稲荷山蕎麦店繁盛記 三杯目


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『?』
私は人より五感が鋭い人間だ。
だからこうして雑多な社会から離れ、書斎に篭って世界を紡いでいる。
だが、こうして本の海に身を埋めていようとも、感覚は研ぎ澄まされ、外の世界のことを敏感に感じ取る。ほら、いまもまた感じた。
私は人より五感が鋭い人間だ。
失恋の音などすぐに分かる。

『お菊』
「あーあーあー」
高く積み上げられた天麩羅の山を見てお菊はため息をついた。
これ見るのはずいぶん久しぶりだぁねぇ。
稲荷山蕎麦にある皿で一番大きい皿にこんもりと天麩羅が乗っかっている。しかも、天麩羅一つ一つが組み体操ようにきちんとバランスをとって皿の上に整っていた。きらきらと輝くその衣の重なりは砂金の小山にも見えなくもない。
言葉が出ないので、お菊は黙って親方を見るしかなかった。その親方も言葉を失っているのか、肩をすくめてそれに答えた。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち
そんな二人をからかうように天麩羅が笑う。
食っちまうよとお菊は天麩羅をひとにらみして、そして大黒屋を見た。
大黒屋は泣いていた。
顔をくしゃくしゃにしながら菜ばしを動かしている。
プロは感情に左右されないとはこのことか、わんわん泣きながらも手はしっかりと天麩羅を作り続けている。
「今日は天麩羅の日?」親方の背後から顔を覗かせていた向日葵がいった。そんな油っこい日じゃないよとお菊は苦笑する。まだそっちのほうがよかったかもしれないけどね。
「失恋記念日」くくくと笑いながら夜見が厨房に入ってきた。
「ぢがう!!」大黒屋が叫んだ。「ぎょうはおじごとがいぞがじかっただげだもん」こうなるともうただの駄々っ子だ。
「しつこい?」向日葵が意味が分からないと首を傾げた
「しちこくない!!」厨房に高温の声がよく響いた。

『??』
桜の木の下で彼女は足を止めた。ひらひらと舞う桜の花びらの贅沢なシャワーを浴びながら、春の陽気をめいっぱい吸い込む。
ほうっと体が温かくなるような感覚に包まれて、幸せになった。
あの男が言ったとおり、世界はは春真っ盛りだ。
実はおつかいの途中だった。朧月亭の新作を買ってくるように言われたのだ。めんどいですと一度は断ったのだが、春が来てますよといわれて引き受けてしまったのだ。
部屋から出ないくせに外のことは何でも分かっているようですとあの引き篭もりの伊達眼鏡のことを考える。
閉じた世界の中で、感じるだけで、彼は満足してるのだろうか?
手に触れないで、匂いを嗅がないで、自分の目で見ないで、それは幸せなことなのだろうか。
だろうかだろうかだろうか。
「あぁ…また妄想ループです」と気づいて、思考を打ち切る。
引き篭もりより練り切りと桜並木を歩き出したところで暁は見知った後姿を見つけた。

『桜』
「天麩羅」
散りゆく桜に身をゆだねて、桜はあの青年のことを考えていた。
ぼろぼろになっていて、顔も見えなかったあの男の子。
泣きながら笑って「そりゃそうですよね」と笑った顔。
「今日はおとなしく寝てください」といったのはまずかったかな。
少し口調がきつかったのかもしれない、でもひどい花粉症なのにてんぷらを食べに行きませんかなんて軽はずみなことをいうから。
「てんぷらを食べに行きませんか」
あれはどういう意味だったのだろう?分からない
てんぷらを食べに行く?稲荷山蕎麦店にかしら?
「君を口説いてたんだって」どこかから声がした。
え?辺りを見渡す。「にぶいなぁ」誰かが笑った。いや、その誰かをわたしは知っている。わたしの愛しい人だ。
「どこ?」声に出していた。彼の姿を必死に探していた。
「ここですよ?、桜さん」しかし彼の声は幼く変化し、目を向けると箪笥書店の女の子が立っていた。
「どうしたんです?さっきから呼んでたのにー。落し物ですか?」まあるい目が桜を見ていた。
「…なんでもないんです」大事な落し物はまたどこか遠くへ消えてしまった。

『大黒屋』
「……しまった」厨房の隅、腰掛けた椅子の上で大黒屋は頭を掻いた。
「揚げすぎた」


きらきらひかるは黄金の衣 揚げるは天麩羅のみならず 揚げて見せよう男もともに
さてもさてもこれにて天麩羅蕎麦の巻ひとまず完食にございます。
おやおや、お客様まだまだ物足りないご様子。いやいや腹八分目でございますよ。
それではしばしのお別れ。お粗末さまでございました

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