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■創建~平安時代
古事記・日本書紀には第十一代垂仁天皇(紀元前69~70年ごろ?)の皇女によるとも書かれているが伝説にすぎない。
内宮:不明(伝 垂仁天皇26年)
外宮:不明(伝 雄略天皇22年)
正宮正殿の建築様式:唯一神明造

7世紀に持統天皇が式年遷宮を始め、天照大神という天皇の祖先を祀っていることから
平安時代を通しては皇室以外の参拝は禁止されていた。

■伊勢神道の成立
鎌倉~南北朝時代、朝廷の力が衰微したことで、伊勢神宮の外宮内に祀られていた食物・穀物の女神豊受大神(トヨウケビメ)の方が
天照大神より偉いんだから、これからはトヨウケビメをメインで祀ろうという考え方を外宮の禰宜(神官)だった度会さんが
言い出し始める(伊勢神道のはじまり)

この間も粛々と式年遷宮は続いていたが、戦国時代になると、流石に無理になり、式年遷宮は中断。

■伊勢講の始まりとお伊勢参りブーム
16世紀~17世紀、完全に忘れ去られつつあり、財政難に苦しんでいた伊勢神宮だった、が

神官A「外宮に祀られてるトヨウケってさー、食物、穀物の女神だよね」
神官B「うんうん。」
神官A「これからはトヨウケを前面に押し出さない?」
神官B「なんで?うち皇室の祖先のアマテラスがメインじゃん」
神官A「いやいや。アマテラスがメインなままじゃもう稼げないよ。
アマテラスがメインだったら皇室しか参拝に来ないし、朝廷はお金ないだろ。
トヨウケが丁度穀物の女神だし、神仏習合でいうと稲荷大明神と同じだからさー多分ポテンシャルあると思うんだ。、
一気に農民のみなさんに来てもらうのよ。」
神官B「そりゃわかるけど農民はみんな金ないし、うちの神社結構辺鄙なところにあるからそう上手くいかないよ。」
神官A「いやいや、そこでまず伊勢神宮のファンを増やして、ファンの皆さんが積み立てしあう仕組みつくる。
最近神社ブーム(中世は現世に嫌気をさした人達の参拝がブームとなった)だし
街道整備されてきてるから(五街道の整備)昔より旅行しやすいし、なんだかんだで昔よりみんなお金持ってるから
(後醍醐天皇から織田信長、秀吉に至る各大名・商人の重商主義政策が効を奏して貨幣経済が浸透した)
、農民たちもお金さえなんとかなればいけると思うんだ。」
神官B「そうだな。今のままだと少しずつ貧乏になるし、色々やってみた方が良いな」

そうして、お伊勢参りとして数百万人を動員することになる「伊勢講」の始まりです。
信者たちで伊勢神宮へ参るための積み立てグループ(=講)が各地で結成され、旅行も兼ねて伊勢参りに行きたいという運動が
起こります。お伊勢参り観光案内書が出たり、伊勢神宮に参ることは一種のステータスになっていたようだ。

最大で以下のような動員数を記録。
1705年4月~6月 330万~370万人
1771年4月~7月 200万人
1830年3月初~8月末 :427万6500人
(当時の日本の人口が約3000万人だった)

すっかりアマテラスは過去の神…。やっぱりトヨウケという感じだった。

■明治~現代へ
時は変わって明治維新。

M天皇「大政奉還してもらったはいいが、朕ってマイナーだよな?民衆は天皇のこと知らないみたいだし」
大臣A「そうですねー。なんとか知名度アップしていかないといけないんですが・・・」
大臣B「そういえば伊勢神宮ってあるじゃないですか」
M天皇「うちのご先祖様のアマテラスが祀られてるやつね。でも行ったことないからよく知らないんだけどねー。
で、それがどうしたの。突然。」
大臣B「ひらめきました。民衆に人気の伊勢神宮利用しない手はないっすよ。(ニヤリ)」

ということで、明治政府は天皇が伊勢神宮の天照大神の子孫であることを前面に押し出し、
伊勢神宮を最高位の神社として権威付けに利用しました。
民衆に大人気の伊勢神宮に祀られている天照大神の子孫こそ明治天皇であり
、天照の子孫であるから天皇は現人神であるとして祭政一致的体制が整備された。
第二次大戦後も、神社の別格として最高の地位であることは続きます。

伊勢神宮はこのようにもっとも権威のある神社なり、式年遷宮は絶えることなく続き、
常に多くの参拝客で賑わう人気スポットとなっている。

簡単にいうと
起源
垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をした。
倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国、伊勢国の順に移動し、
伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮と言う名で鎮座した。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と
呼ばれているが、記紀神話に従った伝説であって、考古学的資料に基づくものではない。

古代
皇室の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止された。

中世
朝廷の衰微に伴い皇室にとってのみの氏神から、日本全体の鎮守として武士たちから崇敬された。
神仏習合の教説において神道側の最高神とされた。また、外宮側の度会家行より伊勢神道(度会神道)が唱えられた。
戦乱の激化により神宮領は侵略され、経済的基盤を失った神宮は衰微して、式年遷宮は停止せざるを得なかった。
神宮の信者を獲得し、各地の講を組織させる御師が台頭し始める。

近世
お蔭参りが流行した。多くの民衆が短期間の間に神宮に押し寄せた。

近代
明治政府により国家神道の頂点の神社として位置付けられた。
第2次世界大戦以後は神社本庁により、全国神社の本宗と位置づけられた。
現在、内閣総理大臣が1月4日の仕事始めに参拝するのが慣例となっている。



本稿では今回訪れる内宮の祭神を取り上げる。



伊勢神宮内宮の祭神は天照大神である。大日孁貴神 (おおひるめのむちのかみ)とも呼ばれるほか、伊勢神宮では天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)といわれている。「古事記」によると、黄泉の国からイザナギが帰ってきて、穢れを落としたときに生まれた三柱の神の一(他の二柱はツクヨミ、スサノオ)
にして、高天原を治める神。太陽の神でもある。また、天皇家の祖先(皇祖)たる神の一つとされる。このように、天照大神への信仰はは日本民族(本稿では日本国に住む民族を便宜的にこう呼ぶ)にとっては祖神としての信仰と、世界中に存在する物と同様な太陽神信仰という二重の意味を持つ。
太陽神としての側面では天岩戸のエピソードは有名であり、このことによって起こったことは農作物の不作も含まれており、天照大神の豊穣の神としての側面がうかがえる。
一般には女性神といわれているが、それを推古天皇即位をスムーズに行うための蘇我一族による捏造とし、男性神であったとする説も存在する。たしかに高天原でスサノオを迎撃する時に武装するなど、男性的な一面も神話に記述されており、軍事を象徴する神という側面も持つ。。しかしながら、日本が農耕社会で女系社会であることや日本書紀においてスサノオから「姉」と呼ばれているなどの事項からすると女性神説の方が有力であるといえる。
日本書紀によると天照大神が現在の形になったのは698年(皇大神宮創建*1)のことで、これを機会に「天皇家の祖先神」としてのアマテラスが確立され、持統天皇をモデルとして自然神
から人格神へと変更された。この前までは「大日孁貴」(おおひるめのむち)などとよばれ、太陽神としての性格が強かった。

さて、内宮にて祭られる神は主祭神であるアマテラスのほかに、天の岩戸からアマテラスを引きずり出した天手力雄神(アメノタヂカラオ)と天孫降臨をおこなった神である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
の母神、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)がまつられている。天手力雄神は肉体的な力を象徴する神で、スポーツの守護神としても有名である。一方、栲幡千千姫命はアマテラスの息子の嫁で、
名前は機織や織物と関係するものである。

6世紀後半の壬申の乱に勝利した天武天皇とその妻・後の持統天皇に
よって、朝廷(政権)とは相対的に独立した、新しい国家理念を
象徴する国土と国民の守護神として創立された。

伊勢神宮の前身となるものは遅くとも推古朝(592~628年?)
には存在していたと考えられている。

壬申の乱を成功させた大きな要因は伊勢神宮によるもので、
壬申の乱が成功した暁には伊勢の神を天照大神としてあがめまつる事を
神に誓ったのである。この誓約によって天照大神が出現したとされている。

壬申の乱の後の674年、大来皇女を斎王として伊勢に派遣した事を
もって伊勢神宮の創立とする意見が多いが、天武天皇の死後に起きた
大津皇子の変に関連して、大来皇女は斎王を解任されて都に戻ると
いった内容の文章が「日本書紀」に書いてあり、その文には、
「伊勢神祠」と書かれており、もはや「神宮」では無くなっていた。
つまり伊勢神宮を日本の天の神としてまつる天武天皇の誓約も破棄
されてしまったのである。

そのために天武天皇の妻であった持統天皇がその意思をついで、698年
多気郡多気にあったとされる伊勢神宮を度会郡宇治に遷し、天照大神を
祀る唯一最高の神社として創立した。これが今の「伊勢神宮」であり、
これをもって伊勢神宮の創立とする考えもあるようだ。


伊勢神宮の門下町について
おはらい町について
定義:内宮の宇治橋のたもとから五十鈴川に沿って続く約800mほどの参宮街道をいう。
歴史:江戸時代に建築され、妻入造の街並みができあがる。当時は「御師」(一般に「オシ」と読むが伊勢では「オンシ」と読む)と呼ばれる全国に伊勢信仰をひろめた人たちの家が立ち並びんでいた。彼らははるばる伊勢に来た参宮客をおはらい町の屋敷に泊め、神楽を奏し、おはらいをして参宮客に「お礼」を授けた。これが「おはらい町」の名前の由来である。時代が変わり、御師たちの家は次第に参宮客に憩いの場を提供するお店へと変わっていった。戦後、近代化が進み、電柱が立てられ、道も舗装された。しかし当時の街並みの保存を願う地元の人たちは、「赤福」の資金協力でついに平成元年、「伊勢市まちなみ保全条例」制定に成功した。のちに電柱は撤去され、道路は石畳にし、店頭は、銀行も魚屋の薬屋も外装を修理し、江戸時代のまちなみは復活したのである。
現在の様子:主に土産屋と伊勢名物のサザエ、大アサリ、伊勢うどん、てこね寿司、赤福餅
      などを提供する飲食店が並ぶ。もちろん江戸時代の街並みである。
おかげ横丁について
定義:新橋の通りの終点付近にある広場をいう。
歴史:赤福誕生300周年にあたる平成5年7月にできた。
名前の由来:赤福が創業場所で300年やってこれたのは「お伊勢さん」のおかげであるこ
      とと、江戸時代後期から明治時代初期に伊勢参宮を「おかげ参り」と呼んでい
      たことから。
現在の様子:レトロな商品を売るお店や歴史館などがあり、レトロな雰囲気を味わえる。

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最終更新:2008年09月10日 23:23