訃報日記2004:01月〜03月

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【イングリッド・チューリン】

日記 :: 2004年 :: 01月 :: 10日(土曜日)
ネットでイングリッド・チューリン死去の報。ベルイマン映画の名女優、ではあるのだが、そこらの作品は教養としてフィルム・センター等で観たものが多く、リアルタイムとしては『カサンドラ・クロス』(76)の怖い顔した女医のおばさんとか、『ナチ女秘密警察・SEX親衛隊』という凄いタイトルで当初は洋ピンとして公開された『サロン・キティ 鉄十字の愛人』(76)の怖い顔した高級娼婦館のおばさんとか、とにかく怖い顔したおばさん役と言えばこの人、であった。

【加藤道子】

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 01日(日曜日)
新聞に訃報二つ、ラジオ声優加藤道子氏死去、84才。第一回紅白歌合戦(もちろんラジオ)紅組司会者というから、放送の歴史そのものみたいな人である。ただし、第一回というのは1951年、『歌合戦』というタイトルになってからであって、その前身である『紅白音楽試合』(GHQのクレームで“合戦”の文字はまかりならんとされて題名を変更)は1945年、司会は水ノ江滝子と古川ロッパだった。水ノ江滝子の方はまだ生きているんだから凄い。

【10代目桂文治】

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 01日(日曜日)
さらに10代目桂文治死去、80才。パルコのCMでスクーターに乗って走っていたのももう二十年くらい前だったか。あの起用は、要するに“最もパルコらしくない人”という意図でのものだったろう。その時期から、変遷する世の中とは次元を違えた、寄席という、時の止まった、狭い世界に生きていた人であり、それ故に価値のある人だった。私はこの人の高座は、前名の伸治の時の方がよく聞いていたと思う。子供には大変にわかりやすく、笑える落語ばかりで、それだけに“まあ、あまり大物の人じゃないナ”と、小生意気なことを思っていた。今にして思えば、この人の伝えていた、いかにも長屋の八っつぁん熊さんといった雰囲気を、もっと味わっておけばよかったかな、とも思うが。

【堂垣内尚弘】

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 03日(火曜日)
新聞に堂垣内尚弘・北海道知事の訃報あり。私が中学校一年のときから、なんと3期12年、北海道知事を務めていた。土木業界出身で、『道路の路肩と法面』などという専門的著述もあるが、柔道部出身のスポーツマンで、そのイメージ通りにバイタリティ満々、札幌オリンピック招致に関わる市郊外再開発、炭坑閉山に代わる観光地としての道北の見直し、スキー場誘致によるウインタースポーツの奨励など、“ビジネスとしての北海道開発”を推進し、彼の任期中が戦後の北海道の最盛期にあたることは、まず間違いないだろう。彼の持っていたビジネスマンとしてのセンスは、時に自民権力との癒着を騒がれたりもしたが、後に彼の後を襲って知事に就任した社会党系の横路孝弘氏(彼は代々の政治家一族)が行った『食の祭典』などのイベントのことごとくが失敗に終わったのと、好対照である。

出身地の知事とはいえ、私がこのような一地方政治家のことを書き記すのは珍しいとお思いの方もいらっしゃると思うが、世の中は因縁であり、この人の存在が私の青春期のアイデンティティ確立に大きく関わっている。彼がオリンピック招致がらみで市郊外に文化施設をやたら建てまくったおかげで、オリンピック後、それらの施設がほとんどガラ空き状態のまま、貧乏ファンサークルにも比較的楽に使用できるようになっていたことが、アニメや特撮の上映会、また研究会などの会合を開くにあたり、われわれ在サッポロのオタクたちに、どれだけ利したかしれない(前にも書いたが、地方都市の住人にとっては、上映会ひとつ開くのも、それ以前は機材や会場を自由に使用できる大学のサークルなどにほぼ限られた特権だったのである)。地下鉄をはじめとする交通網の整備が、ただでさえ雪に閉ざされ引きこもりがちになる北国のオタクに、冬の間もせっせと会合で顔を合わせて情報交換や同人誌の制作に携わらせることにもなった。時代と一文化ジャンルの勃興期がたまたま重なった偶然、と言えばそれまでだが、私という人間の人格形成に、この人の存在が数パーセントは、確実に影響を与えているのだ。向こうの方ではそんなこと思いもしていなかったと思うが、とりあえず一オタク・唐沢俊一として、心からお礼を申し上げ、またご冥福を祈るもの である。

【手塚しげお】

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 10日(火曜日)
元スリーファンキーズの手塚しげお、6日に死去。62歳。“♪カナカナカナカ、ナカナカ見つからない”は今でもよく鼻歌で出る。芸歴を調べたら、『仮面ライダーストロンガー』で奇械人ゴロンガメ、なんてのをやっていたのか。うーむ。ゴロンガメだからいけない、というわけではないが、せめてギリザメスだとかガラガランダだとか、もうちょっとまともな名前の怪人だったら、と 思ってしまう。一般の人にはどちらも同じか。

【高木均】

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 13日(金曜日)
朝刊に俳優の高木均氏死去の報。ムーミンパパ、トトロの声などで子供たちにもおなじみの人ではあるが、その顔は容貌魁偉、という形容が最も適当するであろう人で、その怖いご面相をいかして、日活で団鬼六作品などSMものによく助演していた。“声が顔を裏切るのがいい役者の条件”とは井上ひさしの説だが、それで言えば、実にいい俳優と言えただろう。NHKの『新・坊ちゃん』(脚本・市川森一)では漢学の先生役で、原作では“愛嬌のあるお爺さん”としか書かれていない役だが、例の巨体とギョロ目で一癖ある守旧派の悪役として演じ、東京風を吹かす下条アトムの野だいこに鉄拳制裁を加えていた。ご冥福をお祈りいたします。

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 18日(水曜日)
このあいだのこの日記で俳優・高木均氏の訃報に対する感想を書いたが、産経新聞が、社会面『葬送』欄に、葬儀の模様を大きく取り上げていた。さすがにSM映画の常連であった、などということは書かれていないが、“「文学座三大奇優」と称されるほど、独特の存在感を持つ役者だった”と、いち脇役俳優としては異例の大きな取り上げ方をしている。葬儀には野沢雅子、肝付兼太など声優仲間が多く参列し、出棺時には『銀河鉄道999』のラストシーンの、高木氏自身によるナレーション“さらば”の声が流されたとか。このあいだの日記では井上ひさしの言葉を引いたが、その井上氏の作詞で高木氏が歌った『ムーミンパパのうた』を思い出した。
「雲の上には なにがある
 雲の上には 空がある
 空の上には なにがある
 空の上には シドがある
 ドレミファソラシド」
 ……空の上、シドの世界に旅立った名優に、改めて黙祷。

【網野善彦】

日記 :: 2004年 :: 02月 :: 28日(土曜日)
朝刊に網野善彦、谷エース、伴野朗などの各氏の訃報。網野氏の『異形の王権』や『日本中世の民衆像』とかの中世史観には、お定まりではあるが一時かなりハマッたものである。なにより、農民がただ、日がな暮れがな田畑を耕しているだけという、パッとしないイメージだった日本の民衆史を、海の民によるダイナミックな文物交流をバックにした、スリリングでカッコいいものとして呈示してくれた功績は大きいと思う。ただし、あまりに面白すぎて、読んでいるうちにホンマかいな、という疑念がわき始めるのも確かであり(江上波夫の騎馬民族説もそうだった)、また、国家という主義や概念を嫌う人々が、その思想的よりどころのようにして網野史観を持ち上げる風潮にも、ちょっと違和感を感じていたことは確かである。そういう色眼鏡を外した視点から氏の学術的業績を確認することが、難しくなってしまっているのだ。

【42代横綱・鏡里】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 02日(火曜日)
42代横綱・鏡里死去、80歳。突き出た太鼓腹から“土俵の満月” “錦絵の相撲取り”と称えられた、とネットでの記事にあったが、キネマ旬報で以前、誰だったかが(古田タクだったか?)が、“爬虫類の鏡里”というアダ名があった、と紹介していた。『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』でジャバ・ザ・ハットを見ていたら、その名前を思い出したんだそうである。

【神山卓三】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 17日(水曜日)
読売朝刊に声優の神山卓三氏死去の報。敗血症、72歳。『狼少年ケン』の悪役である虎、熊、ゴリラの(インドが舞台なのにゴリラがいるというのがこの時代のアニメの融通だが)トリオのうち、一番のコメディ・リリーフであるゴリラ役で知った名前。この時、私は5歳。つまりは、本当に子供の頃から、私が育ててもらった声、なのである。このゴリラに限らず、『ハッスルパンチ』のヌーとか『未来少年コナン』のドンゴロスとか、悪役ではあっても、必ずその底にどこかにくめないユーモラスさを感じさせてしまう声質で、子供たちに本能的に愛される声の人だった。ひょっとして、代表作『チキチキマシン猛レース』のケンケンが、もっとも冷酷な悪党役だったかもしれない。リクツ抜きで寂しい。無闇に寂しい。

【いかりや長介】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 21日(日曜日)
いかりや長介さん死去、72歳。私はクレージーキャッツにハマッていた人間なので、正直な話、ドリフターズをあまり評価して来なかった。お互いに主演映画を数多く残しているが、クレージーが東宝の明朗スラップスティック路線で行っていたのに対し、ドリフは松竹の人情喜劇路線が色濃く、どことなく泥臭くてこれもあまり好みではなかった。『全員集合!』よりは当然のことながら毒の強い『ひょうきん族』の方を贔屓していたし、ドリフターズの番組で毎週楽しみにチャンネルを合わせていたのは『飛べ! 孫悟空』くらいだったと思う。……にもかかわらず、ドリフの価値を私が大いに認めるのは、これくらい、教師やPTAにメノカタキにされたコメディアンたちも、まず絶後であろうと思うからである。小学六年生の修学旅行時、バスの中で歌う歌にドリフのものを入れることを認めよ、と、代表の一人になって職員室に談判に行ったことがある。当時はそういう手続きを踏まないと、ドリフの歌を“学校行事で”歌うことは禁じられていたのである。学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”と言われて、無難なところを、と思い『ツンツン節』のいかりや長介の歌う 一節、
「ボクはしがない婿養子/結婚九年目離婚沙汰/家土地財産妻のもの/鍋釜子供はボクのもの」
 という部分を歌ったら、苦笑して認めてくれた(その教師が実際婿養子だと知った のはずいぶん後のことだった)。

 昭和50年代には、二〜三ヶ月に一度は必ず、新聞のテレビ欄に、“食べ物を粗末にするドリフのコントは許せない”といったような投書が掲載されていて、それを読むのが楽しみであったものだ。若いうちは、大人が自分たちの文化を理解できないことが嬉しいものである。加藤茶の“ちょっとだけヨ”や、荒井注の “なんだ、バカヤロー”、さては志村けんの“カラスの勝手でしょ”にいたるまで、ギャグとしてはどれも大したことないものなのに、痺れるような快感があったのは、そのギャグを口にすることで大人たちの神経をかき乱せる、ということを子供たちが本能的に知っていたからであった。“子供にとって一番オモシロイことは、大人の嫌がることである”という原則を、これほど忠実になぞったコメディアンたちはいなかったと思う。メンバー中、もっとも大人であり常識人であるいかりやにとって、彼らの暴走の度合の目盛は、常に自分の中にあったのではないか。親たちと同じ世代で、親たちからワースト番組と目される番組を作り続けるという苦悩もあったと思う。きちんと丁寧に作り込んだ番組に彼がこだわっていたというのも、その人気がいかに危険な場所に位置しているものか、を身を以て理解していたためだろうと思えるのである。

【岩田次夫:イワエモン】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 24日(水曜日)
コミック・マーケット運営事務局の岩田次夫氏、というより一般にはコミケカタログのイワエモン氏死去の報があちこちから入る。享年50歳。コミケという文化を日本に定着させた実質的な人物である。ポルノ規制、オタク批判などでコミケ運営に対しさまざまな口出しをしてくる文化人たちに、常に実際の現場を統括している者の立場から、きちんと論理的に対応をしていた姿が印象的だった。たまたま、今読んでい る『フレッド・ブラッシー自伝』に、こういう言葉がある。
「人間はときどき運命的な職業に出会える。私の場合、それは、レスラーという職業だった。いつの時代でもこの業界のためになりたかった。それは自分の身と同じくらいにこの業界が好きだからだ」
 ……“レスラー”の部分を“コミックマーケット運営”という単語に変えれば、それを岩田氏の言葉と言って疑う者はいないのではないだろうか。早すぎる死に暗然た る気持ちになる。

【下川辰平】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 26日(金曜日)
ニュースで下川辰平氏死去の報。72歳だが、92歳の母堂が葬儀に出ている様が放送されたのに驚く。これからはこういう光景も増えるだろう。下川氏は最後に見たのが『ぶらり途中下車』の旅人役だった。つい、走り出して、“いやあ、『太陽にほえろ!』の頃の癖がまだ抜けなくて……”と笑っていたのだが。下川氏くらいのベテランなら役柄が固定しても仕事は来るが、又野誠二あたりだと、他に使い道がなかったのかも。それにしても、このところ訃報続く。倒れたチョーさんとは別のチョーさんが死んだかと思ったらまた別のチョーさんが亡くなったわけである。

【三ツ矢歌子】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 25日(木曜日)
女優の三ツ矢歌子さん死去の報。晩年は自身の病気や、子供の不祥事などで、傷心の表情をブラウン管で見ることが多かったように思うが、われわれの世代にとっては、テレビをつけるといつも映っているお母さんの顔、であった。大学に入ってからさかのぼって名画座めぐりで観た、新東宝時代の彼女は清純のきわみ、というような美少女で、タイトルこそ『肉体女優殺し』とか『ヌードモデル殺人事件』などという末期新東宝的なキワモノであっても、彼女のみは常に清らかな役(殺される肉体派女優やヌードモデルの妹役)であり、沼田曜一や林寛に襲われ、アワヤというところで宇津井健に救われるのである。だから、石井輝男の『天城心中・天国に結ぶ恋』で演じた愛新覚羅慧生(映画では王英生)役でも、モデルとなった満州国皇帝の娘は実際に死んでしまうわけだが、三ツ矢歌子だけは絶対、助かるものだと思ってしまい、最後に やはり死んでしまったときは大ショックだったものだ。

 追悼と言えばもうひとつ、S井さんから美食MLで、能登のさんなみに旅行するときにいつも用いていた能登鉄道がいよいよ廃線とのニュースが。

【佐藤まさあき】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 26日(金曜日)
他に、劇画界の草分けである佐藤まさあき氏も今月11日に亡くなっている。
http://www.comicpark.net/
今度文庫化される『愛のトンデモ本』の中の『堕靡泥の星の遺書』評が追悼になってしまうのだなあ。死去の件を書き加えなくては。また、それに先立つ9日にはゴー ルデンハーフのルナもひっそりと亡くなっていた。
http://music.goo.ne.jp/contents/news/NMS20040309-s-19/
これも、今度の『トンデモ本の世界S』に、尼さんマニア本『アンチクライスト』のことを取り上げているので、追悼の言葉を添えておくべきか。作品は『修道女ルナ の告白』なのであるが。

【うしおそうじ】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 30日(火曜日)
新聞に特撮プロデューサーうしおそうじ(鷺巣富雄)氏死去の報、82歳。実は私の中での特撮主題歌の裏フェイバリット(表フェイバリットは多すぎてちょっとこれ一本、というのが絞れないが)というのが、うしお氏の会社“ピープロ”の制作になる『風雲ライオン丸』の主題歌『行け友よライオン丸よ』なのである。渡部宙明や菊池俊輔を主流とした、いわゆる特ソン節とはちょっと違う、西部劇調の奥行きのある曲(筒井広志。ちなみにこの人も数年前亡くなっているが、この曲でウエスタン調、『とびだせ! マシーン飛竜』でブルーグラス調と、西部の匂いの香る名曲が多い)が印象的ということもあるが、ちょうどこの番組がリアルタイムで放映された時期、私は中学三年生。普通なら受験を期に、アニメや変身モノ番組からは足を洗うところを、敢えて(親や教師の白い眼を耐えながら)こういう番組を見続けることを選択した、つまり語を変えて言えばオタクとして生きることを人生の中で意識的に選択した最初の時期の作品だった。従って、どうしても、その曲を聴いたときの思い出に、いささか胸苦しくなるようなせつなさが伴って甦るのである。中でもこの曲は、特ソンらしからぬ哀感、孤独感をただよわせていて、印象的な曲だった。エンディングの、『行くぞ! ライオン丸』も、脳天気な明るさの中の孤独、みたいなものがしみじみ感じられる不思議な曲で、いまだにときどき口ずさむ。

 世の中には二種類の人間がいる。一流しか愛さない人と、二流のどうしようもなさも、共に愛することの出来る人である。うしおそうじ率いるピープロ特撮のファンはまぎれもなく、その後者に属するタイプである。ピープロは、とにかく弱小プロダクションであった。『スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)』などを見ていれば、たとえ小学生であっても、“あ、これはお金(制作費)のない貧乏番組なんだ” とわかったはずである。番組末期に至っては、よくこんなショボい絵しか撮れないほど金のない中で、まがりなりにも毎週、特撮番組を作り続けられているものだ、と逆に感心していたくらいである。『ウルトラマン』が明治座や新橋演舞場で演じられる芝居だとすると、『スペクトルマン』は浅草の芝居小屋の大衆演劇といった感じであった。いわば手作りの特撮番組だったのだ。おまけに、金ばかりでなく、時間的余裕すらピープロにはなかった。下記サイトを読むと、まさにこの番組は、とにもかくにも完成して放映されたことが奇跡のような状況下で制作されたということがわかる(なるほど、新東宝の監督が撮ったからゴリの円盤に『吸血鬼ゴケミドロ』のあの円盤が流用できたのか……)。急場に作り上げた故の欠陥シーンの手直しを要求する編成局長に対してとった別所プロデューサーの奇策は爆笑モノである。とにかく面白いからご一読を。
http://van-dan-emon.web.infoseek.co.jp/k/pprox/px1_01.htm

 もっとも、このサイトは“事実をもとに再構成したフィクション”である。実際には、こんな凄まじい状況をこのように感動的な話にしてしまっていいものかどうか、かなりの疑問が残る。また、ここで多くのスタッフが、“僕はうしおさんと仕事をしたいのであって、ギャラなんか問題でない”と発言しているのも、『マグマ大使』出演者へのギャラ未払い問題が今なお話題になることから考えると、事実かどうか。しかし、それはさて措いて、間違いなく感じ取れるのは、極限状態の中で作品を作り上げていく現場の緊張と高揚であろう。世の中には二種類のクリエイターがいる。“いいものを作りたい”と思う人と、“いいものであろうとなかろうと、とにかく作りたい”と思う人である。うしおそうじ氏はまさに、後者であったように思われる。円谷英二にあってうしおそうじになかったものは(まあ、それはいろいろあるだろうが、そのひとつは)映像に対するビジョンであった。思想、と言い換えてもいい。それは東宝という後ろ盾を持って、特撮監督のエリートコースを歩いてきた円谷に比べ、一時はマンガで食いつなぎながら、野から這い上がって特撮業界に食い込んでいったうしおが、その苦労の過程で置き忘れ、失ってしまったものだったかも知れない。その差が、作品の質(品格)に現れている。だが、考えてみれば、映像の楽しさという特撮作品の根元から言えば、ビジョンも品格も、所詮は付け足しのものに過ぎない。いや、そういう余計なものがないだけ、『スペクトルマン』からも『快傑ライオン丸』からも、特撮ヒーローものの原点とでも言いたい、オモチャ箱の中をのぞいたような驚きと楽しさが伝わってきていた。いま、マンガや映像の業界で活躍している人に、驚くほど、ピープロ作品のマニアが多いことでも、それはわかると思う。黙祷。
 今日も去って行く
 明日もひとり行く
 ライオン ライオン ライオン丸
 行こう戦いの旅
 行こう地の果てまでも
              (『行くぞ! ライオン丸』より)

【ピーター・ユスティノフ】

日記 :: 2004年 :: 03月 :: 30日(火曜日)
もう一人、奇遇にも同年齢の82歳で、ピーター・ユスティノフ死去。新聞を見ていた母が“あらア、惜しい!”と叫んだ。新聞には『ナイル殺人事件』などのポワロを代表作として掲げてあったが、個人的にはハンフリー・ボガートと共演した『俺達は天使じゃない』の丸まっちいデブの毒蛇使い、ジュール役が大好きである。母はまた、『クオ・ヴァディス』のネロ役の、燃えさかるローマを眺めながらハープを奏でるシーンが最高だった、と言う。名優には違いないが、英国俳優の例に漏れず、本業はあくまでも舞台であって、映画はアルバイトという感覚であったらしく、作品歴を見るとA級B級を選ばないゴタマゼ的なイメージがある。そう言えば、サンリオが一時アニメ製作に乗り出し、ギリシア神話を題材にした『星のオルフェウス』というツマラない作品を作ったのだが、世界進出を考えて日本語版と英語版を作って、英語のバージョンも字幕付きで上映していた。日本でそんなもの誰が観にいくか、と呆れたものだが、このとき、日本語バージョンのナレーションが伊丹十三、英語バージョンのナレーションをユスティノフが担当していた。日英二大インテリ俳優のナレーションというのがどういうものなのだか興味がわいて、結局、両方観てしまった経験がある。『ナイル殺人事件』以下のポアロは賛否両論(さすがに名演なのではあるが、なにしろ原作のポアロとイメージが違いすぎる)あるようだが、私は好き。もっとも、『ナイル……』は当時好きだった女の子を誘って観にいったあと、くどいて見事にふられた哀しい思い出があって、あまり冷静には語れない。

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最終更新:2010年02月12日 10:13
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