ミサカネットワーク上のアリア ~Aria_ on_ MISAKA-NETWORK
――東京都の西部に位置する、学園都市と呼ばれる科学技術の頂点を極める街があった。
――そこに暮らす多くの少年少女が繰り広げる群像劇の中で、彼らは成長しやがて大人に近づいていく頃。
――物語の主人公(ヒーロー)を務める、不思議な能力を右手に宿す不幸な男子学生と、同じく主人公(ヒロイン)を務める、電撃系超能力者の女子学生がいた。
――そのとある不幸な青年と、とある電撃乙女の想いが交差した時、ひとつの恋物語が始まり、たくさんの悲恋物語が幕を開けた。
――そんな悲恋物語の中に、およそ一万人近くの恋が、一度に終焉を迎えるという悲劇に襲われた世界があった。
――電撃系超能力者のDNAマップを元に生み出された、クローンたちが構成する電脳世界。その空間のことを、『ミサカネットワーク』という。
その夜は真夏のうだるような暑さも、夕方近くに降った雨のおかげでぐっと落ち着いた。
これまでの連日続いた熱帯夜も、今夜だけはそのなりを潜めそうで、公園の木々の合間を縫うように吹き過ぎる、雨上がりの風が爽やかに感じられて気持ちいい。
完全下校時刻はとっくに過ぎて、すっかり日が落ちたこの公園には、とある青年以外の人影はない。
その青年こと、上条当麻は、ある人物に呼び出され、なじみの公園の自販機の前に、ひとり静かに佇んでいた。
頭上から照らす青白い光の街灯と、正面に黒い影を作る自販機の照明だけが、彼の姿を周囲の闇から浮かび上がらせる。
指定された時間にはまだ間があるのか、上条は時折、携帯電話を開いて時間を確認し、また閉じては大きくため息をつくという動作を繰り返していた。
暗い影が落ちた彼の顔には、普段のにこやかで快活そうな表情は見られない。
それはこれから迎える憂鬱なひと時をどう受け止めるか、それだけを考えている顔だった。
やがて暗がりの中からひたひたと足音が近づいてきたかと思うと、彼のそばで立ち止まると、声を掛けてきた。
「やっほう、幻想殺しさん。待たせちゃったかな」
街灯に照らされたその姿は、上条の恋人たる御坂美琴によく似ており、ぱっと見たかぎりでは、彼女と間違うこともあるだろう。
だが彼女は、成長してより女性らしくなって品格をも持つようになった恋人とは違い、より野性的で、猫科の大型肉食獣のように、しなやかな中に残忍さを併せ持つように感じられる。
それは学園都市超能力者第三位たる御坂美琴のDNAマップを元に作成された軍用クローンのひとり、番外個体だった。
しかし今の彼女の表情は、その溌剌とした野性味を窺わせるには程遠い、気だるく青白い顔をしていた。
それでもその声に、まだ多少なりとも張りがあるのは、こうして出歩けるまでに回復したからだろう。
「いや、大丈夫だ。それより体調はどうなんだ? まだ辛いんじゃないのか……?」
上条は体調が悪いのをおして、気丈に振舞おうとしている彼女に、出来る限り優しく応じようとする。
だが……、
「その原因を作った人に言われても、ミサカ、困っちゃうんだけどね……?」
「――っ」
彼女のその言葉に、彼は何も答えられず、ただじっと黙するのみだった。
番外個体はそんな上条の表情さえも伺おうともせず、ここへ来た目的を果たすことを最優先にする。
「――それはともかくさ、ミサカ、あなたと少し話ししておかないとやっぱりダメみたいなんだよねぇ。ぎゃは!」
彼女は、その顔に嫌悪と悲嘆の表情を浮かべたまま、上条に向かって辛辣な言葉を放った。
「ミサカ達の『元ヒーロー』さん?」
番外個体は、ミサカネットワークを構成する『妹達(シスターズ)』より、彼女たちが持つ『負の感情』を拾い上げる性質を持たされていた。
本来それは、学園都市第一位の超能力者、一方通行を抹殺するためのもの。
だが『妹達(シスターズ)』が持つ、彼への殺意や憎悪と言うものが存在しない今日、彼女が持つ感情は穏やかになった、はずなのだが。
「やっぱり、ネットワークから、だよな?負の感情を拾いやすいってやつか……?」
上条が目の前の自販機で買った缶コーヒーを、番外個体に渡しながらぽつりと話す。
「そうだよ。おかげでこちらはいい迷惑なんだからさ」
そう言う番外個体の顔色は、あれからまた少し青ざめたように感じられ、頭痛もまだ残っているようだった。
「――ごめんな」
上条はそう言って、深々と頭を下げた。
「俺に何か出来ることがあるのなら教えてくれ。お前も含めて、『妹達(シスターズ)』が納得してくれるのなら、俺は……」
そう言いかけた上条に、突然番外個体が怒りの表情を浮かべて、彼の胸倉をぐいっとつかむ。
その迫力に押されて、上条がずいっと後ずさるが、すぐに背中を後ろの自販機へ押し付けられ、それ以上の後退を許されなくなった。
「――じゃあさ、お姉さまと別れてって言えば、あなたは別れてくれるの?」
「――ッ」
必然、番外個体の顔が、上条のすぐ目の前に迫る。
自分の恋人とよく似た顔から、眼光鋭く睨み付けられ、彼は力なく目を逸らしていた。
「それ、ほんっと最低の言葉だね。あなたにそんな言葉かけられたら、振られた方は惨めな思いしか残らないよ!」
詰るような眼差しを上条に向けて、番外個体の言葉が彼の偽善を打ち砕く。
「すまん……」
上条の呟くような言葉に、彼女は彼の身体から手を離すと、ふっと視線を和らげて言った。
「そんな出来もしない、慰めにもならないような上っ面な言葉を、ミサカ、姉たちへ向けて言って欲しくないんだよね。
ま、このミサカはあなたに恋愛感情なんて、端から持っちゃいないからさ……」
手渡された缶コーヒーに視線を落とした彼女は、その銘柄を確認するように、ためつすがめつしていた。
やがて甲高い金属音と共に、缶コーヒーのプルタブを開けた彼女は、中味をごくりと一口飲んだ。
「――堂々と開き直ってくれた方が、いっそ清々しくてせいせいしたかもね」
上条が渡したのは無糖のコーヒーだったようで、番外個体の口元が歪む。
それは苦いコーヒーの味なのか、それとも『妹達(シスターズ)』の悲嘆にくれた涙の味なのか。
「俺はあいつを……美琴を選んで、後悔なんてしていない。ただ御坂妹達までが、俺をそう思ってたとは……」
同じように缶コーヒーを開けた上条が、苦味とともに飲み込んだのは後に続く言葉と、泣かせた女たちの涙。
彼の瞳からは、それまでに見せていた照れや、はにかみ、他人から向けられる好意へのためらいなどはすっかり消えていた。
「それこそ男の勝手な言い分だよね。でも恋愛なんて、ひとりが笑う陰で、誰かが泣くことは当たり前だと思うんだけどさ」
「ああその通りだと思う。それでも俺は、誰かが陰で泣くようなことはいやなんだ。現実には不可能だとわかっちゃいても、さ」
「だったらヒーローさんの本気ってやつを、ミサカに聞かせてもらおうかな。姉たちが納得できるようなのを、ね?」
そう言う番外個体の表情は、彼から納得いく回答を得られなければ承知できないかのように、真剣な顔をしている。
『妹達(シスターズ)』の怒り、憎悪、嫉妬に妬み、そして悲しみなど、負の思考、感情を拾い上げる働きを持つ彼女は、自らの気持ちとは違う行動さえも強いられる、損な役回りを果たさざるを得ないのだ。
「――でないとミサカ、あなただけでなく、お姉さまもぶちのめしたくなってしまうからさ」
「おい! 俺をってのはわかるが、なんで美琴までってことになんだよ!! お前たちの姉なんだろ? 自分の命をかけてまで、お前たちを守ろうとしたたった一人の姉なんだろうが!!」
恋人をぶちのめすと言う『妹達(シスターズ)』の意思は、何としても認めるわけにはいかないとばかりに、上条が言葉を荒げた。
「だからそれが女なんだって。ミサカも知ったこっちゃないんだけどさ。でもそう思う『妹達(シスターズ)』もいるってことなんだから。
嫉妬、羨望、悲しみ、虚しさ、痛み、やりきれなさに自己嫌悪。挙句に諦めきれないし、あなたに振られてもまだ好きでいたいだなんて思ってるんだよね。
姉たちも愛憎半ばで、振った男が憎いだとか、奪った女が憎いだとか、人それぞれなんだってこと。
そんな女の情念が、まるで有線の演歌のように流れ込んでくるんだよねぇ。ミサカ、もういい加減に勘弁してーって思うよ。
だからさ……」
そんな彼の抗議を承知しているかのように、番外個体が上条に向けてぎこちなく笑顔を見せた。
「――ヒーローさんの手で、ミサカたちの幻想をぶち殺してやって欲しいんだ」
どこかにまだ辛さが残っているのか、こめかみを押さえてふう、と大きくため息をつく番外個体。
上条は苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、それでも妹達に様々な感情と個性が生まれていることは、喜ぶべきことだと思う。
だから彼は、『妹達(シスターズ)』が失恋の辛さ、悲しさを乗り越えて、その先にまた新たな恋を見つけ、幸せになってくれるのであれば、自分はどんな目に遭っても構わないとも思っている。
「俺は……たとえ誰が泣くことになろうと、それでも美琴とお前たちは泣かせたくない。
今更『妹達(シスターズ)』を泣かせたことの言い訳はしねえ。嫌われようが、疎まれようが、俺はどう思われたって構わねえ。
お前たちの気持ちを知った今だって、やっぱりお前たちのこれからのことだって気にかかるし、俺たち以上の幸せを見つけて欲しいとも思ってる。
だから俺はお前たちにどんな目に遭わされても構わないけど、美琴にだけは手を出して欲しくないんだ。
もしそうなったら、美琴だけじゃなくて、『妹達(シスターズ)』だって絶対に後悔する。だからなにがあろうと、何としてもそれだけは避けなければだめなんだ」
上条が、じっと番外個体を見つめながら言葉を重ねていく。
「言わせてもらえるなら、あの時……、ロシアから戻ったとき、俺と同じ道を行くって言ってくれたのは美琴なんだ。
俺の手を掴んで、ひとりじゃないと言ってくれたのは、美琴なんだよ。
俺の不幸に巻き込まれても構わないって言ってくれたのは美琴だけなんだよ。
アイツとならたとえ闇の中だって、地獄の底でだって一緒にやっていけるんじゃないかって思った。
自分のために、俺が守りたいものを守るために、美琴ならこの先も一緒に戦ってくれるんじゃないかって思ったんだ」
いつしか上条は、自分の右手を確認するように、拳を握ったり開いたりしていた。
彼が持つ『幻想殺し(イマジンブレイカー)』と呼ばれる、すべての異能の力を消す不思議な力。
これまで幾度となく彼と世界を救ってきたその不思議な力を宿した右手の拳を。
「アイツになら俺の背中を預けてもいい。アイツの背中は、俺が守るんだとも思った。
誰がなんと言おうと、俺は美琴となら一緒に生きていけるって思ったんだ。
正直俺は、これからも美琴を悲しませない自信はない。多分泣かせることもあると思う。
でも俺は一生かけて、美琴をもっと笑顔にしてみせるってお前たちに誓いたい。
お前たちの大切な姉、御坂美琴と、アイツの周りの世界であるお前たち『妹達(シスターズ)』を守りたいんだ」
そこには1人の男として、愛する女のために生き、彼女の想いも大切にしたいと誓った上条の姿があった。
先程からその一挙手一投足、さらには一言一言を余さず、番外個体はミサカネットワークに流し続けているようだ。
おそらくネットワークには、『妹達(シスターズ)』の全個体、10032号から最終信号までの全員が接続し、上条の発言と、彼への想いを天秤にかけて、それぞれ判決を考えているのだろう。
普段なら何かあると騒がしいミサカネットワークが、この瞬間はしんと静まり返り、次々流れてくる上条の様子を、じっと見守り続けているだけのようだった。
ネットワークが静かなためか、『妹達(シスターズ)』の負の感情が落ち着いたためなのか、今は番外個体の態度もいくらか軟化しているようにも思えた。
「さすが、言うねえ。お姉さまが惚れるわけだよ。でもミサカ、やっぱりもう1人の当事者の話も聞かないとダメだと思うんだよね。
――どうかな、お姉さま?」
突然彼女は振り返ると、公園の茂みの奥へと声を掛けた。
「え……?」
番外個体のその言葉に、さすがの上条も戸惑いを隠せないようだった。
やがてざわざわと、茂みをかき分けるようにして、公園の暗闇から姿を現わしたのは、上条の恋人、御坂美琴。
「あははっ。やっぱりばれちゃってたかぁ。ごめんね当麻。心配だから、ついてきちゃった」
「み、美琴ぉ……」
「お姉さまってば、エレクトロマスターに、かくれんぼは無理なんだからさ」
番外個体がしてやったりとニヤニヤした顔をしている。
美琴は恥ずかしそうに顔を赤らめ、胸の前で手をもじもじとさせながら、上条の方へと近づいてきた。
「当麻のさっきの言葉を聞いちゃったら、私、また惚れ直しちゃったよぉ。エヘヘ……」
「さすがの上条さんも、ちょっと恥ずかしいです……」
彼の言葉をしっかり聞いていた美琴は、傍へ寄ると彼の身体をぎゅっと強く抱き締めた。
抱き締められた上条も、まんざらではなさそうな顔をして、紅く染まった頬をぽりぽりと掻いていた。
そんな2人のいちゃつく姿を見て、番外個体はやれやれと言わんばかりの呆れ顔になる。
が、じきにその表情を引っ込めて、元の剣呑な顔を作った。
「――で、そこのバカップルさん。そんな暢気にいちゃついてていいのかなぁー? ぎゃは!」
その声を聞いて、美琴が二人の間に割り込むように立つと、じっと番外個体の顔を見つめる。
「それで『妹達(シスターズ)』は、私と当麻をぶちのめさないと、気がすまないってことなのかな?」
美琴はいつもの彼女らしい、柔らかな表情をしているが、その瞳には強い覚悟の光を宿していた。
その視線を跳ね返すように、番外個体も美琴を鋭い目付きで睨み返している。
「お、おい、ちょっと2人とも落ち着けって……」
只ならぬ気配を感じて、あわてた上条が2人の間を引き離すように割って入ってきた。
しかし彼をずいっと押しのけるように、再び美琴が上条の前に出て、番外個体の正面に立ちはだかる。
それは姉妹喧嘩のような生易しいものではなく、むしろ女同士の修羅場であるかのような雰囲気を漂わせていた。
「お姉さま。ミサカは個人的な気持ちを言ってるわけじゃないよ。
それにお姉さまが、ヒーローさんと恋仲になったのを喜んでる個体だっている。
『妹達(シスターズ)』だって、もういろんな個性や感情が生まれているんだ。
だからお姉さまだけずるいっていう嫉妬や妬みもね、彼女たちは持つようになってるんだよ」
番外個体は、美琴へ向ける鋭い視線と、何か言いたげな表情を崩さない。
「私もね、妹たちがそうやって人間らしく成長していくのは、本当にうれしく思ってる。
だから私に向けて、嫉妬や妬みをぶつけてくるのは構わないけど、でもそれを当麻に向けるのだけは許さない……」
美琴の瞳がいつしか柔らかく、温かなものに変わっていた。
それは姉という立場から、いつも彼女たちに向けている、家族という愛情からのもの。
「――あなたたちが自分をあくまでも女だって言うのなら、私だってひとりの女なの。
私の大切な、愛する当麻を傷つけるようなことは、たとえあなたたちでも、絶対にさせないし、させるわけにいかない。
あなたたちから大切な当麻を奪ったのはこの私よ。
私が当麻の分をすべて引き受けるから、ぶちのめすなら私だけにしなさい。
あなたたちの思いは、私がすべて受け止める。
その代わり当麻には、指一本たりとも触れさせないから」
美琴のその言葉と表情を受けて、先程まで挑戦的だった番外個体の表情が、ふっと緩んだ。
「お姉さま。それはヒーローさんと私たちと比べたら、ヒーローさんのほうが大切だってことでいいのかな?」
彼女たちが交わす会話の真意をつかみ切れず、上条が不安そうな面持ちで2人の表情を窺っている。
美琴はそんな上条の気持ちなど一顧だにせず、これはあくまでも私たち姉妹の問題なんだという顔をしていた。
「それは違うわ。むしろあなたたち次第、かな。あくまでも女として挑んでくるのなら私、容赦なんてしない。
絶対に当麻は渡さないし、向かってくるなら叩き潰すまでよ。恋する女って残酷だから。
でも私の大切な妹だっていうのなら、私はあなたたちの気持ちは無碍にはしないわ。
私の妹達は強くて優しくて、自分たちの痛みを人に押し付けるようなことはしないって知ってるもの。
だから私はそんなあなたたちを、絶対に見捨てないし、これからも守っていく。
もちろん私だけじゃない。当麻と2人で、私たちの、そしてアンタ達の世界を守ってみせる。
そしてアンタ達には、私たち以上の幸せを見つけて欲しいって思うし、出来る限りの手助けもしてあげたいって思ってる。
それじゃだめかしら?」
美琴はそれだけ言うと、番外個体に向けて、もう一度にっこり微笑んだ。
それはいつも彼女が、愛する恋人や両親、そして友人達ら、大切な人たちに向ける笑顔とまったく同じものだった。
「どうやらお2人さんに、ミサカたちからお願いがあるみたいなんだけど、聞いてもらっていいかな?」
番外個体がやっと落ち着いたような表情をして、2人の顔を交互に見る。
ネットワーク上の負の感情は、今はかなり少なくなっているようだ。
「いいわよ。私たちに出来ることなら……」
そう言って美琴が上条へ向けて、彼に同意を求めるかのように視線を交わす。
上条も美琴からのアイコンタクトに、無言で頷いた。
そんな2人のやりとりをよそに、番外個体が微かに黒い笑みを浮かべていることに彼らは気付かない。
「あのね、『妹達(シスターズ)』がヒーローさんからのキスをお望みのようなんだけど……」
「――えっ!?」
「――はぁっ!?」
一瞬、その言葉が何を意味しているのか、上条と美琴には理解できなかった。
「――失恋の思い出に、キスして欲しいんだってさ」
番外個体がニヤリとする。
「え……っと、そ、それは……私と当麻がキスしてるのを見てもらえば良いのよね?」
「だ、だよな?上条さん、美琴以外の女の子とキスだなんて、ちょっとそれは……」
「――『妹達(シスターズ)』を代表して、このミサカがヒーローさんにキスしてもらうの」
番外個体が上条と美琴に向かって、口元に黒く笑みを浮かべながら言った。
彼女から突然の思いもよらない言葉に、2人ともたじたじとするばかりだ。
「お姉さま、いまさらとぼけるのは無しだよ。ヒーローさんもミサカたちの幻想を殺してくれるんでしょ。
でないとミサカ、いつまでたっても姉たちの負の感情から逃れられないんだけどね? ぎゃは!」
番外個体が2人を更に挑発するかのごとく、いたずらっぽい視線を向ける。
だが番外個体の視線の先にいたのは、2人ではなかった。
「なんだったら、ミサカの方からヒーローさんにキスしても……」
彼女がそう言いかけたその時、公園の向こうからビュンッと白い影が飛んでくるや、番外個体のすぐ横に立った。
片手で杖を突き、もう片方の手をわなわなと握り締めた、白髪灼眼の青年。
それは学園都市第一位の超能力者、『一方通行』だった。
「――か、勝手なことしてンじゃねェぞ!! 番外個体ォォオオ!!!」
「「ア、一方通行ぁぁぁアアア!?」」
「何しにきたのかなぁ? 白モヤシさん」
驚く上条と美琴の2人を尻目に、更にあたふたと一方通行が番外個体に向かって大声を上げる。
そんな一方通行へ、引っかかったと言わんばかりに、ニタニタと真っ黒な微笑を向ける番外個体。
「――さ、三下と超電磁砲に迷惑かけてンじゃねェぞ!」
「ほう? 第一位さんは、ミサカがヒーローさんとキスするのがそんなに気になるんだ?」
「ち、違ェよ! テメェはすぐに人に迷惑かけンだからなァ!」
「それ、ミサカの意思じゃないもん。『妹達(シスターズ)』からのお願いなんだからさ」
「し、しかしそれでもだなァ……。い、いいからテメェはちょっと、こっちへ来い!」
一方通行が2人の前から、番外個体を引き離すように連れて行く。
ぎゃあぎゃあと、いきなり始まった2人のそのやり取りに、上条と美琴は呆気に取られていた。
そして立ち尽くす美琴に向かって、背後から飛びついて来たもうひとりの影。
「やっほー、お姉さまー、ってミサカはミサカは抱きついてみたり!」
「え、あっ!?ラ、打ち止めじゃない。ねえ、いったいこれ、どうなってんの?」
いきなり打ち止めに背後から飛びつかれて驚く美琴だったが、考えてみれば当然だ。
番外個体も打ち止めも、今は一方通行と一緒に暮らしている。
そして彼女はミサカネットワークの運営制御者にして、『妹達(シスターズ)』の上位管理者でもある。
だから当然『妹達(シスターズ)』がネットワークに流す負の感情の様子だってわかっているのだ。
番外個体が上条らを呼び出したことは、打ち止めも一方通行も承知の上であり、彼女が暴走しないよう付き添いもかねてそっと物陰から見ていたのだった。
「あのね、『妹達(シスターズ)』はお姉さまとヒーローさんがお付き合いすることに、最初から賛成だったんだよ、とミサカはミサカはぶっちゃけてみる」
「ええっ?いったいどういうこと?」
美琴が打ち止めに尋ねた。
「もちろん10032号みたいに、ヒーローさんに恋した妹達もたくさんいるの。だからもちろん失恋して悲しいって感情はたくさんあったんだよ。
でもみんな、お姉さまのことも大好きだから、お姉さまとヒーローさんが結ばれるなら、ミサカたちも嬉しいと思ってるの、ってミサカはミサカは続けてみたり。
失恋は悲しいけれど、お姉さまが幸せになるのはそれ以上に嬉しいから、みんなの立ち直りも早かったんだよ、ってミサカはミサカはお姉さまとヒーローさんなら、お似合いだねって笑ってみたり。
だから番外個体は、もうそれほど苦しんでないんだよ、ってミサカはミサカはお2人さんを安心させてみる」
「そうだったのか……」
「ありがとうね、打ち止め」
打ち止めの言葉に、上条も美琴も納得と、感謝の気持ちを新たにした。
すると当然のように、別の疑問も沸いて出てくるわけで。
「じゃ、番外個体の今のあれは……」
上条が打ち止めに向かってたずねた。
彼は番外個体に、彼に振られた『妹達(シスターズ)』の思いを聞いてやって欲しい、と言われてここへやってきた。
なので上条は、『妹達(シスターズ)』の悲しみ、憎しみ、嫉妬など、番外個体が抱える負の感情を黙って受けいれる覚悟でもいた。
目の前で泣かれたっていい。殴られたっていい。それで彼女達の気持ちが少しでも晴れるならと、彼はひとりでそれを受け止めるつもりでいた。
もちろん『妹達(シスターズ)』のオリジナルにして、彼女たちの姉役である自分の恋人、美琴にはそのことを黙っていた。
もっともそれは、それとなく気付いた美琴が、こっそり彼の後をつけてきたことで、こうして一緒に聞くことになりはしたのだが……。
「――『妹達(シスターズ)』のどんな『負の感情』なんだ?」
彼女たちは自分たちの恋路を応援してくれているという。
なら番外個体の言う『負の感情』とはいったい……。
「ね、あの人と番外個体を見て、何かわからないかな?ってミサカはミサカは意味深発言してみたり」
打ち止めにそう言われて、2人は改めて一方通行と番外個体のやり取りを眺める、と……。
番外個体に詰め寄る一方通行の言葉に冷たさがない。普段している素っ気無さやぶっきらぼうな口調が、なにやらぎこちなく聞こえるのだ。
学園都市最強の超能力者が、あたふたとまるで目の前の相手を意識しているかのように、視線をあちこちへ泳がせ、白い頬をサーモンピンク色に染め、恥じらいと焦りを浮かべた表情になっている。
一方品のない言葉と口調でもって、最強超能力者を翻弄している番外個体も、同じように顔を紅くさせて、あちこちへ視線が流れている。
何かの拍子に目が合うと、二人とも――ずびしっ と音がしそうな勢いでもって顔を逸らしていた。
やがて再びちらちらと、互いに意識し合うかのようにまた、顔を見合わせ視線を交え始めた。
その姿に上条も美琴も、かつて自分たちが歩んできた道を思い出し、思わず笑みを浮かべていた。。
今にして思えば、傍目八目とはよく言ったもので、周りの者には初心な自分たちの遣り取りや気持ちなぞ、全て丸わかりだったのだろう。
こうして素直な気持ちで互いのことを想い合える間柄になると、そんな初心な恋心さえもどかしく思えてしまうから不思議だ。
もうお前たち、さっさとくっついちまえよ、と。
「ああ見えて、あの人は『妹達(シスターズ)』ではヒーローさんの次にもてるんだよ、とミサカはミサカは末妹にちょっとやきもちを妬いてみたり」
そのとたん、番外個体がその身体をくねくねとさせたかと思うと、顔をかあっと、より一層赤くして、いきなりふにゃーと漏電を起こしていた。
上条と違い『幻想殺し』のない一方通行は、あわてたように番外個体を抱き締めると、その能力で彼女の漏電を上空へと向けて放電させ、周囲に被害の及ばぬようにしている。
もちろん顔を赤らめて、「――こ、これは周りに被害を及ぼさねェためなンだからなァ」などと、誰に聞かせるでもなくぶつぶつと呟きながら。
上条は彼らの姿にふと既視感を覚え、つい無意識に、自らの右手で美琴の肩に触れていた。
美琴も番外個体の様子に、自らのDNAを強く意識するとともに、肩に触れてきた恋人の右手に、そっと手を添える。
「つまり、一方通行と番外個体は……ってことなんだよな。俺、てっきりアイツはロリコンなんだと勘違いしてたよ」
「しかし……あの2人がねえ。全然知らなかったわ」
「でもなんとなく、お似合いだって思わない? とミサカはミサカは同意を求めてみたり」
打ち止めが上条と美琴の顔を見上げて、にっこりと微笑んだ。
「そうね。良いんじゃないかな?」
「ああ。お似合いだと思うぞ」
言われた上条も美琴も、互いに顔を見合わせると、打ち止め同様に微笑んだ。
付き合う直前のカップルを見守るような感覚で、3人はいつしか、一方通行と番外個体の方を眺めていた。
目の前の2人からは、かつての悪党として姿や、闇の中にいた過去のような、禍々しい雰囲気は消えている。
外見的には、素直になれない不器用な、それでいて互いに恋心を抱く普通の年頃の美男美女カップルとしての姿でしかなかった。
おそらくそういう事態になれば、2人とも手を携えて、共に戦いの中へ飛び込んでいくのだろうが、こうして平穏が続いている限りは、ただの恋する男女でいられるのだ。
「番外個体はね、元々あの人のために生み出されたようなものだから、どうしたってあの人のこと、意識しちゃうようになってしまうの、ってミサカはミサカは言ってみる。
それにあの人に好意を持つ『妹達(シスターズ)』からの負の感情もたくさんあるからね、ってミサカはミサカは正直に打ち明けてみる。
ミサカや番外個体に妬いてる妹達がいるうちは、あの子の苦労も続くんだよ、ってミサカはミサカはふうっとため息ついてみたり」
一万人近くのネットワーク管理者である打ち止めは、『妹達(シスターズ)』らの心理、感覚を常時見ているためか、その肉体年齢以上に成長した精神年齢を持っている。
もしかすると、彼女はオリジナルである自分よりもずっと、精神的に大人なのかもしれない、と美琴は感じていた。
「――あの子が自ら『妹達(シスターズ)』の心の闇を引き受けて、独りで辛い思いをしてくれているから、ミサカたちはそれほど苦しまずにいられるの。
でもあの子はそんなこと一言も言わないし、ネットワークに接続しなくても良いように出来てるのに、ずっと負の感情を拾い上げ続けて、ミサカ達を助けてくれてるんだよ、ってミサカはミサカは打ち明けてみたり。
それを一番良くわかっているのが、あの人だし、そんなあの子が一番頼りにしているのも、実はあの人なんだよ、ってミサカはミサカはこのことは内緒にねってお願いしてみたり。
あの人もあの子も今は素直じゃないけど、ちゃんとお互い心の底で思い合って、支え合ってるから大丈夫。
だからミサカも家族として、あの人と末妹をずっと支えていくんだよ、ってミサカもミサカもお姉さまとヒーローさんに決意表明!」
そんな打ち止めの言葉に、美琴は思わず彼女を抱き締めて言った。
「ね、打ち止めは辛くないの? アンタだって、一方通行のことは、好きなんでしょ?」
「うん、ミサカもあの人のこと、好きだし、愛してるよって、ミサカはミサカは正直に言ってみる。
でもね、ミサカは『妹達(シスターズ)』のお姉ちゃんだから、いつも汚れ仕事ばかりを引き受けてる、優しい妹の幸せも考えてあげたいなって思ってるの。
いつもミサカのために一生懸命なあの人たちが幸せになれるのなら、それだけでミサカも幸せなんだよー、ってミサカはミサカは大人な発言に陶酔してみたり」
そう言って少し照れたように優しい微笑を浮かべる打ち止めの表情を目にして、美琴は思わず鼻を少し詰まらせた。目尻にも光るものが浮かんでいる。
そんな美琴の様子に、打ち止めは優しく気遣うように彼女の手を握って、その顔へいつもの笑顔を見せる。
上条も笑顔を浮かべて、そんな打ち止めの頭をやさしく撫ぜていた。
「ミサカも番外個体も、それに『妹達(シスターズ)』にあの人だってちゃんと幸せになるから、大丈夫だよ。
だからお姉さまもヒーローさんも、幸せになって欲しいなって、ミサカはミサカはお2人さんを祝福するよ!」
「「ありがとう、打ち止め」」
上条も美琴も、声をそろえて打ち止めに深い感謝の気持ちを伝える。
実は今この瞬間に、世界のあちこちで『妹達(シスターズ)』全員が、それぞれの思いを胸に2人の幸せを祈っていることを、上条も美琴も知らない。
どこまでも広がるミサカネットワークの上を、『妹達(シスターズ)』の祝福の言葉と思いの丈が、まるでゆっくりとした詠唱のように流れていく。
その美しい旋律のような記録は、ミサカネットワークがある限り、これからもずっと保管され続ける。
いつか迎えるであろう、上条と美琴が本当に結ばれるその日まで、2人の愛の記憶を紡いでいくために。
~~ THE END ~~