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PARTⅥ
 公史は森林の中を走り抜けた。
 迷いはなかった。不思議と体が軽くなったような気がする。
 そして眼前に目的の場所であろう白い家屋を見つけると、彼の足はさらに速まった。
 唯に会いたい。
 それだけが彼の心を突き動かしていた。
 麻生尚紀の隠れ家は、木々に埋もれるように、ひっそりと佇んでいた。
 蔓草に覆われた白い壁が、月明かりに照らされて不気味に光っている。
 彼は玄関の扉が何故か開け放たれているのを見ると、汗ばみ始めた銃のグリップを握りしめ、慎重に足を忍ばせた。
 そうして公史は玄関からの進入に成功すると、まず底に漂う微かな異臭に気付いて、思わず鼻を押さえた。その臭いは生物が排出する糞尿の臭いであり、どうやらそれはこの家中に染みついているようだった。
 奥からは、動物の鳴き声のような甲高い音が微かに聞こえる。
 彼はその音に警戒して足をとめたが、問題ないと判ると玄関をまっすぐ進んで、たどり着いた部屋を見回した。
 居間の床一面には脱ぎ捨てられた洋服や、投げ捨てられて腐った食料などが散乱していた。その上を時折小さな影が這うように走っていた。どうやら虫やネズミの類が巣を作っているらしい。
 公史はあまりにも不快な惨状に顔をしかめた。ここは真っ当な人間の住める場所ではないようだ。
 歩くたびに度々何か柔らかいものを踏みつけたが、それが何であるかは考えないことにした。
 公史は銃を構え直すと、再び耳を澄ませた。
 先ほどから聞こえる音は、歩を進めるにつれてだんだんと大きくなり、悪臭もそれに比例するように強くなっていった。
 彼は緊張で顔を強張らせながら、音のする方向へと進むと、一つの扉の前で立ち止まった。その声はこの扉から漏れ出ていた。
 ここまで近くに来ると、一定の間隔で鳴っていた音が人の声であることがわかる。
 まるで金属を摺り合わせたような声に、公史はさらに顔をしかめた。
 森林の中で見た尚紀の奇行が、脳裏をよぎったのだ。
(ここにいるな……)
 公史はそう確信すると、早鐘のような鼓動を感じながら銃のげき鉄を下ろしす。そして彼は意を決したようにドアノブをまわして、扉を蹴り開けた。
「そこまでだ! 麻生!」
 公史は銃を両手で構えて怒鳴った。
 しかし、何の反応もない。
 ここはどうやら寝室のようで、黒い影がベッドの上に乗っていた。
 奇妙な声はその影から聞こえているが、彼の一括にも何の反応も見せずに、しきりに声を張り上げている。
「なんだこれは?」
 不審に思った公史は左手で扉近くの壁をさぐって、電気のスイッチを入れた。
 寝室が急に明るさを取り戻し、今までボンヤリとしていたシルエットが全て照らし出される。
 そして公史は、飛び込んできた情景に目を見開いた。
 唯がその白い裸体をさらけ出して、ベッドに横たわっていた。彼女の体は痩せ細り、左腕には点滴のチューブが巻き付いている。
 そしてやはり半裸の尚紀が、唯に跨るようにして絡みついていた。その首には唯のか細い指が食い込んでいる。顔はどす黒く変色し、だらしなく開いた口から舌が垂れ下がっていた。
 しかしそれでも唯は無表情に、耳障りな声を発しながら尚紀の首を絞め続けていた。ギリギリと皮膚を絞る音が、公史の耳にまで届いていた。
「唯……」
 公史はその光景に拳銃を取り落とすと、ベッドに駆け寄って彼女の名を呼んだ。
 そして彼女の手をとり、尚紀の骸を引きはがしたが、それでも唯は依然その手を下ろそうとはしない。
「唯! 俺だ! 判らないのか?」
 公史は彼女の頭をグシャグシャと撫でると、虚ろな目で叫んでいる唯の頭を抱きしめた。余りのことに、どんな反応を示して良いかわからず錯乱する
 戦いを決意した時、公史は幾度も唯を助け出した時の光景を心に描いていた。全てを終わらせた時、彼の側には愛くるしい笑顔をたたえた唯が隣にいるはずだった。しかし現実は彼の甘い予想を易々と切り裂いたのだ。
 彼女は明らかに精神を犯されていた。
 あの日、唯一の心の支えであった兄を失ったと思い込んだ唯は、そのまま心を閉ざしてしまったのだ。それに加えて麻生尚紀に陵辱されそうになり、彼女の精神は深い傷を負ってしまっていた。
 それを理解した時、言葉に出来ない衝撃が公史を襲った。頭の中が滅茶苦茶になり、悲しみの声さえも出ない。
 彼は悲痛な表情で両手で顔を覆うと、震えた手で唯の頬をなぞった。
「ああああああっ」
 この時彼の喉奥から、初めて声が吹き出した。
 楔で穿たれたような熱い痛みが胸に広がり、ともすれば暴走してしまいそうな感情を押さえることが出来なかったのだ。
 公史は彼女の小さな頭を胸に引き寄せ、咽び泣きながら濡れた頬をすり寄せた。
 彼女はまるで蝋人形のように動く気配さえ無く、その声だけが彼女の生存を証明していた。
「戻って来い」
 公史は夢の世界に閉じこもった唯に、すがるような声で懇願した。
「戻って来い。戻って来てくれよ!」
 しかし何度呼びかけても、彼女の瞳に光が灯ることはなかった。
公史は、追っ手を一掃した京介と沙也加が部屋に入ってくるまで、唯に呼びかけていた。
 堪りかねた沙也加は沈痛な面持ちで公史を止めたものの、彼はその後も彼女に常に寄り添って離れようとはしない。
 外では、いつしか戦いを終えたエージェントが撤収作業に入っていた。
 そして彼らが唯を病院へ運ぼうとする時も、公史は彼女に寄り添い続けた。
 傷つき窶れた唯の心を、どうにかして癒したかった。
 父親である憲一が死んだ時彼は、自分が死んだら彼女はどんな反応するかと考えたこともある。
 しかし……。
「ここまでなんて、お前、いき過ぎだよ……」
 公史はMAGIのヘリコプターで唯と共に護送されながら、寂しい笑顔を浮かべた。
「お願いだから、戻って来いよ……」
 公史は、睡眠薬を投与されて安らかに眠っている唯に囁いた。
 唯の笑顔が見たかった。
 神でも悪魔でも、願いを叶えてくれるならどちらでも良い。
 だから……。
「戻ってこい……」
 しかし結局、彼の願いは届かなかったのである……。

 こうして神坂代議士殺人事件と、妊婦連続自殺事件の二つの事件は一応の解決を見せた。
 だが一般に流布された情報には変化はなく、代議士殺人事件の犯人、規崎達彦は無期懲役。そして妊婦自殺事件は、麻薬事件として取り扱われた。
 だがその裏で、警察内で極秘に組織されていた戦闘集団はその名を明かす事無く壊滅寸前となり、又、何者かが告発した検挙率水増しという不正が警察庁の内部監査を動かした。
 これが元となり、警視庁はその中枢の殆どを総入れ替えする必要に迫られ、現在その処理が行われている。
 一方、平刑事であった加藤京介は、うやむやになった処分をいいことに職場復帰。
 MAGIのチーフエージェントである舞嶋沙也加は、単独捜査の責任を負わされながらも四ヶ月後に復帰している。
 神坂公史はMAGIのエージェントとして組織に入り、失意のうちに渡米。その妹である唯は沙也加に引き取られ、姓を神坂から舞嶋へと変えた。
 彼女は病院で治療を受けているものの、回復の見込みは立っていない。
 そして、これらの事件は例外なく時間に埋もれ、大衆の記憶からも次第に忘れ去られていった……。