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二〇〇一年 四月二四日 PM3:49[-Tokyo- Loyal Prince Hotel ]
 公史は緊張も隠せずに、ホテルの扉の前に立っていた。
 唯が持っていた封筒に書かれた名は有名なホテルのそれであり、探すには時間がかからなかったが、いざ扉の前に立つと不安が先立つ。
 あの時、刑事に陰謀と言われて実感がわかなかったのだが、今になってそれが現実味を帯びてきていた。事件の真相の一つが、この中に隠されているのかもしれないのだ。
「入らないの?」
 そう言う唯も不安なのか、扉を見つめるだけで動かない。公史に開けろと言っているのだろう。彼女は扉の前へ押すように、公史を指でつついた。
「……だれか居たりしてな」
「それはないんじゃない? ホテルの人が誰もいないって言ってたし」
「じゃぁお前開けろよ」
「やだよ。誰か居るかもしれないじゃない」
 唯のちぐはぐな言葉にも、公史は気にする余裕がなかった。そして意を決したようにノブに手をかけ、扉を開ける。
「おじゃまします」
 公史の後ろにしがみつきながら、何故か首をすぼめた唯が呟くように言った。
 意識的なのか無意識なのか公史の背中を押していて、彼はそれに巻き込まれるように部屋へと足を踏み入れてしまう。
「すごい」
 部屋に入った瞬間に、今まで公史の見たこともない世界が広がった。空間を贅沢に使った居間、居間を壁一枚隔てて設置されているベッドルーム。そして下界を見下ろすことの出来る大きな窓の近くには、高価そうなソファとテーブルがおかれている。
 そこは通常のホテルの部屋とは思えないほど広く、そして長期間滞在が出来るよう工夫された、ホテルでも特別な部屋だったのだ。
 立ちすくむ公史に習うように唯も目をしばたかせて、この豪奢な室内を見回していた。一瞬ここに来た目的を忘れそうになる。
「それじゃぁ部屋を調べてみよう」
「え? うん」
 そして二人は、気を取り直したように部屋を探り始めた。ここに何かがあることを祈りながら。
 しかし、そうしながらも唯は作業に集中できていなかった。居間に入った時にふと、既視感が襲ったのだ。
(私は、ここを知っている?)
 そう思った瞬間、すり切れた記憶の断片が泡のように弾けた。ソファに座って談笑する二人の男女、一人は義父である憲一だ。そしてもう一人は、優しい笑みを浮かべた見知らぬ女性だった。柔らかな笑顔をたたえたその女性は、彼女に向かって何かを話しかけている。何を話したかは思い出せないが、その時感じた暖かさは覚えていた。
(誰だろう? ここに住んでいた人かな?)
 唯は懸命にその女性の顔を思い出そうとしたが、肝心な部分がぼやけていてはっきりしない。ただその女性が、彼女にはいつも優しい笑みをくれたという思い出だけが、かろうじて残っているだけだ。
 しかしそのことで、この奇妙な感覚は既視感などではなく、奥に潜んでいた記憶が呼び覚まされたものだと悟った。
 唯は記憶の糸を、どうにか手繰り寄せようと部屋を再度見回す。そして最後の記憶の泡が弾けた時、彼女の肢体を衝撃の波が突き抜けた。
(ちがう、私がここに住んでたんだ)


PARTⅣ
二〇〇一年 四月二四日 PM3:57[-Tokyo- City ]
 銀色のポルシェは池袋に向かって走り抜けていった。舞嶋沙也加は焦れる感情を押し隠す余裕もなく、信号で停止するたびに舌打ちをしている。
 加藤京介はこんな彼女を今まで見たことがなかった。鉄壁のポーカーフェイスを誇っていた彼女の姿は跡形も無く、彼の隣に座っているのは不安と焦りに押しつぶされそうな弱さを持った普通の女性だ。
「何をそんなに焦っているんだ?」
 京介は何度も沙也加に問いかけたが、彼女は無言でハンドルを神経質そうに叩くだけだった。
「おい。いい加減に教えてくれないか?」
「……貴方、規崎俊也の兄と会ったことはある?」
「いや、話を聞いたことがある程度だな。神坂憲一殺人事件の最重要参考人。俊也の風当たりも、強くなるばかりだな」
「私が彼に会ったのは、もう十年くらい前。当時弁護士だった神坂憲一氏の、有能な部下だったわ」
「知り合いだったのか」
「彼と私は、前に勤めていた会社で知り合ったの。その会社の顧問弁護士が神坂氏で、彼は秘書みたいな事やっててね」
「それで?」
 いきなり昔話をし始めた沙也加に、京介は興味を持ち始めた。彼女がそんなことを話すのは希有なことだったからだ。
「神坂氏が代議士になってからも、私たちの交友関係は続いたわ。でも、あることがきっかけで疎遠になってしまってね」
「あることねぇ」
 京介は彼女の微妙な言葉から何かを悟った。しかしそれを確認するのは野暮な話だ。
彼は無言で先を促す。
「今回の騒ぎが起きた時も初めは、何かの間違いだと思ってた」
「規崎達彦は人を殺すようなヤツじゃないってか? それはただの思い込みだぜ」
「いっそ、それなら気が楽だけど……」
「どういうことだ?」
「今日、私の部下がね、彼の身辺調査の報告をしてきたの」
 沙也加は疲れを吐き出すかのように、ため息をついた。彼女の瞳に、動揺の光が煌めいた。それは信じがたい事実と、それを理解することが出来ない彼女の、心の葛藤が生んだ悲哀の光だった。
 彼女は複雑な思いを込めて、一言一言、ゆっくりと言葉を紡いだ。脳裏に達彦との思い出が湧き水のように溢れる。
「彼は四年前に失踪していたわ、そしてある病院で今も治療を受けている」
「今も?」
「何が起こったかはわからない。植物状態の彼は、千葉の外れにある病院で眠っているわ。
 カルテには身元不明とされていた、なぜ運び込まれてきたのかもわからない。でも一つだけ確かなことがある。
 彼が神坂憲一を殺害するのは、物理的に不可能なのよ」
「俊也の兄が植物状態? そんな馬鹿な!」
 京介は彼女から思いがけない言葉に思わず大声を上げた。
 神坂憲一殺人事件の最重要参考人として捕らえられた規崎達彦、そして今も意識の戻らない規崎達彦。この矛盾が京介の今までの憶測を、紙くずのように吹き飛ばした。
「じゃぁ、じゃぁ誰なんだあいつは? 逮捕された奴はいったい?」
「私たちは当初、それが警察側で行われている、検挙率底上げに関係してるのではないかと睨んだわ」
「検挙率を底上げ?」
「架空の人物を戸籍上で作っておいて、それを逮捕することで検挙率の底上げを謀っていることは、随分前にも行われていたの。でも今回は違う。実際の戸籍を奪う必要があったのよ、ある事のためにね」
「あることって、なんだよ」
「殺された神坂憲一。代議士の彼を陥れるためよ。彼は知ってはならないことを知ってしまった。
 彼は生前の達彦を知っていたし、信頼もしていた。戸籍と一緒に達彦とすり替われば、効率的に事を運ぶことが出来る」
「すり替わるったって……」
「整形手術なら今時、どんな顔でも作れるわよ」
沙也加の車は夕方の渋滞に巻き込まれていた。苛立ちがさらにつのり、ハンドルを握る手にも汗が滲み出す。
「でも変だぜ、俊也のヤツはあいつの兄貴が植物状態だなんて、知らなかったみたいだ。
兄貴が捕まったことでもかなり怒ってたしな」
「達彦が失踪した所までは、彼も知っていたはずだわ。
 要するに上層部は規崎俊也を切り捨てにかかったのよ。達彦の戸籍を彼らの計画に利用していたことは彼には黙ってたようね。
 彼の経歴に傷を付けてエリートの道を閉ざす事が目的でしょう。
 そして目的を達成させた規崎達彦を逮捕、なんだかの理由をつけて戸籍上で殺し、記録を改ざんすれば誰も不正が行われたとは思わないわ。
 もちろん神坂憲一殺害事件を解決させ、マスコミや国民を納得させるのも目的の一つね」
「おいおい。お前の言ってることはワケわかんねぇよ」
 あまりの現実離れした話に、京介は頭を抱えた。沙也加の情報が間違っているとは思えないが、それでも信じることは容易ではない。
 しかも困惑する彼に、沙也加は追い打ちをかけた。
「それに、これも私の部下が調べたことだけど。架空の人物を逮捕して検挙率の底上げをはかる方法。その執行者の中心人物が規崎俊也よ。
 警視庁は今、二つの派閥が出来ていて、彼らが競うモノの一つが事件の検挙率ってわけね。時期警視総監の座を奪い合う骨肉の争い。規崎俊也は派閥争いに大きく関与しているわ」
「じゃぁなんで、あいつが切り捨てられるんだ?」
「裏切ろうとしたからじゃない? それとも初めから裏切るつもりだったのかもしれない。 同期の平刑事を密かに手駒に使って事件を捜査さ
せて、この不正を暴かせるお膳立てをしたのだから、当然よね」
「まさか」
 京介の顔色が真っ青になった。信じたくないという気持ちとは裏腹に、心の中の冷静な部分がその可能性を肯定している。
 たしかに警視庁では派閥争いが露骨に浮き出ているし、エリート候補生の俊也がそれに無関係でいられるはずがない。それに今までの彼の言動から、思い当たる節は沢山あるのだ。
『お前の休暇を隠蔽できるのは、せいぜい二週間だ』
(二週間が限度。つまり二週間後には俊也自身の地位が危うくなるということか)
 京介は眉間に皺を寄せ、考え込むようにシートに深く身を沈ませた。沙也加の推測が正しければ、あの時京介が感じた俊也の焦りの理由も説明がつく。
「いったい、あいつの事件と俺の事件はどんな繋がりがあるんだ? 
 あいつは平行して調べろと言った。もしその不正を暴けというのなら、俺の事件は後回しにさせるはずだ。
 京介の独り言のような問いかけに、沙也加はなにも話さずにフロントガラスの向こうを見つめていた。それはいつもの受け流す態度とは違って、どちらかというと言い倦ねているように見える。
「この事件には三つの要素が絡み合っているわ。一つは検挙率の底上げという不正事件。もう一つが神坂代議士殺人事件。そしてその中心にあるのが、貴方の事件よ」
 沙也加は淡々と答えるとアクセルを再び踏み込んで、空いている車線へと車を滑り込ませた。


二〇〇一年 四月二四日 PM4:07[-Tokyo- Loyal Prince Hotel]
 ホテルの部屋を訪れてから十分程度が経過した頃、神坂兄妹は捜索範囲を書斎へと広げていた。高級な部屋とはいえ、書斎まで完備してある部屋には心底驚かされた二人だったが、暗くなる前に家路につきたかったので、驚愕の余韻に後ろ髪を引かれながらも作業を進めていた。
 この書斎はかなり昔から使われていたらしく、ホテルの部屋自体が神坂憲一の別荘として機能していたらしい。生前彼は、時々何日か泊まり込みをして家を留守にすることがあったが、まさかこんな所で仕事をしていたとは思いも寄らなかった。
「でも、なんか難しい本が並んでるなぁ」
 公史は困惑しながらも呟いた。
 法律関係の書物は当然として、本棚の大半を占めているのが遺伝子関係の医学書だ。そのなかでも人間の精子や卵子、母胎の子宮の構造など、代議士らしくもない書物が整然と並んでいるのだ。
 公史は理解困難な専門書を何気なく開いてみると、その横でやはり困惑している唯が覗き込んで、しかしすぐに諦めてしまった。
「お兄ちゃん。読んでわかる?」
「馬鹿にするな。解るわけないだろう」
「変なことで威張らないでよ」
 そういって苦笑する彼女に公史は目配せをすると、静かに本を閉じる。
「でも、親父がなんで医学書なんか読むんだ?」
「弁護士やってた時に、裁判かなんかで使ったのかもね。それとも個人的に医学に興味あったとか、かな?」
「そんな風には、見えなかったけどなぁ」
 公史は眉に皺を寄せると、右手を顎にあてて考え込んだ。
 もし父親が医学に興味あるのなら、なぜ自宅の書斎にはこのような書物がなかったのだろうか。彼は憲一の死後、何回も書斎を訪れているが、医学書は一冊も置かれてはいなかったように思える。
 そんなことを考えながら、公史は何気なく本の列を指でなぞってみると、偶然にも本の死角で見えない所に一冊のノートを見つけた。
「なんだこれ?」
 公史はノートを引っ張り出して、表紙の文字を読む。
『ジノテックス・コーポレーション実験結果』
 そう書かれているノートはかなり古いモノらしく、ボロボロにすり切れていた。紙表紙の隅にナンバリングがされているのを見ると、他にも何冊かあるらしいことがわかる。
「実験? 何の実験だ?」
 公史がそのノートを開こうと思った時、突然唯が彼の背をそっと引っ張った。
「なんだよ、なんかあったのか?」
 そして不審に思った彼が振り向いた時、開け放しの書斎の扉に第三者の男性が微笑みながら立っていることに気づいた。
 背は高いが華奢な体つき、銀縁の眼鏡、そして柔和な笑顔。それは公史がよく知っている人物のそれだった。懐かしい顔が、そこにあった。
 しかし何故か、どこかにズレがあるような、奇妙な感覚が公史の脳髄を刺激していた。妙な胸騒ぎが警戒を呼びかけていて、公史の全身を泡立たせる。
 唯もその感覚に気付いたのか、いつもなら喜んで彼の元に駆けつけるはずが、今は怯えた小鳥のように兄の背中にしがみついていた。
「唯ちゃん。そんなに怖がらなくてもいいよ」
 男は表情を崩さずに書斎に入ると、備え付けのソファに座ってため息をついた。
「どうやら、嫌われちゃったかな」
「達彦さん」
「やぁ」
 心なしかひび割れた声で話しかける公史に、達彦はにこやかに手を挙げて答えた。
「すまなかったね、驚かせちゃって」
「どうして、どうしてここに? 警察に捕まったんじゃなかったんですか」
「うん、でもどうしても、やらなければいけないことがあってね」
「逃げてきたんですか?」
「逃げたワケじゃないよ。規崎達彦はまだ、警察に逮捕されたままだから」
 達彦は張り付いた笑顔をそのままに、ソファにもたれ掛かりながら胸ポケットから煙草を取り出すと、達彦の細い指が煙草をつまみ上げた。
 公史はなぜかその指が、病的でやせ細った指に見えた。今まではそのような印象を持ったことは無かったが、彼の無機質な笑顔とそれを取り巻く不可解で危険な雰囲気が、彼への印象を逆転させたのだ。
 警戒を隠さない公史に、達彦は苦笑した。
「どうやら君にも嫌われたようだ」
「まだ逮捕されているって、どういう事ですか?」
「言葉通りの意味だよ」
 達彦は足を組んで煙草の煙を吐き出すと、しばらく間をおいてから話し始めた。
「規崎達彦は逮捕されたよ、これで僕の役割は終わった。やっと元の自分に戻れる」
「元の、自分?」
「そう、元の自分。十年前、君のお父上の告発で倒産を強いられた研究所所長、麻生重治の息子としての自分さ」
 ゆっくりとした言葉を発しながらも、達彦の表情は劇的に変わっていった。今までの柔和な表情は跡形もなく消え、憤怒と哀愁がない交ぜられた感情が、公史の心に突き刺さる。
「どういう事ですか」
「詳しく話している暇はないんだけどね、まぁいいけど。とにかく君には早々に退場してもらおうか。僕が必要なのは、彼女だからね」
 達彦がそう言いながら白い煙をゆっくりと吐き出したと同時に、書斎に三人の黒服の男達が入り込んで来た。そして足早に神坂兄妹へ近づくと、公史と唯を強引に引きはがして組み伏せてしまった。彼らの行動は公史に反撃をさせる余裕すら与えさせないほど迅速であり、少なくともただ者ではない事がわかる。
「お兄ちゃん!」
 唯が黒服の腕の中でもがくが、彼女の力では到底解き放つことは出来ない。
「唯!」
 両腕の関節を束縛されて無様に床へ押しつけられた公史は、涙を浮かべて助けを求める妹に顔を向けると、無表情にもこの光景を眺めている達彦に叫んだ。
「達彦さん! なんでこんな事を!」
「止めてくれないか、その名前で僕を呼ぶのは」
 達彦は煩わしそうに前髪をかき上げた。言葉に酔いしれているのか、まるで痙攣を起こしたかのように、体が震えている。
「僕には麻生尚紀という名前があるんだから」