稲荷山蕎麦店繁盛記 四杯目(2)


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「夜見」
眠っている人間の頬は突きたくなる。
夜見はそっと手を伸ばして、目の前の少女の頬に人差し指を伸ばした。
しっとりしてやわらかくて暖かい。こねた小麦粉みたいだ。
この少女は月から落ちてきたらしい。向日葵と女将がそう話しているのを聞いた。
月。漆黒の闇を照らす唯一の明かり。夜見にとってそれはオセロの裏のような存在に近かった。裏。「…あたしのほうが裏か」頬をつつきながらぼそりと呟く。
こうして頬を突くのは、夜が月をじわじわ覆い隠すのと似ているなと思って少し笑った。指を止めてそっと動かす。
あたし月に触れてるんだ。夜見はなんだか誇らしい気持ちになる。
「夜見ぃ」と女将の呼ぶ声が聞こえた。

『大黒屋』
さっきから夜見はかがんで何をやってるんだろう。同じ厨房の椅子に座っていた大黒屋は考えた。あんなに突いたら目を覚ましてしまうだろうに。
でも、確かに珍しいものに触れてみたいという気持ちは分からなくもなかった。見たこともない美しい衣になら僕だって触れてみたい。
「まさか月から人が落ちてくるとはね」と女将は言っていたけど、それよりも月に人が住んでることに驚いた。月にも蕎麦屋はあるのだろうか?天麩羅はあるのだろうか?月。蕎麦。
その二文字を思い浮かべたら猛烈にアレが食べたくなってきた。
こんな時間に起こしたら「親方」は怒るだろうか?
年寄りは寝るのが早いからなぁと思いつつ、奥に向かって「おやかたぁ」と呼んでみる。答えるように女将の声が夜見を呼んだ。

『向日葵』
「二人で本屋に行っときておくれよ」と女将さんはいった。
「本屋さんですか?」こんな暗いのに?
「あすこの眼鏡先生なら知恵を借りれそうだからね」
「眼鏡先生?」誰それ?
「箪笥書店でしょ」厨房からゆっくり出てきた夜見ちゃんがこちらへ来た。「あの本に埋もれてる人」
「あぁ!」箪笥書店と聞いてやっと分かった。「暁お姉ちゃんのところか」暁はいつも文庫本を片手にお店にやってくるお姉さんだ。
天麩羅蕎麦が好きでよく食べているけど、なぜか必ずそれと一緒に狐弁当を一つ頼んで、食べずに持って帰る。たしかにいっぱい本を読んでるから頭はいいに違いない。
「でもさお姉ちゃんは先生じゃないよ」女将さんに教えてあげたが、逆に「そのお姉ちゃんに先生がいるのよ」夜見ちゃんに教えてもらう。
「ふーん、お姉ちゃんの先生だからもっと頭がいいんだろうなぁ」
「変人だけどね」くすっと夜見ちゃんが笑った。
「変人だけどね」ケケケと女将さんも笑った。
もちろんつられて向日葵も「変人かー」と笑った。

『眼鏡先生』
失礼だなぁとなんとなく思った。
ということはどこかで誰かが私に対して失礼なことをいったに違いないが、腹を立てても意味がないので口に出してみた。
「失礼だなぁ」
もちろん答えが返ってくるわけがないので、その言葉は宙にふわふわと浮いてしまったのだがそれはそれで良かった。
この部屋に浮いている無数の言葉を一つ一つ手にとって作業している私にとって、言葉が増えるのは新たな世界への扉が開くのと似ている。
どこかの誰かさんが失礼なことを言ってくれたことに感謝しながら、手元の原稿用紙に目を戻した。若々しい新芽のような文章だった。
次のページへと手を掛けたところでつかつかと迫ってくる音が聞こえた。ばれたかと頭を掻いた。意外と視野が広いんだなぁ。
「失礼します!!」
引き戸が思いっきり引かれて、周りの本がどさどさと床に落ちた。
それらを目に留めず、足早に暁が向かってきた。机をバチンと叩く。
「返してください!」
「主語が抜けているよ」そっと手元の原稿を腕で隠す。
「隠したって無駄ですよ」彼女がじっと真正面から見てくる。
「犯人はあなたしかいないでしょうに!」
「だから主語が抜けてるって」そういいながら目を逸らしてしまった。この真っ直ぐな目の持つ力は大きい。
「主語って!わた、私の…」なぜか彼女の声が小さくなる。
「ごめんくださーい」そこでタイミングよく玄関から声がした。こんな時間にと不思議に思ったが、助け舟であることに変わりはない。
「お客」右手で眼鏡を押し上げ私は言った。「出てくれる?」
暁は何か言おうとして、じろっと私を睨んでぷいっと踵を返した。
「泥棒」と小さく言うのが聞こえた。
「失礼だなぁ」さっそく宙に浮いた言葉を私は使った。


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