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PARTⅢ
二〇〇一年 四月二四日 PM2:26 [-Tokyo- MAGI Japan]
 新宿御苑にほどちかい、外苑西通沿いにMAGI(Manoeuver of Gloval Infomations guild)の日本支部はある。といっても表向きは出版会社であり、一般の記者や報道関係者が多く出入していた。
 もちろん隠れ蓑のための会社だが、株式会社WATCH JAPAN(ウォッチジャパン)東京支部の名は出版社業界の中で異彩を放っており、注目されつつある存在だった。
 理由はその資金力の強大さと、情報網の広さにある。
 WATCHの名を冠する会社は世界各地にあり、他社とは独特の情報網を持っていた。
 出版する雑誌にはいっさいの宣伝記事を廃し、内容の濃い情報を提供している。他企業の宣伝をしないと言うことは、その企業からの宣伝料を取れないわけだが、それでも経営を揺るがす事のない資金力は驚異だった。
 WATCHのもう一つの強みは、その他企業との関係の希薄さにある。
 出版会社の多くは資金を提供するスポンサーをもっているが、そのためスポンサーが強く関わった事件の記事は書けない。
 その点、MAGIは独自の資金力で動いているため、気兼ねなく真実を追究した記事が書けるのである。
 このことが災いして、他社からの非難や抗議の声が絶えないが、WATCHは全く問題視していない。
 その反面、WATCH側の誤りで起こった事件――誤報や掲載ミス等に関しては、常に丁寧な謝罪の意を表し、その姿勢はいつしか公正な出版社という名誉ある称号を、世界中に広めている。
 ただ実際に世間で知られているのは、やはり辛辣な批評を売りにしている芸能雑誌の出版社としての名前だ。社会部の雑誌と打って変わり、噂と虚妄で固められた文章は一般に広く受け入れられている。こちらは宣伝等も盛り込まれ、芸能関係以外の話題も載せられる事が多い。
 この、公正な社会部と信憑性に欠ける芸能部という、一見水と油の部所が両立できているところが、あるいはWATCHの度量の深さを表しているのであろう。
 しかしその組織の裏では、MAGIの鼓動が脈打っていた。
 あらゆる情報を売り買いするMAGIはWATCHを情報源の一端に据え、常に各地で情報操作を行っているのだ。一見、全く意味もないように見える芸能部の存在も、民衆への情報操作に一躍買っている。
 MAGIはエージェントと呼ばれる調査員を多数持ち、彼らを暗躍させることで隠すべき真実を隠蔽していた。その工作のために、某国に核実験と称させて、南国の島もろとも消し飛ばしたことさえある。
 彼らが追う真実は、今までに作られた人類の歴史を覆す事実であり、未来を揺るがす事実だ。それはいわゆる、真の歴史の証拠となる文献や出土品、又は種の保存を脅かす技術など、現在の歴史の中では絶対に存在してはならない事実であった。
 そしてWATCH JAPAN東京支部の地下にある、MAGI日本総司令部。その一画の会議室を借り切って、舞嶋沙也加は五人のエージェントたちが見守る中、情報の分析に当たっていた。
 沙也加は提出されたレポートを眺めると、鋭い視線をエージェント達に向け、確認するように言った。
「つまり調査では、今回の事件には警察と行政機関の癒着が絡んでいる可能性がある。そういうことね」
「はい」
 エージェントの一人が簡潔に返答を返す。驚くことにその声は少女のモノであり、その隣にも二十代前半と思われる男女が、レポートのコピーに目を通ししながら、報告に聞き入っていた。
「治安の良い日本という通説が崩されている中で、『日本の警察は優秀である』という神話を維持するための体裁が、この事件を複雑にしている原因の一つです。
 様々な要因で解決が不可能になった事件を、架空の人物を逮捕することで解決してしまうと言う方法が、平成に年号が改められてから、これまでに七十八件程執られています」
「架空の事件をでっち上げて、架空の犯人を逮捕するっていう件例もあるね。要するに国民に対するパフォーマンスてやつだな」
 隣に座っていた男性のエージェントが、そう言いながら苦笑した。彼女はその意見をゆっくりと頷くことで肯定する。
「神話が崩れることで、さらに治安が悪くなることを恐れたんでしょう」
「では神坂憲一を殺した犯人、規崎達彦は架空の人物である、と?」
 沙也加は無意識に、その細い顎に手を当てた。それに答えたのは、別の男性のエージェントである。
「いえ、彼は確かに存在します。ただ彼はどう考えても、人を殺すような事は出来ません」
「警察は何故彼を冤罪と知っていて、逮捕したのかしら?」
「理由は調査中です。そして規崎達彦は身寄りが一名しかいませんでした。弟の規崎俊也です。現在、警視庁に警視正として勤務してますね」
「彼については私が調べましょう。これだけ情報が集まれば十分です。あなた達は手を引きなさい」
 そう言って沙也加が席を立とうとしたとき、いままで張りつめていた空間に、初めて乱れが起きた。エージェント達は互いに目配せしあい、何かを言い出そうとしてためらっているように見えたが、沙也加はそれをあえて無視する。
「それでは、解散」
 沙也加はそう言って、さっさと会議室を出た。
 困惑に耐えかねてエージェントの一人が立ち上がりかけるのを、抑制するためである。彼らの言いたいことは判っていたが、これ以上彼らに関わりを持たせることは出来なかった。
『MAGIは本格的に動き出したわ』
 加藤京介に言ったあの言葉を、沙也加は苦い表情で思い起こした。
 しかし組織は動かない。
 多くの資金を投じて調査した十年前の事件に、再び手を出すようなリスクを、MAGIは背負おうとしなかったのだ。いくら強大な資金源を持っていてもMAGIは所詮営利組織であり、危ない橋を好んで渡るほど物好きなところではなかった。
 今まで調査してきたことも、実は全て彼女の独断で行っていることだ。しかし沙也加の行動に進んで協力してくれたエージェント達に、これ以上負担をかけさせることは出来ない。
 ここからは彼女一人で、戦わなくてはいけないのだ。
 そして舞嶋沙也加の孤独な戦いは、長い年月を経てフィナーレを迎えようとしている。
 フラッシュバックのように蘇る記憶。あの屈辱的な事件にもうすぐ終止符が打たれようとしていた。


二〇〇一年 四月二四日 PM3:01[-Tokyo- City]
 神坂兄妹と別れた京介は、警視庁で遠藤万紗子の調査書類を調べたあと、沈んだ面もちで警視庁を後にした。
 彼女の事件を調べているうちに、人の心理の闇部を垣間見てしまったからである。
 そこに書かれた万紗子の身辺調査は、おおよそ常識とは逸脱した結果を主張していた。崩壊した金銭感覚、自己中心的な言動や行動。往年のバブル経済が生んだ歪な申し子が、遠藤万紗子の全てを浸食していのだ。
「胸くそ悪い」
 京介は大通りを歩きながら煙草を一本取り出すと、忌々しげに呟いた。
 万紗子は当時モデルをやっていたほどの美女で、彼女に言い寄る男は星の数ほどいたらしい。ただ彼女が男どもに傅く条件は、どれほど相手が金を持っているかによった。
 彼女は金持ちの男を見つけると短期間で結婚し、その男に飽きると離婚して財産の半分を持ち去るという、まるで寄生虫のような生活を続けていたのだ。
 そして多くの男性達を不幸の坩堝へ叩き込みながら、彼女はその人生で最後の結婚をする。
 しかし万紗子の最後の獲物は病弱で、その命は三年と保たなかった。その間、彼女は献身的に夫に尽くしたようだ。
 報告書には『まるで人が変わったような』という、関係者の言葉が載っている。
(荒れ果てた生活の末に、本当の愛に目覚めたのか?)
 京介は口にくわえた煙草に火をつけると、深く煙を吐き出した。
 その後の万紗子は夫の全財産を引き継いだ。豪邸にメイドを何人も雇い入れ、順風満帆の生活をしていたらしい。しかしその生活は、突然終わった。
 報告書を読んだ京介の脳裏に、一連の事件の様子が映像となって思い描かれる。
 食事中にメイドの前で、突然ナイフを自分の腹に突き刺しながら笑い出す万紗子。豪奢なドレスは血に濡れ、返り血が部屋中の壁を染める。ぐちゃぐちゃと濡れた雑巾を踏みつぶしたような音と、血で真っ赤に染まった万紗子の顔。焦点の合っていない目で含み笑いする彼女。歓喜の声と共に、飛沫をあげるルビー色の血液……。
 この時、万紗子を制止しようとしたメイドは、邪魔をするなとばかりに振り下ろされた万紗子のナイフに掛かり、重傷を負ったようだ。
 京介はジャケットのポケットから取り出した手帳をパラパラと捲って、当時重傷を負ったメイドの住んでいる町を確認した。十年前の万紗子に何が起こったか、彼女なら知っているだろう。
 当時二十七歳だった女性だから、今は三十七歳だ。十年の歳月は、事件の後遺症で病んだ心を回復させるには、短い時間だろうか?
 良心が疼く中、京介は交差点の先でタクシーを止めると、彼女の住む町へと向かった。
(あまり乗り気はしないが……)
 京介は窓際に流れる風景を見ながら、ため息をついた
 人の忘れたい過去を事細かに掘り起こさなくてはいけない、刑事という職業が時々嫌になる。そしてこの良心の呵責と職業的な必要性とのジレンマは、タクシーが目的地までたどり着く間中収まることはなかった。
 無愛想な運転手が目的地に着いたことを無愛想に告げると、京介は緩慢な動きで料金を払って車を降りた。
 京介が降りた場所はどうやら静かな住宅街のようで、似たような一軒家が軒を並べていた。あと二、三時間もすれば帰路につく学生達も多く見ることが出来るだろうが、この時間では学生どころか人の姿さえない。その代わり電柱で羽を休める烏の声だけが、やけに大きく聞こえていた。
「さて、これで何かわかればいいがな」
 京介は沈んだ心境をとりなおすように呟くと、目的の住所を手帳で確認しながら歩き始めた。そして暫くして目指す一軒家を探し当てると、申し訳程度に立てられた門のインターホンを押した。
「はい? どちら様でしょうか?」
 抑揚のない声が電気の箱から流れてくると、京介は今までの心情とはうってかわった明るい声で問いかけた。
「あ、突然すみません。私は警視庁捜査一課の加藤ともうします。十年前のことで少しお話を伺わせていただきたいのですが、林怜子さんはご在宅でしょうか?」
「……お待ち下さい」
 プツリと音が途切れ、しばらくすると玄関が少し開いた。京介は扉からのぞき込む女性に屈託のない笑顔で会釈すると、懐から警察手帳を見せる。
 女性はしばらく刑事の姿を眺めていたが、どうやら安全を確認できたのか、一度扉を閉めてドアチェーンを外し、再び今度はその姿を見せるように大きく扉を開いた。
 その姿を見て京介は目を見張った。彼女の右唇から右耳にかけて、醜い傷が走っていたからだ。彼女の光のない表情はその傷をさらに強調しているようで、京介にはなおさらそれが痛々しく見えた。
「まだ、あの事件のことを調べてたんですか」
 彼女は疲れたように言葉を吐き捨てると、肩を落とした。
「林怜子さん、ですね。本当に突然申し訳ありません。」
「どうぞお入りになって。お茶でもお出ししましょう」
「ありがとうございます」
 京介は驚愕の表状を一瞬でも隠せなかった事に罪悪感を覚えながらも、怜子の招きに従った。そして居間に案内されると、再度会釈をしてソファに座る。
「ひどい顔でしょう」
 怜子は居間から見えるキッチンに入ると、お茶を入れながら自虐的な笑みを見せた。
「この傷さえなければ、十年もたったあの事件を忘れることが出来るでしょうけれど。でも毎朝この顔を鏡で見るたびに、あの事を思いだしてしまって」
「では、まだ?」
「忘れるわけ、ないでしょう」
 不意に怜子の声が低くなった。まるで言葉の奥底に憎悪めいた感情が、少しずつ吹き出しているかのようだ。
「あの事件のせいで、私の人生は変わってしまったんです。今更ながら何故あんな女を止めようとしたのか、後悔してますよ」
「遠藤万紗子さんのことですね?警察の調書によると、彼女は改心して旦那さんの介護につとめたとありますが?」
 京介の言葉に、盆を持って対面するソファに座った怜子が、鼻を鳴らしてせせら笑った。
「改心? あの女はそんな良心なんて初めからありませんでしたよ」
「では真相は違うと?」
「ええ。あの女は自分の夫がすぐ死ぬことを知っていて、遺産目当てに結婚したんです。
 時々私たちに言ってましたよ、『いい所を見つけた、これで一生贅沢して暮らせる』って。あの女は、初めから遺産しか考えてなかったんですよ」
 怜子は興奮した口調で、急須に入れたお茶を注ぐことも忘れてまくし立てた。憎々しげな感情を隠しもせず、神経質に髪をかきむしる。
「あの女がいたから、あの女が来たから私の人生は。この傷のせいで私は! 私は全てを失ったわ。愛していた人を失った。職も失った。私の幸せを何もかも……あいつは何もかもを奪った!」
「怜子さん」
 いまだ十年前の過去から逃れられないでいる怜子に、京介はかける言葉を失った。あの事がなければ彼女の指に填っていたはずの指輪は無く、この家で幸せを確かめることの出来るはずのモノは、その姿をうしなっていたからだ。
「あの女はね」
 怜子の眼前にはあの頃の情景が広がっているのだろう。虚空を睨み付けるその瞳には憎悪が具現した炎がともり、すでに通常の精神状態ではない事を物語っていた。
「あの女は自分の妻の地位を確保するために身籠もったの。遠藤家は以前からあの女と縁を切る計画だったから。
 あの女が身籠もってしまったことで彼女の地位は揺るぎないものになった、でも私は知ってるわ。あれは旦那様の子供ではないのよ」
「どういうことです?」
 京介は怜子の言葉に眉をひそめた。彼女の表情に不気味な笑みがこもる。
「私がお屋敷の掃除をしているときに、旦那様とあの女の話を聞いてしまったの。
あの女、子供は容姿の良いのがいいって言って……。これから産む子供をまるでペットを選ぶような感じで話していたわ。
 そしてあの女は、容姿のいい俳優の精子を買ったのよ!」
「精子を、買った?」
「精子バンクから買ったのよ。私はそれを聞いた後、あの女を咎めたわ。そしたらあいつ、なんていったと思う?
『私は夫は金で、子供は容姿で選ぶって決めているの。不細工な子供を育てたって、面白く無いじゃない』って、私を馬鹿にした態度でそう言ったのよ!」
 京介は怜子の口から紡ぎ出される言葉に衝撃を受けた。そして直感的に、翔子と真奈美の事件を結びつけてみる。
 お腹の子供の父の名を最後まで言わなかった翔子。夫が不能だった真奈美。もし彼女たちが万紗子同様に精子を買っていたらどうなるだろう?
 京介はやっと廻りだした頭脳を酷使しながら、推理の網を張り巡らせた。三人が同じ精子を買っていたとしても、それが原因で発狂することなんてあるのだろうか?
 だが、いままで集めてきた情報から、精子バンクという存在が介入したことによって一つの仮説が生まれるのだ。
 翔子が父親を最後まで明かさなかった理由が、もし精子バンクで買った精子だったなら納得出来る。自身の寂しさを紛らわせるためだけに子供をほしがる例は、腐るほどある。
 そして真奈美の場合、多分精子を買ったのは旧姓である瀧島の親族だろう。彼らにとっては真奈美の子であれば父親など、どこの馬の骨でもかまわないのだ。
 精子はその提供者の能力や容姿で値段が変わるが、そのぶん精子を宿す側は子供の容姿をある程度選ぶことが出来るのだ。
 実際、アメリカでは有名俳優の精子が数億で取り引きされた事例もある。
(しかし、こんな事があって良いはずがない)
 京介は鈍く疼くこめかみを押さえた。
 本来精子バンクは、様々な理由で子供を産むことが出来ない人々のためにあるものだ。その存在は彼らにとって唯一の光であり、希望のはずである。それをエゴのために利用されては彼らの立つ瀬がないではないか。
 たしかに最近になって、特に子供をペットのように扱う親が多くなってきている。子供を産んだ理由が寂しいからとか可愛いからと言うだけで、そこにある責任などは全く考えられていない。
 そして親は勝手に我が子を自分勝手な理想と空想のなかで溺愛するが、その子が親の理想を裏切る行為に出ると錯乱してしまい、行き過ぎた折檻を始めるのだろう。
 京介は怜子の家を出ても尚、衝撃から立ち直ることが出来ないでいた。だがその反面、事件の糸口がまた姿を現したようで、職業柄の高揚感も混ざり合う。
 精子がどのように関係したかなど、理論的な考察はともかくとして、可能性のあるものを虱潰しに当たって行くのが捜査の基本である。それに有力な手がかりが何一つ無い現状では、怜子の言葉を信じてみるしかない。
 これは一種の賭だった。これで無関係なら、貴重な時間を費やすばかりか、タイムオーバーにもなりかねないのだ。
 京介は天に祈るような気持ちで空を仰ぐと、未だ人気の少ない住宅街を歩き始めた。帰りのタクシーは、ここでは捕まえられそうに無い。
 彼は三、四羽の烏が道路に落ちたゴミに群がり、えさの取り合いをしている風景を横目で見つつ、煙草を取り出し火をつけた。白い煙が彼の後を追うように尾を引き、大気に溶け込んでいく。
 その時異変は起きた、烏が急に羽ばたいたのだ。
 そして逸らしかけた目を再び烏の群の方へ向けた京介の目に、信じがたい光景が映っていた。
 羽ばたく烏達を割り込むようにして、大股に彼に向かって歩いてくる一人の大男がいる。黒いスーツと同色のネクタイ、そしてあくまでも機能のみを重視したようなサングラス。その存在の全てが京介に対して殺意を放っていた。
(ヤバイ!)
 京介は瞬時に命の危険を感じた。
 五感が研ぎ澄まされ、スローモーションの様にはっきりと、相手の動きを見て取れる。左の懐に手を入れ、そこから引き抜かれたサイレンサー付きの拳銃を片手で構える男も。そしてその男が、何の躊躇もなく引き金を引いことも……。
「クソっ!」
 京介は咄嗟に罵りながら電柱の陰に滑り込んだ。今まで彼がいた辺りの路面が爆ぜる。
「おいおい冗談じぇねぇぜこりゃ」
 彼自身もいつかはこういう状況になることを予測はしていたが、まさか白昼堂々と発砲してくるとは思わなかった。
「どうやら俺は、事件の確信を突き始めたようだな」
 こんな非常事態におかれながらも、彼の表情には笑みがこぼれた。敵も焦っていることがこれでわかったのだ。
 しかし絶体絶命なのは変わりない。通路はまっすぐに延びているだけで逃げ込む小道もないし、盾に出来るような遮蔽物もこの電柱のみだ。
(こいつら、やはりプロだな)
 必ず仕留められるように地形を選ぶ手際の良さが、あの男がただ者ではないと物語っている。特別に訓練を受けたものか、それともこの手の作業に手慣れたものか。どちらにしろ袋のネズミとなった彼にとっては、全くもって歓迎されるべきものではない。
 京介は電柱の陰からこっそりと、黒服の男を覗き込んだ。このまま大人しく殺されると言う選択肢は彼の頭にはない。何処かにつけ込む隙がある筈だった。
 しかしいつまで経っても、黒服からの動きは無かった。男は通路に仁王立ちしたまま、懐の中に手を差し入れている。
 この異変に気付いた京介は、悟ったように後ろを振り向こうと動いた。いままで京介は、あの男が単独で行動しているとばかり思っていたのだ。
 だが気付くのが遅かった。動いた瞬間、後ろから彼の首に太い腕が絡みつくと、そのまま締め上げられてしまったのだ。
 さらに、真奈美の事件で負った鞭打ち症が未だ完治していなかったために、頸椎が激痛を伴いながら悲鳴を上げた。あまりの痛みに気が遠くなりかける。
 しかし京介は有るだけの気力を振り絞って身を奮い立たせると、相手に体を預けるように脱力した。
「くっ!」
 急に重さが増した京介の体を支えるために、男は力を込めて彼の体を引き上げようとする。しかしこれこそが京介が待ち望んだ隙だった。
 彼は腰をひねって力を溜めると、渾身の力を込めた右肘を相手のみぞおちに叩き込む。これには黒服の男も堪らず仰け反り、絡めた腕をゆるめた。
 しかし京介はこの束の間の勝利を、味わっている余裕はなかった。もう一人の黒服が再び銃を取り出して駆けつけてくれば、はかない反抗もこれで終わってしまうのだ。
 彼は気管になだれ込んできた空気を貪ると、すぐに電柱から隣の家の塀に飛び移って庭先に逃げ込んだ。逃げ込む際にその壁の一部が弾けたが、幸運にも弾丸が彼の体に触れることはなかった。
「こんなところで死んでたまるかよ!」
 庭先を一心不乱に走り抜けた京介は、わき目もふらずに逃げ出した。行く先も何も決めないまま、ただその場所から出来るだけ遠くへ離れることが、彼の命をつなぐ唯一の方法だった。
 あの黒服の男達が何者かなど、今は考える余裕はない。ただ逃げ続け、走り続ける。路面を蹴るたびに頸椎が痛みを主張したが、それも気力で無視し続けた。
 そして住宅街の路地を滅茶苦茶に走り回り、やっと大通りと呼べる所にたどり着いた京介は、精根尽き果ててへたり込んでしまった。ただでさえ、運動不足で体力が衰えたところにこれだけの立ち回りをして、いい加減彼の心臓は疲弊していた。
 ここは人通りもあり、いかに常識はずれの黒服といえど、派手な事は出来ないはずだ。
 暫く歩道に突っ伏していた京介は、息を整えると上半身を起こした。行き交う人々は何事かと彼を見ていたが、構っている余裕など無い。
 そして京介はゆっくりと立ち上がり、フラフラと歩き出すと、彼の横を銀色のポルシェが颯爽と通り過ぎた。
 どこかで見た車だ。しかしあまりにも疲れて彼の記憶回路は動こうとしない。そうしている間にポルシェはへこたれている京介の目の前に止まり、運転席のドアが開いた。そこから見知った女性の顔が覗く。
「沙也加……」
 運転席には舞島沙也加が乗っていた。
 疲れ切った表情の京介に沙也加は窓を開け、無言で顎をしゃくる。どうやら乗れと言っているらしい。
「行くわよ」
「どこへ?」
「いいから、さっさと乗って」
 沙也加は急くように車を降りると、京介の腕をとって肩に担いだ。満身創痍な京介の鼻腔に、香水の甘い香りが漂よった。
「おい、もうちょっと優しく扱ってくれよ。こっちは散々な目にあったんだ」
「でもその代わり、良い運動になったでしょう」
 沙也加は彼の愚痴を一蹴すると、素早くギアを入れて車を走らせる。信号をほとんど無視するそのあまりの運転の荒さに、京介は今までの疲れを忘れて怒鳴った。
「おいこらっ、こんな住宅街でそんな無茶な運転するんじゃねぇ! 人をはねたらどうするんだ!」
「その人も運がなかったわね」
「お前、ホントにイヤなやつだな」
 しかし京介の非難に沙也加は冷笑するだけで、スピードを緩める気配はない。ポルシェはクラクションを鳴らされながらも、行き交う車を追い抜いて疾走し続けていた。
「そういえばあなた、追っ手を撒いたようね。さすがは現役の刑事ってとこかしら?」
「なんだか、俺に起きたことを全部知ってるような口調だな。それに何でお前がここにいるんだ?」
 その京介の問いに、沙也加は表情を隠しながら言った。
「ちょっと聞きたいことがあって探してたのよ。貴方の事だから、遠藤万紗子の情報を確かめるだろうと予想はしていたし。……でも最終的にはこれを頼ったけど」
 沙也加は運転席のハンドル近くに付いているボタンを押すと、カーナビゲーションの画面が独特の音を立てて起動する。
「コレがどうしたんだ?」
「この赤い印が今私の車がいる所ね。そして今は重なっている黄色い点は貴方」
「探知機か!」
 沙也加にとんでもない事を知らされると、京介は急いで自分の服を確かめた、そして襟元に小さなピンが刺さっていることに気づくと、忌々しそうに引き抜く。
「今まで気づかなかったなんて、呑気な刑事さんね」
「いつのまに」
「この前会ったときよ。ついでに言ってしまえば、それ、探知機じゃないわよ?」
「なんだって?」
「盗聴器。探知機としても使えるけど、機能としてはオマケね」
「じゃぁお前はずっと俺を盗聴してたという事か? 今までの事を全て聞いていたのか!」
 京介の表情が、驚きから怒りに変わる。ここまでコケにされたのは、彼の生涯で始めてのことだ。しかし沙也加は京介の怒りも冷笑で受け止めると、あっさり肯定した。
「ええ。貴方には悪いと思ったけど」
「嘘つけ、そんなこと小指の先ほどにも思ってないくせに」
「……悪いついでに、もう一つつ言いたいんだけど」
「なんだよ」
「そのジャケット、一回くらい洗った方がいいわよ。随分前に仕掛けたモノもそのまま残ってたのには、さすがに驚かされたわ」
「これが初めってじゃないってワケか」
 京介の声色が次第に低くなり、こめかみ辺の青筋が色濃く浮き上がった。
「お前とは一回、よく話をつけておかなきゃいけないようだな」
 低く唸りをあげる京介を、振り返った沙也加は不敵に笑った。彼女の瞳に美しくも妖しい光が灯り、京介は思わずその雰囲気に呑まれてしまうが、我に返ったように目をそらした。
「話をつけるのは後。今はそんな事をやっている暇はないわ」
「これ以上何が起こるってんだ?」
「これ以上? これからよ」
 沙也加はアクセルを踏み込むと、エンジンはそれに答えるように咆哮を上げた。銀の車体は風を切って路面を滑走し、風景が押し流されてゆく。
 このとき沙也加は、表情とは裏腹に不安に駆られていた。焦れる感情がハンドルを叩く指に現れる。
(間に合えばいいけど……)
 スピードの出し過ぎと騒ぐ京介の声は、彼女の祈りにも似た思いにかき消されていた。