稲荷山蕎麦店繁盛記 一杯目

「近くて遠い食べ物屋さんてどーこだ?」

答えはなんだか分かりやすね?そう、答えは蕎麦屋。
いやいや駄洒落を言おうってわけじゃぁありやせん。
じつはこの謎かけ、まことのはなしなんでさぁ。さてさて、これからお話しいたしますのは…近くて遠いまさにそのとおりの、或る蕎麦屋のお話であります。

『お菊』
一杯目『かけそばの巻』
「ごちそうさまでしたぁ!」
稲荷山蕎麦店自慢の天麩羅蕎麦を綺麗に平らげた坊と連れの和服の女が行儀よく頭を下げて、店の外へと出て行った。
「またきておくれよ!」女将であるお菊がにっこり笑って答える。
がらがらぴしゃっと戸が閉まったのを見届けて、ふぅとお菊は息をついた。忙しい時間が過ぎたのだ。店の中にお客の姿はない。
お客がいなくなってしまうとちょっとだけ寂しくなる。
こりゃ職業病かねと笑いながら、先日習った女将体操をしていると、女将さーんと厨房に続く青暖簾をくぐって背の小さな女の子がかけて来た。稲荷山蕎麦店の紺の制服に白い前掛け。前掛けには向日葵の刺繍がされている。このちびっ子が稲荷山の表看板娘、向日葵である。
「海雫ちゃんたちで最後のお客さんですか?」
「最後って向日葵ちゃん、縁起が悪いじゃないかぁ」お菊はわざと顔をしかめて、女の子のつむじをぐりぐり押した。
「ぁぁぁ…いいかた間違えましたぁぁ…お昼の時間は終わりましたかぁぁぁ」
「そうみたいだねぇ。みんなお昼寝の時間に入ったようだからさ」
ご飯を食べたら寝る。これが世界の理なのだ。
「了解ぃぃぃ」声を震わせながら向日葵が答える。この子つむじが二つあるねとぼんやり思ったときだった。あららと思い出したのは。
「向日葵ちゃん」二つのつむじを同時に押しながらお菊は言った。
「かけそば用意しとくように親方に言っといてくれる?」

「ごめんくださいな」七番棚の大旦那がやってきたのはすぐだった。
おおかた、どこかで孫の情報でも仕入れたに違いない。爺馬鹿だ。
「予想通りだねぇ、清十郎ちゃん」お菊はけんけん笑って彼を迎えた。
「客商売は笑顔からというけどねお菊、その笑いはよくないよ」
「だってあんた、孫となるとすっ飛んでくるんだもの。あたしゃ可笑しくて可笑しくて」
けえんけんけんけんとお菊の笑いが止まらなくなってしまったので、向日葵がかわりに大旦那を二階へと案内することにした。

『向日葵』
「いつもお二階でお食事するんだ…ですね」海雫のお祖父ちゃんと聞いて、思わず敬語を忘れそうになる。「一階じゃ駄目なの、ですか?」なんだか変だ。
「一階だと見えないんだよ」優しく大旦那は笑った。「まぁ見えるには見えるんだけど」なんのことかさっぱり分からない。
ぎしぎしいう階段を昇りきると、そこは広いお座敷だ。真っ白なふすまにいい匂いのするきらきらの畳。昼寝がしたくなってきた。
気がつくと大旦那はよっこらしょと隅の窓があるところに腰を下ろしていた。わざとっぽくて少し気になった。ずっと窓の外を見ているのだ。
とてとてと近寄ってみる。ひょっとしたらこの二階からしか見れない、なにか面白いものがあるのかもしれない。
「なにがあるの?」敬語を忘れ、向日葵はにゅっと首を外へと突き出した。別段なにもあるわけじゃない。ピンク色のぞうも歩いていない。
ただ、外にはいつもの大通りと狐塚骨董品店があるだけだ。
そこまで考えて向日葵はなるほどと思った。お祖父ちゃんだもんねと。
だから「海雫ちゃんは元気だよ」と教えてあげた。
大旦那はびっくりして向日葵をみたが、やがて嬉しそうに微笑んで「かけそばを一つ」と言った。

『清十郎』
階段を上がってくる音が聞こえて、ふすまのほうに目をやるとお菊が私のかけそばを持ってくるところだった。あの小さな女の子が届けに来ないのはきっとお菊が私のことを笑いたいがために自分で持っていくと言ったに違いない。
「おまちどうです」狐目の女将はかけそばを私の前に置くと、自分もセットみたいに正面に座った。
「爺馬鹿だねぇ、あんたも」ほぅら、きたぞ。
「孫の話聞きつけてはここの二階からこっそり覗いて、悪趣味ったらありゃしないよ」
「なんとでもいえ」私は笑った。「可愛くてしかたないんだよ」
「ほら爺馬鹿だ」
この二階からは狐塚骨董品店がよく見える。


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最終更新:2011年01月20日 21:24
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