手塚治虫への屈折した愛


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日記 :: 1999年 :: 10月 :: 07日(木曜日)

『ダ・ヴィンチ』のインタビュー。いきつけの喫茶店で“異形” をテーマに1時間半ほど語る。案外うまくしゃべれたのは、気絶したおかげで少々アタマがスッキリしていたせいか。 手塚作品 と水木作品をとりあげて、“欠如性としての異形”でまとめる。

日記 :: 1999年 :: 10月 :: 23日(土曜日)

中野に出て、サンモールのレコード屋で“手塚治虫生誕70年記念特別企画アルバム”『ジャングル大帝』CDセット買う。作曲の富田勲が“劣悪な録音環境で製作したものであり、元テープの保存状態も悪く、発売すればファンを裏切ることになる”として発売中止の仮処分を申請したもの。音楽家にはエゴイストが多いというが、まさにそれ。これを買う人のまず8割以上は富田勲の音楽を聴くためでなく、ジャングル大帝の思い出を聴くために買うのではないか。ファンを裏切る行為はどっちだ?

日記 :: 1999年 :: 11月 :: 15日(月曜日)

『メンズウォーカー』の依頼原稿の方を先にやる。あなたの人生に影響を与えたマンガ、ということで、『サザエさん』を取り上げる。私に依頼してくるんだから、もっとカルトな作家を取り上げるだろうと期待していたのだろうが、そうはいかない。人生に影響を与えたというなら、なにしろ幼少期、この作品に接していた時間は手塚マンガや藤子マンガの比ではなく大きい。それに、ときどき作者の内輪話が出てくるのが“業界人のエピソード” として子供ごころに極めて興味深かった。なをきだって、長谷川町子の話を読んで、最初に“マンガ家になろう!”と思ったはずなのである。
『サザエさん』単行本を読み返すうちに止まらなくなる。大きな起伏があるわけでもない、平凡な日々がネネクリネネクリ続いて、その記録が累積されていく。まさにここに、この作品の強烈な中毒性がある。

日記 :: 2000年 :: 03月 :: 04日(土曜日)

この美術館を建設するにいたった長谷川町子のマンガメッセージもかかげられているが、あれだけ庶民を描くことに長けていた彼女が、一般庶民感覚とはカケ離れていたゲイジュツカ的思考パターンの人物であったことが非常に興味深い。マンガ家が、底辺とはいえ芸術家だった時代があったのだ。これに比べると今のマンガ家( 手塚治虫以降 )はまったくサラリーマンである。

日記 :: 2000年 :: 03月 :: 15日(水曜日)

K氏から、そろそろ { {懸案の手塚治虫本]]、リミットだと言われる。制作費の口座が閉じられかけているとのこと。夏に時間空くので、そこで完成させて秋口出版、でOKを取る。・・・・・・やっぱり時間の余裕は持てそうにない。

日記 :: 2000年 :: 03月 :: 31日(金曜日)

ただ、若桜木センセイが気の毒なのは、結局は多産駄作にしかならないことで、世の中には多産でしかも傑作をどんどん生み出す天才が山ほどいるのだ。古くはバルザックから、林不忘、松本清張、梶山季行、睦月影郎。手塚治虫だってそうだ。こういう人に比べると、ただ量だけ、の若桜木センセイはやはりただの凡人になってしまうのである。あと、若桜木センセイに残されているのは、通常の駄作の域を越えた怪作を描きまくって、平成の好美のぼるの位置を確保することしかないだろう。むろん、量産できず質もダメ、って奴もたくさんいる。ホラ、そこにも。

日記 :: 2000年 :: 04月 :: 06日(木曜日)

K氏としばらく話す。この日記の毎日のタイトルになっている駄ジャレのことから朝日のアエラの車内吊り広告の駄ジャレコピーのことになる。あれ、一手に引き受けて作っていた人物が今度異動になり、後任が座ったそうで、あのコピーにも質の変化が見られるかもしれない、ということ。それから倉坂鬼一郎氏のこと、 手塚本 のことなど話しているうち、裏モノネットのX氏見舞い(ネット業界でアンヤクしている人物なのであえてXとしておく)。三枝さんの話題、伊藤くんの話題などでいろいろとディープな裏情報を聞く。

日記 :: 2000年 :: 04月 :: 14日(金曜日)

例えば60年代当時の児童文学者たちの言論記録などに目を通してみよう、というような目配りの発想がない。いや、現代マンガの代名詞的存在である手塚治虫が繰り返し々々、自分が識者からいじめられてきた経験を語っている、ということを、私はちゃんと自著の中に述べているのに、それを敢えて無視しているのは、彼の論の目的がマンガ大衆文化論を排するのではなく、唐沢俊一という個人を排することであるからだろう。

日記 :: 2000年 :: 04月 :: 29日(土曜日)

よく己れのルサンチマンの深さを自慢する奴がいるが、ルサンチマンの深い浅いは別に価値ではなく、それをどう作品に表していくか、が価値なのだ。現代マンガの歴史は永井豪以前以後に確実に分割される。それ以前のマンガ家たちは、手塚御大はじめ水木しげるも横山光輝もトキワ荘グループも、みなマンガの表現をひとつひとつ、創りあげていく作業を行っていた、いわば建築者だった。永井豪の出現で初めて、破壊することが表現足り得るという概念が誕生したのである。

日記 :: 2000年 :: 05月 :: 30日(火曜日)

7時、タクシーで幡ヶ谷。チャイナハウス瀧口酒家で飲み(食べ)会。本チャンは8時からだが、その前に 朝日新聞社K元氏と手塚本打ち合わせ 。新機軸をいろいろ入れる算段があるのだが、まあ、全ては実際の作業に入ってから。

日記 :: 2000年 :: 06月 :: 12日(月曜日)

馬琴という作家はマンガにおける手塚治虫に相当すると思われるので、これは 朝日の手塚論 における好資料を手に入れたといえるだろう。

日記 :: 2000年 :: 06月 :: 22日(木曜日)

5時半、朝日新聞K氏来宅。 手塚治虫評論本打ち合わせ 。テープ起こし頼んでいる芝崎くんが来る前に、すでに語りはじめちゃっていたが、彼が来た時点でもう一度、アタマからしゃべり直す。1時間半、途中で水ものまず、休息も入れず。落語や講釈の素養があってよかった、と思うのはこういうとき。渡辺昇一の『知的生活の方法』の中に(著者の最近の思想言行で変なイメージがついているが、この本はやはり画期的名著だと思う)、仕事場にテープレコーダーを常備しておき、“表現したいことがペンの早さではおいつかないときはテープに吹き込んでしまう”という荒正人のアイデアが紹介されていて、初めて読んだ高校生時代に、ソノ手がアッタカと膝を叩き、さっそく実践してみようとして、マイクに向かうとアーとかエーとかしか言葉が出ずに、大失敗したことがあった。マイクに向かって、草稿もなしにある程度まとまったことをしゃべる(司会とか挨拶とかは別だが)というのには、やはり訓練と経験が必要なのだ。
語り下ろし終わって、二人を二十分ほど待たせて、仕事場でコラム言行一本書いてメールし、メシ食いに出る。

日記 :: 2000年 :: 06月 :: 30日(金曜日)

その鳴り響くさなかに海拓舎Fくんと芝崎くん、テープ起こし原稿持ってきてくれる。芝崎くんはこれと 朝日の手塚本 のカケモチで大変だろう。ここも、海拓舎と朝日で優先順位の争いが。鳴呼。

ちょうど好美のぼるという、貸本マンガにおける多作の帝王について研究していたところであったし、その好美氏が終生、ライバル視していたという大物中の大物・手塚治虫の本質も、あの人が生涯を通じて多作であった、ということが重要なファクターになっている

日記 :: 2000年 :: 09月 :: 06日(水曜日)

なんだかんだで、もう来年の出版予定もかなり埋まってきた。年内に、 朝日新聞社の手塚治虫評論本 と、海拓舎の都市論本、それに二見の純文学(笑)書き下ろしの三冊はさんざ待たせた編集さんたちへの義理で死んでも出さねばならぬ。

日記 :: 2000年 :: 10月 :: 17日(火曜日)

裏日本工業新聞、タニグチリウイチ氏の「少なくともマンガに限って言えば手塚治虫の昔から“見下されている”とゆー意識ではなく“面白い物を作り出したい”とゆー意識が先に立ってあれだけの作家のあれだけの作品が世に出てきて、それがさらに新しい作家の新しい作品を生み出して来たんだと思う。コンプレックスとは無縁だろう」
 という一文に異議あり。手塚御大の『ぼくはマンガ家』などを一読してみれば、手塚治虫がどれだけマンガというものの社会的地位の低さに憤っていたか、また当時の識者たちにどれだけ見下され、唾棄され、子供の敵扱いされてきたかということが理解されると思うんだが(なにゆえに彼が、“人気マンガ家になって後”、医学博士号を収得したか、ということを考えよ)。手塚氏は石上三登志氏などとの対談でも繰り返し、自分のマンガがいかに非理解にさらされてきたか、ということを述べ、まだ根にもってるんですか、と呆れられて、“僕は執念深いんですよ”と、ジョークにまぎらしながらも、既に自分が識者、文化人の仲間入りをした後ですら、そのことをルサンチマンとして自らの創作のエネルギー源としていたことを表明している。これを無 縁だろう、と無責任に言い捨てるということは、日本のマンガの歴史の一面を否定することに等しい(手塚以前の田河水泡、杉浦茂というような美術学校出身の人達が画壇からどういう扱いを受けてきたかの証言も多々、残っている。田河は絵が下手で落ちこぼれてマンガ家になった、と正統画壇から言われ続けてそれが生涯のコンプレックスだったが、自分も後輩の杉浦の絵を“下手な上に気味が悪い” と終生認めなかった)。

 逆に言うならば、現代マンガの創始者たる手塚治虫のこのコンプレックスの呪縛のもとで、これまでの日本マンガはいささかゆがんだバロックな発展を遂げてきた、ということになる。私などに言わせれば現代のマンガ状況がおもしろいのもそれなればこそ、なのだが。まして、貸本マンガという、さらにその手塚を代表とする雑誌マンガにすら深いコンプレックスを抱いていた業界にいた人々が現代マンガの一方の底流をなしているのだ(佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして』などを参照せよ)。いかにマンガ界に世代交代が進行しているとはいえ、アシスタントつながりが基本のこの業界、師匠から弟子へのルサンチマンの伝承は有形無形でまだ途絶えていないはずである(TINAMIXなどはアシ経験のないマンガ家さんがお好きなようだが)。

 見下されていることが創造につながる、というのは短絡に過ぎる表現としても、コンプレックスが自己の創造性を爆発させる起爆剤としての効能を持つことは日本の芸能がそもそも被差別性と切っても切れない関係にある(手塚御大が『ぼくは〜』でイキドオッていたように、マンガ家は以前は納税者区分で“芸能人”扱いだった)ことを見ても明らか。手塚氏のデビュー時、宮崎駿のデビュー時の、その所属業種の社会的、企業内的位置付けが果たして“面白い物を作り出したい”というキレイゴトのみで充足できるものであったか否か(林静一『赤色エレジー』等を参照)、そこへの考察のない感想を基盤に反論しようとするのは軽率の誹りをまぬがれまい。ルサンチマンに全てを帰する論もまた軽率ではあるけれど、こと日本という風土の中で、それを理解しない、出来ない者に、マンガ文化やオタク文化、いや、もっと大きく広げて大衆文化というものは、ついに理解しえないのではないか、と思うがどうだろう。

日記 :: 2000年 :: 10月 :: 18日(水曜日)

さらに東氏がリミテッド・アニメに関して、これを手塚治虫以降の日本のテレビアニメが生んだもの、と思っているらしい誤謬は本質に関わる問題だろう(228ページ)。

日記 :: 2000年 :: 10月 :: 19日(木曜日)

12時ころ、芝崎くんから電話。ちょっと渋谷へ来ているので、仕事の確認に寄っていいですかというので、会って話す。彼は私の仕事に、いま『都市論』と 『手塚治虫論』 、それに太田出版の『と学会白書』と、三冊で関わっている。太田の仕事について少しアドバイス。こないだ、ちょっとプライベートでつらいことがあり、いささか落ち込んでいたらしい。人生いろいろ、頑張れ。 手塚本 のことで少し打ち合せているうち、手塚治虫と水木しげるの比較論になり、それぞれのキャラクター性の違いを話していたら、芝崎くん、ちょっと考えて“唐沢さんは手塚系キャラで、志水さん(彼はイーハトーヴ出版の『トンデモ創世紀2000』で二人の対談オコシをやった)は水木系なんですよねえ”と言う。自分のことはともかく、志水一夫氏が水木系キャラ、という指摘には膝を叩いちゃったよ、私ゃ。

日記 :: 2000年 :: 10月 :: 30日(月曜日)

途中から芝崎くんも来て、 手塚本進捗 の状況を教え、太田のと学会例会本の進捗状況を聞く。来年のスケジュール、少し整理しないと。オタク問題に対してのスタンスもちょっと話す。オタクという精神形態の位置づけが二十一世紀を考えるにあたって重要なポイントとなるという点で、私と東氏などとの基本理念は同じ。ただし、東氏はそれを従来のアカデミズムと結びつけることによってリスペクトすることを画し、私はオタクをオタク自体の範疇の中で成熟させようと試みている。言わば、上洛して政権を京に置いた平家か、鎌倉にとどまってそこで幕府を開いた源氏か、の違い。禁中から高位を貰っ て舞い上がる田舎武士のような真似はしたくない。

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