訃報日記2004:04月〜06月

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【中谷一郎】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 02日(金曜日)
新聞もテレビも、中谷一郎死去は“風車の弥七”死す、として報道しているようである。まあ、確かに新劇の役者さんというのは地味だから、お茶の間に弥七として顔と名を知られるというのは、舞台(こっちが本業)に客を呼ぶ上でもいいことだったのかもしれない。実際、そうでもなければ一般人は新劇役者の顔など覚えない。イッセー尾形の“バーテン”の一人芝居のバージョンのひとつに、バーテンが、店に来た中谷一郎にチップを貰った、ということを自慢にしている、というのがあって、
「ホラ、あるじゃん、『水戸黄門』のヨ、アレ。風車ピューって飛ばす役、やってるあの俳優。アレ、アレ、何つったっけ。……エ? 鈴木やすし? 違うよ、バーカ」
 という台詞に爆笑した。日常での会話の中によくある、役者の名前と顔が結びつかないという例に中谷一郎を持ってきたあたりのセンスが、中谷氏には失礼であるが大 変に結構であった。
 まあ、顔と名前が結びつく人たちの間であっても、中谷一郎と言えば風車の弥七、というイメージがどれくらい定着していたかは、
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0277290.htm
 ↑ここのサイトで、『ああ爆弾』での氏の役名“矢東弥三郎”を“矢車弥三郎”と誤記していることでもわかる。弥七に似た弥三郎という役名の連想で、リスト作成者 がつい、矢東を矢車と誤記してしまったのではないか、と思うのだが。

 しかし、本来の役者としての持ち味からすれば、絶対にあの風車の弥七はミスキャストであったと思う。ミスキャストであったからこそ代表作になったのかも知れぬ。ああいう、ニヒルなヒーローの似合う役者ではないのだ。もっと人間味、それも土着のバイタリティあふれた、時にヒステリカルに、また時に高圧的にもなる、弱さも嫌らしさも全部ひっくるめた人間味が芬々と漂ってくる、そんな役者さんだった。前記の矢東弥三郎の、事務所から向いの床屋に行くにも、両側に部下をズラリと並べて柵を作り、その中を(暴漢の襲撃を恐れて)腰をかがめてキョロキョロあたりを伺いながらヒョコヒョコ歩く議員候補者の演技など最高だったし、出番こそ短いが、『日本の一番長い日』で森師団長を斬殺する航空隊の黒田大尉(何故か他の人々は実名なのに彼だけ仮名で、本当は上原大尉)の、斬殺の後、極度の緊張のあまりこわばってしまい、血刀を離すことが出来なくなった手を、机にガンガンと叩きつけて外す演技の凄かったこと。とても『ああ爆弾』と同じ監督の作品とは思えなかった。さらに、山本薩夫の『金環触』での、田中角栄がモデルの、民政党の斎藤幹事長役。チョビ髭をたくわえた顔で扇子をパタパタさせながらダミ声で政治記者たちを手玉にとるその姿は、思わず笑ってしまうほどソックリな役作りであった。逆に言えば、これだけ多様な役が出来る器用さが、本来ミスキャストのはずの役も楽々と演じさせてしまい、それが役者としての幅をかえってせばめることになったのかもしれない。人生の皮肉を思う。

【鷺沢萠】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 15日(木曜日)
新聞に鷺沢萠死去の報。わっ、と少し大げさに驚いた。数日前の朝日新聞の “萌え”に関するインタビュー中、萌えの語源説のひとつとして、NHKのアニメ恐竜惑星のヒロイン鷺沢萌の名をあげ、この名前のオリジンであるところの彼女のサイトも、下調べの際にちょっとのぞいてみたばかりだったのである。風邪がなかなか抜けず、ルルAをひとビン、のんでしまったなどと、どう考えても身体に悪そうなことが最後に書いてあったけれど。

【横山光輝】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 15日(木曜日)
横山光輝氏、寝タバコが原因でベッドが燃え、全身やけどで重傷の報。焼かれるはずの人質がいまだ焼かれず、なぜ横山光輝のような人が焼かれねばならないのか、と世を不条理に思う。この人の名もつい数日前、デビュー前の原稿がネットオークションで売りに出されたことに対し不愉快を表明しておられるという記事で目にし、あ、体調を崩しているとは聞いたが、まだ大丈夫なんだな、と思っていたばかり。寝たきり状態で仕方ないとはいえ寝タバコはいけない。妹さんが看病していたということだが、脳卒中で倒れた段階で、煙草だけはなんとしてもやめさせるべきであった。しかし、横山氏と言えば酒豪であり、ヘビースモーカーであり、かつ麻雀はプロ級、競馬は好きが高じて馬主にまでなったほどで、およそ男の快楽というものをトコトン追求するタイプであった。オタク的趣味人のエピソードにはことかかないが、そっちの分野での武勇伝がまずない(酒ではちょっとあるか)手塚治虫とは、こんなところまで 好対照である。

横山先生もとうとうお亡くなりに。悲痛な事故ではあるが、漫画家としてはすでに描きたいものは全て描いたという気持ちだったのではなかったかと思うし、鉄人をはじめ影丸、サリー、バビル2世等という彼の生み出したキャラクターは、これからも(ひょっとしたら鉄腕アトムやレオなどより長く)繰り返し、日本の娯楽作品の中でリメイクされて受け継がれ、生き続けることだろう。娯楽派・大衆派作家の評価というのは遅すぎることがまま、あるが、横山作品評価は晩年になるほど高まってきた。何とか間に合った。悲しみよりも、そういう安堵の気持ちがまず、正直なところだ。『B級学』(海拓舎)の中でも指摘したが、日本の漫画史というのは、手塚治虫をあまりに過度に評価してきた歴史と、横山光輝をあまりに過度に閑却してきた歴史の両面を持つ。後者の方の責任を今後、日本の漫画史は問われていくことになるだろう。ともあれ、偉大なるアルチザン、偉大なるエンタテイナーの死に改めて黙祷。

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 16日(金曜日)
横山光輝氏死去の報、どうもその業績に比して、扱いが小さいように思う。人質帰国のニュースと一緒なのが原因か。思えば、手塚治虫氏死去のときは、マニラ誘拐事件の被害者である若王子氏の死去と重なって、やはり記事の位置や大きさで少しソンをしていた。鉄人とアトム、日本二大ロボット漫画の作者の死の報道に、どちらも誘拐事件関連の記事がからむというのも一奇と言えるかも知れない。

日記 :: 2004年 :: 12月 :: 20日(月曜日)
とはいえ、手塚と違い横山光輝を語って“きれいにまとめる”のは極めて難しい。ひとつの要素に収斂しないのである。

【竹内均】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 22日(木曜日)
昨日、竹内均氏死去。映画『日本沈没』で、奇妙なイントネーションでマントル対流の説明をしていた先生、というのが第一印象で、その後この人が世界的地球物理学者であることを知って驚いた。この人を、日本に科学教育を根付かせた大恩人、と評価する人は多いが、私にはどうも、そうとは思えない。この人の教育論のモトというのは、著書である『修身のすすめ』(講談社)という本のタイトルからもわかるように修身教育である。その中で竹内先生は、勤勉、貯蓄、正直、中庸、感謝、報恩、修身、斉家、思いやりといった徳目を実行することにより、人は磨かれ、家は修まり、国は栄えると説いている。確かにこれは、秀才は生むかも知れない方針である。しかし、同時に、こういった堅苦しいワクから外れる天才をオミットしてしまう教育でもあるのだ(自分は『数学の天才列伝』〜ニュートンプレス〜なんて本を書いて、天才を礼賛しているのに)。…… 私は、科学という分野は(いや、科学でなくどんな分野にしてもそうだが)100人の秀才を育てあげるより1人の天才を見つけだした方がよほど効率のいい学問である、と思っている。東大名誉教授から代々木ゼミナール校長という、日本的秀才教育システムを何の疑問もなく渡り歩いたエリート学者の教育論では、わが国に天才は生まれない。それが、80〜90年代を通しての、日本の科学がパッとしなかった理由のひとつではないか? と勘ぐってしまうのだが。

【桃井真】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 22日(木曜日)
今日は国際政治評論家桃井真氏死去。桃井かおりの父親。軍事アナリストとして有能な人だったが、ただ、この人、“海底戦車”説というトンデモ説に固執して、著書でいろいろ語っていた。二十年くらい前、この人の著書(手元にないが、確かカッパの『戦略なき国家は挫折する』だったと思う。後にサラ・ブックスからそのものズバリ『国籍不明・海底戦車の謎』という本も出した)で、北朝鮮は日本海の底を、水陸両用の海底戦車で蹂躙しており、それが時折新潟や青森の海岸から上がってきては、歩いている人間を拉致して行く。津軽海峡の海中写真には、海底の砂の上に、巨大なキャタピラの後が歴々として残っている……とか書かれているのを読んで、ガッチャマンの世界かこれは、とオドロキ、“そんなものが残っていれば北朝鮮にいくらでも証拠として突きつけられるだろうが”と心の中でツッコミを入れたものである。で、そのことを、その後『パンチザウルス』のエッセイコミックに書いたのであるが、それがいつの間にか、“唐沢俊一は昔、北朝鮮による拉致をデマであると書き、後に拉致が確定したとたんに、その作品を絶版にして知らぬ顔をしている”というあらぬ噂になって広まり、苦笑したものである。デマであると言ったのは海底戦車について、であり、絶版どころか、ちゃんと単行本『脳天気教養図鑑』にも入れ、文庫にして、今でも堂々と書店に並んでいるのである。そういう意味では、私ともご縁のあった人 であった。

【三塚博】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 26日(月曜日)
三塚博元蔵相、死去。地味な政治家であったが、この人は前世がお釈迦様の父親であり、さらには加藤清正であったという。いや、私でない、『幸福の科学』の人たち がソウ言っていたのである。
http://www.melma.com/mag/30/m00019630/a00000057.html
 ↑ ここの2003年10/30の項目参照。そう言えば96年当時“三塚博を総理大臣にしよう!”というチラシ、メール類がやたらに送られてきた。すぐに幸福の科学が後押しをしているということがわかり、“あ、政治センスないな”と思ったものである。カリスマがないから自分たちが自由に操れる、という目算だったのかも知れないが、総裁選というのは普通選挙と違い、いかに周囲で持ち上げても、議院内でパワーがなければ勝てるものではない。宮沢喜一、渡辺美智雄といったライバルに比べれば二段、三段の格落ちで、とても最初から目はなかった。だいぶ金を使ったのだろうが、ドブに落とした形になったわけだ。しかも、その後に橋本内閣で蔵相となったが、当時勃発した証券不祥事の責を負って辞任。まあ、ここらは加藤清正が前世らしく、毒まんじゅうでも食わされたのかも知れない。上記メルマガでは、最後の方で、英雄を待望しなくちゃいけないから、次の選挙では田中真紀子さんに……などと言っている。つくづく、政治家を見る目だけはない宗教団体だと思う。

【ジョゼ・ジョバンニ】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 28日(水曜日)
26日に作家で映画監督のジョゼ・ジョバンニが死去していたことを知る。80歳。いわゆるトラウマ映画として有名な『暗黒街のふたり』の監督である。アラン・ドロンとジャン・ギャバンの顔合わせでこのタイトルなのだから、人はたいてい、『地下室のメロディ』みたいな、小粋なフィルム・ノワールと思うだろうし、実際、ドロンは出所したばかりの銀行強盗犯の役だ。『地下室の……』の方ではギャバンが出所したばかりのギャングの役であり、その立ち位置を変えた設定で、こんどはどんな犯罪を……と 観る方は期待する。

 ところが、これは全然違う映画なのであった。ドロンは犯した罪を悔い、細々ながらも平凡な幸せをつむいで行こうとする。ギャバンはそれを暖かく見守る保護監察司の役だ。しかし、ドロンの目の前には、かつてのギャング仲間が新たな犯罪を誘いに現れ、かつ、以前彼を逮捕した刑事ゴワトローが、彼が再び犯罪を犯すはずと決めつけて、執拗にその周囲をうろつく。ギャバンは何とか彼を救おうと努力するが、全ての運命の鍵が、ドロンに対し不幸な方へと働いていく……。そして、最後にこの映画は、あらゆる希望をうち砕かれたドロンが、ギロチンに首をはねられて終わるのである。この映画が製作された1973年には、まだフランスでは死刑はギロチンで行わ れていたのである(廃止は81年)。

 ドロンが処刑されるのは、自分の恋人に暴力をふるおうとしたゴワトローを、ついカッとして殺してしまったためなのだが、このゴワトローを演ずるミシェル・ブーケが、これ以上ないというくらい、執拗で陰湿で強引な刑事役を演じている。こういう役や、それを演じる役者が大好きな私が、映画館で観ていて“もうやめてくれ、これ以上出て来ないでくれ”と心の中で思ったくらいなのだから、相当なものである。監督の頭の中には、絶対にこの役のモデルに、すでにフランスでも放映されていて人気だった、『刑事コロンボ』のイメージがあったろう。ああいう男がヒーロー足りうるのは、あの世界では最初から狙われるのが真犯人である、という前提があるからだ。しかし、もし、あの性格を持った刑事が、無実の男をつけ回したとしたら? その恐怖をこの映画はサディスティックなまでにこちらに見せつける。

 聞くところではこの映画は刑法史上でも重要な映画だそうで、公開処刑だった時代はともかく、非公開となってからのギロチン処刑がどのようにして行われるかをリアルに再現してくれた、貴重な作品なのだそうである。規則を淡々と消化する、という感じで聖書が読み上げられ、ワイシャツの襟が大鋏で切り取られ、後ろ手に縛られたまま、最後のタバコとワインが与えられる。そして、両脇を執行人がしっかりと抱えて、ギロチンへと囚人をひきずっていくのである。全ての希望を失ったドロンが、最後にこちらを振り向き、何かを訴えようとするあの目が忘れられない。忘れられないが二度と観ようとは思わない(結局ビデオも手に入れてしまったけど)、そんな映画 であった。

【小鹿番】

日記 :: 2004年 :: 04月 :: 30日(金曜日)
30日に俳優、小鹿番氏死去。その名の通り小柄な体躯を十二分に活かした役者さんだったが、名付け親が倉本聰で、“子鹿のバンビ”から、というのはどういう連想か。どう見てもバンビというイメージではない。“江戸っ子は華奢で小柄が身上”と以前この日記に書いたが、この小鹿氏こそまさに“江戸っ子”の体型、キャラクターであった(浅草出身、正真正銘の江戸っ子)。もっとも、決して伝法だったり鯔背であったりするのではない、小市民的軽薄さを持つ江戸っ子であって、そういう役をやらせれば、右に出る役者はいなかった、と言っていい。

 私がこの人の名前を覚えたのは74年のNHK大河ドラマ『勝海舟』の中の、三公という長屋の住人役で、この作品、主要キャストにあてられた尾上松禄や岩井半四郎など歌舞伎畑の人たちがもっさりしていて江戸っ子という感じではなく、むしろその周囲の古今亭志ん朝やこの小鹿番が、江戸らしさを体現していた。俳優、ことに脇役俳優は演出家や脚本家にかわいがられることが、出世のひとつのきっかけになるが、彼の場合、役者人生の前半が菊田一夫、後半が倉本聰という大物の庇護者に恵まれたことが何よりの幸運だったろう。その、庇護者の切替わりの境目にあったのが、出演中に菊田一夫の死に会った上記の『勝海舟』で、この脚本家(もっとも途中で降板)が倉本聰。菊田生前の小鹿敦という名前(本名)が、放映途中で小鹿番に改名されたことを、中学三年だった私はありありと記憶に残している。とは言え、菊田の恩を忘れたわけではなく、師である菊田一夫役を、森光子主演の舞台『放浪記』で長年演じ続けたのは、役者にとりなによりの恩返しであったろう。とにかく大好きな俳優さんで、『コンドールマン』なんていう変身ものにも律儀につきあい、いつも通りの小市民を見事に演じていたのに大喜びしていたものだ。まだまだ活躍してほしかった人で あった。黙祷。

【戸川幸夫】

日記 :: 2004年 :: 05月 :: 03日(月曜日)
戸川幸夫氏死去、92歳。この人の名前を初めて見たのは石川球太氏の動物マンガの原作者として、だった。『牙王』『熊犬シロ』『野生犬サボ』といった作品は、類似の作品が他にそうないこともあって、まずまず読めるな、という程度の印象だったが、昭和44年に『少年マガジン』に短期連載された『人喰鉄道』という作品がスゴかった。アフリカのツァボで鉄道を建設する人々と、人喰いライオンの、本当に息詰まるようなギリギリの戦いを描いた作品で、それまで、『狼少年ケン』とか『ジャングル大帝』といったアニメで、ライオンと言えば少年マンガにおいてはあまり悪く描かれない存在、と認識していたこちらに、悪鬼の如きライオンの恐怖をこれでもか、と突きつけてきて(こういうモノをごく普通に掲載していた当時の少年マガジンの編集方針の斬新性を思うと、いくらロートルの繰り言と嗤われようと“昔はよかった”と言わざるを得ぬ)、ちょっとないトラウマを与えられた。その後、原作を手に入れて読んでみたのだが、いや、これがまたマンガ以上の凄まじい傑作、日本にもこういう小説を書く人がいたのか、と、その頃少し、そのスケールの小ささに失望していた 日本小説を見直したほどだった。いま、『人喰鉄道』はネットで読める。
http://www.papy.co.jp/act/books/1-1670/
 ↑日本における最高レベルのハードボイルド小説である。読まないとソンするよ。

【三橋達也】

日記 :: 2004年 :: 05月 :: 18日(火曜日)
ついこのあいだ、『CASSHERN』で80才とは思えぬ姿を見せていた三橋達也氏、死去の報。あのときも、演技(セリフ回しとか)が若い頃とほとんど変わっていなかったのに、いい意味でも悪い意味でも驚いたものだが、この人の演技には、当時の役者さんの中でも際だった、“日常性の無さ”というものがあった。天本英世のような“非日常性”ではない。あくまで“日常性の無さ”なのである。日本の演劇人というのがどうしても日常性をべったりと演技にも、セリフにもまといつかせている中で、その、日常からの遊離は貴重な財産だったかも知れない。なればこそ、海外での彼の評価は非常に高く、当時の日本の俳優の中では三船敏郎に次ぐ国際スターの地位を確保し、『トラ! トラ! トラ!』やフランク・シナトラの『勇者のみ』などに出演出来たのだろう。ロシアとの合作の『甦れ魔女』なんて(魔女といってもオカルトでなく、バレーボールの“東洋の魔女”のこと)映画もあったし、ああ、それから『国際秘密警察・鍵の鍵』をウディ・アレンが徹底改作した『いったいどったの?タイガー・リリー』なんて珍作も、一応は海外での公開作品である。上記『トラ! トラ! トラ!』での、日常性皆無の三橋達也と、どっぷり日常性につかった田村高廣の演技合戦は、見るたびに笑い出してしまう奇場面であった。ウディ・アレンのは輸入ビデオ屋でビデオを見つけて、喜びいさんで買って見ては見たものの、こちらの乏しい英語力ではとてもギャグまで理解できず悔しい思いをしたものだ。この作品の字幕版、どこかで出してくれないか。

【トニー・ランドール】

日記 :: 2004年 :: 05月 :: 20日(木曜日)
映画俳優トニー・ランドール死去とかや。最後にスクリーンで見た、いや声を聞いたのは『グレムリン2・新種誕生』の、メガネをかけたグレムリンのリーダー“ブレイン”のアテレコであった。アテレコではあったが、こういう役に、同じSFもの映画『ラオ博士の七つの顔』の主役で知られているランドールを持ってくるところが、スピルバーグもジョー・ダンテもわかっているなあ、と嬉しくなったのを覚えている。

 代表作はテレビ版『おかしな二人』の潔癖性男フェリックス(映画版でジャック・レモンが演じた)ということになるらしい。オデコとしかめっつらがトレードマークのランドールには実にはまり役だった。もうひとつ、彼はアレック・ギネスと並ぶメイキャップに凝る俳優としても知られており、前記『ラオ博士の七つの顔』ではまさしく七変化を見せる。タイトル・ロールのラオ博士を演じるために、バリカンで髪を剃られ坊主にされているシーンのスチルがあるが、本人曰く、
「あれは撮影に入ってから撮った宣伝用スチルで、もうあのとき、僕は髪を全部そり落としてしまってたんだ。だから、坊主頭の上に髪の生えたカツラをかぶって、それを剃ってるところを撮ったんだよ」
 とか。まさにメイキャップ俳優の名にふさわしいエピソードだ。未公開なのがなんとも惜しい『アルファベット殺人事件』(ちゃんとタイトルに“アガサ・クリスティ原作『ABC殺人事件』より”と断り書きが出るので、邦題のついていない状態でこの映画を『ABC殺人事件』と表記するのは誤りである)で主人公のエルキュール・ポアロを演じたときも、原作通りに禿げ上がった頭のメイクで演じており、最初に素顔の(髪のある)ランドール自身が登場して、“こんにちは、トニー・ランドールです。MGMが皆様に送る私主演の……”で場面が切り替わり、メイキャップ後の姿になって、セリフも露骨なフランス語訛りになり、 “ベルギー人探偵エルキュール・ポワロの活躍をお楽しみください!”と始まる、いかにも60年代ハリウッド映画らしい、洒落た作品だった。監督がマーチン&ルイス作品を多く撮った喜劇映画畑のフランク・タシュリンなので、あまりミステリ映画として評価されないのが残念なのであるが、共演がアニタ・エクバーグ、ロバート・モーレイというA級作品なのだ。

【ロナルド・レーガン】

日記 :: 2004年 :: 06月 :: 07日(月曜日)
ロナルド・レーガンもと大統領死去、93歳。産経新聞で中曽根元首相が
「お互いが尊敬し合える同志がなくなった」
 と語っていたが、レーガンは中曽根を尊敬していたのかね。ロン・ヤス関係などと中曽根氏は二人の親密さを強調していたが、大統領をやめてから出たレーガン自伝には、中曽根氏の名前はホンの数行しか出て来なかった、というではないか。まあ、とはいえ彼が身もフタもなくレーガンにスリ寄り、不沈空母発言などという上っすべり発言までしてアメリカの腰巾着に徹したことが、ソビエト政権が末期に到り、戦後の国際政治情勢が大きく変わろうとしていた時期に日本の国際的な立場を固めたことは動かしがたい事実である(サミットなどでの記念写真のときなども、中曽根氏はスッとレーガン氏の脇に入っていって、常に隣り合って写るように心がけていたとか)。弱小国家の外交とはいかなるものか、中曽根氏は身を以て知っていたと言えよう。これくらいの発言はまあ、大目に見るべきか。

 レーガン氏の大統領就任時、日本のマスコミはこの右傾大統領を徹底して嫌い、悪の権化のように書いていた。いまだに覚えているが、84年のレーガン・グロムイコ会談に際し、毎日新聞はその予想を述べて“レーガン氏がまだB級映画俳優だった当時、すでにグロムイコ氏はソ連の外相を務めていた”と、あきらかにソ連びいきの書き方をしていて、当時、すでにマンガ雑誌でもソ連の物資のなさや政治システムの末期症状がギャグになっていたというのに、新聞というのはこうまで世界情勢が見えないのか、と呆れたものだ。結果、この会談はあきらかにレーガンがSDIなどの開発という軍事力をバックにソ連を交渉の場に引き出して成果を上げたと評価されることになる。所詮、外交というのは軍事力が背景にあって初めて行えるものだ、というこ とをあれくらい如実に示したものはなかった。

 ついでに言うと、当時の“B級映画”という用語は、現在のような、チープでカルトな映画秘宝的作品、という意味ではなかった。映画黄金時代に、制作費や製作期間に特別ワクを設けて作られる超特作映画を“A級”と称し、定期上映される、通常のワクで制作された映画をB級と言ったのである。B級映画にはシリーズものやジャンルものが多く、たまの大作映画にしか出演しない大スターよりも、むしろ大衆人気はB級の西部劇や戦争映画、コメディに常に顔を見せていた俳優の方にあった。50本以上のB級作品に出演していたレーガン氏は確かにアメリカ人にとって“人気俳優”であり、だからこそ、映画俳優組合の委員長に推挙され、そこから政治の道を歩きはじめたのである。決して、当時各マスコミで揶揄されていたように、“売れない映画俳優”だったわけではないのだ。

【コロムビア・トップ】

日記 :: 2004年 :: 06月 :: 08日(火曜日)
コロムビア・トップ(下村泰)氏死去、82歳。私が子供の頃、東京漫才が第一期ブームを迎え、青空千夜・一夜、リーガル天才・秀才、晴乃ピーチク・パーチク、獅子てんや・瀬戸わんや、Wけんじ、若手で晴乃チック・タックなどといった人気者が輩出して黄金時代を築いたが、その時点で別格の扱いをトップ・ライトのコンビは受けており、東京漫才の頂点に立っていた。……つまりは、あまり面白くはなかった、ということだ。政治風刺をネタにした漫才は子供にはわかりにくかった、ということもあるだろうが、動きとキャラクターとテンポのいいリズムで笑わせるてんや・わんややチック・タック、それに大阪から出張してきていたやすし・きよしなどに比べて世代がひとつ、古い芸であることはあきらかだった。なんでお笑い芸人なのに、あんなにエラそうなんだ、というのも反発のひとつだった(同じエラぶり芸でも、若い立川談志のツッパリと違い、自分たちが風刺している対象の政治家と同じいばり方であるのが気にくわなかった。子供でもそこらは直感でわかるのである)。後に政治家に転向したときも、どうも庶民派なのに庶民派っぽくないなあ、という感じで、青島幸夫や横山ノックなど、同じ二院クラブのタレント議員中でも、一般大衆人気を得ることはあまりなかったのではないか。国会でもどこでも和服で押し通すというのも、どうも大衆へのアピール的にどうかなというイメージだった。そう言えば別れた相棒のライト(今回、彼へのインタビューがテレビでもひとつもないのが寂しい)が、声帯模写でピンで寄席に出て(もともと声帯模写をやっていたのを、最初の相棒に死に別 れたトップにスカウトされたというから元に戻ったということになるが)、
「日本語教育は大事だよ。いまの国民がみんな漢字書くのめんどくさがって、投票用紙にトップだのノックだのしか書かないからこっちが迷惑するんだ」
 と言っていたのはいいギャグだった。

 とはいえ、唯一、彼に大いに楽しませてもらったのは、チンパンジーたちを主役にしたスパイもの番組『チンパン探偵ムッシュバラバラ』で、国際陰謀組織『デッドキラー』の親玉、ゲバルト大佐の声を楽しそうにアテていたのがまことにハマリ役だった。白いスーツにモノクルをかけて、粗暴にいばり散らすサル、という役柄がそのダミ声の声質にピッタリで、しかもこの親分の弱点が“サンタをまだ信じている”という幼児性であるあたり、ナンセンスとしても傑作だった。由利徹、海野かつお、三笑亭夢楽といったお笑い系を多用していたキャスティングは、『チキチキマシン猛レース』などでおなじみの高桑慎一郎プロデューサーの趣味だろう。こういう役が合うということは要するに、野党にいるより自民党で活動した方が、案外ニンにあっていたのではないかな、ということなのだが。まあ、それでも死ぬまで政治活動は続け、ラジオなどにも出続けて芸人としての生涯もまっとうし、ライバルであった晴乃タックやてんや・わんや、横山やすしなどよりも長く生きた。まず充実はしていた一生じゃなかったか、と思う。

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最終更新:2010年02月12日 10:14
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