稲荷山蕎麦店繁盛記 二杯目(2)

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『夜見』 稲荷山蕎麦の店先で、夜見は犬と見詰め合っている。 ついさっきやってきた春が連れていた犬で、賢そうな顔をした日本犬だった。主人のことを待っているようで置物みたいに寸分も動かない。 夜見は腰を落として目線を犬にあわせ、じいっとその目を覗き込んだ。 にらみあいのようにも見えるし、テレパシーで通信しているようにも見える。夜見はしばらくそうして、たまらず手を伸ばした。 ワシワシと乱暴に犬の頭をなでる。犬のほうはというと、抵抗もせずにワシワシとされるのを受け入れている。犬がくすぐったそうに目を細めた。 がらがらと戸が開いて、春が外へと出てきた。夜見には春の姿は背の低い老人に見える。その老人が「そろそろ行くよ」と犬に声をかけると犬は、魔法が解けたみたいにしなやかにするすると動き、春の傍らへと付き添った。夜見は腰を上げた。春に続いて女将と向日葵も暖簾をくぐってやってくる。 「夜見ちゃん、ここにいたんだー」向日葵が驚いた声を上げて、さーぼーりーさーぼーりーと袖を引っ張ってくる。女将がじろっと見てきたので「客の、呼び込み」と嘘をついた。「あたしが、春、呼び込んだ」と続ける。「嘘おっしゃい」と女将は呆れ顔で夜見を見つめ、向日葵は「すげー」と声を上げた。 ふふふと春が暖かく笑った。ふんわりと花の香りがする。口の開いたそば粉の袋を傍らにもって、犬の背にまたがった。「貴方方の春が素敵に訪れますことを」 「またな」と犬が低い声で呟いて、一人と一匹は瞬く間に目の前から消えた。 『桜』 ぼんやりと外を眺めていたら、前の通りを春が駆け抜けていくのがみえた。そんな季節なんだ。これで何回目なんだろうと桜は考える。私がこの世界から中途半端に切り離されて何回目の春なのかと。 「あと、どれくらいこっちにいられるんだろうね」薬棚にひっそりと埋もれた写真立てにこそりと呟いてみる。「あと、どれくらいこっちにいたら君に会えるんだろうね」自分の気持ちがバラバラであることに可笑しさを感じるのはいつものことだ。 乙女心は複雑なのさと写真の中の彼は笑っている。 「何にも知らないくせに」知ったかぶりの彼の口を自分の口で塞いだ。 『親方』 「はーなーみーいーきーたーいー」と向日葵が駄々をこねている声が厨房まで聞こえてくる。「二人だけでずるいー」どうやら骨董品店の少年二人がこれから花見に行くということらしい。弁当でも持たせてやろうかと親方はあぶらげを手にとって準備を始める。 「あんたは仕事だろうが」これは女将か。まだ春の余韻が続いているのか、その声はふわふわとしていた。店の外も今頃は春の陽気だろうか? 灰の代用品であるそば粉を振りまきながら、桜でも咲かせているかもしれない。そば粉が春を伝えるというのは可笑しな話だが、灰が出にくくなった昨今では当たり前のことらしい。 春色のべんとばこにいなりずしを詰め、ついでに唐揚げを揚げる。 慣れないからか、熱気に負けて窓を開けた。春風がほほをなでる。 本来なら揚げ物は大黒屋の仕事なのだが、花粉症で今は薬屋に行っていた。からりと揚がった唐揚げを同じようにつめ、向日葵を呼ぶ。 そのとき、桜の花びらが一枚、ふわりと外から舞ってきていなりの上に乗った。こいつぁ風流だねぇと一瞬、仕事を休みたくなる。 『大黒屋』 予想外の事態だった。遠巻きにみていただけの美術品が、今、目の前に立っている。「花粉症ですか?」しかもしゃべった。 頭の中が真っ白になった。かろうじて思考できることがあるとすれば、近くで見ても彼女は美しいというだけだった。 それなのに自分は…ぼさぼさの頭に、ぐるぐる眼鏡、さらに大きなマスク。花粉症という悪鬼のせいで身なりのことなんか一片も考えられなかったのだ。 「話せないほどひどいのですか?」心配そうに彼女が尋ねてくる。 切れ長の目、長いまつげ、突き刺さる声、美しい唇。 「はだぜばず」話せていないのは自分でも分かった。 「鼻…ですね。そのお薬なら」 「あど!」と知らないうちに大きな声が出ていた。 「はい?ほかにもどこかお悪いのですか?」 「あど…でんぶらを」「でんぶら?」鼻を思いっきりすすって言い直す。格好悪い。しかしこんな姿を見せるのは彼女が最初で最後だ。 「てんぷらを食べに来ませんか?」頼みます、てんぷらの神様と祈っていた。 『向日葵』 「はなみー…?」蕎麦の上に乗った桜の花びらを眺めていた。 薄くピンク色で、ひらひらくるくるおつゆの上で踊っている。 「立派な花見じゃないか」ケンケンと女将さんが笑った。いまいち納得がいかない。もっと満開の桜がいいのにー。 「お嬢」親方が向日葵を呼んだ。「ここに座ってみてごらんなさい」 言われたようにする。親方の横に腰掛けて、そこから窓の外を眺めた。 「風流じゃありませんか?」優しい声が耳元で聞こえた。 暖かい春風に舞う桜の花と太陽の光にきらきらとひかるそば粉。 ここから見上げるそれは大きな一本の桜の木に見えた。 「はなみー」満面の笑みを浮かべて向日葵は親方に飛びついた。 空に光るは蕎麦の粉 それで蕾がひらくとは 奇妙奇天烈摩訶不思議 これにてさくらそば、おしまいにてございます。 え?天麩羅屋と桜さんはどうなったかって? そいつぁ当然…別なお話でぇございます。 [[戻る>稲荷山蕎麦店繁盛記]]
『夜見』 稲荷山蕎麦の店先で、夜見は犬と見詰め合っている。 ついさっきやってきた春が連れていた犬で、賢そうな顔をした日本犬だった。主人のことを待っているようで置物みたいに寸分も動かない。 夜見は腰を落として目線を犬にあわせ、じいっとその目を覗き込んだ。 にらみあいのようにも見えるし、テレパシーで通信しているようにも見える。夜見はしばらくそうして、たまらず手を伸ばした。 ワシワシと乱暴に犬の頭をなでる。犬のほうはというと、抵抗もせずにワシワシとされるのを受け入れている。犬がくすぐったそうに目を細めた。 がらがらと戸が開いて、春が外へと出てきた。夜見には春の姿は背の低い老人に見える。その老人が「そろそろ行くよ」と犬に声をかけると犬は、魔法が解けたみたいにしなやかにするすると動き、春の傍らへと付き添った。夜見は腰を上げた。春に続いて女将と向日葵も暖簾をくぐってやってくる。 「夜見ちゃん、ここにいたんだー」向日葵が驚いた声を上げて、さーぼーりーさーぼーりーと袖を引っ張ってくる。女将がじろっと見てきたので「客の、呼び込み」と嘘をついた。「あたしが、春、呼び込んだ」と続ける。「嘘おっしゃい」と女将は呆れ顔で夜見を見つめ、向日葵は「すげー」と声を上げた。 ふふふと春が暖かく笑った。ふんわりと花の香りがする。口の開いたそば粉の袋を傍らにもって、犬の背にまたがった。「貴方方の春が素敵に訪れますことを」 「またな」と犬が低い声で呟いて、一人と一匹は瞬く間に目の前から消えた。 『桜』 ぼんやりと外を眺めていたら、前の通りを春が駆け抜けていくのがみえた。そんな季節なんだ。これで何回目なんだろうと桜は考える。私がこの世界から中途半端に切り離されて何回目の春なのかと。 「あと、どれくらいこっちにいられるんだろうね」薬棚にひっそりと埋もれた写真立てにこそりと呟いてみる。「あと、どれくらいこっちにいたら君に会えるんだろうね」自分の気持ちがバラバラであることに可笑しさを感じるのはいつものことだ。 乙女心は複雑なのさと写真の中の彼は笑っている。 「何にも知らないくせに」知ったかぶりの彼の口を自分の口で塞いだ。 『親方』 「はーなーみーいーきーたーいー」と向日葵が駄々をこねている声が厨房まで聞こえてくる。「二人だけでずるいー」どうやら骨董品店の少年二人がこれから花見に行くということらしい。弁当でも持たせてやろうかと親方はあぶらげを手にとって準備を始める。 「あんたは仕事だろうが」これは女将か。まだ春の余韻が続いているのか、その声はふわふわとしていた。店の外も今頃は春の陽気だろうか? 灰の代用品であるそば粉を振りまきながら、桜でも咲かせているかもしれない。そば粉が春を伝えるというのは可笑しな話だが、灰が出にくくなった昨今では当たり前のことらしい。 春色のべんとばこにいなりずしを詰め、ついでに唐揚げを揚げる。 慣れないからか、熱気に負けて窓を開けた。春風がほほをなでる。 本来なら揚げ物は大黒屋の仕事なのだが、花粉症で今は薬屋に行っていた。からりと揚がった唐揚げを同じようにつめ、向日葵を呼ぶ。 そのとき、桜の花びらが一枚、ふわりと外から舞ってきていなりの上に乗った。こいつぁ風流だねぇと一瞬、仕事を休みたくなる。 『大黒屋』 予想外の事態だった。遠巻きにみていただけの美術品が、今、目の前に立っている。「花粉症ですか?」しかもしゃべった。 頭の中が真っ白になった。かろうじて思考できることがあるとすれば、近くで見ても彼女は美しいというだけだった。 それなのに自分は…ぼさぼさの頭に、ぐるぐる眼鏡、さらに大きなマスク。花粉症という悪鬼のせいで身なりのことなんか一片も考えられなかったのだ。 「話せないほどひどいのですか?」心配そうに彼女が尋ねてくる。 切れ長の目、長いまつげ、突き刺さる声、美しい唇。 「はだぜばず」話せていないのは自分でも分かった。 「鼻…ですね。そのお薬なら」 「あど!」と知らないうちに大きな声が出ていた。 「はい?ほかにもどこかお悪いのですか?」 「あど…でんぶらを」「でんぶら?」鼻を思いっきりすすって言い直す。格好悪い。しかしこんな姿を見せるのは彼女が最初で最後だ。 「てんぷらを食べに来ませんか?」頼みます、てんぷらの神様と祈っていた。 『向日葵』 「はなみー…?」蕎麦の上に乗った桜の花びらを眺めていた。 薄くピンク色で、ひらひらくるくるおつゆの上で踊っている。 「立派な花見じゃないか」ケンケンと女将さんが笑った。いまいち納得がいかない。もっと満開の桜がいいのにー。 「お嬢」親方が向日葵を呼んだ。「ここに座ってみてごらんなさい」 言われたようにする。親方の横に腰掛けて、そこから窓の外を眺めた。 「風流じゃありませんか?」優しい声が耳元で聞こえた。 暖かい春風に舞う桜の花と太陽の光にきらきらとひかるそば粉。 ここから見上げるそれは大きな一本の桜の木に見えた。 「はなみー」満面の笑みを浮かべて向日葵は親方に飛びついた。 空に光るは蕎麦の粉 それで蕾がひらくとは 奇妙奇天烈摩訶不思議 これにてさくらそば、おしまいにてございます。 え?天麩羅屋と桜さんはどうなったかって? そいつぁ当然…別なお話でぇございます。 [[食休み!>稲荷山蕎麦店繁盛記]] [[三杯目おかわり!>稲荷山蕎麦店繁盛記 三杯目]]

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