灯籠流し ~Love_comes_quickly 1 前編
科学が支配するここ学園都市には、お盆と言う風習はない。
ましてここは主に学生たちが暮らす街。その住民たちに、死者の霊を弔う習慣なぞあるはずもない。
そんな8月も後半に入った頃のこと。
それでもあれから1年の月日が経ち、再びその日はやってきた。
――夏の太陽が、ビルの谷間に沈みかけ、赤く染まった空に、星の瞬きが見え隠れする時間。
コンクリートジャングルに篭る夏の暑さは、日が沈んだぐらいで消えるものではなく、白灰色の壁から放出される熱気は、黒いアスファルトから立ち上るそれと合わさって、今も行き交う人の肌に玉の汗を滲ませる。
そんな残暑の中を上条当麻は、第7学区のここ、冥土帰しのいる病院へとやってきていた。
見たいテレビがあるとのことで、留守番を志願したインデックスを家に残し、上条がこの病院までやってきたのは、御坂美琴からとある少女たちに関する催しへの参加を求められたから。
最初、彼女からその催しの詳細を聞いた彼は、何のためらいもなく参加を承諾していた。
彼がよくお世話になる病院の、特別隔離病棟の一角に、その少女たちの病室はある。
部屋の前に立った上条は、いつものように何も考えず、勢いよくそのドアを開けた。
「よーっす! お待た……!? え、あ、し、しし失礼しまし――へぶぅぅぅうううあああ!!」
その時彼が見たものは、美琴が4人の『妹達(シスターズ)』に、浴衣の着付けをしてやっている光景だった。
しかもちょうど1人の浴衣の前を合わせている最中だったため、上条は彼女の下着姿を目にすることとなる。
すかさず美琴からの罵声と共に、彼の顔面に、彼女が投げた下駄がヒットした。
「ノックをせんかぁぁぁあああ!! このド馬鹿!! 出てけぇぇぇえええ!!」
「す、すんませんでしたあああ」
下駄の直撃を受けて、廊下に転がり出た上条が、ピシャリと閉じられたドアの前で、ペコペコと土下座をし始める。
やがて再び部屋の入り口の扉が開くと、妹達の着付けを済ませた美琴が仁王立ちで現れた。
「アア、アンタってば、狙ってやってんじゃないわよねぇ?」
さすがに病院内ということもあり、電撃が飛んでくることはなかったが、上条はそれでも脳天に美琴の拳骨を食らう羽目となる。
「――いえいえ、上条さんは、そんなつもりは全くございませんです、はい」
「――んったく、もう……。相変わらずなんだから。ほら、さっさと入った入った」
美琴からのお仕置きを受けた後、上条は頭の痛みで涙目でなりながらも、やっと部屋への入室を許された。
「で、どうかな? この浴衣、似合ってるかしら?」
部屋に入った上条に、美琴がそう言うと、彼の前でくるりと回って見せた。
先ほどのドタバタ騒ぎで、全く目にも入らなかったが、彼の前には浴衣を着た5人の少女、御坂美琴と学園都市在住の妹達、御坂妹こと10032号、10039号、13577号、そして19090号がいる。
美琴の浴衣は、紺地に色とりどりの花をあしらった柄が、ちょっと大人びた落ち着きを漂わせて、彼女にいつもと違う雰囲気をかもし出している。
妹達のは、柄は同じだが、地の色をそれぞれのイメージにあわせた色違いのものだ。
御坂妹のは華やかな橙、10039号にはシックな紫、13577号の艶やかなピンク、19090号に清楚な生成り。
彼女たち4人も、普段つけている無骨なゴーグルを取り、全員が髪をアップにまとめ、浴衣の色柄とコーディネートされた大き目の髪飾りで留めている。
5人はそれぞれ上条の目の前で、ファッションショーのようにくるりくるりと舞って見せた。
いつもとは全く違う風情の彼女たちの装いに、上条は思わず固唾を呑んた。
なにせ元のDNAが御坂美琴という美少女な上、普段着ている常盤台の制服姿しか見たことがない彼にとって、彼女たちの清潔感あふれる浴衣姿は、破壊的なまでに魅力的だった。
まるでどこぞの美少女タレントユニットのような、清楚ながらも華やいだ雰囲気に囲まれた上条は、思わず見とれてしまい、心のままに言葉を口にしていた。
「すげぇきれいだ……」
彼が漏らした言葉に、5人ともさっと頬を赤らめている。
とりわけ美琴と19090号の反応は顕著で、ぶつぶつと呟きも洩らしていた。
「ア、アイツに……き、きれいって言われた……」
「ミ、ミサカは……あ、あなたにきれいと言われた……」
まるで熱暴走を起こしたかのように、ぷしゅーと頭から湯気を噴出したような状態になっている。
そんな2人を無視するように放り出して、御坂妹、10039号、13577号の3人が上条に抱き付いてきた。
「やはりこのミサカが一番きれいでしょうか、とミサカ10032号はあなたに抱きついて問いかけます」
「それよりこのミサカはどうでしょうか、とミサカ10039号はあなたにこのドキドキする胸を押し付けます」
「このミサカが一番ですよね、とミサカ13577号はうるうると上目遣いにあなたの顔を見上げます」
「うあぁ……はっ……」
3人のクローン美少女に抱きつかれて、一瞬デレかけた上条が感じた不穏な空気。
「ひぃぃいいっ! お、お前たち、頼むから離れてくれぇぇ。そこで美琴センセーが指をパキパキ鳴らしているんですけどぉぉぉおおお!!」
言われた方向に目をやれば、熱暴走から復活した美琴が真っ黒な怒りの表情を浮かべ、握ったこぶしをブルブルと震わせているところだった。
彼女の背後から立ち上るオーラが、さながら地獄の瘴気のようにも見える。
それに気がついた妹達がささっと彼の周りから離れ、ひとかたまりになってびくびくし始めた。
あまりの迫力に、騒ぎに関係のない19090号でさえ、いつのまにか部屋の隅で頭を抱えてガタガタと震えだす有様だ。
「ちょろーっと、アンタたち……。調子のってんじゃないわよぉぉぉおおお!!」
「「「「ぎゃぁぁぁあああ!!」」」」
3人の浴衣姿の少女たちが、悲鳴を上げて、部屋から飛び出すように逃げ出した。
最後に1人逃げ遅れた上条が、部屋を出た所で襟首をつかまれ、動きが止まる。
パクパクと口を開くが、あまりの恐怖でなのか、首を絞められているからなのか、声を出せないようだ。
じたばたもがくも逃げられず、やがてずるずると部屋の中へ引きずり込まれ、入り口の扉が重苦しい音を立てて閉じた。
「不幸だーーーーーーっ!!」という彼の断末魔の声と、何かが潰れるような音がしたかと思うと、周囲は何事もなかったかのように静寂に包まれた。
「それで美琴センセー、これからどこへ行けばいいんでせうか?」
美琴のお仕置きから復活した上条が、彼女と妹達らに連れ立って、夜の帳が降り始めた学園都市を行く。
そんな彼が手に持つのは、灯籠が乗った小さな船。
彼だけではなく、美琴と妹達の全員が、上条と同じく灯籠がついた小さな船を持っている。
「あの鉄橋の近くの河原まで」
「――ああ、そうか……」
じっと遠くを見つめるような目をした美琴が、静かに答える。
そんな彼女の表情を目にした上条も、簡単に同意の言葉を発したきり、何も言わず、そっと美琴の顔から視線をそらした。
誰も何も言わず、ただカラコロと5人の下駄の音が、コンクリートの街中に響いている。
妹達の誰もがわずかに沈んだような表情をして、黙って美琴と上条の後を歩いていく。
今日の日付は8月21日。
『絶対能力進化・第一〇〇三二次実験』が行われた日。
上条があの狂気をはらんだ忌まわしい実験を止めるために、一方通行と戦ったのは1年前のこの日だった。
「別に昨日でも良かったんだけど、やっぱり今日の方が、いろいろな面で良いかなと思ってね」
上条の隣で、美琴がぽつり、呟くように言った。
彼女の顔は、暗くはないが、やはりどこか悄然とした面持ちをしている。
「俺だって、あの実験がいつ頃から始まったのかは知らない。
でもあの日で全てが終わったことだけははっきりしてるから、別に構わないんじゃないかな」
上条からの言葉に、美琴がちらりと彼を見た。
街灯の明かりの影になっている彼の顔は、陰影が強く細かい表情まで見えないはずなのに、なぜだか美琴には、彼の優しげな笑みが浮かんでいるように見えた。
彼女が1年前に、あの鉄橋の上で見た上条の凛々しい顔。自分の電撃を浴び、ぼろぼろになって倒れ、膝枕をされていた時の彼の顔に浮かんでいた優しい笑み。
あの第22学区の夜、彼を1人で行かせてしまったときの思いと、彼がロシアから無事に生還した夜に彼の手をとった時の思いとは、また違う感情が彼女の中から溢れだそうとした。
だがその時、
「――それで、お前はもう吹っ切れたのか?」
上条から思わぬ言葉を受けて、美琴はいつのまにか彼の右手を握っていた。
特に意識したつもりもない。そうしようと思っていたわけでもない。ただ気がつけば本能の赴くままにそうしていた。
いつもの彼女なら、恥ずかしさが先に立って、まずそんなことは出来なかったろう。
しかし美琴はどうしても、その手を握っていなければ、自分の中に残るその記憶や感情に耐えられないような気がしていた。
絶望の淵から、自分を救い上げてくれた上条の顔と、今、自分の隣にいる愛しい少年の顔が重なっていても、その向こうに見えたのは、恐怖、悲嘆、苦悩、諦観そして絶望。
それらの記憶が、次々と脳裏に甦って、彼女の心をぎりぎりと削り落としていく。
上条の手を離してしまったら、自分の中で何かが壊れてしまいそうなほどの不安と悲しみに襲われていた。
「み、美琴……?」
不意にぎゅっと手を握られた上条が、びくりと震えた。
固く節くれだった自分の手に、絡みつくようにつながれた、柔らかく優しい感触の手。
ちょっと力を入れれば、握りつぶしてしまいそうな、小さくてか弱い手。
その手は、冷たく小刻みに震えていた。
「お願い。今だけでいいから……」
上条の耳に飛び込んできた、か細く弱々しげな美琴の声。
見れば、彼女が自分のほうを見上げている。
その瞳はいつもの強い光はなく、救いを求めるような儚い少女の目だった。
じっと見つめているだけで、吸い込まれそうな、深い鳶色の瞳。
その奥に見えるのは、彼女の不安と悲しみと何か。
「――手、繋いでてほしい」
上条は何も言わず指と指を絡めていた。俗に『恋人つなぎ』と呼ばれる握り方。
そうしなければ、彼女が壊れてしまいそうな気がしていた。
その手を離してしまったら、自分は一生後悔するような気がして、上条は握った手にわずかに力を入れる。
何よりも、うかつな言葉を投げかけた自分が不甲斐なかった。
彼女と彼女の周りの世界を、守ると誓っていたはずなのに。
「すまん。」
あの後いろいろあって、一方通行とも交友関係にある自分は、もはや何のわだかまりも残していないけれど、美琴は当事者だったのだ。
たとえ1年経ったとしても、あれから何度も一方通行と顔を合わせているのだとしても。
打ち止めや番外個体、妹達と絶え間のない交流をして、彼女たちが一方通行に寄せている信頼や思いを解っているのだとしても、やっぱり理性と感情は別なのだ。
今の一方通行が、『妹達(シスターズ)』にとって大切な存在なのだとしても、美琴の記憶からは、どうしても『実験の当事者』という事実は拭えない。
彼が犯した罪への憎しみや怒り、悲しみや恐怖は、彼女にとってそう簡単に消し去ることは出来ないのだ。
「――お前はまだ」
そう言いかけた時、美琴の方から握った手に力を込めてきた。
彼にそれ以上何も言わせぬ迫力を持って、彼女ははっきりと言葉にした。
「大丈夫。大丈夫だからっ」
握った手に込められた力が、彼女の覚悟や思い、気持ちを伝えてくるようだった。
ぎゅっと絡んだ指と、合わさった手のひらから伝わる温み。
その温みを感じながら、自分の中にふと湧き上がった疑問。
あの時自分はなぜ、御坂美琴と彼女の周りの世界を守るとすんなり誓えたのだろうか。
そして今も、どうしてこんなに彼女のことを守りたいと思っているのだろうかと。
弱いから?儚いから?可愛いから?女の子だから?助けたいから?支えたいから?
どれもが正解なようで、どれもが違っているように感じたのは、そこに決定的な何かが足りないように思えたからなのか。
何か彼女に答えなければ、と思ってはみたものの、今の上条にはそれが何かがまだわからない。
だからせめて答える代わりに、彼は握った手に力を込めなおした。
一方の美琴は、黙って絡めた指に力を込めてきた上条の気持ちが、その温もりと一緒に伝わってくるようで、じんわりと胸の奥が暖かくなるのを感じていた。
これほどまでに愛しく思う彼が、こうして助けてくれる、支えてくれることが本当に嬉しい。
ただ上条の手の温もりを感じているだけで、彼と触れ合えているだけで、どうしてこんなに温かく、幸せでいられるのだろう。
今だけは、上条が自分のことだけを感じて、触れて、思っていてくれる。
それだけで美琴は、さっきまでの不安や悲しみ、様々な負の感情が、すべて拭い去られるような安堵を感じていた。
彼の隣には、彼にとって特別な存在なはずのあのシスターがいて、彼の周りには自分と同じように、彼に恋焦がれる多くの女性がいる。
自分はどうしたって彼の周りにいるたくさんの中の1人に過ぎないのだと思ってはいても、やっぱりそれでも諦められない。
彼を支えられるなら、彼の助けになれるなら、それだけで自分は満足だなんて思ってはみても、彼が自分の特別な存在だという思いは消すことが出来なかった。
どうしてもこの気持ちだけは、自分の中から消すことは出来なかった。
――御坂美琴は、上条当麻のことが、好き。
それが御坂美琴の『自分だけの現実(パーソナル・リアリティ)』だから。
それが、彼女のすべてなのだから。
街を外れて川沿いの土手を行く。
からんころんからんころん、と下駄の音だけが辺りに響いている。
隣を歩く彼女から聞こえてくる1つの音と、背後から聞こえてくる4つの音が重なって、軽やかな5重奏を奏でている。
後ろからついて来ている4人の妹達から、なにやらこそこそと声がしているようだ。
時折「お姉さまずるい……」とか、「ならば既成事実を……」とか、何やら不穏な言葉も聞こえてくるが、上条の耳には入らない。
あれから二人はずっと黙ったまま、手を繋いでここまで歩いてきた。
彼女の手の温もりを感じながら、上条はずっと今日までのことを思い返していたのだから。
(こんなに華奢な手……してたんだな)
やや俯き加減に歩く美琴の横顔に目をやれば、明るく活発そうないつもの感じと異なり、優美でしとやかな佇まいの彼女。
記憶を失った昨年の夏休み。その後半に、よく行く公園の自販機の前で出会った、かつての知り合いだったらしい彼女。
あの時はやんちゃで、まだまだ子供っぽいと思っていた美琴も、この1年で随分と成長し、こうして隣を歩く姿も、すっかり大人びていた。
(――そうだ、もう1年過ぎたんだ)
いつの間にか少女から女へと、そのカテゴリーを移しつつあった彼女と、自分は今日まで、どれほどのかかわりを持ってきたのだろう。
年下の中学生と侮っていたのに、いつのまにか彼女の方は、大人の女性へと変貌を遂げようとしていたのだった。
ただがむしゃらに月日を重ね、体だけ成長したような自分の方こそ、かえって子供っぽく思えてしまうほどに。
(俺にとって、美琴はなんなのだろう)
彼にしてみれば、友達、戦友、仲間、相棒みたいな感じで接していた。
そのために、いつのまにか美琴が、これほど女らしくなっていたことに、上条は気がついていなかった。
彼女が傍にいるだけで、安心と信頼を感じていたことに。
何かにつけて美琴と一緒にいることが、いつしか自分にとって当たり前のような感覚でいたことに、今の今まで気がついていなかった
そのことに気がついた瞬間、きゅっと胸をつかまれるような苦しさと、湧き上がるような高揚感、爆ぜるような動悸と何かを求めるような期待感が、上条の中を突き抜けていく。
(美琴のうなじ、色っぺぇや)
紺色の浴衣の襟首からのぞく、白いうなじにほつれ毛が躍っているのが、妙にセクシーで、彼の背筋をぞくりと震わせる。
風が吹くたび、ふわりと彼の鼻腔をくすぐっていく、微かに甘い香水の香りが、びりびりと彼の脳髄をしびれさせる。
時折触れそうなまでに近づく肩と肩が、そのたびに彼の心をぐらぐらと揺さぶる。
上条が今まで知らなかった御坂美琴の世界。彼が気付かなかった御坂美琴という女の子。
すぐ隣にいる、いつもと違う美琴の装いが、彼の気持ちをどんどんと彼女の方へと吸い寄せていく。
意識すまいと思えば思うほど、上条はどんどんと美琴に引き付けられる。
胸がドキドキと高鳴り、呼吸も浅くなり、いつしか咽喉もからからに乾いている。
気がつけば、自分の中に押さえ切れない莫大な感情が生まれようとしていた。
――からりころりからりころり。
美琴が下駄の音を鳴らす。
後ろで同じように妹達も、下駄の音を鳴らしている。
――からんからんころんころん。
何気なく振り返ってみれば、美琴と同じ姿をした少女たちが、じっとこちらを眺めていた。
隣にいる女の子と同じDNAを持つクローン少女たち。
これまでは一目見ただけで、その区別は全くつけられない、と思っていたはずなのに。
(――あれ? 美琴だけはなんだか違って見える……)
どことは言えない。どこがとも言えないけれど、上条には確かに、美琴と妹達の区別が、今ならつけられるような気がしている。
これまではゴーグルや短パンの有無や、口調などでしか区別がつけられなかったのに、たとえ同じ常盤台の制服を着ていたとしても、間違いなく美琴だけは、見分けをつけられる自信がある。
根拠のようなものはないけれどそれは、それだけ美琴のことが気になっているからなのだと気がついた。
彼女が自分の特別な存在になりつつあるのだということを、彼はこのとき初めて自覚した。
――俺が、美琴に惹かれている?
――俺が、美琴を好きになっている?
やがて目指す場所に到着した。
そこは現在の上条にはあまり馴染みの無いところだが、記憶喪失前の彼には、何より馴染みのある場所。
初めて本気で美琴と勝負をした、あの河原。
今の自分に全く憶えがないはずなのに、上条にはなぜかそこが、とても懐かしく感じられていた。
自分の記憶にない場所なのに、なぜか心にざわつきを感じてしまうのだ。
思わず立ち止まって、隣の美琴の顔を見た。
薄暗くてはっきりとは見えない彼女の表情が、どこか柔らかく感じられる。
ここへ来るまでの不安や悲しみのようなものでなく、ずっと温かい顔になっていた。
ふっと美琴の顔が、上条の方へ向いた。
笑っていた。笑顔だった。自分が見たい、守りたいと思っていた彼女の笑顔だった。
自分を見つめる、なんとも形容しがたいその眼差しから、彼は目を離すことが出来なかった。
美琴が可愛くて、愛しくて、思わず抱き締めたくなる衝動に襲われ、理性も何もかも捨ててしまいそうになった時だった。
ここまで手を繋いできた美琴が、すっと上条の手を離すと、川べりへと降りていった。
触れていた彼女の温もりが消えて、衝動にかられた彼の気持ちをすっと冷やしていく。
上条から離れていく彼女の後を、小走りに妹達が追っていく。
抜け駆けがどうとか、こらまて卑怯者とかいう声が聞こえてくるが、1人、その場に取り残されたように立ち止まっている上条の耳には入ってこない。
なぜなら彼は、今まで美琴と繋いでいた右手をじっと見つめていた。
手の中に残った美琴の細い指の感触と温もり。
ずっと彼女と繋がっていたことに上条は、えも言われぬ幸福感をかみしめていたのだから。
「始めるわよ!当麻!」
「お、おう……」
やがて美琴の呼ぶ声が上条の意識を引き戻す。
彼が土手の階段を降りて、川辺に近づくと、頬を撫ぜていく風が、少しひんやりとして気持ちいい。
こうして川風に頭を冷やされると、名前を呼ばれていつになくどぎまぎしている自分に気がついた。
今まで何度となく呼ばれていたはずなのに、あらためて自分の気持ちを意識したら、それがなんだか無性に照れくさく思われた。
美琴の名前を呼ぶのも、自分の名前を呼ばれるのも、別になんと言うこともないことなのに、どうして今日はこんなに気恥ずかしく感じているのか。
彼女に近づくにつれて、自分の顔がなんとなく火照ってくる。
胸がドキドキと鳴っている。
照れくさくて、美琴の顔が真っ直ぐに見られない。
「どうしたの? なんだか変よ? 当麻……」
美琴にもはっきりわかるくらいに動揺していたのだろう。
(――ううう、平常心平常心。こういう時は素数だ素数……)
「ああ、大丈夫だ……」
多少の動揺を残しながらも、やっとの思いでいつもの自分を取り戻そうとしたのだが。
「――なんでもねえよ」
口ではそういいながらも、自分の中に生まれた、その感情に気がついてしまった今となっては、もはやどうしようもない。
視線はどうしたって、美琴のほうへだけ向いてしまう。
彼女の一挙手一投足、全てが気になって仕方がない。
ちょっとした仕草が、上条の心を揺さぶる。
わずかな動きが、彼の心臓をドキリとさせる。
それこそが、
――上条当麻が、恋に目覚めた瞬間だった。
灯籠流し ~Love_comes_quickly 2 後編
川岸の水辺に寄り集まって、持ってきた灯籠に火を入れる。
ゆらゆらと揺らめく灯籠船のぼんやりとした明かりが、彼女たちの横顔を照らす。
皆が神妙な顔をしているものの、そこに悲しみや怒り、憎しみといった表情はない。
彼女たちが浮かべる柔らかな笑みは、ただ亡くなった『妹達(シスターズ)』のために祈る気持ちだけだった。
上条はいつしかぼうっと、彼女たちの、中でも美琴の横顔を見つめていた。
オレンジ色に揺れる光が水面に浮かべられていく。
その光に照らされた美琴の顔が、より神秘的に、そしてより魅力的に感じられて、彼は思わず固唾を呑んでいた。
「あなたはなにを見ているのですか、とミサカ10032号は心配そうに尋ねます」
突然御坂妹から声を掛けられた上条は、はっと我に返る。
「ああいや、なんでもないなんでもない」
慌てて視線を手元へ戻し、火を灯した灯籠船を彼は静かに水面へ浮かべた。
押しやるように手を離すと、ぼんやり光る小さな船がゆらゆらと揺れて、川岸からゆっくりと離れていく。
川面に浮かぶ6つの灯籠が、ゆっくりと回りながら、流れに乗って川を下っていく。
学園都市製の素材で出来たこの灯籠船は、流れていくうちに全て水に分解されるという環境に優しいもの。だから富栄養化の原因にもならず、河川を汚す心配もない。
ふと川下を眺めてみれば、ずっと遠くのほうで同じような灯籠流しの明かりが見えた。
それは第12学区にある仏教系の学校が主催する灯籠流しイベントの明かり。
本来なら盂蘭盆会の送り火として行われる灯籠流しも、ここ学園都市では第12学区主催のイベントとして行われている。
だからこうして灯籠船も手に入るわけだし、ここで灯籠流しをしても、誰に見咎められることもない。
流れていく灯籠を見送りながら、上条と美琴、そして妹達はじっとたたずんでいた。
この学園都市の闇に殺された『妹達(シスターズ)』が、これ以上悲しい思いをしなくてもいいようにと、彼と彼女たちはそっと祈りを捧げる。
上条には流れていく灯籠の明かりが、何となく残された彼女たちを頼むと言っているような気がしていた。
死んだ妹達がどう埋葬されたかは、残された彼女らに聞いても明かしてはくれない。
だから彼女たちがどこに眠っているのか、それは上条にも美琴にもわからないのだ。
この学園都市が死者に冷たい街かというと、見かけほどではない。現に第10学区には、学園都市が作り、運営する共同墓地だって存在する。
だがそこに眠る者は、恵まれた境遇にあった者ではないのが、この街の真実を物語ってはいるのだが。
そんなことを思っていた上条に答えるかのごとく、美琴の言葉が耳に入ってきた。
「私、いずれは、死んだ妹達全員に、お墓を用意してあげたいって思ってるの。
でもレベル5といったって、まだ中学生の私には、ここにいるアンタたちの浴衣を用意してあげるので精一杯なんだ。
あの実験の責任を取ることも、取らせることだって出来やしない。
死んだあの子達を弔ってあげることだって、こんなことしかしてあげられないし、残った妹達全員の様子さえ、把握できてるわけでもないのよ。
ごめんね。不甲斐ない姉で。でも今は無理でも、いずれはアンタたちみんな、私が責任もって面倒見るようにするから……」
流れゆく灯籠を見つめながら、美琴が傍らに佇む妹達へ、独り言のように語っていた。
俯き加減の彼女の頬を、流れる涙が光って見えた。
『妹達(シスターズ)』のことは、今はまだ、決して表に出されることのないこの街の闇でもある。
だからこの先、彼女たちを守っていくことは、並大抵のことではない。
それでも御坂美琴はくじけないし、あきらめない。今はまだ無理でも、この先のことはわからないから。未来を信じられるのは、いつの時代でも、若者の特権だから。
彼女にとって幸いなのは、あの時の彼女と異なり、ひとりぼっちではないこと。
『妹達(シスターズ)』の処遇については、当事者の彼女はもちろん、冥土帰しと一部研究者、それに理事会の一部メンバーの協力とて得られている。
真実を打ち明ければ、彼女の両親とて協力を惜しまないはずだろうし、もしかしたら彼女の父親、御坂旅掛はすでに知っているのかもしれない。
そして何よりここにもう1人、彼女の重荷を一緒に背負うと密かに決めている男だっていたのだから。
「お姉さま……」
妹達から、感極まるような声がした。なにやら鼻をすすりあげるような音だってしている。
19090号だろうか、顔を手で覆って、しゃくりあげている妹達だっている。
いつのまにか、彼女たちもこうして、感情表現が出来るようになっていた。
それぞれが嬉しいとか悲しいとか、基本的な感情はすでに会得している。
そんな彼女たちの姿を目にして、上条も目頭を熱くさせていた。
もちろんそんな姉妹たちの間へ、割り込むような無粋なことは彼だってしない。
美琴を囲むように妹達が抱きついているのを、彼は黙って優しい気持ちで眺めていたのだった。
突然、遠くの川下の方から、何かが破裂するような大きな音と共に、夜空に色とりどりの光の花が咲いた。
灯籠流しと一緒に催される花火大会が始まった。
これも美琴が、この催しを今日行う方が良いと決めた理由のひとつ。
しかしここからだと、すぐ目の前の鉄橋に邪魔されて、うまく見えない。だがあの鉄橋の上からなら、見えるであろうことに、上条は気がついた。
この河原から鉄橋までは、土手を上がって少しのところ。
だから彼は、彼女たちへと声を掛けた。
「――鉄橋まで行って、花火を見ないか?」
多分これまで、妹達は花火大会なぞ、まともに見たことなんてないだろう。
かといって、人目のつくところへ彼女たちを連れて行くわけにもいかない。
だが会場からかなりの距離があるこの鉄橋でなら、見物客もそれほど多くない。
やや薄暗い街灯の明かりの下なら、彼女たちの素性もわかりにくいだろう。
だから美琴が、この場所を選んだことに、上条は感心していた。
妹達のために、そこまで考えていた彼女の思いが、彼にはよくわかる。
そうなると、ここまであまり気にしていなかったことが、上条の頭をよぎる。
だがこれを直接、美琴に聞くのは憚られた。
ここへ来るまでに、まだ残されている彼女の苦悩を知った彼にとって、それはデリケートに扱うべき問題であるからだ。
「なあ御坂妹。ちょっと聞きたいんだが、いいかな?」
皆で鉄橋まで歩く途中、彼女たちの後ろからついていく上条は、御坂妹を小声で呼び止めた。
「なんでしょうか、とミサカ10032号は急にあなたに呼び止められて、ちょっとドキドキしながら答えます」
「――いやいや。たいしたことじゃないんだが、打ち止めと番外個体は今日は来なかったのか?」
御坂妹が――チッ、と小さく舌打をして、
「ここに来ていない女の話をするなんて、この唐変木め、とミサカ10032号は乙女心がわからないあなたにガックリします」
「あのね、御坂妹サン。そういうことでなくてですね……」
「ええ、わかってますよ。お姉さまはあの2人にも、ちゃんと浴衣をプレゼントしています、とミサカ10032号は真面目に回答します。
お姉さまとセロ……保護者との間に、まだわだかまりが残っていることを案じた上位個体からの要望で、今日、あの2人は別行動となったのです、とミサカ10032号は内情を打ち明けます。
ちなみにあの保護者は、これまでかつての実験場を一つ一つ回って、ミサカたちへ追悼の気持ちを表しているようです。
保護者本人は上位個体のお願いだからと言い訳をしているようですが、とミサカ10032号はツンデレセロリにはもう飽き飽きしました。
今夜の3人は、あの操車場にいるようです、とミサカ10032号は先ほど上位個体から連絡があったことを伝えます」
「そうか。ありがとうな、御坂妹」
上条は御坂妹からの話を聞いて、気持ちが少し軽くなった気がして、ほっと息を吐いた。
一方通行がそうした気持ちでいてさえくれれば、美琴もいつか恩讐を越えられる時が来るんじゃないかと彼は思った。
別に彼女に忘れてやれとも、許してやれとも言うつもりはない。
ただいつか2人の間に、このわだかまりを越えた関係が結ばれることになればいいと思っただけなのだ。
全員揃って、笑ってこの日を迎えることが出来るよう、彼女に寄り添っていたいと思いながら、上条は優しく笑みを浮かべて、美琴の後姿を見守っていた。
「あのもしかして、あなたは……」
突然傍らから、妹達の1人が小さく声を掛けてきた。
「――お姉さまとの間に、なにか心理的変化があったのでしょうか、とミサカ13577号は違和感を感じながらあなたに問いかけます」
「えっ……」
いきなりの問いかけに、上条は不意をつかれて焦る。
急に10039号が、彼の左手をつかむと、手のひらを合わせてきた。どうやらバイタルを計るつもりらしい。
それで心理的変化がわかるのか疑問であったが、1年前の病室で体験したような、胸に当てられて計られるよりはましだと上条は思う。
その張本人たる御坂妹の後ろから、19090号も気になる様子で彼を見ている。いつのまにか周りをぐるっと妹達に囲まれていた。
「ああもう、アンタたちってば!」
ああ、気付かれてしまった、といつもの美琴の声を聞きながら、声のした方向に上条が目をやると、それはいつもの彼女ではなかった。
普段の彼女ならビリビリしながら、無理やりにでも自分のことを引き離そうとするのが、なぜかその時の彼女は笑っていたのだ。
手を引っ張って連れだしてくれるのかと、わずかに期待した上条だったが、直後の美琴の言葉でそれも吹き飛んでしまうこととなる。
「――今日ぐらいは勘弁してあげるから、ほどほどにしておきなさいよ……」
そう言うと、くるりと向こうをむいて、そのままからころと、鉄橋へ向けて歩きだした。先、行くわよと言いながら、彼女は後ろを振り返らずにどんどん遠ざかる。
だが向こうをむく直前の美琴の目が、寂しさをたたえていたことに、上条は気が付いた。遠ざかっていく彼女の背中が、何かを待っているようにも思えてしまう。
なぜ彼女がそんな目をしていたのか、何を待っているのか上条にはわからなかった。
それでも彼女にはそんな顔をさせたくない、と彼の中で何かの感情が弾ける。思わず追いかけて、手を伸ばし、彼女をつかまえ、ぐっと抱き締めたくなる衝動に駆られていた。
だが彼の周りを取り囲む妹達が離してはくれなかった。
「あのせめて……」
珍しく19090号が声を張り上げていた。彼の前では普段、恥ずかしそうに小さな声でしか話さない彼女が、顔を赤らめながらも必死な面持ちで上条に話そうとしていた。
「――今だけは、ミサカたちのあなたでいてくれませんか……とミサカ19090号は……」
「は?」
小さくなっていく彼女の言葉に戸惑う上条へ、畳み掛けるように、13577号が詰め寄ってきた。
「どうやらあなたはお姉さまに心を惹かれているように思われるのですが、とミサカ13577号はじっとあなたの顔を見つめながら問い詰めます」
「今のバイタルの変化データからも、おそらくあなたはお姉さまに恋愛感情を抱いていると判断されました、とミサカ10039号は結論を述べます」
「ですので私たちとしては、このあたりで敗北を認め、あなたにお姉さまを託すとしても……」
御坂妹が泣きそうな顔をして上条の顔を見上げてきた。
彼女だけでなく、10039号も、13577号も、そして19090号もだった。
「――今だけで構いません。ミサカたちに少し時間をください、とミサカ10032号はあなたに心からのお願いをしています」
「おお、お俺が、み、みみ美琴に、ここ、こ恋してるってのはちょっと置いといて。お前たちに時間をって、なんだ?」
なんとか平静を装ってみようとするが、美琴への思いをずばり指摘されての動揺は隠せなかった。
そんな上条を見て、妹達全員が、まるでどこぞのお姉さまそっくりだと言わんばかりに、ふぅとため息をつく。
「1年前、私たちはあなたに、この命を救っていただきました。おかげでこうして、いろいろな経験をしてきました」
じっと10039号が真剣な眼差しで、上条を見つめてくる。
以前のように、瞳孔が開いたような無感情な瞳ではなく、きちんと感情の動きが見えるようになっている。
「あなたのおかげで、ミサカたちは喜びも哀しみも、怒りも楽しみも、憧れもさらには愛情だって持てるようになりました」
「そんなあなたに、ミサカたちは恋をしてしまいました。この感情が好きというものであるなら、これは間違いなく恋だと断言します」
13577号が柔らかな笑みを浮かべて、彼を見つめている。目の力はまだ弱いものの、それでも充分に感情が篭った目をしている。
19090号が顔を真っ赤にしながらも、彼女なりに精一杯の気持ちを込めて告白を続ける。
妹達の中で、10032号以上に感情表現が多彩な彼女の、ころころと変わる表情は愛らしく思わせる。
「あなたは、こうしてミサカたちが思いを告げても、お姉さまを追いかけていくのでしょうか、とミサカ10032号は涙をこらえてあなたを引き止めます」
御坂妹が、ちょっと悲しげな笑みを浮かべて、上条を見つめてきた。
普段のすました顔や、よくするいたずらっぽい表情の御坂妹が、こんなにも切なそうな少女の顔をしていると、彼の心がズキリと痛む。
それでも自分の気持ちに嘘は吐きたくないし、彼女たちもそれを覚悟しているのなら、と真摯に向き合うことを、上条は心に決める。
「ああ。俺は美琴が好きだ。出来る限りアイツを支えたい。助けたい。お前たちの気持ちは嬉しいけれど、その思いには応えられない」
「やはりそうですか、とミサカ10039号は予想通りの結果に終わったことに落胆を隠せません」
彼に振られた妹達が、がっくりと肩を落としている様子に、上条は申し訳なさを感じつつも、一方ではそんな彼女たちを見て、この1年の間に、妹達は本当に人間らしくなったとも思っていた。
オリジナルの美琴ほど、豊かではないにしても、今では普通の人間とほとんど変わりがないほどの感情表現をしていると。
かつては実験動物だとか、感情なき人形などと呼ばれたこともあったが、やはり彼女たちは人間で間違いなかったのだと、彼は改めて実感していた。
「こうしてミサカたちに、失恋という経験もさせてくれるあなたは、やはりミサカたちの大切な人なのだ、とミサカ10032号は、ますますあなたを好きになりました。
だからあなたに愛と感謝をこめて、抱き締めさせてくださいとお願いします」
「ああ、いいとも……」
それが彼女たちの希望であるならば、断ることなんてしたくない。少しでも彼女たちの悲しみを軽くしてやることが出来るのなら尚更だ。
なにより彼女たちにこうして愛の告白をされるほどに、自分が慕われていたという事実が意外ではあったが、嬉しくもあった。
あの時は自分の思うがままに行動したことなのに、こうして彼女たちに慕われるほど認められていたことが、単純に嬉しく感じられた。
だから彼女たちへ感謝をしたいのはむしろ自分のほうなのだと、上条は思う。
すぐに御坂妹はじめ、4人がかわるがわる上条を抱き締めてきた。
キスをするとかそんな恋愛じみたものでなく、子供が親にするような、親が子供にするような、温かみのある心のこもった抱擁。
もちろん上条も感謝の気持ちをこめて、彼女たちを慈しむように抱き締め返す。
幸いここは街灯の間の暗がりなうえ、周囲に人の目もないため、誰かに見られて困るようなこともない。
もし見られでもしたら、浴衣姿の美少女たちと次々抱擁を交わすなんて、羨望と嫉妬の嵐を浴びることは間違いないだろう。
「初恋は実らないと聞きましたが、やはりそうだったのですね、とミサカ19090号は切ない乙女心いっぱいに身もだえします」
「だとすると、上位個体の初恋は……とミサカ10039号は、ああっ運営さま、お仕置きは勘弁してえええ!!」
「それよりも失恋は女を磨くものなんだそうです、とミサカ13577号はこれからより一層いい女への階段を上がっていくことを宣言します」
「ネットワークによれば、男なんて星の数! 女の恋は上書き保存! だそうです、とミサカ10032号はこれから失恋パーティを開くことを提議します」
妹達がわいわい言っているのを眺め、上条はいつしか和やかな気持ちになっていた。
失恋だといいながら、いつもと変わらぬ彼女たちの様子に、上条は正直ほっとしていた。
おそらく憧れだとか、多感な時期特有の、恋に恋するみたいなものもあったのだろう。
彼女たちが思いのほか落ち込んでないことが、彼にとっての救いだった。
流れていく灯篭と一緒に、彼女たちの悲しみも流れてしまうことを願ってやまなかった。
「それはそうと、そろそろお姉さまのところへ行ってあげてください、とミサカ19090号はあなたにお願いします」
「そうです。どうかお姉さまをよろしくお願いします、とミサカ13577号はちっとばかし甲斐性を見せやがれ、と内心毒づきます」
「さあ、お姉さまがお待ちかねですから、とミサカ10039号はとっとと行きやがれ、唐変木め、とこっそり罵ります」
「お姉さまを泣かせるようなことがあれば承知しませんから、とミサカ10032号は目の前にいる女の敵を睨み付けます」
「……」
落ち込んだのは自分のほうだったのかもしれない。
「でもな、お前たち。お姉さまをよろしくったって、美琴は俺のことなんて、何とも思ってないんだぞ」
その途端、妹達の表情が変わる。皆ぽかんとして、なにやら呆れたような面持ちをしていた。
「あなたは本気でそう思っているのですか? とミサカ10039号は信じらんねえよコイツと思いながら問いかけます」
「え? そうだそうなのそうなんですよって三段活用!? そもそも不幸体質の上条さんに、そんな超絶恋愛フラグみたいなハッピーイベント、あるわけないんですからっ!」
「あなたは、本当にご自分の片思いだと? とミサカ19090号は、うわあマジだぜコイツ、と呆れかえって、もう放っておこうぜこんな馬鹿」
大真面目な顔で否定する上条に、妹達はやれやれという顔をする。
その時上条は、妹達が自分たちを振ってまで、片思いを貫こうとする自分のことを案じているのだと思っていた。
「ああ。俺は別に片想いだって構わねぇと思ってる。俺が美琴を支えてやりたいと思ってるんだから、それで十分じゃないか。
そもそもアイツが俺のことを好きだなんてありえねえし、せいぜい男友達程度にしか思ってないだろ。
大体美琴のような美少女超能力者と、俺みたいな万年不幸な無能力者では、吊り合い取れないからな!」
上条は今しがたまで美琴のことを、友達、戦友、仲間、相棒のようなものだと思っていた。
だから彼女の方だって自分のことは、気の置けない友人みたいなつもりでいるのだろうと思いこんでいるのだ。
「そうですか、あなたはそんな風に思っていたのですね、とミサカ13577号は、くたばれこの旗折野郎(フラグブレイカー)めと心の中で罵倒します」
「なにそれ、ひどっ!!」
それでも彼は、案じてくれている(はずの)妹達へ、感謝の気持ちだけはきちんと伝えようとはしていた。
「でもまあ俺だって振られたら、お前たちと一緒なんだし。ま、振った振られたというのを抜きにして、友達としていつかまた、どっかへ遊びにでも行こうや」
「その時はぜひお願いします、とミサカ10039号はあなたの言葉に安心して、お前の奢りでな、と内心を隠しつつ返事をします」
「これからも変わらぬお付き合いをお願いします、とミサカ19090号はあなたに言いながら、けっ、やってらんねえやと内心は隠します」
「とりあえずミサカたちは、これから別行動をとりますから、とミサカ10032号は、いいからさっさと行きやがれ! と吐き捨てます」
結局ほうほうの態で送り出された上条だった。
(あの方は行きましたね、と10032号は確認します)
(13577号、あの方はお姉さまを選んだのですね)
(私たちでは、あの方の特別にはなれなかったのですよ、19090号?)
(はい。でもそれはお姉さまでよかったのだと思います。そうではありませんか、10039号?)
(それだけは私たちが喜ぶべきことだと……でもやはり辛いですね、19090号……)
(10032号、涙は禁物です。でなければ、あの方もミサカたちの涙に苦しむことでしょう)
(10039号、失恋にはやけ酒がいいとのネットワークからの情報です)
(では上位個体を通じて、セロリにお酒を調達させましょうか、13577号?)
(ならついでにお酌もさせましょう、と19090号は提案します)
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「あのね、10032号がお酒を欲しいんだって。そんな10032号からのお願い、聞いてあげて欲しいなって、ミサカはミサカは妹達を代表してお願いしてみたり」
「何ィ。酒だと? そンなもの、アイツらがなンで欲しがるンだ?」
「失恋にはやけ酒なんだって、とミサカはミサカはなんだかちょっとしんみり複雑な気分……」
「――チッ、めンどくせェ。アイツらに少し待ってろと言っとけ……」
「げ、ミサカ、その話は聞きたくなかったよおーー! いやああ、そんな酒混じりの負の感情は勘弁してぇぇええ!!」
その夜のミサカネットワークはずっと混乱が続いたらしい。
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上条が鉄橋につく頃には、花火大会もすっかり佳境に入っていた。
彼は美琴の姿を探して、あちこち目をやりながら橋の上を行く。
歩道上には様々な装いの恋人たちがちらほらと、欄干にもたれて腕を組み、肩を寄せ合って花火に見入っていた。
やがてぽつんと1人で佇む、浴衣姿の女の子が目に止まる。
欄干にもたれて、じっと花火を見つめていたのは、もちろん美琴だ。
それを目にした上条の頭の中には、もう目の前にいる愛しい少女のことしかなかった。
いつもなら大切に思っているはずの銀髪碧眼のシスターのことさえ、思い浮かばないほどに。
何を思うのか、何を思っているのか、無表情のようにも見えるその顔に、上条の心が抉られる。
花火の光で七色に照らされる彼女の表情は、なんとなく儚げな感じもしていた。
これまで何度か彼女を待たせたことはあったが、いつもなら電撃か超電磁砲を繰り出して、真っ赤な顔をする彼女の姿しか見たことがなかったのに、なんで今夜は、そんな顔をしているんだろうと思う。
上条が今まで見たことのない、美琴が見せたことがないその面持ちに、なぜか彼の胸が切なく痛む。
もしかして、彼女は、ずっと、その顔で、誰かを、待っている?
誰を?
誰だ?
それが誰なら、俺は……。
美琴にそんな顔をさせる誰かに、上条はいつしか黒い感情を持ってしまった。
多分彼女の心には、そんな顔をさせる誰かがいるのだろうと思うと、思わずこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
だが別れる間際の寂しそうな彼女の目が気になったのを思い出すと、彼はぐっとその衝動を押さえ込み、黙って美琴の隣に位置を占めた。
すっと無言で横に立った彼に気がついた美琴が、さも待ちわびたかのように声を掛けてきた。
「――お疲れさま。あの子たちは?」
彼のほうへ振り向いた美琴は、優しく笑っていた。
ついさっきまでの儚げな面持ちではなく、心から楽しそうな笑顔でもって。
その満面の笑みに魅入られたように、上条は美琴から目を離すことが出来なくなった。
「別行動をとりたいそうだ」
そう答えながら彼はじっと、彼女の顔を見つめ続ける。
上条はその時、たとえ美琴の心に誰がいようとも、自分のこの気持ちは否定できないことをあらためて思い返していた。
ふと思い出されたのは、あの誓いを交わした魔術師のこと。あの男の思いが今更ながら、自分にもわかるような気がした。
決して自分には向けられない、彼女の気持ちを解っているにもかかわらず、それでも守ると誓わせたあの想いには負けたくないと上条は思う。
あの男に出来るのなら、そう誓った自分こそ、その思いに答えたいと。今ではあの誓いの重さが、ずっしりと身にしみてわかる。
苦しみ、辛さ、切なさ、悔しさ、妬ましさに虚しさ。そんなものを胸いっぱいに抱えたままにあの男は去っていった。
できるなら、あの魔術師ともっといろいろ語り合ってみるのもいいかもしれないと、あれから姿を見せない男のことが、彼の脳裏を過ぎっていたのだった。
「どうしたの? じっと見つめてきたりして……」
「あ……、いやなんでもない」
美琴が彼の視線に照れたように顔を赤くしていた。上条もはっと気がついたように、顔を赤らめた。
お互いになぜか顔を合わせられないような気恥ずかしさを感じ、ふいっと川の方へと顔を向ける。
花火大会もそろそろ終わりに近づいているのか、間断なく色とりどりの花火が打ち上がっているというのに。
肩を並べて欄干にもたれ、じっと花火を見ているつもりが、いつの間にか視線が相手の顔へといってしまう。
ちろりと視線が交差しては、ぶわっと音がするようにまた、花火の方へと顔を戻す。
そんなことを何度か繰り返すうちに、
「なあ……」
最初に話かけたのは上条の方。
「なによ……」
美琴もぼそりとそれに答える。
ぶっきらぼうに答えたようでも、彼女の心臓は実は、ばくばくと脈打っていた。
上条の方も同じように、高鳴る胸の鼓動を押さえきれない。
実は2人とも、相手にこの心臓のドキドキ音が聞こえやしないかと、冷や冷やしていたのだ。
「花火……、見ないのか」
「見てるわよ……」
そうして2人はようやく、花火のほうへ気持ちを切り替える。
だが相手のことを気にしすぎて、お互いが意識しあっていることにも気付かない。
「今日はありがと……」
ようやく動悸も治まった頃、美琴がぽつんと呟くように言った。
その言葉に上条が硬くなっていた表情を崩す。
「ん? どうした?」
「――いろいろ付き合ってくれて。手だって……握っててくれたし」
「んなの気にすんなよ。俺だってお前らのためなら、いくらでも協力するからさ。もっと頼ってくれていいんだぜ?」
そう会話しながら、じっと川のほうを見つめ続ける2人。
美琴は優しげな表情のまま、彼との会話を続ける。
「うん、頼りにしてるから」
「そっか。そういわれると嬉しいもんだな」
上条の表情がさらに柔らかくなった。ほのかに顔も赤い。
「俺だって、その……お前を頼りに思うことだってあるんだぜ」
「課題とか、課題とか、課題とかでしょ? 後は料理?」
「えー、それでは上条さんがまるで、ダメな人みたいじゃないでせうか」
「でもその通りじゃない」
「まあ、否定出来ないのが辛いとこですけどね」
美琴とこうして他愛もない会話をすることさえも、上条には本当に楽しくて、嬉しい。
(あーだめだ。ついつい意識しちまうと、どうしたって美琴のほうに目が行っちまう)
上条はそんなことを思い、なんとか意識を美琴のほうから逸らそうと、頭をガシガシと掻いてみたが、やっぱりついちらりと横目で彼女の方を窺ってしまう。
川から吹く風にあおられて、彼女のほつれ毛がふわふわと踊っている。
その動きがまるで、彼女に翻弄される自分のようにも思えて、ちょっとだけ情けないような気持ちにもなって。
それでも美琴と一緒にいたいという思いは消せなくて、自分の隣に彼女がいる光景を想像しただけで、ついつい頬が緩んでしまう。
「なあに? 今日はにやにやとしてばっかりで……」
「あ……」
(――見られた。かっこ悪っ!)
「――お前のほうこそ、なにずっとニヤついてるんだよ?」
「にゃ、にゃんでもにゃいっ」
美琴はそう言うと、ぷいっと視線を避けるように顔を背けてしまった。
どことなく顔が赤く見えるのは、花火のせいなのだろうか。
それでもそんな彼女のちょっとした仕草にも、心惹かれるものがあって。
彼女の全てが可愛くて、愛しくて、切なくて身悶えしそうなほどに彼の心を惑わしていく。
こうして隣にいるだけで、ついふらふらと抱き締めてしまいそうになるくらいに理性が揺さぶられる。
(――もっと美琴と一緒にいたい……)
傍にいれば、ますます強くなる彼女への恋心。
そんな上条の恋心が、炎のように彼のすべてを燃えつくす時が来ようとは、神様とて予想だにしなかっただろう。
「ねえ、アンタは残りの夏休み、何か予定あるの?」
「いや、せいぜい課題を片付けるぐらいかな」
「ふーん、そうなんだ……」
「お前はどうなんだ? なんか予定、あるのか?」
「んー何も。黒子は風紀委員でよく出かけたりしてるから、ほとんど1人きりで、予定なんて何も無いんだけど……」
彼女はそう言うと、ちらりと意味ありげな視線を上条に送る。
美琴からの奥歯にものが挟まったような言い方とその視線に、上条はなけなしの頭脳で、必死になって考えた。
(こ、これはもしかして、デ、デートに誘えってことじゃ……なんてそんな都合のいいことなんて、この俺にっ……)
あいにく本日入門したばかりの恋愛初心者は、どんどんとハードルを上げていくばかり。
これまでなら何も考えずに「じゃあどっか行くか?」とか「課題を手伝ってくれ」と誘っていたのが、なまじ意識をしてしまったばかりに、却って何も出来なくなってしまった。
(あああっ、それでもなんとか美琴をデートに誘いたいっ。でもヘタレな上条さんには、そんな勇気はありませんのことよ!
いっそ去年のコイツみたいに恋人ごっこを頼んでみるか。いや、さすがにそれはハードル高けぇし。
そうだ! 夏休みの課題だ! その手伝いをお願いして、後はそのお礼ということで、デートに誘う!
これで俺の計画は完璧っ!)
ならばチャンスとばかりに、彼は攻勢に転じた。
「じゃあ、美琴センセーに、ちょっと頼みがあるんだけど……」
「何? 夏休みの課題? そのくらいは自分独りでやりなさいよ……」
「げっ!」
一瞬のうちに逆襲をくらって当てが外れ、がっくりと肩を落として「不幸だ……」などと呟いている上条を見た美琴がクスリと笑った。
「――なーんちゃってね。断るわけないじゃない。私がアンタの頼み、一度でも断ったこと、ある?」
「ははは、ソウデシタネ。上条サン、チョットドキットシマシタ」
「で、当然、後でお礼はしてくれるんでしょ?」
「も、もちろんですとも! ちゃんとデートにお誘いしまっ……」
そう言いかけてから彼は、はっと気がついた。
美琴が驚いたように自分を見ている。
その表情を見て、彼は一瞬熱くなりかけた気持ちが、すっと醒めていく。胸の奥にもチクリとした痛みさえも感じていた。
友達だと思っていた男から、突然そんな言葉が出て、やっぱり彼女は戸惑ったんだと思い、咄嗟に誤魔化そうとして、
「あーいやいや、それは言葉のアヤってやつで、俺は決してそんなつもりで言ったわけではなくて……」
そう言ったとたん、美琴の表情が目に見えて、暗く沈んだのはなぜだろうか。
(――あれ? もしかして俺は、とんでもない勘違いをしている?)
――あなたは、本当にご自分の片思いだと?
(まさか、とは思うけど、でもアイツらの言葉通りだとしたら……)
――お姉さまがお待ちかねです
(美琴が待っているのは、本当は俺……なのか?)
――お姉さまを泣かせるようなことがあれば承知しません
(いや、だとしても俺は、美琴にそんな顔をして欲しくないんだ。悲しんで欲しくないんだ)
いま目の前の彼女にかけてやれる言葉が、自分の中にあるのかと考えたとき、それにふさわしい言葉が……言えなかった。
彼女が求める言葉が何なのか、彼女に必要な言葉が何なのか、絶賛初恋片思い中の彼にはわかっていたけれど、言えなかった。
それでも彼女に声をかけてやりたい、沈んでいる彼女をなんとかしてやりたい。
誰かに相談するか、あるいはもう少し冷静になれたなら、上条は迷うことなく真っ直ぐに「好きだ」と自分の想いを告げただろう。
だが今の彼にはそんな余裕も、そんな冷静な判断も出来なかった。
(でも……もし違っていて、彼女に変に思われたら? 今までの関係が壊れてしまったら?)
嫌われること、離れてしまうことへの恐怖が、彼の思考を止めてしまっていた。
気持ちがふらふらと揺らいで、「好きだ」というたったひとつの言葉が言えずに、彼はその場で逡巡する。
恋は盲目とはよく言ったもので、あれこれと考えすぎて思考の迷宮へ落ちていくやに思われた時だった。
(それでもやっぱり俺は、美琴に悲しんで欲しくないんだ。もしかしてあの言葉なら……)
思い出したのは、彼がクラスメイトとの間で交わしたちょっとした雑談。
夏目漱石が学校の先生をしていたとき、「I love you」を生徒が「我君ヲ愛ス」としたのを、違う言葉に訳させ、日本人ならそれでわかるものだ、と言ったエピソード。
真偽のほどはともかく、そのものずばり言わないなんて、と彼はその時思ったが、こうして自分がこの状態に陥ってしまえば、その言葉のありがたさがよくわかる。
出来る限り彼女の思いに応えられて、もし違った場合でも、言い訳が出来る言葉はこれしかないと彼は思った。
――よしっ!
上条は一か八かの勝負に出る。常盤台のお嬢様なら、この言葉が意味することは知っていることを信じて。
「月が綺麗だな」
何の脈絡もなく、降って湧いたような彼からの言葉に、美琴は一瞬きょとんとした。
(え? 月って、なに?)
彼女は咄嗟に月の在りかを探しかけたところで、思い出したのは今日の月齢。
花火のついでに月見でもと思い、今夜の月齢を調べたら、月齢21だったことを。そして月の出は夜10時過ぎだったはず。
だから今はまだ、月はまだその姿を現していない。なのになぜ上条は「月が綺麗だ」などと言ったのか。
思い当たる節はひとつしかなかった。彼女の脳裏に浮かんだのは、上条が知っているエピソードと同じもの。
だが美琴には、上条がそんなことを知っているとは思えなかった。
それでも確かに彼はそう言ったし、そう聞こえた。ならその言葉を信じようと彼女は思う。
なんとなく上条が自分のことを、気にしてくれているのだという感じがしていたから。
たとえその言葉が、そういう意味でなくたって構わない。彼はこうして自分の隣にいてくれている。
だから上条の気持ちはどうあれ、自分が彼のことを好きだという気持ちを伝えるのに、良い機会だと思った。
迷いがあったって、素直でなくたって、どんなに不安で怖くても、この言葉なら言えそうな気がするのだ。
高鳴る胸の鼓動を感じながら、美琴は精一杯の勇気を振り絞って、上条にこの言葉を伝えた。
「月が綺麗よね」
美琴はそう言って、震える手を、ゆっくりと彼の腕へと廻す。
もしこの手が振り払われたら、自分はこの先、どんな顔をして過ごすことになるのかと思いながら。
彼女の手が上条の二の腕に触れた瞬間、肘がぴくりとしたものの、彼はただ驚いたような顔で美琴を見つめているだけ。
ままよとばかり、腕を抱え込むように、美琴は抱きついた。
突然の彼女からのモーションに、戸惑っていた上条は、彼女がじっと自分の顔を見上げていることに気がついた。
街灯の明かりの下で上条が見た美琴の表情は、目を潤ませて本当に嬉しそうな笑顔に見えた。
打ちあがる花火の光が、彼女の瞳に映えて七色の輝きを魅せている。
なぜ瞳を潤ませるほどに喜んでいるのかまではわからなかったが、それでも自分の言葉が、彼女の心に届いたのは確かなようだ。
その時彼は、自分が賭けに勝ったことを悟った。
ならばいつものように、思いのままに突き進もうと決める。
美琴が恥ずかしそうに語りかけてくるのを聞きながら。
「ねぇ……」
彼は美琴の顔へと手を伸ばし――
「当麻の課題を手伝ったら……」
彼女の頬に手を添える――
「お礼に……」
美琴がそっと目を閉じて――
「デートに誘ってほし……」
上条はゆっくりと顔を近づけると――
「――ん……」
優しく――
――2つの影が1つになる。
この瞬間、一際大きな花火が、暗い夜空に大輪の花を咲かせていた。
去年の8月31日に上条と美琴が繰り広げた恋人ごっこ。
それが今年は、本物の恋人とのデートになりそうだと、唇に余韻を残しながら上条は思う。
美琴が彼にぎゅっと抱きついている。上条もそんな彼女を、しっかりとその腕に抱きとめる。
夏休みが終わるまで、あと10日。その間に片付けておきたい問題は山積みだ。
上条は、この最後の10日間を、心に残るような記憶にしたいと思った。
再び記憶喪失になったとしても、これだけは失わないような堅固な記憶になるようにと願いながら、彼ははっきり言葉に出して、この気持ちを伝える。
「――――好きだ。美琴」
鉄橋を吹き抜ける川風がひんやりと感じられて、上条は火照った頭を冷ましてくれるように感じていた。
花火大会もいつの間にか終わり、鉄橋上にいた見物客もすっかり引き上げてしまっている。
抱き合っているカップルに、ちらりと一瞥を投げかけるような無粋な視線も消えて、もはや人影も疎らになっていた。
後にはちらほらと見える、花火大会の余韻に浸っている恋人たちだけが残された。
そんな恋人たちに混じって、つい今しがたその仲間入りを果たした新入生が、互いの体温を感じつつきつく抱き締めあっている。
男は溢れるような恋心を、女はずっと秘めてきた想いを、ドラマティックな情熱とミステリアスな言葉で以って、強い絆へと結い上げた。
上条当麻と御坂美琴の恋物語は、この夏の夜にゴールを迎え、これから恋人物語としてのスタートを切る。
彼は腕の中で感涙にむせぶ、彼女の声を聞きながら、最前言われた妹達の言葉を思い返していた。
――お姉さまをよろしくお願いします。
上条にはこの世にいない妹達からも、美琴のことを託されたように感じられ、ちょうど地平から上りつつある月に向かって「必ず守るからな」とだけ呟いた。
~~ THE END ~~