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「あなたの眠りの暗闇に」(2011/02/17 (木) 18:05:32) の最新版変更点
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「知ってる? この間の事件」
「北斗町の辺りで起こった事故でしょ」
「……事故じゃなくて、殺人事件らしいよ」
「殺されたの? 事故じゃなくて?」
「それって、ハハオヤが隠そうとしてるらしいよ」
「なんで?」
「知らないよ。でも、そのおかげで自分がなんで死んだか分かってもらえないのがくやしくて……。
だからさ、出るらしいよ。こんな雨の日に……」
「ウソ……」
「バレー部の先輩も見たって」
「どうだったの?」
「泣いてたって。
雨の中、傘もささずに泣いてる女の人がいるから、
なんだか嫌だなーと思って遠回りしていこうと思ったんだけど、いつのまにか泣き声がだんだん大きくなってきてて、振り向くとそこにっ……」
「ヤダ、おどかさないでよ……」
「でも、なんだかカワイソウ」
「やめときなよ、そういうの。よくないんだよ」
「どうして?」
「同情するとね、連れてかれちゃうんだよ。この世に未練のある、寂しい幽霊に」
教室の扉は少し開いたままで、まだ廊下にいた僕は、そんな話声を聞いていた。
僕は扉に手をかける。古いせいか少しきしんで、中の声がぴたりと止まる。
扉を開けると、中には女子が数人残って机を囲んでいる所だった。
「あ、ナオキ君……」
その内の一人が、驚いたように言う。
「忘れ物、取りに来ただけだから。
なんだか話の邪魔しちゃったみたいで、ごめんね」
僕がそう言っても、彼女達はイタズラをした子供が見つかった時みたいに、僕と目を合わそうとしない。
下を向いて、なんだかやりにくそうにしている。
別に悪いのは彼女達の方じゃない、話を立ち聞きしていた僕の方なのに。
なんだか嫌な気分だった。悪い事をした方が、かえって気を使われている感じ。
あまりこんなところに長く居たくない。僕は自分の机から忘れ物を取って、さっさと教室から出ることにする。
そして開き戸に手をかけた所で、また後ろから彼女達のささやき声が聞こえた。
今度は聞こえないように、後ろ手でちゃんと扉を閉め切る。
……それでも、彼女達が言っていた話は、僕の頭からなかなか離れてくれなかった。
『こんな雨の日、北斗町で殺された女の幽霊が出る……』
下らない話。そんなの、悪いウワサに決まってる。
それなのに、僕はその場所にいた。
何を期待しているのだろう。
僕の目の前の道沿いには、頭上を覆い隠すほどの木が生い茂っていて、それが延々と続いている。こんな雨の日は見通しが悪いから、人も車もめったに通らない。
雨と風は段々と激しさを増して、頭上の木々を揺らす。黒い影がバサバサと揺れる様子は、髪を振り乱した生首が揺れてるようだ。
……僕は頭を振って嫌な想像を打ち消そうとする。
あのウワサが嫌な事を想像させるのか、こんな場所だからあんなウワサが語られるのか、それがどちらかなのか、僕にはわからない。
横殴りに叩きつける雨が、傘を持つ僕の手を濡らしてゆく。僕はここに居る事を、段々と後悔し始める。
こんな場所、長く居るもんじゃない。この場所は、暗く、寂しい。
そんな事、ある筈無いんだから。早く帰るべきなんだ。
突然、森からの風が強くなり、僕の傘を奪う。僕は慌てて傘を追う。地面に落ちた傘を拾って、さし直そうとした時、少しだけ持ち上げた傘の下に、学校指定の靴が目に入った。
僕はその靴から、目を離せない。だって、さっきまで誰もいなかったはずなんだ。
降りしきる雨の底から、何か別の音が聞こえる。
傘に大粒の雨がぽつぽつ当たっている音に混じって、息も絶え絶えに、苦しそうな、しゃくりあげる声が聞こえてくる。
声にならない声は、だんだんと大きくなっていた。
……泣いている。
思い切って、僕は視線を上げた。
そこに、制服を来た女の子が立っている。
両手を顔に押し当てて、うつむきながら泣いていた。
ずっとそうして、雨に濡れるのもかまわずに。
長い髪が両手からこぼれて、涙の延長の様に雨が伝っていった。
僕には彼女がかすんで見えた。
それは比喩じゃなくて、僕の目の前に突然現れた彼女は、その体の向こうに景色が透けて見えている。
それなのに、なぜか雨は彼女に当たって、その体をますます冷たくさせているように思えた。
だから僕は、彼女に傘を差し伸べた。
一つの可能性を信じながら。
「姉さん、なんだろ……」
「……ナオキ?」
僕の声を聞いて、姉さんはようやく顔を上げた。
『始まりのウワサ』
僕の姉は1ヶ月前に死んだ。
その日、遅くまで学校に残っていた姉さんは、帰り道を急ぐために普段通らないような、人気の無い道を帰っていたらしい。
運悪く雨も振り出し、傘を持っていなかった姉さんは、走って帰ろうとしていた。
姉さんと同じように帰り道を急いでいた車とドライバーがいて、この道なら人もいないだろうとスピードを出していて、雨で視界が悪くなっていたせいで、寸前まで姉さんを見つける事が出来ず、そして……。
姉さんは即死だったそうだ。
ドライバーは一度怖くなってそのまま逃げ出したそうだが、後で自首したらしい。
らしいと言うのは、その辺の事は全て母さんがやって、僕はその人の顔も見た事が無いからだ。恐らく、これからも見ることは無いんだと思う。
そう言う僕は、姉さんの顔もよく見ていない。
葬式の日、姉さんの体は損傷が酷いから見ないようにと、棺に付けられている、顔を見るための扉は開かれなかった。
棺の側に置かれた遺影と、お坊さんのお経。葬式には僕のクラスや姉さんのクラスの人達もたくさん来てくれたが、あまりにも突然な事に、悲しむよりも戸惑う人の方が多いようだった。
僕も、姉が死んだと言う実感は無かった。
ただ、そう思うのは僕達があまり仲の良い姉弟では無かったからかも知れない。
中学に入ったくらいからだろうか、僕は姉さんとあまり話をしなくなっていた。
いわゆる思春期ってヤツになるとそうなるもんだと周りの友達は言っていたが、原因はそれだけじゃなかったと思う。
僕の家は、母さんと姉さんと僕の3人家族で、小さい頃から姉さんは母さんが家事をするのを手伝っていた。
僕はそんな二人の間に入る事が出来ず、いつも遠くからその様子を見ていた。
だが、いつの頃からか母さんは仕事で忙しくなり、姉さんばかりが家事をするようになっていた。
姉さんは僕に家事を手伝うように言っていたが、僕はそれを無視した。何だよ今更、という感じで。
姉さんは段々と口うるさくなり、僕はそれに黙って対抗した。姉さんをの事を、段々疎ましく思っていた。
そんな折に、事件は起きた。
母さんはあれから毎日、仕事から帰ってくると泣いている。僕は慰める事もできない。そうしたほうがいいのかさえ、分からない。
母さんがあれだけ泣いているのに、僕にはまだ、その実感が湧かなかった。
──その姉さんが、今こうして目の前にいる。
「何よ?」
「……別に」
あれから姉さんを連れて、家に帰った。
母さんに会わせようと思ったけれど、まだ帰って来ていなかったので、とりあえず風呂場からタオルを持ってきて姉さんに渡した。
姉さんはなんだか困ったような、不思議そうな顔をしていた。
それから、飲めるかどうか分からないけれど、紅茶を二人分用意して僕の部屋に行った。
不思議と、もうその頃には姉さんの体はすっかりと乾いているように見えた。
僕は姉さんが使わなかったタオルを使って、濡れた髪を拭く。
とりあえず何を話していいか分からなくて、僕はテレビを付ける。姉さんも、頬杖を付きながら勉強机のイスに座った。
僕は見るでもなくテレビを見ながら、何となく姉さんに聞いて見た。
「姉さん、死んでるんだよね」
「たぶんね」
「幽霊、なんだよね」
「きっとね」
「……何でここにいんの?」
「何それ! 私がここにいちゃいけないって言うの!?」
「いやー、そういう事じゃなくてさあ……」
実際、自分の気持ちがよく分からなかった。
死んだはずの姉とまたこうして話す事が出来る、それは家族としてなら当然喜ぶべきことなんだろうけど。
でも、僕には姉さんが死んだって言う実感はずっと持てなかったし、今こうしているのも、しばらく旅行でいなくなってた人がようやく帰って来たって言う感じだ。
それ以前に、ずっと話もしていなかったし。……僕って冷たい人間なんだろうか?
でも、こんな時って何を話せばいいのだろう。感動のご対面よろしく、目に涙を浮かべながら「姉さーん」とか叫んで抱きついたりした方がいいんだろうか?
……僕にはちょっと、出来ない気がする。
「はあ、せっかくまたこうして会えたっていうのに、憎まれ口はちっとも変わらないんだから。
一応感動のご対面になる訳なのよ? もっとこう、目に涙を浮かべながら、姉さーん、とかいって抱き付いてきたりしないの?」
さすが姉弟。変な所で考える事が似ている。
「じゃあ、今からやろうか?」
僕は姉さんに向かって両手を広げる。
「やめなさいよ、気持ち悪い」
……憎まれ口はお互い様だと思う。
「……あはっ」
突然、姉さんが笑い出した。
「どうしたの?」
「なんかね、こんな会話さえも、ずっと誰ともしてなかった気がしてね」
それはきっと、気のせいじゃないんだろう。
「姉さん、どれくらいの間あの場所にいたかとか、憶えてる?」
「えっ、うーん……」
姉さんは唇に手を当てながらしばらく考えていたが、答えは出なそうだった。
もしかして、自分がどれくらいあそこにいたか記憶が無いんじゃないだろうか。
……幽霊だから?
「いや、分からないならいいよ。
それよりさ、家に帰って来ようとか思わなかったの?」
「んー……、なんか、そんな事思いつきもしなかった。今考えると変なんだけど。
なんだかあそこにいる間は、電気も付けていない締め切った部屋みたいに、何にも見えなくなっちゃっていたのよ。もうまっくら。バカみたいに思えるかもしれないけど、そうなの。ナオキが来てくれて、はじめて顔を上げられたんだもの」
「そうなの?」
「うん、そうなの」
よくわからないけれど、幽霊になってしまうってそう言う事なんだろうか。僕は少しの間、その場所から動けない姉さんの事を考えていた。姉さんはそんな僕を興味深そうに見ている。
そして不意に、一言。それは本当に何気なく、姉さんの口から出た。
「ね、ありがとうね、ナオキ」
思いがけない一言に、僕はしばらく呆然としていた。
「ど、どうしたのさ、いきなり」
「だってさ、もしナオキが来てくれなかったら、私まだあそこにいたかもしれなかったでしょ」
「べ、別に大した事してないよ」
「傘、差し出してくれたでしょ」
「いや、別にそんなの……」
口篭る僕を、姉さんは不思議そうに見ている。そして、「変なの」と言って笑った。
「でもさ、ナオキが来てくれるとは思わなかったな。なんか私、避けられてるみたいだったしさ」
そう、確かに前までは、姉さんのことを避けていた。無視して話さないようにしていた。近くにいるだけで妙にイライラしたり。
でも、だから今だって不思議なんだ。姉さんを探しに行こうとしたり、こうして平気で話してる事も。
「姉さん、あのさ……」
僕がその事を話そうとした、その時。唐突に部屋のドアが開かれた。
母さんだった。ドアの隙間から、非難するような目で僕を見ている。
「……楽しそうね」
どうやら、さっき姉さんと話していた時の笑い声を聞かれたらしい。まずい事に、テレビもつけっぱなしのままだ。
「いや、これは……」
「……」
母さんには、姉さんは見えてないんだろうか。
僕はちら、と姉さんの方を見る。姉さんも母さんを見ていた。
視線を母さんに戻す。母さんは、僕を見たままだった。
「ねえ母さん、母さんは……」
「何?」
「……なんでもない」
見えてないのに変な言い訳をするのもどうかと思い、僕はあえて何も言わなかった。母さんはそんな僕を、部屋に入って来た時と同じ冷たい眼差しで見たまま、ドアを閉めて居間に戻って行った。
しばらくして、押し殺したような泣き声が響く。
それは、姉さんが死んだ事を悲しまずにテレビなんかを見てへらへら笑っている僕を非難しているに違いなかった。
その声を聞いた姉さんは、顔をしかめて吐き捨てる。
「……母さん、変わらないのね」
その時の姉さんの顔は、僕が始めて見る顔だった。
「姉さん?」
「ん……、ああ。ごめんね、ナオキ。私もう自分の部屋に戻るわ。紅茶、ご馳走様」
姉さんの分のカップはもちろん減ってはいなかったが、触れてみると、なぜか僕のカップよりも随分と冷たくなっていた。
「ねえ、私の部屋、まだそのまんま?」
「うん。母さんが掃除してるから、きっと何も変わってないと思うよ」
「そっか……」
そう言った姉さんは、何だかちょっと嬉しそうだった。
まるでさっきの表情なんか、最初からどこにも無かったみたいに。
それじゃあ……、と言って姉さんは部屋を出ようとしたが、急に何かを思い出して振り帰った。
「ね、ナオキ。
まだ言ってなかったよね」
「何?」
「……ただいま」
不意に飛び出した姉さんのその言葉。けど、僕も当然のように答えていた。それはもう、随分久しぶりに言ったのだけれど。
「……うん、おかえり」
姉さんはへへっ、と照れ臭そうに笑って、手を振りながら扉の奥に消えた。
一人になって、部屋の電気を消してからふと考える。
あんな風に姉さんと長く話をしたのはどれくらい久しぶりだったろう。
何週間、何か月、もしかするともう何年にもなるかもしれない。
姉さんと仲が悪くなっていた事。アレは何が原因だったんだろうか。
今日あんなに話すことが出来たのも、何かが変わったからだろうか。
何だろう、何が変ったんだっけ。
……わかんないや。変わった事なんて何もないよな、多分。
明日から、またいつもと同じような毎日が始まるんだ。
ただなんとなく、そんな事を考えながら僕はいつのまにか眠りに付いていた。
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「知ってる? この間の事件」
「北斗町の辺りで起こった事故でしょ」
「……事故じゃなくて、殺人事件らしいよ」
「殺されたの? 事故じゃなくて?」
「それって、ハハオヤが隠そうとしてるらしいよ」
「なんで?」
「知らないよ。でも、そのおかげで自分がなんで死んだか分かってもらえないのがくやしくて……。
だからさ、出るらしいよ。こんな雨の日に……」
「ウソ……」
「バレー部の先輩も見たって」
「どうだったの?」
「泣いてたって。
雨の中、傘もささずに泣いてる女の人がいるから、
なんだか嫌だなーと思って遠回りしていこうと思ったんだけど、いつのまにか泣き声がだんだん大きくなってきてて、振り向くとそこにっ……」
「ヤダ、おどかさないでよ……」
「でも、なんだかカワイソウ」
「やめときなよ、そういうの。よくないんだよ」
「どうして?」
「同情するとね、連れてかれちゃうんだよ。この世に未練のある、寂しい幽霊に」
教室の扉は少し開いたままで、まだ廊下にいた僕は、そんな話声を聞いていた。
僕は扉に手をかける。古いせいか少しきしんで、中の声がぴたりと止まる。
扉を開けると、中には女子が数人残って机を囲んでいる所だった。
「あ、ナオキ君……」
その内の一人が、驚いたように言う。
「忘れ物、取りに来ただけだから。
なんだか話の邪魔しちゃったみたいで、ごめんね」
僕がそう言っても、彼女達はイタズラをした子供が見つかった時みたいに、僕と目を合わそうとしない。
下を向いて、なんだかやりにくそうにしている。
別に悪いのは彼女達の方じゃない、話を立ち聞きしていた僕の方なのに。
なんだか嫌な気分だった。悪い事をした方が、かえって気を使われている感じ。
あまりこんなところに長く居たくない。僕は自分の机から忘れ物を取って、さっさと教室から出ることにする。
そして開き戸に手をかけた所で、また後ろから彼女達のささやき声が聞こえた。
今度は聞こえないように、後ろ手でちゃんと扉を閉め切る。
……それでも、彼女達が言っていた話は、僕の頭からなかなか離れてくれなかった。
『こんな雨の日、北斗町で殺された女の幽霊が出る……』
下らない話。そんなの、悪いウワサに決まってる。
それなのに、僕はその場所にいた。
何を期待しているのだろう。
僕の目の前の道沿いには、頭上を覆い隠すほどの木が生い茂っていて、それが延々と続いている。こんな雨の日は見通しが悪いから、人も車もめったに通らない。
雨と風は段々と激しさを増して、頭上の木々を揺らす。黒い影がバサバサと揺れる様子は、髪を振り乱した生首が揺れてるようだ。
……僕は頭を振って嫌な想像を打ち消そうとする。
あのウワサが嫌な事を想像させるのか、こんな場所だからあんなウワサが語られるのか、それがどちらかなのか、僕にはわからない。
横殴りに叩きつける雨が、傘を持つ僕の手を濡らしてゆく。僕はここに居る事を、段々と後悔し始める。
こんな場所、長く居るもんじゃない。この場所は、暗く、寂しい。
そんな事、ある筈無いんだから。早く帰るべきなんだ。
突然、森からの風が強くなり、僕の傘を奪う。僕は慌てて傘を追う。地面に落ちた傘を拾って、さし直そうとした時、少しだけ持ち上げた傘の下に、学校指定の靴が目に入った。
僕はその靴から、目を離せない。だって、さっきまで誰もいなかったはずなんだ。
降りしきる雨の底から、何か別の音が聞こえる。
傘に大粒の雨がぽつぽつ当たっている音に混じって、息も絶え絶えに、苦しそうな、しゃくりあげる声が聞こえてくる。
声にならない声は、だんだんと大きくなっていた。
……泣いている。
思い切って、僕は視線を上げた。
そこに、制服を来た女の子が立っている。
両手を顔に押し当てて、うつむきながら泣いていた。
ずっとそうして、雨に濡れるのもかまわずに。
長い髪が両手からこぼれて、涙の延長の様に雨が伝っていった。
僕には彼女がかすんで見えた。
それは比喩じゃなくて、僕の目の前に突然現れた彼女は、その体の向こうに景色が透けて見えている。
それなのに、なぜか雨は彼女に当たって、その体をますます冷たくさせているように思えた。
だから僕は、彼女に傘を差し伸べた。
一つの可能性を信じながら。
「姉さん、なんだろ……」
「……ナオキ?」
僕の声を聞いて、姉さんはようやく顔を上げた。
『始まりのウワサ』
僕の姉は1ヶ月前に死んだ。
その日、遅くまで学校に残っていた姉さんは、帰り道を急ぐために普段通らないような、人気の無い道を帰っていたらしい。
運悪く雨も振り出し、傘を持っていなかった姉さんは、走って帰ろうとしていた。
姉さんと同じように帰り道を急いでいた車とドライバーがいて、この道なら人もいないだろうとスピードを出していて、雨で視界が悪くなっていたせいで、寸前まで姉さんを見つける事が出来ず、そして……。
姉さんは即死だったそうだ。
ドライバーは一度怖くなってそのまま逃げ出したそうだが、後で自首したらしい。
らしいと言うのは、その辺の事は全て母さんがやって、僕はその人の顔も見た事が無いからだ。恐らく、これからも見ることは無いんだと思う。
そう言う僕は、姉さんの顔もよく見ていない。
葬式の日、姉さんの体は損傷が酷いから見ないようにと、棺に付けられている、顔を見るための扉は開かれなかった。
棺の側に置かれた遺影と、お坊さんのお経。葬式には僕のクラスや姉さんのクラスの人達もたくさん来てくれたが、あまりにも突然な事に、悲しむよりも戸惑う人の方が多いようだった。
僕も、姉が死んだと言う実感は無かった。
ただ、そう思うのは僕達があまり仲の良い姉弟では無かったからかも知れない。
中学に入ったくらいからだろうか、僕は姉さんとあまり話をしなくなっていた。
いわゆる思春期ってヤツになるとそうなるもんだと周りの友達は言っていたが、原因はそれだけじゃなかったと思う。
僕の家は、母さんと姉さんと僕の3人家族で、小さい頃から姉さんは母さんが家事をするのを手伝っていた。
僕はそんな二人の間に入る事が出来ず、いつも遠くからその様子を見ていた。
だが、いつの頃からか母さんは仕事で忙しくなり、姉さんばかりが家事をするようになっていた。
姉さんは僕に家事を手伝うように言っていたが、僕はそれを無視した。何だよ今更、という感じで。
姉さんは段々と口うるさくなり、僕はそれに黙って対抗した。姉さんをの事を、段々疎ましく思っていた。
そんな折に、事件は起きた。
母さんはあれから毎日、仕事から帰ってくると泣いている。僕は慰める事もできない。そうしたほうがいいのかさえ、分からない。
母さんがあれだけ泣いているのに、僕にはまだ、その実感が湧かなかった。
──その姉さんが、今こうして目の前にいる。
「何よ?」
「……別に」
あれから姉さんを連れて、家に帰った。
母さんに会わせようと思ったけれど、まだ帰って来ていなかったので、とりあえず風呂場からタオルを持ってきて姉さんに渡した。
姉さんはなんだか困ったような、不思議そうな顔をしていた。
それから、飲めるかどうか分からないけれど、紅茶を二人分用意して僕の部屋に行った。
不思議と、もうその頃には姉さんの体はすっかりと乾いているように見えた。
僕は姉さんが使わなかったタオルを使って、濡れた髪を拭く。
とりあえず何を話していいか分からなくて、僕はテレビを付ける。姉さんも、頬杖を付きながら勉強机のイスに座った。
僕は見るでもなくテレビを見ながら、何となく姉さんに聞いて見た。
「姉さん、死んでるんだよね」
「たぶんね」
「幽霊、なんだよね」
「きっとね」
「……何でここにいんの?」
「何それ! 私がここにいちゃいけないって言うの!?」
「いやー、そういう事じゃなくてさあ……」
実際、自分の気持ちがよく分からなかった。
死んだはずの姉とまたこうして話す事が出来る、それは家族としてなら当然喜ぶべきことなんだろうけど。
でも、僕には姉さんが死んだって言う実感はずっと持てなかったし、今こうしているのも、しばらく旅行でいなくなってた人がようやく帰って来たって言う感じだ。
それ以前に、ずっと話もしていなかったし。……僕って冷たい人間なんだろうか?
でも、こんな時って何を話せばいいのだろう。感動のご対面よろしく、目に涙を浮かべながら「姉さーん」とか叫んで抱きついたりした方がいいんだろうか?
……僕にはちょっと、出来ない気がする。
「はあ、せっかくまたこうして会えたっていうのに、憎まれ口はちっとも変わらないんだから。
一応感動のご対面になる訳なのよ? もっとこう、目に涙を浮かべながら、姉さーん、とかいって抱き付いてきたりしないの?」
さすが姉弟。変な所で考える事が似ている。
「じゃあ、今からやろうか?」
僕は姉さんに向かって両手を広げる。
「やめなさいよ、気持ち悪い」
……憎まれ口はお互い様だと思う。
「……あはっ」
突然、姉さんが笑い出した。
「どうしたの?」
「なんかね、こんな会話さえも、ずっと誰ともしてなかった気がしてね」
それはきっと、気のせいじゃないんだろう。
「姉さん、どれくらいの間あの場所にいたかとか、憶えてる?」
「えっ、うーん……」
姉さんは唇に手を当てながらしばらく考えていたが、答えは出なそうだった。
もしかして、自分がどれくらいあそこにいたか記憶が無いんじゃないだろうか。
……幽霊だから?
「いや、分からないならいいよ。
それよりさ、家に帰って来ようとか思わなかったの?」
「んー……、なんか、そんな事思いつきもしなかった。今考えると変なんだけど。
なんだかあそこにいる間は、電気も付けていない締め切った部屋みたいに、何にも見えなくなっちゃっていたのよ。もうまっくら。バカみたいに思えるかもしれないけど、そうなの。ナオキが来てくれて、はじめて顔を上げられたんだもの」
「そうなの?」
「うん、そうなの」
よくわからないけれど、幽霊になってしまうってそう言う事なんだろうか。僕は少しの間、その場所から動けない姉さんの事を考えていた。姉さんはそんな僕を興味深そうに見ている。
そして不意に、一言。それは本当に何気なく、姉さんの口から出た。
「ね、ありがとうね、ナオキ」
思いがけない一言に、僕はしばらく呆然としていた。
「ど、どうしたのさ、いきなり」
「だってさ、もしナオキが来てくれなかったら、私まだあそこにいたかもしれなかったでしょ」
「べ、別に大した事してないよ」
「傘、差し出してくれたでしょ」
「いや、別にそんなの……」
口篭る僕を、姉さんは不思議そうに見ている。そして、「変なの」と言って笑った。
「でもさ、ナオキが来てくれるとは思わなかったな。なんか私、避けられてるみたいだったしさ」
そう、確かに前までは、姉さんのことを避けていた。無視して話さないようにしていた。近くにいるだけで妙にイライラしたり。
でも、だから今だって不思議なんだ。姉さんを探しに行こうとしたり、こうして平気で話してる事も。
「姉さん、あのさ……」
僕がその事を話そうとした、その時。唐突に部屋のドアが開かれた。
母さんだった。ドアの隙間から、非難するような目で僕を見ている。
「……楽しそうね」
どうやら、さっき姉さんと話していた時の笑い声を聞かれたらしい。まずい事に、テレビもつけっぱなしのままだ。
「いや、これは……」
「……」
母さんには、姉さんは見えてないんだろうか。
僕はちら、と姉さんの方を見る。姉さんも母さんを見ていた。
視線を母さんに戻す。母さんは、僕を見たままだった。
「ねえ母さん、母さんは……」
「何?」
「……なんでもない」
見えてないのに変な言い訳をするのもどうかと思い、僕はあえて何も言わなかった。母さんはそんな僕を、部屋に入って来た時と同じ冷たい眼差しで見たまま、ドアを閉めて居間に戻って行った。
しばらくして、押し殺したような泣き声が響く。
それは、姉さんが死んだ事を悲しまずにテレビなんかを見てへらへら笑っている僕を非難しているに違いなかった。
その声を聞いた姉さんは、顔をしかめて吐き捨てる。
「……母さん、変わらないのね」
その時の姉さんの顔は、僕が始めて見る顔だった。
「姉さん?」
「ん……、ああ。ごめんね、ナオキ。私もう自分の部屋に戻るわ。紅茶、ご馳走様」
姉さんの分のカップはもちろん減ってはいなかったが、触れてみると、なぜか僕のカップよりも随分と冷たくなっていた。
「ねえ、私の部屋、まだそのまんま?」
「うん。母さんが掃除してるから、きっと何も変わってないと思うよ」
「そっか……」
そう言った姉さんは、何だかちょっと嬉しそうだった。
まるでさっきの表情なんか、最初からどこにも無かったみたいに。
それじゃあ……、と言って姉さんは部屋を出ようとしたが、急に何かを思い出して振り帰った。
「ね、ナオキ。
まだ言ってなかったよね」
「何?」
「……ただいま」
不意に飛び出した姉さんのその言葉。けど、僕も当然のように答えていた。それはもう、随分久しぶりに言ったのだけれど。
「……うん、おかえり」
姉さんはへへっ、と照れ臭そうに笑って、手を振りながら扉の奥に消えた。
一人になって、部屋の電気を消してからふと考える。
あんな風に姉さんと長く話をしたのはどれくらい久しぶりだったろう。
何週間、何か月、もしかするともう何年にもなるかもしれない。
姉さんと仲が悪くなっていた事。アレは何が原因だったんだろうか。
今日あんなに話すことが出来たのも、何かが変わったからだろうか。
何だろう、何が変ったんだっけ。
……わかんないや。変わった事なんて何もないよな、多分。
明日から、またいつもと同じような毎日が始まるんだ。
ただなんとなく、そんな事を考えながら僕はいつのまにか眠りに付いていた。
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