アスティの、家と呼ぶのも烏滸がましいような、それでも暖かい生活の巣である、六畳一間のアパート。フィンをほとんど横抱くようにどうにかこうにか。ホナの城から帰って来たアスティの道行く先、アパートの前に、タクが佇んでいる。
 その、双眸だけではない。全身から匂い立つような怒りは、しかしアスティとフィンに向けられているものではない。駆け寄ってくる。
「無事か」
 道すがら、フィンに離してはいた。しかし少年はタクの姿を見上げただけですべてを諒解したようだった。アスティが手を回すフィンの身体が、切なそうに蠢く。
「――兄さん」
 見上げる。駄目だ、とフィンは思ったろうか。一瞬堪えたように見えたその瞳から、大粒の滴がこぼれ落ち、彼をかき抱くアスティの腕にまで染みこむよう。売られ、遠い異国で流されるままに得た、愛する人。彼女に申し訳ないと見上げるが、アスティは許すように微笑んだ。
「兄さん、兄さん……! どうしてこんな、こんなところ……!」
 崩れ落ちるようにタクの腕を掴む。つい先ほどまで瘴気に捕らわれ、疲労の極みにあるだろうフィンの身体は、だがそれ故に強い力でタクの腕を締め付けた。
「……良かった」
 泣いてしまうだろう、とタクは思った。しかし、涙は零れない。フィンの無事な姿に深い安堵を覚えたのは間違いない。しかしそれを喜ぶよりも先に、彼は自らの無力を責める。
 回されたアスティの腕と、一瞬の視線の交錯。それで、察してしまった。以前の彼なら、分からなかったかも知れない。それはそれで幸せだったのかも。しかし、タクは知ってしまっていた。細やかな情愛、男女の繊細な感情の交流を。
 フィンは、もう此処に居場所を得ていたのだ。自分は、何と愚かな道化だろう。
 ならば自分の役目は、もうこれ以上、この場を荒らさぬことだと。
「フィン」
 その名を呼んだ。そしてタクは手を持ち上げ、短刀を閃かす。アスティが、面食らったように小さな声を上げた。断たれたフィンの触覚が、タクの手の中に落ちる。
「……え?」
 痛みのせいか、アスティの腕の中でフィンの身体が重くなる。
「フィンっ!?」
 アスティの声に、フィンはタクの顔を見上げるだけ。兄の額には、揺れる触覚。それは、魔族の血の証なので。
「お前にはこれは要らん。俺も、片付いたら切り落とす。……母さんも、許してくれるだろう」
「え…………」
 フィンの声は、か細く。アスティの腕の中で力を失っていく。タクは、弟の触覚を掌に握り込み、フィンの手をそっと外して離れた。
「あなた……」
 タクの双眸に浮かぶ怒りに、アスティの遠慮がちな声は響かない。その言葉を引き金にしたように、タクはす、とフィンの横をすり抜けた。
 少年は、兄の姿を目で追うこともできない。身じろいで、痛みに身体を震わせ、アスティの腕からこぼれ落ちてへたり込む。
 フィンに気を取られ、アスティが振り向いたときにはもう、タクの背中は遠く小さくなっていた。

 弟の不幸を夢想し。兄は遠い道のりをやって来た。弟の為に。弟を救いに。嗚呼何と甘美な陶酔か。自分が他人の為に何かをしてやれるという幻想を懐中にしかと収め、タクは歩き続けてやって来た。故郷も、生活も、自分の楽しみも、あらゆるものをうち捨てた。それが自分の人生だという、信仰にも似た甘い諦めに背中を押され、つま先を引っ張られて。
 しかし幻想に過ぎないと。弟は自分の幸せを見つけて宜しくやっていますよと。そう、夢を晴らすのはいつだって残酷な現実なのだ。愚かな賭に、しかし払い込んだのは自分の人生だけではなかった。自分の志に、巻き込んだ人がいる。
 いま思えば幻想が晴れてしまえば、どれだけ愚かなことだったか途方もなく。弟が不幸であるから助けに行かねばという幻想を確認するために、彼女をその弟が陥っていると思っていた地獄へ叩き落としていた。
「……チヤロ」
 その名を呟くことすらいまの彼には冒涜に思える。自分の残りの人生すべてを賭しても、この広大なるクレディウムで彼女の影すら見つけることが出来るだろうか。
 タクは気づいている。フィンに対して抱いていた不幸の妄想を、今度はチヤロに転化しただけではないかと。それでも構わない。フィンという幻想が砕けたいま、タクはようやく、自分の心中を覗き込むことが出来たのだ。
「……お前を助けるのは、お前の為じゃない」
 そう呟いたタクの心中はいかばかりであったか。責任を取る? 違う。会って謝る? それも違う。
 旅の果てにクレディウムの大門が見えたとき、タクは確かに思ったのだ。一瞬だけ、すぐに首を振って打ち消したのではあるけれども。
 もう少し、こいつと居たかったな、と。