同様である。
美琴は帰省申請を出さなかったし、美鈴が学園都市に来るということもなかった。
美鈴や詩菜は美琴の及び知らぬ所で将来の伴侶を決める大事な話し合いを行ったていたのだ
大覇星祭の一週間の間に急激に加速した両家の関係や美琴の感情、学園都市を囲む環境など、色々な事を考えた結果として、先に外堀を埋めるだけ埋めてしまっておいて、後は本人達の自由に任せよう、というスタンスを取ることにしたわけである。
勿論、話がトントン拍子に進んだことは言うまでも無い。

「…」
現実に戻ってきた美琴、しかし、一言も言葉を発しない。
そして、自分の右手を見る。
超電磁砲、結局今日行われたシステムスキャンでも本気で使用できなかった能力。
全力を出したいという葛藤と、全力を出せる相手が居ないという現状が、美琴を苦しめていた。

今、目の前で寝ている少年が健在であったなら、そんな事考えなくても良かったのに

そう考えて、美琴は顔を顰める。
最近、上条の事を思えば思うほど、胸が痛むのだ。
真綿で胸を締め付けられているようなその感覚は、8月のあの日、鉄橋の上で感じたあの感覚と一緒だった。
息も出来ないような苦しさを感じるのは、あの日上条と一方通行の戦いを見た時と一緒だった。
「もしかして、アンタが二度と起きないんじゃないか、なんて考えちゃうからなのかな…」

今まで、胸に秘めていた思いが、ポロリと美琴の口から零れる。
その言葉が引き金となり、堰を切ったかのように、上条への思いが溢れ出す。

「ねぇ、アンタ、早く起きなさいよ…!早く起きて、また私の相手をしてよ!ううん、相手なんてしてもらわなくても構わない。なんでもない他愛の無い話もしたいし、肩を並べて寄り添って歩いてみたいし、膝枕もしてあげたい!」
「…」
「それに…もっと私の事を見て欲しい!誰よりも素直になって、真っ直ぐに物を言えるような子になって、アンタと一緒にこの街を歩きたい!」
「…」
「もう…限界だよ…。早く、早く起きてよ…。アンタの居ない生活なんて、もう耐えられないよ…」

そこまで言って、美琴ははっとする。
今自分が紡いだ言葉は何だったのだろう、と。
もしかしたら、今までも同じ事は思っていたのかもしれない。
だとすれば、押さえつけられていた思いが出てきたことになる。
この感情が何なのか、美琴が考えるまでもなかった。

「そっか…私、アン…当麻の事が、好きなんだ…」

そう思った瞬間、美琴は大声を上げて泣き出した。
上条の事が好きだと自覚した瞬間、胸の中にあった感情が爆発したのだ。
堪えきれなくなった感情の奔流が、形となって美琴を濡らす。
視界がぼやけていく中、上条の顔が少し苦しげに写ったようにも見えた。
美琴はそのまま、疲れ果てて眠ってしまった。

美琴が目を覚ました時、時計の針は午後6時を指していた。
美琴が一旦病室を出てお手洗いに行き、また戻ってきてみると、そこには二人の見知らぬ男女が居た。

「あ、あの…」
「あ、10年前の私だわ。やっぱり私は可愛いわね」
「ああ、そうだな。10年前の『美琴』は可愛いな」
「もう、『討魔』ったら酷い!」
「悪かったな。『尊』」
「あ、あの!」
「あ、ゴメンなさい。10年前の私」
「へ…?」
「私の名前は神上尊。御坂美琴が上条当麻と結婚して、絶対能力者…所謂レベル6になった姿、と言ったら良いかしら。能力的には電撃使いがベースだけど、そっちはカンストしちゃってるから、黒子の空間移動をサンプルにしてデュアルスキルにした事で上のレベルに上がれたってところね」
「え?…レベル…6…?」
「枝先さんの件でも、一方通行の件でも構わないけれど、『神ならぬ身にて天上の意思に辿り着くもの』ってのを知ったはずよ」
「ま、まさか…」
「そう、そのまさか。まあ、私はコイツと色々あって、その結果として付いてきた物だから、アイツらの実験とは全く関係ないけどね」
「コ、コイツってなぁ…素直じゃない尊たんもなかなか…」
「だからたん言うな」
「へいへい。あ、俺は神上討魔。元は上条当麻って名前だったんだ。要はそこで寝てるやつの10年後って訳だ」
「…」
美琴は何も言えなかった。目の前の超常現象に混乱していたのだ。

取り合えず、二人をよく観察してみる。
神上討魔と名乗る男性は身長175cm位だろうか。適度に筋肉が付いており、一見するとただのスポーツマンの様に見える。ただ、その顔や首筋にチラホラと見える傷痕が、歴戦の勇者っぽい何かを想像させる。
一方、神上尊と名乗った女性。身長は165cm位だろうか。体系的には自分よりも母である美鈴に近い印象を受ける。出ている所の自己主張が激しいが、出て欲しくない所は全く出ていない。理想的な体型と見える。髪を留めているヘアピンのセンスは確かに自分に近い物があるし、口調や性格も似ている気がしないでもない。
一応、相手の言うことがあっているという前提の元で、話を進めることにした。

「それで、職業は?」
「いきなりそれから入るのか…。俺は今は学園都市統括理事長をやってる。巷じゃ『神ならぬ身にて天上の意思に辿り着くもの』って言われてるらしいけど」
「所謂SYSTEMってやつね。というかアンタ、ローマ正教やイギリス清教を配下にしておいて、よくそんな能天気で居られるわね…。本来なら暗殺候補筆頭じゃない…。で、私は専業主婦。家事は元々好きだし、『討魔』のお給料って私でも目が飛び出るくらい有るから、やりたい事が何でも出来るのよね。それに、主婦だから自分の時間が結構取れるし。勿論、『討魔』との間に子供を授かってるから、その子のお守りもしてるんだけど」

もう何がなにやら、である。
美琴は、一つ溜息をつくと、本題へと切り込んだ。

「それで、お二人は何故ここへ?」
「んーと、当麻を起こす為、かな」
「え…?」
「結局のところ、俺が昏睡状態だった理由は解明されないんだ。だから、美琴の可能性に賭けるしかない」
「私の…可能性…?」
「そう。今日は2月21日。時間は午後6時過ぎ。私の記憶が確かなら10年前の私は、この少し前に『当麻が二度と起きないんじゃないか』って言葉に出してしまって、そこから出てくる思いを抑えきれずに『当麻が好き』って事を自覚したはずなの」

これは間違いない。何故なら、自分でもそう思ったのだから。

「だから、『当麻が二度と起きないんじゃないか』っていう私の幻想をぶち殺してもらうの」
「俺も詳細は良く知らないんだが、要は美琴と10年前の俺の頭を撫でてやれば良いんだと」
「そういう事。だって、『討魔』は神よりも上の存在。どれだけ神が当麻と10年前の私で弄ぼうとしたって、パワーバランス的にはこちらの方が上になるから、絶対に『幻想』はぶち殺されるの。そして、『感情』だけが残るのよ」
「…え?…え?…え?…」
「そうよね、やっぱり混乱するわよね。でももう大丈夫。本当に半年もよく頑張ったね。もう安心して良いよ。当麻は必ず意識を取り戻すから」

そう言うと、『討魔』と『尊』は視線を交わし、首を縦に振ってから、『討魔』がこちらに近づいてきた。
かなり密着に近い状態で、『討魔』は2,3秒美琴の頭を撫でると、そのまま当麻の方向かい、同じ様に2,3秒頭を撫でた。

「これで大丈夫。仕事も終わったし、私達はもう帰るわね。もう少ししたら、当麻は目覚めるわ。後は自分に素直になるだけよ。10年前の私」
「え、えっと、今更聞くのもどうかなと思うんですけど、どうやって時間移動したんですか?」
「『神上』って苗字はね、神の上に立ってるから貰えたの。後は空間移動でも超能力者になれたってところかな」
「えっ…」
「黒子が空間移動をフル活用すれば100kg位のものを時速300km位で運べるわよね?それの上位互換になるから、光よりも速いスピードで空間を移動することが出来るの。後はそこに超電磁砲を技術を応用する事が出来れば、時間を遡ることが可能って訳」
「ま、これにも限界ってのがあって、時間を遡れば遡るほど『尊』への負担は大きくなるし、そんなに長居することも出来なくなる。こういう会話の時間を含めると、この日が時間移動で遡れる限界って所だな」
「そういうこと。じゃあ、そんな訳で私達は帰るわね。バイバイ」
「あ…」

トンでも理論をぶちまけられた挙句、あっさりと未来へ引き返そうとしている二人にあっけに取られていた美琴だったが、それでも何とかお礼だけでもしようと声を掛けようとするのだが、『尊』に
「後は、貴女が今出来る精一杯の愛情表現を彼にしてあげること。唇にキスなんかどうかしら?」
と耳元で囁かれてしまい、美琴はただただ顔を真っ赤にしたまま立ち尽くすしかできなかった。

バタン、という扉の閉まる音で我に返った美琴は、ベッドに寝る上条の方を見やった。
確かに、顔色が少し良くなっているような印象を受けるし、これなら『尊』の言うような展開も期待できるかもしれない。
そう考えた美琴の動きは早かった。
上条の頭の横まで来ると、あの絶望を味わうこととなった夏の暑い日の様に、上条の顔へと自分の顔を近づける。

刹那、音も無く、二人の顔が一つに重なった。

実際には数秒の事であったが、美琴にとっては一分にも、十分にも感じる時間だった。
美琴は上条から顔を離すと、そっと自分の唇を指で撫で、その感触に酔いしれた。

と、ここまでは良かったのだが、ここで美琴ははっとした。
何故か目覚めていないはずの上条の心拍数が上昇しているし、心なしか顔が赤い様な気がする。
「まさか、自分がキスをする前に目覚めていたのでは?」と思い、恥ずかしさや八つ当たりで感情がごっちゃになった美琴は、思いがけず電撃を放つ準備をしていた。

その時だった。
上条の目が開いたのは。

「み、御坂さん…?」
「あ、アンタ…何処から起きてた…の…?」
「え、えっと、誰かが近づいてきた時には…」
「こ、この…」
「ちょ、ちょっと、ストップストップ!」

そんな、体を動かせないにも拘らず、何とかしようと慌てる上条を見て、美琴も少し冷静さを取り戻す事が出来た。
そして、一歩間違えば病院に大損害を与える事になっていた事実を認識し、少し顔を青ざめる。

しかし、そんなのもつかの間の事で、結局は上条が目覚めたことが嬉しくてたまらず、上条へと飛びついた。
ベッドが軋み、何やら警報音らしき物が鳴った様な気がするが、今の美琴にはそんな事は何も問題ではなかった。

「当麻…当麻ぁ…」

上条が目覚めた事が嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
耐えることが出来なくなりつつあった今の生活に別れを告げられる事が、この上なく幸せだった。
上条に対して素直に表情を出すことが出来た事が、喜びだった。
自分自身の事をどうすることも出来ずに苦しみ、仲間に迷惑をかけ、家族に心配させてしまった。
それ以外にも、この半年間で味わった感情の奔流が、美琴を駆け巡る。
何時の間にか、美琴の目からは大粒の涙が溢れ出していた。

上条は、いきなり抱きついてきて泣き出した美琴を、どうする事も出来なかった。
ふと、視線を横にずらすと、デジタル時計の日付は自分が記憶している最後の日から半年流れている。
上条はそれを知って、半年間も寝たきりだった、という事実に愕然としながらも、それでも目覚めれたのは自分の身体の上で泣く少女のおかげだろうか、と考えた。
多少記憶が曖昧だったとはいえ、唇に暖かい感触が来た事は間違いない。
それに、先ほどから自分の目の前で見せる美琴の表情。
一瞬、嬉しそうな顔を見せた時はそうでもなかったが、今はチクリと心が痛む。

あの日、あの橋の上で、俺は御坂を泣かせないと決めたのではなかったのか?
御坂には笑顔が似合うから、御坂がいつも笑っていられるようにしたいと思ったのではなかったか?
なら、何故今御坂は泣いている?
今まで俺が寝ていたからではないのか?
そうだとしたら、俺はどうすれば良い?

そこまで考えていると、美琴が口を開いた。
「バカ、バカバカ!寂しかった、辛かった、苦しかった!もう限界だったんだから!」
「み、美琴さん?」
「アンタがどんな気分で寝てたかなんて知らないけどさ、私は、私はもう、アンタの居ない生活に耐えられなかった!アンタの事が好きで、好きで、大好きで、もう周りの事なんてどうでも良いくらいに!」
「…え?」
「そうよ、私は、アンタに助けられたあの日から、アンタの事が好きで好きでたまらなかったのよ!今までは素直に言えなかったし、アンタが好きだなんて認めたくも無かったけど、もうそんな意地張るようなことしない!アンタにも真っ直ぐに、ど直球で行くって決めたの!」
「…」
「…大好き、当麻。だから、もう絶対に、どこにも行かないでよ…」

上条は愕然とした。
目の前の少女が発した言葉の一つ一つが、寝起きの体に強烈なボディーブローを浴びせてきたのだ。
おまけに、「好きだから、何処にも行かないでくれ」と言われたのだ。
ノックアウト必至の美琴渾身の一撃に、上条も色々と考えを巡らせる。
不幸な出来事ばかり、今まで自分の身に起こったせいか、相手が自分の事を好きだと言ってくれるなど露にも思っていなかった。
でも、美琴から発せられた言葉を受け止めて、自分の中でもパズルのピースが嵌っていく音が聞こえた。

そうだったのか。
俺が御坂には泣いていて欲しくない、いつも笑っていて欲しいと願っていたのは、俺が御坂の事を好きだったからなのか。
お互いがお互いの事が好きだったなんて、なんて幸運な事だろうか。
もしかしたら、今までの不幸の詰め合わせは、全てこの一瞬の幸運の為だけにあったのではないだろうか。
だとすれば、今、自分が選ぶ道は一つしかない。

御坂美琴というこの華奢な少女と、一緒に道を歩んでいく。

彼女は自分にとって高嶺の花なのかもしれない。
もしかしたら彼女にも自分の不幸が舞い降りてくるかもしれない。
でも、それがどうしたと言うのだ。
そんな物、全て、自分の力で切り開いていけば良い。
絶対に諦めずに、最後まで全力を出し切れば、必ず願いは叶う。
あの日、超能力者に無能力者が勝ったように、この世に不可能なんて言葉は存在しないのだから。


静寂立ち込める空間の中で、上条がおもむろに口を開いた。
「この半年間、御坂の身に何が起こったかとか、学園都市でどんな事が起きたのかとかは何も分からないから、今から知って行くしかないわけだけどさ…」
「うん…うん…」
「俺は御坂美琴と共に歩む。そして、御坂美琴とその周りの世界を守る。そんな幻想だけはぶち殺させねえ、必ず現実にしてやるって、今決めた」
「うん、大好き、当麻ぁ…」

もう一度、二人の顔の距離が近づく。
今度は上条の目も開いている。
距離が0になる寸前で、美琴が目を閉じた。
上条は、少しの笑みを浮かべると、自分も目を閉じ、美琴との距離を一気に縮める。

改めての二人のキスは、ちょっとだけしょっぱい感じがした。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー