参考書籍メモ

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有害図書と青少年問題〜大人のオモチャだった"青少年" 橋本健午著 明石書店 2002年発行




サブタイトルがこの問題の本質を表している。
あとがきの前までで472頁の、充実本。絶版なのが悔やまれる。
この内容で2800円は格安といっていいレベルだと思います。
復刊ドットコムで投票しているので一票いれませんか?

P47
昭和25年、岡山県で青少年保護育成条例が全国に先駆けて成立されたが
罰則は「十万円以下の罰金か科料」だった。この頃は、巡査の初任給が3991円。
著者の橋本氏が言うとおり「厳罰」だし、私はこの高額っぷりの底には、
米国における懲罰的損害賠償に近いような思想が流れているような気がしてならない。


P52
昭和25年以降、各地で成立する青少年条例を推し進める団体の一つとして、PTAについても言及。

”民論によって下から力が盛り上がる”のを待たずに、天下りに作られ
戦前からの学校後援会や父兄会・保護者会のカンバンを塗り替えたものが大多数
(宮原誠一著「PTA入門」国土社1987年)

ほとんど戦前に逆戻りして、有力者のみの団体と化したり、選挙の時に利用される団体
(昭和26年の朝日新聞の社説)


P65

昭和27年、NHKの「新諸国物語」を低俗番組第一号として槍玉にあげた西本三十二氏の言葉
このような番組は児童教育上有害である。

これに対する映倫・遠藤氏の言葉
子どもが喜び楽しんでいるものを、低級といい、俗悪と決めつける一部の有識者の独善性が、この際にもはっきり出ている
「映倫 歴史と事件」

橋本氏は
大人たちは、かつて"自分が子どもであったこと"を忘れ、"次代を担う""明日を築く"子どもたちを"人質"に、さまざまなメディアを対象に魔女狩りを行う。それに雷同する母親たちも、このような発言に臆面もなく喝采して、反省がない。これらの決まり切ったフレーズが、いつの世も無条件に繰り替えされるのは、なんでも"先送り"にしてきた日本人の国民性を表している。

と一刀両断にしている。

P71
昭和29年5月、中央青少年問題協議会(中青協)は全国的に「青少年保護育成に関する月間運動」を実施した。27、28の両日、都道府県青少年問題協議会と共催で「第二回全国青少年代表者会議」を総理大臣官邸で開いた。これは”青少年の正しいあり方を討議する機会を作り、社会および国家の適切な青少年対策の資とすること”を目的としたもので、全国の協議会が推薦する15歳から18歳の青少年代表男女各1名ずつのほか、中央・地方協議会の関係者が集まった。
青少年に悪影響を与える不良文化財の取締りが議題として取り上げられ、「出版物、映画、演劇、玩具などで私たちや私たちの友達に適当でないものが市中に氾濫し、これらによる影響はまことに大きいが、その実態はどうであるか、またどうしたら、その影響から害を防ぐことができるか」と提案され、討議の結果、不良文化財を取締る法規を要望する決議が行われた。


昭和29年の「青少年をかくれみのに大人の都合の良い結論を導く」というやり方は、
http://www.youth-cao.go.jp/guidance/index.htmlと重なるように思えてならない。
この「ユース特命報告員」は昭和29年の時とは違って、推薦といういかにも出来レースなメンバー選出方法ではないし、人数も桁が違うが、それでも要は「内閣府にとって、都合の良い意見」をこの300人のうち数人に言わせることができれば「青少年から上がってきた意見なんですが…」というふうにいくらでも化けうる。そういう意味で「公募」で公正を期したポーズをとり、「300人」という大量募集で積極的応募を促し、数打ちゃ(都合のよい思想の持ち主に)あたる(のだから、そういう思想の持ち主を積極採用すればよい)、という意図が背後に隠れているのではないか。
もっとも昨年度実績を見る限り、そこまであからさまなものは見あたらないようだった。だが、現在の実情がどうであれ「継続的に特定多数の青少年の声を聞く」というこのシステムが、いかようにも利用しうるものであることは事実だ。特に、今回、都条例改正をはじめとした表現規制を推進している人達にとっては美味しい仕組みだから、必ず目をつけてくるだろう。以下は私の憶測なのだけれども、おそらくこのメンバーには「今回、都条例改正をはじめとした表現規制を推進している団体に近い人」または「そういった団体に影響された思想を持つ人」が複数人入りこむ。そして、数年のうちに「そういった団体の思想を色濃く反映する施策」が「青少年からの提言による施策」と名前をすり替えられて「ほら、子どもの権利条約守ってますよ?当事者の青少年の声をちゃんと聞いた提言ですよ?」と得意げに提示される。そういった恐れさえもあると思うのだ。

もちろん「純粋に子ども・若者の意見が聞きたい」という意図もあるのだろうが、100%それだとは正直思えない。
それから、私は別に内閣府の批判が目的なのではない。なので、このような批判を回避…はできないが軽減できる一つの合理的な方法も合わせて提示しておく。人数制限をやめ、応募してきた全員の意見を聞き、選考という名前の内閣府基準のフィルターをかけずに全公開することだ。(よろしくお願いします)

話が本から離れてきたので元に戻す。昭和29年の話の続きになるが

もっとも、「このような立法は(われわれ青少年が)自らその自由を法規するものである」という反対意見もあり、中青協の関係者が「諸君の自由を束縛するものではない」と言明したため、一部の反対者も同調したという。

結局、反対意見を持っていた青少年も、大人に丸め込まれてしまったようだ。そして

中青協はこの決議を"根拠"に(略)「青少年に有害な出版物、映画等対策専門委員会」を設けた。同委員会は、青少年に有害な出版物、映画、玩具および紙芝居について調査し、(1)国民的運動の展開および啓蒙宣伝の方途、(2)優良な出版物、映画等の推奨の方途、(3)関係業界の自粛の方策、(4)特別の立法措置などについて検討することとした。
なかでも「(4)特別の立法措置」が、この協議会の真の狙いであると1955年版「映画年鑑」の執筆者は断言する。
元映倫の遠藤も、「模範青少年たちの純真な気持ちはわかるが、この会の裏には青少年保護育成の名目で、映画界を突破口に言論統制の復活を目論む、大人たちの黒い欲望が感じられた」と述懐している(「映倫 歴史と事件」)。

P85
新聞記事は、いつの時代も読者の情に訴えるように、大きな活字の見出しで読者をある方向へ導き、先入観を与えることが多い。

頷きすぎて首が痛くないですか?時間がない時、新聞の見出しだけチェックした経験、誰しもあるのではと思います。見出しをつける担当者と記事本文を書く担当者が違うこともあります。「本文はそれほどではないけど見出しがあまりにも…」ということも時々ありますし、見出しをつける担当者には大きな権限がありますよね。例えば時事問題の話題などで「知ったかぶり」しなくてはならない時、私たちは普通、新聞などのメディア情報を元に話します。その時には、どうしてもその見出しが最初の理解になるのです。いわゆる「強力効果説」のようなメディア影響論を私は否定しますが、メディアに全く影響力がない、とは思いません。先入観を持たせる、というのもその影響力の一つだと思います。

中青協専門委員の1人、取り締まり側の責任者、警視庁の養老防犯課長は、「いちがいに取締りや摘発が最上の策だとは思わないが、業者が青少年を悪い環境から救うという意味で反省を示さなければ、どうしても立法措置を講じなくてはならない」と含みのある発言をする。

この時代は、まだ今に比べるとかなりマシなことをいっている気がします。マトモとは思わないけど、今よりマシではないでしょうか。

一方、やはり専門委員の評論家松岡洋子は、「当局は不良文化財があるから犯罪が起きるという飛躍した考え方をしている。子どもが悪い道に入るにはもっと根本的な要素が沢山入りまじっている。大人たちが作り出した社会悪、当局が徹底的に取り締まらなくてはならぬことが大きく影響していることを忘れている。どんなよい社会でも、不良文化財はなんパーセントかはあるものだ。ごく少数のものを取締るために法律を作り、あらゆる文化財を取締ろうとすると、とんでもない行き過ぎを犯す」と反論する。

やはり、当時もこういう正論を言っている人がいます。子どもが悪い道に入るには〜のくだり、本当にその通りです。「悪い行為をかっこよく描いたマンガを読んだ精神的に未熟な者は、その行為を真似をする」という規制派の方は、ご自身が未熟だった頃に実際にそういう表現を見ては真似したい衝動と戦っていらっしゃったという経験をお持ちなのでしょうか?私はサスペンスとかホラーとかスプラッター映画とか、そういった類の表現が大好きですが、そのような衝動におそわれたことも実行に移したことも一度たりともありません。おおかた、規制派の方も「自分は実行したことはない(だがバカな奴は真似をする、そして大衆はバカである)」とでもおっしゃるのではないのですか。それは間違いです。バカだから真似をするのではありません。元々そうした「下地」があるからです。別に創作物に触れなくても、仲間内の話、あるいは報道された事件などが引き金を引くことも、よくあることです。「下地」がない人間は、どんな引き金に触れても何も起こりません。また、一見他人から見ればなんてことのない些細なことが引き金になることもあります。ですから、突き詰めて向き合っていかなくてはならないのは引き金ではなく、その「下地」のほうではないでしょうか。


P94
朝日新聞の「不良出版物の排斥」という寄稿文で、白鳥正宗(作家)は自らの幼少時代を回顧し、「読み物も芝居も大人物ばかりで、いんわいなものもあった。読んだものは大抵"不良書"」であったという。「何が不良書かというと、多分殺人行為冒険行為いんわい行為などを、むき出しに、あるいはおぼろげに書いたものであろうが、万物の霊長である人間も、こういう事には最も興味を感ずるのだから、傍からこれを撲滅しようたって、不可能であるはずで、クソ真面目にそんなことを考えている人間がバカに見えそうである」。そして「不良ものに興味を感ずるのは、少年期以来の人間の本性であり、そこに人間のはつらつたるものを認めるべきで、私などのように、不良記事や不良見せ物などに真のけんおを覚えるようになったのは、そこに人間としての心身の衰えを見るべきであろう」と(30年5月12日学芸欄)。

そしてこれは本当に深い。同時に皮肉に感じて笑ってしまった。


ついでに、ちょっとしたクイズをば。【  年】を元号で答えてください。

P291
1問目
親は子どもたちにどう接していたのか。全国教育研究研究所連盟の調査によると、「しつけまで学校まかせ/自信喪失の父増える/根底の仕事への不安感」と心許ない。(朝日新聞【  年】4月22日)つまり、「仕事への将来性に不安があるし、生き外も感じないから、子どもには仕事の話はしない。人間の能力は教育次第という確信から教育には熱心だが、家庭では子どもがどんなテレビ、マンガを見ていようと放りっぱなし。心身ともに成長の早い我が子を前に『家庭では手に負えません』と、幼稚園や保育園にしつけをお願いする」というのが平均的な家庭像だった。学校教育への期待は、「自学自習の習慣をつけてもらいたい」であり、幼稚園等へ預けるのは、「身のまわりのことを自分でするくせをつけさせたい」というものであった。
P304
2問目
「活字離れ」という言葉が生まれたのは【  年】ごろだが、それは大学生まで読んでいる”マンガ”に親しむ現象を指していた。(「特集/出版物と青少年」)
P309
3問目
「性にはドライ/東京の高校生/愛さえあればOKが45%も」(東京新聞【  年】8月30日)


答えは、
1問目:昭和45年
2問目:昭和50年
3問目:昭和54年

今の親だけが悪いように言っている人たち、そして
最近の青少年が昔と比べて「ひどい」と思っている人たちは、まず事実を見るべきです。



発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷-出版年表- 橋本健午著 出版メディアパル 2005年発行


1868年(明治元年)から2004年(平成16年)までの、社会の出来事と、出版物等の発行・発禁状況、流行語などを
年表形式で掲載しており、過去の事実の把握に適していると思った。
特に面白いと思った場所を少し紹介する。

昭和29年には「不良出版物の実態調査」として、警視庁防犯部少年課が高校3年生を対象に性雑誌を読んだ経験や、
その時の感想などを調査していたそうだ。

「親は読んでいる事実を知っているか」の問いに「知らない」「知らないと思う」あわせて65.1%もあるのは
できるだけ隠れて読もうとしているからであり、家庭も子どもに無関心、放任していることが原因と分析されている。

引用文中の下線は筆者が引いたもの。
規制派の考えの底にあるのは、昔も今と変わらない「親がちゃんと役割を果たさないから代わりに権力が介入する」
というパターナリズムのようだ。

昭和33年の項目には戒能通孝都立大教授(法学博士)による"青少年条例は違憲"とする旨の論文「刑罰による青少年
保護に反対する」『新聞研究』(1958・06)の紹介がある。

「有害物は法律によって一掃できるものではなく」現行の青少年条例は「どの条例も立法技術的に欠陥だらけで
あり、罪となり得ないものを罪とするだけでなく、有害物の認定を無条件、無制限的に一行政機関に任せている
という事実だけ顧みても、それ自体、憲法第31条のいわゆる"法律の定める手続き"に違反する違憲立法である」
と断定し、青少年の不良化を防ぐ道は、「都市的生活の訓練がなるべく早く家庭内で形成されることに
よってのみ解決される課題である」と論ずる。(中略)
また「世の中の性急な人々は、ともすれば違憲か否か、実行できるか否かにおかまいなしに、無理矢理に条例・
法律を制定し、その人が有害と認めたがるものを、権力・警察力によって一掃したがっているようである。だが
それにもかかわらず、ことがどれほど便利であるにせよ、刑罰は"一殺多生"のためにつけられるべきものではない」
と、"法の下における平等"の精神をないがしろにしてはいけないと説く。

初めて見た時には目を疑った。(これが昭和33年?という意味で)
最近書かれた文章だと言われても、ほとんど違和感がないと思う。50年前からこの問題の本質的構造が変化してい
ないことを改めて思い知らされた。
後半の「都市的生活の訓練」という言葉には、個人的に賛同しかねるが、その後に続く「家庭内で形成されることに
よってのみ解決される」という部分は、このことが基本的に親と子の問題であることを示しており、現代においても
そのまま通用すると思われる。

昭和35年の項目には刑法・刑訴法が専門の佐伯千仭京都大学法学部教授が、図書の有害指定に関し「刑法からみた
青少年条例」『マスコミ倫理』(1960・2・25)で述べた文章の紹介がある。

行政官たる知事が、同じく行政上の諮問機関に過ぎない審議会の一応の意見を聞いただけで、実際においては
属僚の判断に従って基本的人権たる言論、出版の自由を大幅に制限しうる」ことに疑問を投げかけ、「問題は制限
する機関が裁判所その他の司法機関でなく、行政機関であること」といい、「処分によって不利益を受ける人の十
分な言い分、申し立てが聞かれないで、一方的に処分されることになりやすい」ことを指摘している。

同じく最近書かれた文章だと言われても違和感がない。
50年にわたり、この問題が「そのまま先送り」されてきたことを示していると思う。

ちなみに佐伯千仭は、あの前田雅英の論文『可罰的違法性論の研究』において「佐伯千仭が提唱して藤木英雄が発展させた
可罰的違法性の概念は曖昧である」と批判された人物でもある。



ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で キャサリン・マッキノン著 明石書店 1995年発行


実はこの本、読みかけて中断したのだ。何故中断したかというと割と頭のほうに出てきた

『ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。
やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、
そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。

このくだりでもう先を読む気が失せたからだ。しかし放置していても埒があかないので再開して、なんとか
読んだ。読んで、思ったことは色々あるのだが、まずは
「男性」と「女性」を対極に置いて、「支配する側:される側」「加害者:被害者」といった二元論で
論じることは、果たして実情に即しているのかどうか、疑問に思った。
私は、そう単純な二元論では論じられないと思う。二元論は、現代においては硬直化しすぎた理論だと思う。

また、マッキノンが生きている環境と、今の日本で普通の人が生きている環境との違いが極めて大きい
ということも気になった。

アメリカでは女性の38%が子どものころ性的虐待に遭い、24%が夫に強姦されている。半分近い女性が
人生で1度は強姦または強姦未遂の被害者である。そして多くの女性(とくに有色人女性)は、2回以上強姦、
強姦未遂を経験し、多くの場合加害者男性の数は複数で、ほとんどの場合知り合いの男性である。外で働
いている女性の85%が雇い主からのセクシュアル・ハラスメントに遭っている

以上がマッキノンがこの理論の前提条件にしている環境。彼女は、こういう前提で理論を構築している。
この環境は、平均的日本人からすると、明らかに異質で想像を絶するものだと思う。さらに

実証によると、すべてのポルノグラフィは性差別状況の中で作られる。つまり、その圧倒的多くが、貧困
で、絶望した、ホームレスの、ポン引きに支配された女性を使って作られている。彼女たちは子ども時代
に性的虐待を受けている。(略)このような性差別状況の下では、自由が提供されているのではなく、
「選択」が強制されているのである」(*付記1参照)

日本でも、例えば借金のカタに闇AVに出演などという人身売買まがいな事象がゼロであるとは思わない。
もちろん、そういったことは人権侵害であり許されない。けれど、ポルノの一部がそうだからといって、広い
意味でのポルノ的なもの全てがそうであるかのような一方的な決めつけ理論は妥当でなく合理的でないように
思う。例えば、この本からは外れるけれど以下の引用のように、マッキノン理論では現実にそぐわない説明
しかできないからである。

http://www.lifestudies.org/jp/rinri.htm
キャサリン・マッキノンが京都の研究会で発表したときに、日本のレディースコミックを女性たちが買って
ポルノとして使っているのをどう思うかと質問したところ、マッキノンは、「女性向けのポルノというのは、
実は男が男向けに作っているのであり、その読者の九九%は男である」と答えて、会場にいた者を唖然とさ
せた。ご存じの方はご存じだと思うが、SM的な描写のとても多いレディースコミックは、その書き手のほ
とんどはかつて少女マンガを書いていた女性であり、コンビニ等で購入して支えているのも女性が多い。


(*付記1)
「ポルノグラフィと性差別」(キャサリン・マッキノン+アンドレア・ウォーキン著 青木書房 2002年)も
同時に手元に置いて読んだのだが、その中では

ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どものときに性的虐待の被害者であった。いくつかの研究
が示しているところでは、売春とポルノグラフィにおける女性たち(両者はこの女性集団にとって相互に重な
り合う経験である)の65〜75%が子どものころ性的虐待を受けた経験がある(たいていは自宅で)。ポルノグラ
フィと売春に従事している女性に社会的サービスやカウンセリングを提供するために働いている人々(その一
部は、自分自身がかつてはポルノグラフィや売春に従事していた)は、このパーセンテージはもっとずっと高
いだろうと考えている。」と書かれている。

以下は、本の感想ではなく、私がマッキノンの考え方に対して思った「余計なお世話」なのだが、こういう考え
方に感情レベルで共感すると生きづらそうだなあと。
マッキノン本人は、あくまでも理論として展開をしているわけで、数々の悲惨な事実は、その理論を支えるため
の事実でしかない。あくまでも理論だから、感情レベルでは物事を語っていない。だから、おそらく生きづらい
なんて微塵も思ってもいないと思う。けれど、その理論は、理論的であると同時に、とてもショッキングで感情
に訴えかける理論とも言えると思う。マッキノンの考え方を読んだ人が、感情的ショックを始発地点として理論
に共感したら、とても生きづらそうだと思った。
まず、先ほどあげた「ポルノグラフィと性差別」にはこのような記述がある。

『プレイボーイ』(筆者注:雑誌のこと)は、その文章と写真の両方を通じて、レイプを奨励している。
『プレイボーイ』は、とりわけその漫画の中でレイプと子どもの性的虐待を奨励している。」

雑誌「プレイボーイ」の販売部数がどれだけあるのかは知らないが、通算すれば相当の部数であることは間違いない。
こういった「メディアが犯罪を煽っている」という考えと、冒頭で述べた

『ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。
やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、
そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。

この考え、2つを、もし感情レベルで真実であると思っていたら、恐ろしくてとてもじゃないけど外を歩けないし、
男性不信にもなる。しつこいけど、きっとすごく生きにくいんじゃないかなと。いやほんとに、ただの余計な
お世話なんだが。



大人問題/さらに大人問題 五味太郎著 講談社 2001年/2005年発行


子どもの問題は、大人の問題なんじゃないの?という一冊、いえ二冊。
肩の力を抜いて読める本だけど、結構鋭い指摘があってドキっとしたりする。
構成が上手なことも手伝ってか、つい先へ先へと読みたくなって一気に読破した。
青少年条例との関係があるのは、まずここ。

選定図書とか指定図書とか、あるいは課題図書なんて辛気くさいものが、子どもをとりまく
書籍文化の中にたくさんあります。教科書は検定図書です。有害図書という視点もあります。
子どもたちのためによい本を、あるいは害のない本をということなのでしょうが、それは大
きなおせっかいというものです。いつどこでどんな本に出会うかというスリリングさが本の
命ですし、それが有益か無益か、有害か無害かは、まさに読書そのもののお楽しみなのです。
そこのところをまったく知らない大人、つまりあまり本が好きではない大人が子どもの本の
世界をめちゃくちゃにします。

その通りだと思う。有益か無益かも個人によって違うし、有害か無害かも一律化はできない。
例えば、親が子どもに対して「私が許可したものから選んで読め」というくらいなら「過干渉
な親」で済むが、行政がやるのは「法的強制力を伴ったおせっかい」だろう。しかも、ひらが
なしか読めないような小学校1年生に対しても、既に大人に限りなく近い17歳に対しても同じ
基準を適用して「有害だから読むな」というのだから、もう何というか...。
私も余計なおせっかい好きだから、あまり他人のことを言えないのだが、それでも個人の
おせっかいとは次元が違う。

出版社と広告代理店が書籍の売り上げアップをはかって計画したのが課題図書、作文コンク
ールだという事実、ご存じでしたか。

知らなかった。個人的に、課題図書は面白くないので真面目に買う気にならず、本屋で斜め読み
して適当に「大人が望みそう/喜びそうな感想」を書いていた。別に感想文に限らず、作文の類は
だいたい本心ではなく先生の視点を想像して、どう書いたら高く評価されるかを分析して書いて
いた。そんな私は、先生受けがやたら良く優等生認定されていた。我ながら、嫌な子どもだと思
うけど、子どもって多かれ少なかれみんなそうなんじゃない?とも思う。それこそ(乳幼児期は別
として)子どもって、そんなに純粋じゃないし、子どもながらに打算だって働くし媚だって売る。
もちろん、子どもならではの素直さも持ち合わせていたとは思うけれど、決してそれだけじゃな
かった。だから、子どもを「守るべき、美しい存在」として絶対的に美化/理想化するのは現実に
そぐわないと私は思う。

「人それぞれの事情がある」ということを、これほど無視する社会も珍しい。また、人それ
ぞれの事情を社会の事情にすぐ置き換える人がこれほど多い社会もまた珍しい、そんな気が
します。

特に前半についてそう思う。30歳を過ぎて独身の女性や、定職についていない人に対しての悪意
ある形容を見てると本当にそう思う。「従来の多数派」「タテマエ通りの規定コース」と違う人が
そんなに気に入らないのかなあと思う。本来は、いろんな人がいて当たり前。人の数だけ人生は
あるわけで、みんな同じ線路の上を走るような生き方をする社会なんてむしろおかしい。

こういう短いパラグラフで構成された本なので、あまり長々と書くのはやめておくことにする。
ところで、この本の中にも、ミシェル・フーコーが少し出てきた。私はフーコーに関しては浅く
表面的な知識しかない。だが、最近ふと話にでてくることが数回あり、もっと深く知りたくなっ
た。重そうだけど面白そうなので時間を見つけて読んでみようかな。








最終更新:2010年11月25日 22:13