僕は昔ニートだった:その2

本題に入る前に自己紹介を。
N県の山間地に生まれ、小・中・高と地元に育った私。
特技はスキー。だって、毎年来る豪雪の中、スキー以外することが無いんだもの。
趣味が高じて大学まで競技スキーをすることに。大学はTUAという大学。属にT大という(嘘)
理系の学科だったんだけど、自分の興味とぴったり合ったのか勉強もさほど苦にならず、単位取得に苦労する同期を尻目に大学3年の前期(7月くらい)には卒業単位をクリアしてしまった。この年代、体育会系の部活にいる人間のなかで一番早かったらしいですね。
体型:ちょっとデカい
性格:のんびりとしていてかなり抜けている
夢 :地元に戻ってのんびり暮らす

では本題。

アレは大学三年の秋。就職活動に向けて始動した頃です。
と言っても大学の学生課と言う部署があってそこが就職支援してくれるんですけど、その学生課の窓口に通うようになったという程度。

冬になれば私はスキー部に所属していたので学生課に通うどころか、大学にさえ近寄らない生活に。
結局その冬に大学に行ったのは試験前の二週間と試験期間だけでした。もちろん就職活動なんて・・・

春。まるで就職活動が終わったかのように卒業論文に取り掛かった私はその後7月まで全く就職活動に手を着けず、卒業論文は何とかめどをつけました。
当然、この時点で何人かの同級生たちは内定を獲得していたんですけど、私はここまで就職活動らしいことは全くなし。

営業職は嫌だし、技術職はすでにほとんどが決まってしまっている。総合職なんていう言葉は何でもやらせると言うことだし、さてどうしたものか。

就職しないことにはその後の生活も成り立たないし、周りに申し訳も立たない。とりあえずで悪友と二人で片っ端から説明会に出てみました。

ここでやっとわかったんです。就職氷河期って、こういうことを言うんだと。

説明会に行って感じたことは、説明会に出ている会社のほとんどは新たに社員を雇う気が無い。ただ主催者に頼まれてその場にいるだけ。

中には社員を雇う気がありそうな会社もあるが、全部最初に「嫌な会社リスト」にあげた会社ばかり。

食わず嫌いしていたのでは就職は出来ないので、とりあえず話を聞いてみることにしました。
一社目:初任給手取りで10万円以下。会社も傾き加減で危ない
二社目:将来有望そうな会社。ただし給料は安いし、したい仕事はその会社に無い。
三社目:アウトソーシングとか言ってごまかそうとしているのを感じたのでパス
四社目:給料はいい。福利厚生しっかりしていそう。ただし、募集職種は営業のみ。

また出直すか、と思っていましたけど、三社目と四社目の会社から後日もう一回会わないかという打診があったので、四社目のほうに行ってみました。
三社目はパスです。

一応役員面接と言う形をとっていましたけど、ほぼ内定だそうです。この会社はヤマケーとしておきましょうか。会社のイメージはあいまいなところがあるけど、内定を取ったし、人事担当者ギバちゃんもわりかしまともそうな人なのでこの会社でやってみようかな、と決心しました。このとき私は「先物」と言うものが何なのか知らなかったんですけど、先物取引の営業の仕事らしいです。

ただ・・・面接のとき役員が言った「うちの会社は"超”が付くくらい体育会系だけど、だいじょうぶか?」の一言が引っかかっていましたが・・・

7月にめどをつけた卒業論文も9月に形が出来、バイトにバイトにバイトとふらふらしながらも12月初旬には研究室の助手からOKがでて、晴れてフリーの身となりました。

12月にまたヤマケーから電話が来て、「忘年会をするから来ないか?」と。
行ってきましたよ。片道380Km移動して。

何のことは無い、ただ飲んで終わり。なんだか普通そうな感じだなとこのときは思っていましたが・・・

1・2・3月とあっという間に大学最後の季節が過ぎ、無事卒業した私はヤマケーの支社のあるS県U市に引越しをしました。

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最終更新:2008年07月29日 22:06