※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

The last humanity.
 私は独りぼっちだった。
 だからみんなと遊ぶフリをした。
 私は寂しかった。
 だからみんなに作り笑顔を見せ続けた。
 私は認めてもらいたかった。
 だからみんなを信じるように偽った。

 でも私は独りになった。
 寂しい、辛い、心が痛い。

 だれもわたしをみてくれない。

PARTⅠ
二〇〇一年 十一月十三日 AM10:10[-Tokyo- City]
 二十一世紀最初の冬。季節は全ての人々に、平等に訪れた。
 神坂憲一殺人事件から八ヶ月が過ぎ、世間を騒がせた殺人事件は、過去の埃に埋もれようとしていた。
 事件の犯人とされた架空の人物、規崎達彦は無期懲役の判決が下され、国民の殆どはそれが虚構の情報とは疑いもせずに信じ込んでいた。
 しかもこの合間にも様々な事件が日本各地に起こると、彼らは目新しい事件に関心を寄せて、半年以上前の事件のことなど気に留める余裕を持つ者は、ごく少数でしかなくなっていた。
 事件で明らかにされたあらゆる矛盾は、報道管制下で隠蔽され、完全に闇に葬られたかに見える。
 しかし水面下では、少数の人々が未だ終わらぬ戦いを続けていた。
 ここにも一人。
 加藤京介。それがこの男の名である。

「あれから半年以上経ったか」
 都心から離れたところにある病院で、京介は中庭のベンチに座りながら午後の太陽を浴びていた。
 舞い落ちるイチョウの葉を何気なく眺めているその姿は、職無しの中年が失意に明け暮れているようにしか見えないが、実はほぼ、その通りなのだから救いようがない。
 もう一歩というところでまたもやトカゲを取り逃がし、勝手な捜査展開をした理由で言い渡された謹慎処分が未だ解けていないのだ。
(真実の一端を知ってしまった俺を辞めさせるタイミングを計っている、と言うところか)
 京介は胸のポケットを探って煙草を取り出すと、火をつけて深々と煙を肺のの中に流し込んだ。
 あの事件以来、東京の街も時の流れに押し流されて徐々に変容しつつある。
 雪のように舞い散る桜は紅葉で鮮やかに変色した落ち葉に変わり、柔らかな春風は肌を締め付ける北風にその役目を交代し始めた。
 しかしそれでも、唯一変わっていないものがある。
 それは規崎俊也が警察官僚の地位を追われた時から、彼自身が心に誓った言葉だった。
 二週間という短期間の中で事件解決することが出来なかった京介は、俊也を警視庁内の地位どころか、職までも失わせる結果を生み出してしまった。
 俊也の頑なな隠蔽工作のおかげで、京介も道連れに失業することは免れたが、それも時間の問題だろう。
 謹慎という文字が、そのまま懲戒免職になる日もそう遠い未来ではない。
 結局彼らは警察内部の不正を暴くどころか、その権力が生み出す力に耐えきれず、卵の殻よろしく潰されてしまったのだ。
 彼は警視庁の正面玄関から、私物を詰めた段ボール箱を持って出ていく俊也を、罪悪感と敗北感の織り混ざった複雑な心境で見送った。
 そんな彼に俊也は、彼には珍しく哀愁を感じさせる笑みをこぼした。それは京介が初めて見る、彼の素の表情だった。
 今までの自信に満ちあふれた雰囲気は其処にはなかった。
 戦いに負けた男が静かに去っていく背中を、京介は唇をかみしめながら見つめていた。
「なぁ、特権というのは、何のためにあるのだろうか」
 タクシーに乗りこむ直前、俊也は抑揚のない声で京介にかたりかけた。
 今まで特権の中で過ごしてきた俊也は、その中で何を見ていたのだろうか。京介は親友の心を見透かすように、目を細めた。
「お前はどう思う?」
「特権というのは、組織を円滑に動かしていくための手段だ。私はずっとそう思っていた。しかしどうやら現実は違ったようだ」
 視線を京介に向けず、俊也は独白するかのように話した。
「個人的なエゴのために特権はあるのではない。私は……!」
「もういい。何も言うな」
 京介は彼の言葉を遮った。彼の口から後悔の念を聞くことに、堪えることが出来なかったからだ。京介の友人は尊大で、自信家で、現実主義者だったはずだ。
 しかし今彼の前にいる男は、それらとは全く無縁の者となりはてていた。
「これからどうするんだ?」
 京介の問いに俊也は嘆息をすると。
「さぁな、これからどうするか。これからどうしたいかなんて、わからんよ」
「そうか」
俊也はタクシーの後部座席に乗り込むと、失意の表情を変えずに京介との視線を合わせ、力なく声をかけた。
「なぁ京介、私は間違っていたのだろうか」

『その答えをみつけてやる』
 散りゆく落ち葉を眺めながら京介は、あの時最後に言った言葉を心の中で繰り返した。
 俊也の仇を打つという律儀な事を考えているわけではない。そう考えるまでには京介の忠義心はそだっていなかったし、そもそも俊也自身の計画が破綻したのが原因なのだから、言ってしまえば自業自得なのだ。
 京介はそれに踊らされた駒にすぎない。
 しかしその考えを貫徹するには、彼のプライドに負荷がかかりすぎた。このまま見過ごせば、刑事の誇りに付けられた傷は一生涯埋まることはないだろう。
 京介は忌々しげに髪をかき上げると、気怠そうに立ち上がって歩き始めた。
(平刑事、加藤京介。この肩書きが無くならないうちに、なんとかケリをつけなきゃな)
 北風とは裏腹な暖かい日差しを受けながらも、京介の心中は穏やかではない。中庭へ散歩に出ている患者達の笑顔も彼の目に止まることはなく、次第に目つきが細まって鋭くなる。
 病棟に向かう京介から、先ほどまでの呆けた雰囲気が消失し、野獣の殺気が漂い始めた。ポケットに手を突っ込んで歩く様子は、刑事と言うよりヤクザじみている。周囲の人々も尋常でない気配を発する彼に、怯えてた視線を投げかけては足早に逃げ出していった。
「こんな所で殺気立たないの、ここは病院よ」
 遠巻きに見る大多数の人々の中に、京介のただならぬ雰囲気にも躊躇せずに話しかけた人物がいた。
 完全に自分の世界に入り込んでいる彼を、後ろから諭すように声を投げかけた女性は、まるでこれから葬式にでも行くような黒い服装に身を包んでいる。
 振り向いた京介に唇をつり上げるだけの微笑をすると、彼女の隣に神妙な顔つきで佇んでいる青年が会釈をした。
「遅かったな、沙也加」
 そう言った京介が青年の顔を舐るように眺めて沙也加に視線を返すと、彼女は悪びれる仕草もせずに形だけの笑顔を見せる。
「道が混んでいてね。この子の退院手続きもしなくてはいけなかったし」
「まぁ、お前が時間通りに来ることは滅多にないから、あまり期待はしていなかったがな」
 そう言って京介はもう一度青年に視線を戻すと、彼に笑いかけた。
「四ヶ月生死の境を彷徨ってたにしちゃぁ、健康そうで何よりですな。公史さん」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、迷惑なんて思ってはいませんよ。ただ、これから貴方にも協力してもらわなきゃならない」
「はい、そのつもりです」
 公史は硬い表情を崩しもしないで、京介の言葉を受け入れた。これから何が起こるか判らないが、それが厳しい物になることは想像できるからだ。
 そんな公史の顔を見て沙也加は、彼女にしては珍しく優しい笑みをこぼした。
「今からそんなに気負ってると、後が続かないわよ。それに、この刑事には敬語は不要。そんなたいした人ではないわ」
「余計なお世話だ」
 さらりと毒舌を吐く沙也加に京介は顔をしかめると、次の瞬間には笑顔に戻った。
「まぁでも、敬語は使わなくても良いですよ。私も肩が凝りますから」
「はぁ」
「さあ、こんな所で時間を潰していないで行きましょう。あの人も待っているだろうから」
 沙也加はそういって彼らを促すと、病棟に向かった。二人の男達も大人しく付き従う。しかし公史だけは、表情を強張らせたままだった。これから出会う人物のことはあらかじめ聞かされていた。しかし実際に目の当たりにするとなると、体が拒否反応を起こしたように言うことを聞かなかない。まるで見えざる手に束縛されているようだった。
「怖い?」
 そんな公史の様子を後ろ目で窺っていた沙也加が、彼の隣へ寄ってくると、心配そうに話しかける。
「怖くて当然よね。いままで信じてきたものが否定されるんだから」
「否定されたから怖いんじゃありません。ただ」
 公史が恐れるもの。それは現実を見据えることによって、あの時起きた事件が、実際起こった出来事だったという事を再確認させられることだった。
 夢であって欲しいという、儚い奇跡を心のどこかで願っていたのかもしれない。
「まだ信じられないんです。達彦さんが偽物で、唯と一緒に失踪したなんて」
 瀕死状態から回復した四ヶ月前、そしてそれから一ヶ月あまり。公史はその間、夢現の世界の住人だった。彼の精神は自信の身に何が起きたのかを理解できず、オーバーフローを起こしてしまったのだ。暫くは頻繁に看病に来ていた沙也加を唯と思いこんでいたのだ。
 そして夢から覚めた時、彼の心は失望感で締め付けられた。妹を守れなかったこと、信じていた人に裏切られたこと、そして孤独になってしまったこと。これらの感情が怒濤のように流れ込み、気が狂いそうになった。
 そして未だに体のふるえは止まらない。彼の心が、事実を受け止めることの苦痛を覚えてしまったからだ。できるなら逃げ出したいが、しかしそれでは何の解決にもならないのだ。
「無理は、しないでいいさ」
 苦悩の表情を浮かべる公史に、京介は口を開いた。
「ゆっくり、飲み込んでいけばいい。焦らずに。ただ目を背けるような事は、しないでほしい」
 そう言う京介に、公史は躊躇いながらも頷く。しかし目的の病室にたどり着いた時、彼の体の震えはどうしようもないほど激しくなっていった。
 意識がどうこうという問題ではない。心と体がバラバラになって、コントロールが完全に利かなくなっているのだ。
 ここから逃げ出してしまいたいという欲求が、彼の精神を打ちのめす。扉を潜るという単純な動作のために、これほどまでに労力を要するとは思ってもみなかった。
 しかし、只の一歩が踏み出せない。
 そんな公史を、病室の扉を開けて中で待つ沙也加は急き立てるでもなく、ただ沈黙を持って彼を待っていた。京介も後ろから大人しく見守っている。
 公史は彼らの優しさに感謝しながらも、情けない自身に羞恥を感じた。耳が熱を発したように赤くなり、唇を噛みしめながらも足を動かそうとするが、やはり言うことをきいてはくれない。
「公史君」
 入り口の前で震えながら俯いている公史に、沙也加は哀れみを含んだ声で静かに話しかけた。
「公史君。唯を、あの子を助けてあげて」
 彼女から唯の名前を聞いた時。公史の体の震えは見るからに収まっていった。
 それに一番驚かされたのは、公史自身だ。あれほどまでに抑えきれなかったものが、まるで波が引いたように静まっていく。水流が体中を駆けめぐったかのように、心地よい冷たさが心身を解した。
「沙也加さん、俺はあいつを助けたい」
 震えが完全に収まるのを待ちながら、公史は乱れる声もかまわずに呟いた。彼女の笑顔がもう一度みたいと切実に思う。鼻先が熱くなり、涙が自然にこぼれる。
「助けたい、助けたいんだ」
 何度も何度も、公史は沙也加に訴えた。いや、沙也加よりも彼自身の心に訴えたのかもしれない。己の意思とは裏腹に、無様にも身動きが取れなかった自分に対して、公史は涙と鼻水で汚れた顔を拭いもせずに言い続けた。
「そうね、約束は守ってもらわなきゃ」
『約束したでしょう?』
 沙也加の優しい声が、公史の記憶にある声と重なった。そしてノスタルジックな感覚が、彼の感情に触れ、断片化された記憶が脳裏に弾ける。
『あの子を助けてくれると、約束したでしょう?』
 それは病室で目覚める直前。彼の顔を覗き込みながら、沙也加が言った言葉。
 あの時彼は彼女を唯と勘違いしていたので、その声までもが唯と酷似していた気がする。しかしその後でも、沙也加の声と唯の声が似ていると思ったことは何回かあったし、そのたびに気恥ずかしさを感じたものだ。
 しかしもう一つ、もっと昔に聞かされたような記憶が、消化不良を起こしたようにこびり付いた。
『この子を助けてあげなさい、約束だぞ』
 そして懐かしい父の声が呼びおこされれ、その言葉が徐々に沙也加の声色に変わる。それは唯が神坂家にやって来た時に、交わした言葉だった。
『この子を助けてあげて、約束よ』
 公史は混乱する記憶をどうすることも出来ずに、呆然と沙也加の顔を見上げた。彼女は変わらない笑みを浮かべて彼を見つめている。その表情も、何故か懐かしい。
「沙也加さん、あなたは……」
 公史は喉まで出掛かった疑問を、寸前でかみ殺した。未だ時折、妄想に混乱する現状の中で、今彼が体験した感覚がはたして本当の物なのか判らなかったからだ。沙也加とは病室で会ったのが初対面だったはずだから、今感じている感情は幻だと分かり切っている。
 しかしそれでも、心の中に何かが引っかかっているようで、今ひとつスッキリしない。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもないです」
 公史は気恥ずかしげに沙也加の目から視線を逸らし、涙と鼻水で濡れた顔をハンカチで拭くと、室内に足を踏み入れた。
 集中治療室と書かれたその病室は、周囲を生命維持装置で固められていた。何の用途で使うのか判らない機器類が整然と並べられ、単調な電子音が静かな室内に鼓動している。
 その機械類の中央にはベッドが置かれていて、コード類やチューブなどが患者に接続されていた。
「達彦さんよ、本物のね」
 沙也加は静かに口を開いた。
「彼は四年前に山林にうち捨てられていた。そこを偶然通りがかった人に発見されて、この病院に運ばれたの。
 顔も酸で灼かれ、歯も全て抜かれてるから身元もわからない。彼は一時呼吸停止したらしいけど、奇跡的に命を吹き返したそうよ。そのまま植物状態だけどね」
「……酷い」
 公史は達彦と呼ばれた患者の姿を見て、嫌悪感にあえいだ。
 顔中を包帯で巻かれてはいたが、目の部分から見える皮膚は赤黒く爛れている。ピクリとも動かない体にまるで人形のような錯覚を覚えるが、かろうじて胸が上下している事とそれに連動した呼吸音で、彼が生きていることが判った。
「麻生尚紀は彼の戸籍を盗んだ後、本物の彼を消そうとしたんでしょう。今の時勢、山中で自殺なんてそう珍しい事ではないですから」
 後ろで今まで黙っていた京介も、沙也加の説明を助けるように口を開いた。
「しかし警察を後ろ盾にとっているからと言っても、あまりにも大雑把なやり方ですな。まぁ過去の恨みを晴らすためだろうが……」
「じゃぁ、これは麻生尚紀が単独でやったことなんですか?」
「もちろん何人かは手伝ったでしょうが、アイデアは奴が出したんでしょう。生きながら酸で灼いて山中に放り出すなんて、正気の沙汰じゃない」
「彼は今どこにいるんですか?」
 公史の質問に、沙也加は少し困ったような表情を見せた。
「公史君が彼に撃たれてから半年。彼は唯ちゃんと共に失踪したわ。あの日、私たちが駆けつけた時は既に彼はいなかった。
 あの部屋に残されていたのは書斎に倒れていた公史君と、麻生を手伝っていた護衛の黒服、三人の死体だけだったから。
 でもあの時公史君だけを連れて帰ったのは正解だったようね。もう少し遅れていたら、その後事件を内密に処理しようとした人たちに、完全に殺されていたわよ」
「今まで協力していた仲間も殺すなんて……」
「また暴走したんだよ。十年前と同じようにな」
 京介はベッドの手すりを握りしめると、忌々しげに言い放った。感情が高ぶっているのか、公史に対しての敬語も忘れている。
「今や奴は科学庁と警察をも敵に回したんだ。警察はメンツをかけて奴を捕らえる気だよ。馬鹿なことをしたもんだ」
「でも、なんで彼は唯を? 彼の目的ってなんなのでしょうか?」
 唯が何故誘拐されなくてはならなかったのか。公史はそこが一番気にかかっていた。あらゆるモノを敵に回してまで、彼女を拉致する必要性が無いように思えるのだ。
「あの時、麻生は唯に用があると言っていましたけど、なんで……」
 そう言って、また屈辱に心を焦がされた公史は、唇を噛みしめて押し黙ってしまった。沙也加は公史の肩に手を置くと、しばらく黙って彼の心が癒されるのを待つ。
 そして彼女は、何かを吹っ切れさせたよに微笑むと、公史の目を見つめた。
「公史君に見せたい物があるの」
 沙也加はこの時、事件の真相の全てを公史に伝える決意をしていた。
 それは彼女が生まれてから今までの中で、一番予測のつかない賭だった。もしかすると公史の心を再起不能なまでに傷つける恐れがあったからだ。
 しかし、それでも沙也加は彼に掛けてみたいと思った。どのような結果が出るにせよ、彼女の過去を清算するために、それは通らなくてはならない関門なのだ。
 そして、沙也加の悪夢が終わりを告げる……。