稲荷山蕎麦店繁盛記 二杯目(1)


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はーるがきーた!はーるがきーた!どーこーにーきたー?
やーまにきーた!さーとーにきーたー!のーにーもーきたー!
お耳汚し失礼いたしました。そう私が今こうして歌いましたとおり、
暖かい春がやってまいりました。そうそれは近くて遠いあの場所にも
今まさにやってきたのでございます。

『出前:さくらそばの巻(1)』

『大黒屋』
彼女の姿を見るのはいつも桜の木の前だった。
憂いを帯びた目で、じっと桜の木を見つめている。それが私の知っている彼女だ。綺麗な唐傘をくるくると回しながら、なにをするわけでもなく桜の木の前にたたずんでいる。美しかった。本当の美に必要な儚さやもろさを彼女は備えていた。だから私はひとつの美術品を見るように遠くから彼女を見ているだけだった。それで十分だった。

『夜見』
稲荷山の裏看板娘、影縫夜見は遠くから迫り来る春の陽気を、ひしひしと感じていた。またあの騒がしい季節が来るのだと思うと落ち着かない。寝起きの熊の咆哮、子猫のあくび、植物の背伸びの音に蟻のマーチ。生きとし生けるもののスタートの季節、全てのものの目覚めの時期。遠くから暖かい風が吹いてくる。さぁおいでになったわねと夜見はあくびをかみ殺した。

『お菊』
そろそろかと思っていたらやっぱり来た。春のことだ。
「今年もまた来れることができました」春はニコニコ笑いながらカウンター席に腰掛けて一息ついた。
「毎年お疲れ様だねぇ」お菊は蕎麦茶をテーブルに置くと、春の隣の席に腰掛けた。ふんわり暖かい気流が春のほうから流れてくる。
「いやいや、これが私の仕事ですから」そういって春が蕎麦茶をずずずとすする。「あぁ、美味い。毎年の楽しみなんですよ。ここで一息つくの」
「嬉しいこといってくれるじゃないか。年中無休、みんなのための稲荷山蕎麦としては最高の褒めことばだよ」そういってお菊はにっこりと微笑んだ。
「はるはるはる!」さっそく春の陽気に誘われたのか、どたどたどたと騒がしく階段を踏み鳴らして向日葵が降りてきた。
「うわっ!ほんとにいる!」おおげさに驚いた声を上げる。
「あんた、お客様に何てこといってんだい」と大きな声を出そうとするが、どうにもできなかった。春がいるからだ。
「こんにちは、夏のお嬢さん」春が優しい声で挨拶した。
「こんにちは」と向日葵は返して、それからじっと春を見つめて「春の…春の…もやもやさん?」と首を傾げている。
「もやもやさんか」あたしには男前に見えるんだけどねとお菊は笑った。春の姿は見る人見る人でまったく違うらしい。
どの姿も春なんですよと彼だか彼女だかは笑った。「ひとつのことばで表せないものが春ですから、なんら化けもんと変わりませんよ」
蕎麦茶を全て飲み干して、春はゆっくり立ち上がった。
「今年もいつもの貰えますか?」
「あいよ」とお菊はうなずいて、店の奥から袋をひとつ抱えて持ってきた。そば粉と書かれたその袋を見た向日葵が「蕎麦でも打つの?」と春にたずねている。春は違うよとクスクスと笑い、「これから春を伝えに行くのだ」と答えた。


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