訃報日記2004:07月〜12月

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【あだち勉】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 01日(木曜日)
あだち充の兄でマネージャーだったあだち勉氏、18日に癌で死去していた由。赤塚不二夫のチーフアシスタントを経て、自分もかつてはギャグマンガ家として活躍していた。と、いうか、充の方はマンガ家になっても、絵柄がおとなしすぎてなかなかヒットに恵まれず、原作つき作品ばかり描かされていた。デビューが昭和45年で、初めてのヒット作『陽当たり良好!』の連載開始が昭和55年。芽が出るのに十年もかかっている。それに比べると勉の方は第一回のジャンプ新人賞出身という華々しい登場の仕方であった。二人兄弟の関係ではよくあることだが、兄は努力家というより天才肌、弟はコツコツとマイペースの努力家肌、というやつだったように思う。そして、天才肌の人間というのは気分屋で、自分の興味あることがコロコロと変わる。全盛期の赤塚不二夫につきあって山下洋輔やタモリなどと遊び回っているうちに、マンガよりそっちの方が面白くなってしまったのではないか。そのうち弟が『タッチ』、『みゆき』で大ヒットマンガ家になると、一時期広告代理店勤めをしていた経験を生かして、さっさと自分はマンガ家を廃業、弟のマネージャーとして有能ぶりを発揮する。だいぶ前のことだが、スポーツ新聞に連載されていた赤塚不二夫の交友録エッセイで、この勉氏が登場、スーツにネクタイをしめて弟のプロダクションの名刺を差し 出す姿に、赤塚は
「彼は彼なりに大変充実した毎日をおくっているようだ」
 と書き、
「だが、本当にそれで満足なのか」
 と、首を傾げていた。赤塚の世代には理解できないことだろうが、後の世代であるあだち勉にとっては、マンガによる自己表現は、自分の人生と等価にはなり得なかったのであろう。そして、ついでに言うと、デビュー前後が好調すぎた人というのは、どうしても、その後のねばりというものが不足しがちなのである。マンガ家としてたぶん最後の仕事は、弟の姿を描いた『実録・あだち充物語』だろうが、実録ドラマとしての人生でいえば、勉氏の方がずっと興味深い一生だった気がする。

【マーロン・ブランド】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 03日(土曜日)
マーロン・ブランド死去の報あり、80歳。母はどちらかというとケイリー・グラントのような、クラシックな美男が好みであり、ブランドのような肉のついた、ぬめっとした男は気味が悪いと敬遠していたが、『波止場』を観ていっぺんで参ってしまったそうである。演技している俳優の背中からオーラが立ち上っている、という感覚を覚えたのは私もこのブランドが最初である。もっとも、アクターズ・スタジオ出身者の多くがそうであるように、映画全体のイメージをぶちこわすほどのオーバー・アクトに凝る傾向がある(なにしろロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、ハーヴェイ・カイテル、デニス・ホッパー、ジョン・マルコビッチ等々を生んだワークショップである)俳優であり、記憶に残るその演技の多くは好演とか熱演でなく、“怪演”だった気がする。代表作『ゴッドファーザー』のドン・コルレオーネ自体、もうぬいぐるみ演技みたいな大怪演だったし、私にとっての代表作『ミズーリ・ブレイク』の“整理屋”クレイトンのキャラクターの異様さは、ブランドでなければ演じられない、アクが強いどころかアクだけで本体がないような役であった。日本にも案外縁がある人で、代表作に『八月十五日の茶屋』『サヨナラ』と、二本も日本を舞台にした作品があるし(前者ではなんと“日本人の”役をやっている)、椿八千代とかいう日本女性と同棲していた、という話もあるのだが、彼女はどうなったのかな。

【鈴木義司】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 17日(土曜日)
朝刊にマンガ家・鈴木義司氏死去の報。悪性リンパ腫、75歳。夕刊をほとんど読まなくなったので、『サンワ リ君』休載を知らないでいたため、驚く。

『サンワリ君』はなをきがどこだかで、意味のない趣味の例として “サンワリ君のスクラップ”というのを挙げてギャグにしていたくらい、現代の漫画読者の目から見ると、トンガったところのない四コマ漫画だった。たぶん、これでしか鈴木氏を知らない若い読者にとっては、氏は“つまらないマンガ家”の代表、でしかなかったのではあるまいか。だが、それを言うなら、今の新聞の他の四コマ、例えば『アサッテ君』や『サラリ君』がどれだけ面白いか。新聞の四コマはマンガファンのために描かれているものではないのだ。むしろ、ナンセンスギャグ受容の“文法の基礎”を読者に求める『地球防衛家のヒトビト』よりも、『サンワリ君』は決して優れているとは言えないまでも、親切なマンガ(殊に年輩層に)ではあった。

 私の世代にとっては、鈴木氏は若者雑誌の代表であった『平凡パンチ』に『CVゼニー・青い目の熊さん』などという社会戯評マンガを連載していて、それなりに鋭い風刺眼を見せていたし、もう少し時代が前の『漫画読本』では、やはり風刺ナンセンス漫画を描いていて、同誌の代表作家の一人だった。……では、これらの作品を今、例えば筑摩書房の『現代漫画・鈴木義司集』などで読み返してみて、その才能のきらめきが再現性を持つかというと、かなり怪しい。

 長くレギュラーであった『お笑い漫画道場』の宿敵(?)富永一朗の代表作『チンコロねえちゃん』が、現代の目で読み返してもナンセンス性が高い、笑える作品なのに比べて、鈴木氏の作品がどれも再読に耐えないのは、エロという不変のものをテーマにした富永氏に比べ、時事ネタのような移ろいゆくものを追いかけて描き続けていた創作家の、一種の宿命のようなものだろう。それらの作品は、あくまで“現代という時間”を共有している読者に対し発せられたもので、年月と共に色あせ、忘れられていく。逆に言うと、常に時代の最前線に留まることを目的とする者にとり、むしろ それは勲章なのではないか。後世に残る作品ばかりが名作なのではない。

『サンワリ君』は、『サザエさん』や『コボちゃん』と違い、家庭を持っていない主人公である。キャラクター設定自体ハッキリしない。いったいどういうところに住んでいて、勤める会社がどういう職種のところで、人間関係などがどうなっているのかはまるで描かれない。あくまで、一平均的庶民の代表として、時代のトピックスに対し、ややズレた意見を述べたり、ズレた体験をしたりする彼を描くことで、社会の末端において、ニュースというものが如何に受容されているか、を描くことをテーマにしていた作品であった。鈴木氏が功成り名遂げ、平均的庶民の視線から徐々に離れていった時点で、その切り口が鈍っていくのは当然のことだったろう。

 それ以降の鈴木氏の本領は、むしろ多趣味多才な文化人としての、豊富な知識を駆使しての雑学エッセイの方に発揮されていたと思う。報知新聞社から平成8年に出ている『おしゃべり胃袋』は、雑学グルメエッセイマンガとして、読んで“これがあのサンワリ君の作者の書いたものか”と驚き、蒙を恥じたほどの面白さだった。こちらの方に主軸を移して活動していたならば、晩年のマンガ家・鈴木義司の評価はかなり変わっていたのではあるまいかとさえ思える。いまだ絶版ではないようなので(在庫切れの可能性はあるが)、興味を持った方はぜひ、この本、また他の旅行エッセイなどを探して手にとっていただきたい。
http://jp.tultur.com/-/4831901164/

【湯浅憲明】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 18日(日曜日)
開田さんから電話、湯浅憲明監督が先月、死去されていたらしいという話を聞いて仰天する。監督協会の月報に出ただけで他に何の情報もなく、みなあわてているらしい。私もこの春に一本、葉書のやりとりをしたきりで、それからはご無沙汰であった。すぐ確認をとることを約す。とはいえ、休日 のことであり、出版・映像関係者のほとんどとは連絡がとれない。

【星セント】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 23日(金曜日)
漫才セント・ルイスの星セント氏死去、56歳。一日60本以上のヘビースモーカーだったそうだから、肺ガンというのもこれは自己責任であろう。普通、お笑い畑の人間が目指す“愛されるキャラクター”を否定し、知性でも肉体でも劣っている相方を徹底してイビりつくす、という現代風な笑いを漫才に持ち込んだ先駆者であった。だが、その基本はきちんと作り込んだネタで勝負する東京漫才の伝統の上に乗っており、いわゆるキャラクター勝負のMANZAIブームには相容れないタイプだった。ビートたけしがセントを批判して、テレビのお笑い番組の収録の際、セントがゴネて自分たちの出番のときだけ客を入れ替え、自分のファンクラブの連中を入れさせた、俺たちと勝負するのが怖かったからだ、とどこかに書いていた。確かにそんなことをすれば逃げたと思われても仕方ない。しかし、B&Bやザ・ぼんちなどが出てきただけで、若い女の子が“かわいーい!”と叫んで、ろくにネタも聞かずにキャアキャア騒ぐような、そんな客の前でセントは漫才をしたくなかったのではないか。

 今からでは信じられないが、漫才ブーム当初はツービートよりもセント・ルイスの方があきらかに評価は高かった。立川談志も楽屋で声高に“ツービートなんかはすぐ消える、セント・ルイスとは比較にならない”と言っていたし、高信太郎も同意見であった。通が聞けばそうだったのかもしれない。だが、テレビだけで彼らを見聞きしていた私には、ツービートの、漫才という概念そのものを破壊してしまうような言葉の奔流に比べると、セント・ルイスのやりとりは古くて仕方ないものだった。テレビではたけしのように、思いつきでどんどんと言葉を発していく人の方が断然、光るのである。とにかくこの人の悲劇は、“漫才の天才”に過ぎなかったことで、同時期にビートたけしという、“天才が漫才をたまたまやっていたに過ぎない”人間がいて、それと比較されてしまったことだろう。時代が違っていたなら……と思う。黙祷。

【ジェリー・ゴールドスミス】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 25日(日曜日)
昨日、映画音楽の大家ジェリー・ゴールドスミスが死去のニュースがあった。アクションであれ戦争映画であれSFであれオカルトであれ感動の名作であれ何でもござれの万能作曲家で、殊にSF映画好きなら彼の曲を聴かない年はなかったくらいに手がけていた。『スター・トレック』のテーマは、テレビシリーズから映画にスピンアウトした作品のテーマとして作曲されて、またそれがテレビの新シリーズにスピンアウトして使用されたくらい“燃える”名曲であるし、燃えるという点では『カプリコン・1』のテーマも隠れた名曲。映画はカスだったが『グレムリン』のエンディングも個人的には印象に残る映画音楽ベスト10の中に入る。もちろん、これだけ作曲数が多いと、中には珍曲・奇曲もあるわけで、大作『トラ! トラ! トラ!』の“日本風”テーマは『元禄花見踊』を荘重にオーケストラが演奏しているような、実に何 とも不思議な曲であった。

【パット・ローチ】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 25日(日曜日)
映画人では他に英俳優であり、来日したレスラーでもあるパット・ローチが17日に死去、67歳。『インディ・ジョーンズ』シリーズにレギュラー(ただし、役は毎回違う)出演していて、ことに第一作『失われたアーク』では、冒頭のチベット人の悪党と、怪力自慢のドイツ人の整備士(格闘ではインディを圧倒するが、動き出した飛行機のプロペラに巻き込まれて死んでしまう)との二役を演じており、後者は人気キャラだったようだ。確かにあの整備士、なんでこんな強いやつを兵隊でなく整備士なんかにしておくんだ、ナチスは? という感じだった。

【中島らも】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 28日(水曜日)
新聞で中島らも死去の報。昨日ネットで緊急情報が走ったし、夜のニュースでもやっていたが何か実感がなかった。あまりにこういう死が似合いすぎる人だったので、逆にフィクションくさく感じてしまったのかもしれない。また、私の中で最も強烈にイメージされていた中島らもは、学生時代、『ぴあ』で読んでいた『啓蒙かまぼこ新聞』の4コマの人、なので、それ以降の作家・中島らもと、イメージがつながらないままでいた せいかもしれない。

 なぜイメージがつながらなかったかというと、いわゆる全国進出を果たした後のこの人の発言や行動などのすべてが、私には演劇的に感じられていたからだ。和製ハードボイルド映画の主人公みたいに、そこに実体感がなかった。いや、なかったからこそまことにカッコよかったのではあるが。演劇畑の人によくあるタイプで、作り上げられた虚像を自分で見事に演じてしまっていたのではないか、そんな感じがした。しかし、例の逮捕以来(これも、ファンにとっては全く意外ではなかったであろう、とその逮捕のとき日記には書いた)、その彼の演技には、どこか実体との齟齬感がつきまといはじめた。空回りというか、痛々しさがそこかしこに見え隠れしはじめた。それでも必死で、周囲に彼は “いかにも「らしい」中島らも”像をサービスしていたのではなかったか。大阪人の、ひとつの典型的なパターンのように思える。70・80になり、老衰してなお、中島らもであり続けるこの人を、ファンとして見てみたかった気もするが、今は何か、やっとそういう演技から解放されたのだな、よかったな、という、不思議な安堵感すらただよう。そんな死であった。黙祷。

【下条正巳】

日記 :: 2004年 :: 07月 :: 29日(木曜日)
新聞・テレビで下条正巳死去の報、88歳。どのニュースも『男はつらいよ』のおいちゃん、と紹介しているが、私にとっては日活アクションものの、“いい方の”牧場主とか、親分とか、あるいは医者とかの役(大抵ヒロインの父親)をやっていた人というイメージであった。70年代はじめにテレビ放映されていた岡崎友紀主演の『だから大好き!』というコメディドラマは、アジアの某国のお姫様が、敵国の国王との政略結婚を嫌がって日本に亡命してドタバタを巻き起こすという少女マンガチックな話だったが、彼女の父親の国王がこの下条正巳、彼女に結婚を申し込む相手国の王が金子信雄、日本に逃げた彼女を追う金子の部下の諜報員が深江章喜という配役で、今思うにこれは日活アクションの定番の配役の布陣であった。お遊び好きなキャスティングスタッフがいたのだろう。映画では常識人を演ずることの多かった人だが、本人はやはり役者らしく、変わった人だったのではあるまいか。なにしろ、実の息子に“アトム”と平気で名前をつける(もちろん、手塚治虫があのアトムを創造するより前である)人なのである。

【朱里エイコ】

日記 :: 2004年 :: 08月 :: 03日(火曜日)
朱里エイコ死去の報。歌手としての最盛期を見ているはずなのだが、何故か私の記憶の中にははっきりしたイメージがわかない。『アニマル1』の主題歌を歌っているというのも、かなり後になってから知った。ちょっと調べると、少女歌手田辺エイコとして『アニマル1』を歌ったのが昭和43(1968)年、その吹き込みを最後の仕事にして渡米し、ラスベガスのショーなどでトップスター朱里エイコに華麗な変身を遂げて帰国したということらしい。その後の奇行・病気などもあって、晩年はほとんど引退状態だったが、同棲していた男性(死去を通知した人)がいた、ということで、孤独な死ではなかったことがわかっただけ、救いかもしれない。

【畑農照雄】

日記 :: 2004年 :: 08月 :: 03日(火曜日)
もう一人、挿絵画家の畑農照雄死去、69歳。私の書棚の一角に常備本として置かれている『ユーモア・スケッチ傑作選』(浅倉久志・編)の装丁・イラストの人である。名前を覚えたのは、SFマガジンにおける半村良とのコンビネーションによる仕事だと思う。いまだに記憶に焼き付いているのは、『庄ノ内民話考』の挿絵で、いわゆる人面犬のイラストを版画タッチで描いたものだったが、イラストから伝わってくる“不気味さ”をあれほど感じたことはちょっとなかった。とにかくミステリやSF畑では空気のようにいつも身近にこの人の作品があった。辰巳四郎氏に続き、子供の頃から親しんできたイラスト・装丁家が亡くなっていく。とても寂しい。

【渡辺文雄】

日記 :: 2004年 :: 08月 :: 04日(水曜日)
ネットチェックしていたら、渡辺文雄死去の報が流れていた。ショックであった。が、意外ではない。最近の『遠くへ行きたい』(6月6日の放送が最後になった)での老け方を見て、何か病気なのではないか、と思っていたのだ。この番組に限らず、旅番組、グルメ番組のレポーターとして知られた人であったが、映画ファンとしては、知性派悪役の最高峰として数々の銀幕作品を彩った名キャラクター・アクターであった。東大から電通勤務を経て俳優へ、という(最初の映画出演は電通社員としてのスポンサーの松竹への出向扱い、であったそうな。ここらへん、同じく東大〜アサヒビールの宣伝部員からの転職組の三國一朗氏と同様である)経歴だからというわけではないが、やはり悪役を演じても、新しい時代の、頭で悪事を働くタイプが多いのである。もっとも、この人の名前と顔を初めて一致させて認識したのは(ウルトラQのカネゴンの回のヒゲオヤジはつけヒゲで素顔がわからなかった)悪役ではなく、テレビ『バンパイヤ』での手塚治虫担当の編集者役だったと思う。原作には手塚治虫本人が出てきて狂言回しとなり、テレビでも本人が本人役で登場するのだが、まさかに手塚治虫を役者にするわけにはいかず“先生は原稿を書いていてください!”と言って、渡辺文雄の編集者・森村が事件に顔をつっこむのである。渡辺文雄と言えば、大島渚と松竹を退社、『創造社』を作った同志だが、この『バンパイヤ』には他にも戸浦六宏、佐藤博など、創造社がらみの人たちが多く出演して怪演しており、比較的まともな役のこの人のことはあまり印象に残らないでいた。

 そんな彼を、いっぺんで個性派俳優として記憶したのがウルトラセブン『円盤が来た』(実相寺昭雄監督)の、板金屋の源さん役。最初は円盤を見た、と騒ぐ天文マニアのフクシン青年(冷泉公裕)をいじめ抜くが、自分も円盤を目撃してからは意気投合、真面目に扱ってくれないウルトラ警備隊へのグチを、フクシンくんと酔っぱらって肩を組みながらわめき散らし、寿司屋の親父(ミッキー安川!)に“どういう風の吹き回しだい?”と呆れられ、最後にフクシンくんの報告で地球攻撃計画が未然に防がれ、彼がウルトラ警備隊から表彰状を貰うほどのスターになると、周囲の群衆に混じって、“いやー、いい青年だよ、俺ア前から大好きなんだ”と、東京っ子独特の軽薄な善人ぶりを発揮。ここらへんの役作りはうまいなあ、と思っていたら、この人、本当に神田の生まれで、町の鉄工場のせがれだったとか。地でいけたわけですね。

 映画の方での役は気に入ったのが多すぎてひとつと特定できないが、敢えて選べばやはり大島渚『絞死刑』の教育部長だろう。絞死刑から生き返り、自らの犯罪を否定する在日朝鮮人・Rに対し、必死に“なあ、Rくん、そんな強情を言わずに罪を認めて死んでくれよ、私の立場も考えてくれないと。私たちはこれまで、とてもいい関係でいたじゃあないか”と説得する、気の弱い初老の公務員の滑稽さを徹底して戯画化して演じていた。その他の作品は『女囚さそり』での、梶芽衣子を犯そうとして片目にガラスのデカい破片を突き立てられ、それを突き立てたままの姿で、部下に“何をしている! 追えーッ”と命令するエキセントリックな刑務所長、『日本の首領』での、にしきのあきらに目をつけるホモの銀行頭取、『徳川セックス禁止令』の転びバテレンの悪徳商人というなんだかよくわからない役など、この時代の映画を見まくっていたものにとっては、完全なカルト男優であった。彼がこういう役を演じるのをやめて、旅番組、グルメ番組のキャスターになったのは、まあ映画そのものが斜陽産業になっていった、ということもあるが、悪役ばかり演じて娘たちが学校でいじめられたからだという話を以前にどこかで読んだ。娘のことを想う父の情愛はまことに美しいが、しかし、日本映画界は実に惜しい怪優をそれで失ったわけである。

【フェイ・レイ】

日記 :: 2004年 :: 08月 :: 11日(水曜日)
『キング・コング』のヒロイン、フェイ・レイ死去。96歳。生涯に120本を越す映画やテレビに出演した売れっ子スターだったが、『キング・コング』一本で、たぶん地球上からこの人類文明が消滅する日まで、その名を記憶される伝説の人 となった。
http://www.einsiders.com/features/columns/aug04obituaries.php
↑ここなどを見ると、銀幕上での華やかさと異なり、私生活では三人の夫と全て死別するなど、不幸な人生だったようだが、それゆえに作品の中での彼女は美しく、魅力的である。黄金時代の女優の多くが、私生活のみじめさと反比例してその存在が光り 輝いているのは何故だろう?

【エルマー・バーンスタイン】

日記 :: 2004年 :: 08月 :: 19日(木曜日)
映画音楽の大家エルマー・バーンスタインが18日に死去、82歳。死因不明ということだが、睡眠中の死去ということだから加齢による衰弱の結果の、おだやかな心臓停止だったのだろう。ついこのあいだ観た『華氏911』で、マイケル・ムーアが皮肉っぽく、アメリカの侵略行為のテーマ曲のような使い方で彼の代表作『荒野の7人』のテーマを流していた。たぶん、見てはいなかったと思うがバーンスタイン、いい気持ちはしなかったに違いない。しかしこればかりでなく、マルボロのCMソングとか、この曲はあまりの耳への親しみやすさのために、あっと言うまにありとあらゆるメディアに転用されて使われ(『007/ムーンレイカー』でもボンドが荒野を馬に乗って走るシーンでこの曲が流れ、マネーペニーが“マグニフィシェント・ダブル・オー・セブンね”とシャレていた)、そのせいか、この映画自体のサウンドトラックは1998年まで出なかったのだとか。みんな(ひょっとして作曲者御本人も)、とっくに出ているとばかり思っていたのだろう。ハリウッド映画音楽最後の大巨匠という感じだが、実は下積みも経験している苦労人で、かのサイテーSF映画として好き者諸氏には著名なアル・ジンバリスト製作の『ロボット・モンスター』、『月のキャット・ウーマン』の音楽も担当しているの である。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/spaceman/robot.html

【山本迪夫】

日記 :: 2004年 :: 08月 :: 28日(土曜日)
新聞に映画監督山本迪夫死去の報。岸田森が日本版ドラキュラを演じた『血を吸う』シリーズは日本映画史の中で特異な位置を保つのだが、アサヒ・コムの記事ではそういうものに全く触れぬどころか、“黒澤明監督らの助手につく”などと書いてある。黒澤についたこともあるかもしれないが、演出助手(チーフ助監督)として山本迪夫が見事な手腕を見せたのは岡本喜八監督作品においてであり、どちらが業界での仕事として重いか、は明らかであろうに。また、アサヒ・コムは“映画監督の”と肩書きをつけていながら代表作をテレビ『太陽にほえろ!』にしている。呆れて、ニフティ・ニュースの方を見てみたら、さすがに岡本喜八の名前と、『血を吸う薔薇』などの吸血鬼シリーズを手がけた、ということなど、ちゃんと書いてあって感心。

 それにしても、6本しかない監督作品のうち、3本がホラー、2本がスリラーというのは、1970年代の日本の映画人としては異彩と言える。昨今のホラー映画ブームをどう見ていたのだろう。誰か、この日本のホラー映画ジャンルを一時、たった一人で支えていた功労者に、もう一度メガホンをとらせてみよう、と考えるプロデューサーはいなかったのだろうか。ところで、私ももちろん岸田森の“ウー!”と吠えまくる吸血鬼は好きであるが、それ以上に酒井和歌子主演のスリラー『悪魔が呼んでいる』の大リスペクターで、ここらへん、この映画をクサす快楽亭ブラックとは意見を異にしている。北林谷栄が(ネタバレにつき自粛)というのもたぶん、この映画だけであろうし、その最後のセリフにいたっては、映画館から出るお客さんたちが全員、それを口ずさみながら出るに違いない名セリフ。大滝秀治、西沢利明、藤木敬という濃すぎる怪優たちがまた、悪ノリ全開でベストの怪演をしており、運命と悪意に振り回される酒井和歌子の可憐さが嫌が上にも際立つようになっているのである。『血を吸う……』シリーズはビデオになっているが、この作品、まだソフト化はされていないはず。是非とも東宝はこれを出すべし。

【種村季弘】

日記 :: 2004年 :: 09月 :: 01日(水曜日)
植木さんから、種村季弘氏死去のニュースを聞いて驚く。澁澤・種村に古書への泥沼に引きずり込まれた世代として感慨なきを得ず。そう言えば初めて古書店めぐりをして探して買った本が、この人の編著『ドラキュラ・ドラキュラ』(1973/薔薇十字社)だった。あの辛口批評の“風”こと百目鬼恭三郎ですら、種村の『パラケルススの世界』は大評価していて、せいぜいが“彼ら(種村や澁澤)とて日本物を書いたらとてもこう厚手な味にはなるまい”とイヤミを述べ るにとどまっているのである。

【水上勉】

日記 :: 2004年 :: 09月 :: 08日(水曜日)
ネットで作家の水上勉氏死去の報。映画『飢餓海峡』を大学時代初めて見たときのショックは忘れられない人生の思い出の一コマだが、これは映画に関する話である。作家・水上勉で覚えているエピソードは、日本ペンクラブの講演旅行で、売れっ子作家たちがスケジュールを合わせるため、徹夜で原稿を書き上げたりして、疲れ果てて旅館入りすると、地元の人たちが次々とそこの名物を持っては“センセイ方に食べていただきたい”と旅館に持ってくる。たいていの作家は編集者に応対をまかせて会わないのに、水上氏だけはいちいち自分が出て、その場で一口食べて、“ほう、これはおいしい。まことに結構なものを……”と礼を言っていた。この様子を見ていた柴田錬三郎が“こらあ、ベン、お前もっと作家としての矜持を持て。いくら行商あがりだからといって、そこまで腰を低くしないでもいいんだ”と説教した、というもの。昔は柴錬の言うことにもっとも、とうなづいていたが、最近は水上氏の態度の方に無限 の共感を覚える。

 もうひとつ、これは記憶がちょっとあやふやだが、辛口評論で知られた百目鬼恭三郎が朝日新聞の記者時代、水上勉の連載小説の担当をしていたが、一年の連載という予定で始めた作品が、そろそろ終わりに近づいたので、編集部では次の連載を山本周五郎氏に依頼し、氏も張り切って他の仕事を整理して新連載の準備をしていた。ところが、ある日水上氏が百目鬼氏に電話で、実は小説が当初の予想よりふくらんでしまい、予定通りに終わりそうにない、と打ち明け、連載延期を依頼してきた。百目鬼氏は仕方なく文芸部の部長と共に菓子折を持って山本邸を訪れ、実はこれこれで、と事情を説明すると、山本氏はかえって上機嫌で、
「いや、わかります。小説とはこちらの思い通りに始めたり終わらせたりいくものではない。周五郎、そこは心得ております。水上さんに、どうぞ充分にお書き尽くしくださいとお伝えくださいますよう」
 と了承し、二人に酒までふるまってくれた。百目鬼氏もホッとしていると、酒席の 途中で山本氏が、なにげない風に
「……ところで、延びるというのは、どれくらい?」
 と訊いてきた。百目鬼氏が
「……半年くらいと聞いております」
 と答えると、山本氏は小さく“キャッ”と叫び、そのあと、自分の醜態を恥じるように、自分に言い聞かせるように、下をうつむき、
「いい。これでいいのだ、周五郎」
 とつぶやきながら、膝を叩き続けていたという。どうも山本氏は、延びると行っても一、二回と思っていたらしい。作家にとって、予定していた原稿料収入が半年延びるというのは大変な計算違いになる。このエピソードも、最初は山本氏の“キャッ”が面白くて笑いながら読んだが、文筆業となった今、ここでこうして書いていて、自分がもし山本周五郎の立場だとしたら、スンナリ受け入れられるかと思うとちょっとおぼつかない。自作をゆるがせにせず、予定だからと尻切れトンボで終わらせてしま うようなことをしない水上氏の作家的態度は立派だと思いはするにせよ。

【伊藤彦造】

日記 :: 2004年 :: 09月 :: 11日(土曜日)
新聞に伊藤彦造死去の報。100歳ちょうど。すでにして日本文化史中の人物なので、“ああ、亡くなったか”というような悲しみは薄い。とはいえ、いまだ存命であったという事実に、感慨はかなり深いものがある。あれは私の古本コレクター人生のかなり初期だったが、山口将吉郎や高畠華宵など、昭和戦前のイラストレーターの画集や挿絵の載った本を集めようとしていた中で、最も好きだったのが、伊藤幾久造と伊藤彦造という、かなりややこしいまでに似た名前の二人の画家だった。幾久造の方は『火星兵団』や『魔城の鉄仮面』などというオドロオドロしい科学と妖気の世界を見事に描き出しながらも、全体として健康な精神を感じさせ、一方の彦造は、正義の剣士や勇気ある少年などという真っ当な人物を描きながらも、その表情や構図のどこかに病的なものを漂わせていた。凄惨なまでに美しい青年や少年たちの乱舞する『豹(ジャガー)の眼』『天兵童子』といった作品の挿絵は、どれも主人公にしてはきつすぎる目、削げすぎた鼻梁、そして時にSMチックな構図で、一目でわかる異常性を有していた絵であった。こういう絵を掲載していた当時の 少年雑誌というのも、また凄いものがあったと思う。

【小田部通麿】

日記 :: 2004年 :: 09月 :: 17日(金曜日)
新聞に小田部通麿氏死去の報。俳優にして住職であり、亡くなったのは京都の自坊において、とある。東映京都における、最も怖い顔をした役者さんで、怖い顔をした役者さんというのは歳をとると、実にいい好々爺になる(吉田義男とか)例が多いから、この人が袈裟を来て法話などをしているところは絵になったろうな、と思う。最も、実際に見たら“卍党が化 けているのではないか”とか思ってしまったろうが。

 そんな怖い顔の悪党専門といった人の前職が法務省教官で少年院の指導係、というところが世の中というのは面白い。あの顔でにらまれたら、いかな不良少年どももビビりまくったろう。役者に転じてからはその卍党(『仮面の忍者赤影』の不知火典馬役が代表作)をはじめ悪侍、悪岡っ引き、悪徳商人などで映画、テレビと縦横に黄金時代の東映で活躍、後半生は僧籍をとって(奥さんの実家がお寺で、ここに婿養子に入った。あの顔で婿養子というところがまた凄い)悠々自適暮らすというのはある意味理想の一生かもしれない、と、ふと思う。俳優としては大部屋のままで終わった人だが、昭和三十年代の映画界においては、なまじ浮き沈みがあるスターよりも、コンスタントに仕事が来る大部屋俳優の方がずっと安定した“職業”だった。ましてや小田部氏のように顔で仕事が来る人ならなおのこと。どんな大人気スターでも、大部屋をないがしろにしたら、仕事など出来なかったのである。大部屋というと必ず下積みとか、悲哀とかというイメージで語ろうとする人がいるが、それは現在の目で見た、勝手な感想でしかない。当時は大部屋とはいえスターと脇役とは、住む世界が違うというほどに区分けされていたから、上をうらやんで卑下するなどということもかえってなかった。“世が世なら自分も……”と思える時代の方が、人は悲哀や焦燥、妬みの感を抱き、不幸にしか生きられないのではないか、とふと思う。
http://www.psymage.com/kei/tvkagelist1.html
 ↑不知火典馬の顔が見たい人は。

【荻島真一】

日記 :: 2004年 :: 11月 :: 17日(水曜日)
荻島真一死去の報。58歳。役者としてはマスクも演技力もなかなかあったと思うが、いかんせん、線の細い人だった。60年代に大瀬康一主演で大ヒットした伝説の番組『隠密剣士』が70年代はじめにこの人主演でリメイクされたが、雑誌の取材はほとんど、リメイクでも同じ霧の遁兵衛を演じる牧冬吉の方に集中していたくらいだった。

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最終更新:2010年02月12日 10:15
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