訃報日記2001:01月〜06月

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【マルセ太郎】

2001年01月23日(火曜日)
新聞にマルセ太郎死去の報。以前、ジァンジァンの楽屋を訪ねたことがある。猛禽のような鋭い目つきが無茶苦茶印象的だった。ただ、猛禽類は猛禽類でも、ハヤブサやワシではなく、モズのそれのような感じは、した。額や手のあたりの皮膚が白なまずのように脱色しているのがちょっと気味悪かったが、死因は肝臓ガンだとのことで、あれは抗ガン剤の副作用だったのだろうか。性格も容貌も芸人にはまったく適していない人だったが、ジァンジァンの舞台の、あの暗い空間に独りで立っている姿が、こ れほど似合う人もちょっといなかった。日記つけ、K子に弁当。


【ゴードン・R・ディクスン】

2001年02月03日(土曜日)
夕刊に、SF作家ゴードン・R・ディクスン死去の報。ポール・アンダースンとの共著、『地球人のお荷物』は、私ばかりでなく、それまで頭でっかちなSFばかり名作と教えられて読まされてきた日本のSFファンに、“SFってこれでいいのか!”と、目からウロコの落ちる経験をさせてくれた作品であった。私見だが、日本のSFにおける主流がハードものからライトユーモア色の強いヤングアダルト系にぐんと傾斜していったのは、この作品の与えた影響(こういう作品が書きたい! と思った若手作家の増加)が大だと思う。

 そう言えば、例の講談社文庫の“黒本”と呼ばれていた『世界SF傑作選』の第一巻に載っていたのが、このディクスンの作品で、あの『お荷物』の作者か、という気 持で読み始めた私は、そのハードでミリタリーな作品世界設定と硬質な描写、にも関わらずラストが未来的悪夢、とでも言うような暗いイメージの、異様な圧迫感のある文章で、得体の知れぬ感動を味わったことを思い出した。……と、そこまで思いをはせて、書庫に入ってその『世界SF傑作選1』を引っぱりだし、パラパラとめくってみたら、そう感じたのは同じ巻に収録されている(第一巻は二人だけ)ポール・アンダースンの『王に対して休戦なし』の方にだった、ということを発見した(ディクスンのは『兵士よ、問うなかれ』)。記憶なんてアテにならんもんだと苦笑したが、この両人、どちらもアメリカSF界では政治的に右派として知られ、内容も両人のものともベトナム戦争にインスパイアされた戦争ものだったから、ゴッチャになっていた のである。


【並木鏡太郎】

2001年02月16日(金曜日)
朝刊に並木鏡太郎監督死去の報、98歳。アラカンの鞍馬天狗ものの監督として紹介されていたが、典型的な職人監督で、チャンバラからヒュードロ怪談もの、森繁の喜劇、宇津井健のギャングアクションまで、なんでもござれの人だった。学生時代、新東宝映画などのオールナイトで、出てくる映画出てくる映画みんな並木鏡太郎で、またかい、と呆れたことを覚えている。中でも珍品は昭和二十九年新東宝映画(またかい)、『力道山の鉄腕巨人』だろう。留置場に入れられた力道山が鉄格子をつかんでゆさぶると、警察のビル全体がグラリグラリと大揺れになり、丹波哲郎(!)はじめ警察官たちが大あわて、などというギャグは、例え喜劇であっても、もはやその“ギャグの文法”が死滅してしまっているため、現代では再現不能なのである。


【新珠三千代】

2001年03月22日(木曜日)
買い物して帰り、夕刊を見たら、新珠三千代死去のニュース。17日に亡くなっていたという記事に大々驚愕。まさにその日、この日記のタイトルで名前を使わせてもらっていたのである。と学会を退会しなきゃならんのではないか、とさえ思わせる西手新九郎のミステリアスな腕の冴え。

 そのタイトルの受けでもネタに使っていた『細うで繁盛記』以来、新珠三千代は優等生的イメージの役ばかり多くなったが、NHKの銀河テレビ小説『やけぼっくい』では同じように優等生的な女医さん役だけれど、元・夫(高橋昌也)に入浴シーンを偶然のぞかれてしまい、少女みたいに“いやーん、見ちゃ、いやーん”と恥ずかしがるというスゴい演技を軽々とやっており、見ていてその女優としてのハバに驚いたものである。顔は美人というより、高級な犬みたい、とずっと思っていたけれど。

 新珠三千代で好きなエピソード。ある日、ロケ先で彼女は目を傷めてしまい、その土地の眼科を探してもらって、マネージャーと一緒に出かけた。ところが、どう間違えたか精神科の病院に行ってしまい、診療室に入って、“新珠三千代でございます”と先生に頭を下げると、先生、マネージャーの方を向いて“で、いつからそう思い込んでいるんですか”。確かミッキー安川の本で読んだ。


【ウィリアム・ハンナ】

2001年03月23日(金曜日)
帰って夕刊を見たらハンナ・バーベラの片割れ、ウィリアム・ハンナ死去、90歳。ぎんさんからこっち、高齢者がよく死ぬ気が。


【奈良本辰也】

2001年03月24日(土曜日)
奈良本辰也氏死去、87歳。なんか87じゃまだ若いじゃないか、というような感じである。昔、この人の監修したマンガ版日本の歴史が私の愛読書だった。そう言えばこのマンガを描いていたカゴ直利って、まだ存命なんだろうか? 私の記憶にある最も古いマンガ家の一人で、石川球太などと一緒に『狼少年ケン』のマンガなどを描いていて、ギャグタッチでかなり面白かったんだけども(注・と、イキオイで書いてあとで思い出したが、カゴ直利の描いたマンガ日本史の監修は和歌森太郎であった。奈良本辰也の日本史は、マンガばかりで日本史を押さえるのもどうも、と後で買った読み物の方であった)。

【エルゲ・イングスタッド】

2001年03月30日(金曜日)
年寄りが死ぬと言えば、日本ではないが、ノルウェーの探検家エルゲ・イングスタッド(コロンブスの発見以前にアメリカ大陸はバイキングによって発見されていたという説の発見・証明をしたひと)がこないだ死去、101才。探検家にしては長生き。そういやインディ・ジョーンズも、100才まで(それ以上か)生きたという設定だったっけな。


【畑田国男】

2001年04月08日(日曜日)
そう言えば、この本を読んで知ったのだが、イラストレーターの畑田国男さんは亡くなっていたのか(調べてみたら平成8年3月死去、51才)。慶応ボーイらしい多趣味人間で、『日本三大協会(日本三大○○、というものを収集する)』などという酔狂なものを作ってみたり、兄弟姉妹の人間学を研究して『妹の日』を制定する運動を起こしてみたり、この人もまた横田さんと同世代の、既成権威相対化型人間の代表であった。

【三波春夫】

2001年04月14日(土曜日)
帰宅、ネットでニュースを見たら三波春夫死去の報。K先生の文章に三波春夫のレコードのことが出てきている。西手新九郎見参。

2001年04月15日(日曜日)
三波春夫関連のニュースいろいろザッピング。『おまんたばやし』をやるかと期待していたが、コンニチハコンニチハばっかり。『ルパン音頭』とかも流せ。三波家と、ルパン三世の音楽を担当していた大野雄二氏とは、慶応つながりで(三波氏の長男の豊和氏が慶応出身)交友があり、ルパンでLP一枚分の歌を吹き込んでいた、と平岡正明だったかのエッセイで読んだことがある。結局、発売されたのは『ルパン音頭』と『銭形マーチ』のカップリングEPだけだったが、二曲とも大変な名曲。カラオケに『ルパン音頭』は入っているが、ぜひ『銭形マーチ』も入れてほしい。と、いうか、この際他の曲も含めて追悼盤CDでも出さないか。

【勅使河原宏】

2001年04月16日(月曜日)
勅使河原宏監督死去。『砂の女』を学生時代、千石の三百人劇場で観て、そのあまりの観念的映像にヘキエキした記憶があり、それから十数年たって、『利休』を観て、前衛的部分がこれっぱかしもないのに肩すかしをくった記憶がある。ジーン・ハックマンが、最も好きな映画に『砂の女』を挙げていて、その取り合わせの似合っていないことに驚いたことも。


【河島英五】

2001年04月16日(月曜日)
車内の電光ニュースで河島英五の死去と、皇太子妃懐妊(の、可能性)を知る。

2001年04月17日(火曜日)
河島英五の若くしての死は痛ましいし、『酒と泪と男と女』は私がカラオケで持ち歌にした最初の歌なので思い入れも深いのだが、同じ日に、もう少し小さい扱いで報じられた小島三児の死が、どちらかというと私にはこたえる。


【小島三児】

2001年04月17日(火曜日)
同じ日に、もう少し小さい扱いで報じられた小島三児の死が、どちらかというと私にはこたえる。今の若いお笑いファンは知らないだろうが、昔、トリオスカイライン当時の彼はまさに時代の寵児、といった人気者だった。スカイラインという非常にモダンなトリオ名を裏切って、浅草出身なのになぜかナマリのある東八郎とダアダア的な小島三児の取り合わせの古臭いところが笑わせた。小島のボケによる話の食い違いが最高潮に達して収集がつかなくなったところで原田健二(今回の報道で、久しぶりに名前を思い出した)が“ハイハイ”となだめ、そのハイハイを聞くと反射的に東が“小諸ォ〜”と馬子唄を歌い出し、小島がまたそれを聞くと反射的に東の肩に首をもたせかけて、東が“なっつくな!”と払う、というギャグは、考えてみるとまるでイミがないのだが、そのイミのなさが、1970年代初頭のナンセンス・ブームに非常にマッチして、若者にウケていた。少年サンデーの新人賞応募マンガで、鬼のトリオが地上に出てきてドタバタするというコメディマンガが掲載されたことがあったが、その鬼たちのキャラクターがトリオスカイラインをモデルにしていて、編集部がそれを“センスがいい”と講評で褒めていた、という記憶がある。そんな時代もあったのである。

 小島はそれまでの陽性ばかりの人気芸人の中にあって、ボケてはいても目に不遜な光を宿している気味の悪いところがあり、そこもまた非常に生意気ざかりのこちらの神経を刺激していた。ヨタ者のように東の言うことに逆らってばかりいた小島が、小諸ォ、と聞くと子供のようになっつきだす、というあたりの切り替えが、(“ごめんちゃい”という幼児語のギャグも効果的だった)小島のキャラクター自体が持つ暗さを中和していたのである。東と離れて独立して以降、この中和がなされなくなり、なにやらヌメっとした無気味な感じばかりが先に立って、愛らしさが感じられなくなってしまった。東という、お笑い芸人としてはアクの弱い、目立たぬ感じであった人物と組んでやっと小島のキャラは御家庭仕様のものになったし、東もまた、自分のキャラの弱さを小島というアブない人物とからむことで目立たせることが出来た。ある意味、理想のコンビネーションだったのだが、小島はそれを不満に思っていたようだ。その小島の自意識肥大がトリオ解散につながる。東はその後しばらくの低迷の後、気の弱い愛されるお父さんという安定した役柄で人気を得たが、小島のキャラは当時の映画やテレビでは扱いきれず、不完全燃焼のままに終わってしまった感が強い。彼にとって、東と早い時期に別れたのは生涯の誤算だったろう。……扨も皆様、こんにちの御話の教訓で御座り升るが、呆気芸は突込あつてのもの、御客様の笑いを悉皆己が取た物と思ふて慢心致さば終には己が身を滅ぼすといふことぢや。

【あすなひろし】

2001年04月23日(月曜日)
夕刊に、あすなひろし氏死去の報。60歳。いわゆる“バタくさい”作風と呼ばれる作家さんの代表で、私の中では『COM』というと、誰よりさきにこの人の絵が頭に浮かぶ。それくらい、一度見たら忘れられない個性的かつ美しい絵柄の人だった。肺がんで、闘病生活をしているとは聞いていたが。



【古今亭右朝】

2001年04月30日(月曜日)
朝刊に名を知っている人の訃報二つ。ひとつは落語家の古今亭右朝さん、肺ガン。享年52歳。圓丈さんのサイトで、肺に水がたまる病気で声が出なくなっていたと聞いていたが。今からもう十年以上前になるか(なをきがまだ結婚していない時期だったから)、ある年の元旦に、ほとんど車のいない高速道路を走るタクシーの中で、正月の寄席中継をやっており、『抜け雀』がかかっていた。なをきと聞いて、“誰だ、これ? うまいなあ”と仰天・感心したのだが、それが右朝さんだった。それから何度か高座を聞いたが、とにかくうまい。うますぎることが欠点だったと思う。聞いてる方がそのうまさについていけないのだ。そのギャップのせいか、若いのにえらく老成した感じを受けたが、先代馬生や馬の助はじめ、何故かこういうタイプの人ってのは早死にする。


【出口聖子】

2001年04月30日(月曜日)
もう一人が大本教の4代目教祖、出口聖子、66歳。かの王仁三郎の孫娘。5代目教祖は、姪で養女になった紅さんが継いだとのこと。出口くれない、って、何か演歌のタイトルみたいだ。あ、もう一人、日本の原爆製造研究の中心人物、竹内柾氏も亡くなっていた。こちらは90歳か。


【和泉宗章】

2001年05月04日(金曜日)
他に、“天中殺”の和泉宗章氏、膵臓癌で死去、65歳。うちの伯父とは昔からの知り合いであり、伯父の次男(私にとっては従弟)の結婚式の仲人代わりの立会人でもあった。昔は歌手志望でそれが果たせず、競馬の予想をはじめ、その研究から占いに興味を持ち、やがて算命学にはまりこみ、天中殺占いで大ブームを巻き起こす。しかし、長島監督(第一期)の引退時期をはずしたことから占い師を引退、今度は一転して占い否定の説に走り……という、かなり波乱万丈な一生だったと思う。本人から直接聞いたわけではないのだが(プロダクションのマネージャーさんから聞いた)、彼が占いに凝ったのは、なんとか馬券を百発百中に当てる方法はないものか、と思案した末であり、数年間、その研究に没頭したあげく、人間相手の占いに転向した。その理由は、“馬には占いが適用されない” という結論だったからだそうだ。彼の理論では、なんでも占いが当たるのは星のめぐりが人間の五臓六腑と綿密な関係を持っているためであって、馬にはこの五臓六腑のうちのナントカが足りないのだそうな。私は天中殺なんてものはツユも信じないけれど、和泉さんの人生における星回りの最高の一瞬が、この占い研究の成果を本にして出すに当たって、算命学(万象算命)という名称を用いず、“天中殺”というその中の用語にスポットを当てて書名にしよう、と思いついたその瞬間であったことは確かだろう。このインパクトある耳新しい名があったればこそ、あの、どちらかと言えば地味な占いがあれだけのブームを巻き起こしたのである。

 実は私はこの人には一度、苦い目にあっている(本人は知ったことではないのだけれど)。昔、ある本の企画を持って出版社めぐりをしていた。知人の紹介で青春出版社の企画部長さんにお会いして、案外向こうが乗り気になってくれ、私はホッと一息ついて、雑談にまぎらせ、実は和泉宗章さんと知り合いで……と口をすべらせた。その途端、相手の態度がガラリと変わった。その部長さんがあの天中殺の本の担当だったのだが、和泉さんが勝手に占い師廃業を宣言して、出していた天中殺関係の本も全て絶版にしてしまったため、青春出版社はみすみす大ヒットシリーズを失った、というわけである。そのとき、和泉さんと何か不快なやりとりがあったらしく、それを思い出した、と言うようにその部長さんの態度は感情的に硬化していき、話の接ぎ穂がなくなった私はただ呆然とするばかりで、結局、企画も流れてしまった。共通の知り合いの名を出すときにはよほど注意しなくてはいけません。


【ダグラス・アダムス】

2001年05月13日(日曜日)
『銀河ヒッチハイク・ガイド』の著者、ダグラス・アダムス死去、まだ49歳。27歳で出した『銀河〜』は1400万部の大ベストセラーだということだが、日本での人気はサッパリだった。英国流の、ふたひねり効いたユーモアが日本人にはやっぱり通じにくかったらしい。スーパーコンピューターに750万年かけて解かせた“宇宙と生命と万物の存在に対する究極の解答”が“42”というギャグなど、その際たるものだろう。新潮文庫のこのシリーズの三冊目『宇宙クリケット大戦争』がアッという間に品切れ絶版になり、東京じゅうの古書店を捜しまわったのも懐かしい。


【團伊玖磨】

2001年05月17日(木曜日)
團伊玖磨氏死去、77才。この日記には何故かちょくちょく出てくる名前だった。ナマで最後に見たのは去年、新橋の蕎麦屋で風邪を引き込んでボヤいている姿だったが、何か生気がないように感じたのは病気のせいばかりでなく、奥さんを亡くした直後だったからか。『パイプのけむり』シリーズは末期には出版社のお荷物になっていた、という話も聞いたことがあるが、しかし、あれだけの期間、エッセイのネタを途切れさせなかったというのはスゴい。文章の読みやすさと大衆が安心してついてこられる程度の知的レベル、上品さ、視点の位置など、文筆業志望者ならば一度は(一度でいいが)目を通しておくべきだろう。そうそう、ジェイソン・ミラーも死んだ。舞台中心の人だったので映画では『エクソシスト』のカラス神父くらいしかおなじみのものがないが、あの暗ぁい深刻そうな顔がなければ、あの映画は成立しなかっただろう。カラス神父と言えば小倉智昭の頃の『どーなってるの?』で中村江里子がこの名前を“カラス親父”と読み間違えた事件は何回もネタに使わせていただきました。


【鈴木宏昌】

2001年05月23日(水曜日)
訃報欄にジャズピアニスト鈴木宏昌食道ガンで死去の報。60歳。貧乏学生時代、新宿ピット・インでコークハイ一杯でねばりながら、コルゲン・バンドに聞き入っていたことを思い出す(中村誠一がサックスで参加していたなあ)。『今夜は最高!』の、決して歌がうまくないゲストと、それをまたフォローするほどうまくないタモリのトランペットを支えて、毎回なんとかステージを“カタチ” にしていた彼のバンドの実力は、まさに日本でも有数のものだったろう。そのころ私は彼が音楽を担当した『海のトリトン』同好会のメンバーの女性二人に、二またかけてつきあっていて……まあその話はいいや。何にしても、私の青春は彼の演奏と共にあったような気がする。


【河本敏夫】

2001年05月25日(金曜日)
笑わん殿下河本敏夫死去。政治家としての彼の不幸は、現小泉内閣を見ればわかるように、政治が実力と見識の時代からマスコミ相手のコマーシャリングの時代に移項する、ちょうどハザマの時期にいたことであろう。マスコミ演出の名人である中曽根氏と総理の座を争い破れ去って、その後第一線に浮上してくることが出来なかった。今後の日本は地味な人間はトップに立つことができない社会である、と考えるべきだろう。ブッシュ(今のブッシュの親父)が大統領になったとき、アート・バックウォルドが、“こんな特長のないやつが大統領になってはわれわれはメシの食い上げだ”と政治マンガ家たちが集会を開いて嘆きあう、という冗談コラムを書いていたっけ。そう言えば河本サンの似顔絵で印象に残るものを見たことがない。いしいひさいちがヒロオカに河本サンを演じさせたやつがかろうじて記憶にあるくらい。


【アンソニー・クイン】

2001年06月04日(月曜日)
アンソニー・クイン死去。『アラビアのロレンス』の、粗暴だが子供っぽい盗賊の親玉役が、最初テレビで見たときの北村和夫の吹き替えが抜群だったこともあって、印象深い。親父が粗暴で無教養なのに、幼い息子が美少年でやたら賢くて、それを参謀にしているという設定は、かなりのSFマンガがパクったのではあるまいか。


【唐沢パパン】

2001年06月14日(木曜日)
各新聞に乗った親父の訃報記事を見る。北海道新聞の記事はなんと、『評論家・唐沢俊一氏、漫画家・唐沢なをき氏の父』と肩書されている。グレて店も継がなかった息子たちの父、などという評価では、“生きていたらさぞ怒るだろうねえ”などとよくわからないようなことを話して笑う。母まで含めて何か家中盛り上がっている感じである。豪貴の奥さんの優子さんが一番、喪家の人っぽく、親父の棺の前で座っている。


【青山正明】

2001年06月18日(月曜日)
帰宅したら青山正明死去の情報。まだ本当かどうかわからないが、また葬式か、とぼんやり思う。驚きはするものの、意外性がその死にこれほどまつろわぬ人間も珍しいのではないか。

2001年06月19日(火曜日)
青山正明関係の情報がとぎれとぎれながら入ってくる。てっきりクスリで体がガタガタになっての死だと思ったら自殺、しかも腹を切って首をつったらしい、というすさまじい話がつたわってくる。『ハンニバル』のジャン・カルロ・ジャンニーニみたいな死に様だったということか。やはりクスリでの発作的な行動か、それとも覚悟の上の凄絶な死か? 風聞だが、永山薫が私とモメた一件で、青山正明に手打ちの仲介を頼もうとしたが、すでに彼の体がそんなことに耐えられなくなっていた、という話がある。あれほどの男がこのまま忘れられていくのは寂しいな、と思っていたが、ラストでなんというインパクトある死を。

 彼の鬼畜・悪趣味関係の仕事での独走ぶりはズバ抜けたものがあった。何度も一緒に仕事をしたし、話もしたが、クスリにしろ少女姦にしろ、“実体験”に基づいたそのエピソードは面白いったらなかったし、その才能に羨望もした。しかし、話しながら“同じ分野でも、彼みたいになってはいけないな”ということはビンビンに感じたものだった。彼のような方向性の仕事は、自分をどんどん狭いところに追い詰めていき、一般読者を排除して、しまいには自分自身をも破裂させてしまうのではないか、と思ったのである。ことこのような事態になってからこんなことを書くとアトヅケと思われるかもしれないが、これは正直なところである。逆に言うと、彼の背中を見ていたからこそ、私はカルトライターながらも一般向けというワクの中にとどまれたのかも知れない。初対面はまだ私の参宮橋時代の喫茶店だったが、最初から“実はいま警察に尾行受けているんですよ”と語ってくれたのはいかにも青山正明らしかったと思う。で、“××社なんかが、「青山さん、いっそ警察と完全に敵対して、おたずね者になって、その逃亡体験記書きませんか」なんて無責任なこと言ってタキツケるんで、大弱りしてるんです。他人事だと思って”とボヤいていた。話す内容は狂気のレベルだったが、目は温和でオドオドさえしており、マスコミが勝手に作り上げる青山正明像に無理して合わせているという感じが見てとれた。

 青山正明というと鬼畜だのドラッグだのという言葉が反射的に浮かぶが、実は彼はその合間に、実に平凡でつまらぬ編集・ライター仕事をせっせとやって、それで稼いでいたのである。彼の他の鬼畜系ライターがみんな彼のようになろうとしてかなわなかったのは、まっとうな仕事もちゃんとこなせる、というその、基盤の常識的能力の差にあったと思う。私の『女性自身てば!』の構成も担当してくれたし(途中で別の仕事が忙しくなったので降りてしまったが)、思えば最後に彼と打ち合わせをしたのは、まるきり青山正明らしくない、『逮捕しちゃうぞ!』の謎本を書くライターを紹介してくれないか、という件であった。そのちょっと前にクスリで逮捕されて、出てきたばかりのところであったので、鶴岡などは“『逮捕されちゃうぞ!』って本だした方がいいんじゃないですか”などと言っていたけれど。そのとき、警察関連のコレクターを紹介して、“彼、本物の逮捕状まで持ってるんですよ”と言うと、恥ずかしげに笑って、“ボクも見たことあります……”と言った。“でも、一応見せられるんですが、足がガクガクして、頭の中なんか真っ白で、何が書いてあったかなんて、まるで覚えていませんねえ”とのことで、それを聞いて、ああ、この人、本心は気が弱くて常識家なんだな、と思った。まあ、それだからドラッグなどに走ったのかもしれないが。

 私に会うと口癖のように、“今の若いライターは文章力がないからダメだ”とこぼしていた。“ライターの文章は商品なんですよ、自分が書きたいことを書くのでなしに、人がそれを読む、ということを認識して書かねばいけないのに、そんな基本がわかってなくて、自分本位の文を書き散らかしている。何考えてんでしょうね”と言っていたのを思い出す。青山正明にこう言われていたのである。今日びの若手のモノカキたちは、これを彼の遺言と思ってほしい。

 青山さんの件で、フィギュア王N田くんはじめ、数名の関係者から電話。持っている情報はだれも同程度のものらし。ところでN田くんはなんと札幌での通夜に来てくれていたらしい。驚く。あまりに人が多数参列しているので、こちらに声もかけられなかったとか。K子に“N田くん来てたんだって”と言うと、間髪を入れず“えっ、黒いアロハで?”と来た。


【金井大】

2001年06月20日(水曜日)
俳優の金井大死去、74歳。地味だが味のある傍役、という形容が一番ピッタリする人で、昔からその名前は知っていたが、顔と一致したのは『夜叉ケ池』あたりからだった。古くは『ウルトラQ』のゴルゴスの回のおまわりさんなどで見ているのである。『悪魔くん』の狼男で、蜷川幸雄の狼男をムチであやつるマッド・サイエンティスト役をやっていたのが一番の怪演だったのではないか。晩年は声優としての活躍の方がメインで、『大草原の小さな家』などでおなじみ。そうそう、映画版『怪物くん』では怪物大王をやってましたなあ。


【ポール・シュリーブマン】

2001年06月27日(水曜日)
『怪獣王ゴジラ』のプロデューサー、ポール・シュリーブマン氏死去、92歳。はっきり言って、この名前を知っている人はよほどの怪獣マニアでも滅多にいないと思うが(海外版演出者であるテリー・モースの名前ならともかく)、よく新聞に載ったと思う。ところで『怪獣王ゴジラ』だが、珍妙な日本描写はともかくとして、モンスター・ムービーとしては、むしろ本家日本版よりよく出来ていたのではないか、と思う。日本のスタッフはゴジラをゲテものにしないためにさまざまなテーマ性を作品の中に盛り込んだが、そこらへん、ゲテ映画を作ることに何のコンプレックスも持っていないアメ公どもは、ひたすら化物としてのゴジラの脅威を強調した演出であの映画を再構成し、結果としてスッキリしたエンタテインメント映画になり得ていた。ゴジラは“ここ”に帰るべきでは?

【トーベ・ヤンソン】

2001年06月28日(木曜日)
トーベ・ヤンソン女史死去。こういう顔でしたか。この人、あくまで本業はマンガ家及び挿絵画家で、小説は自分の挿絵に添える形で書いたものだったとか。


【ジャック・レモン】

2001年06月29日(金曜日)
ジャック・レモン死去。名コンビのウォルター・マッソーの後を追った形。この二人のおかげで私は映画が好きになったようなものかもしれない。『アカデミー賞グレイテスト・モメント』というビデオの中に、彼ら二人が1981年の監督賞のプレゼンターを勤めている模様が残されている。
レモン「監督という人々にもいろいろあります。傍観者、独裁者、優しく寛大で理解ある人。かと思うと、意地悪でケチくさい人もいます」
マッソー「……チビもいる。ノッポも。老いぼれがいるかと思うと青二才もいる。アメリカ人の監督ばかりじゃない、フランス人、チェコ人、イギリス人。……人物の描き方はうまいのに、カメラ音痴のやつ。アングル、フォーカス、レンズやスプロケットの状態には気をつかうくせに、役者のコンデションに気が回らないやつ……」
レモン「……今夜はそんな監督たちが一堂に会しています」
 漫才でもないのにこんなにイキが合っている二人も珍しかった。


最終更新:2010年02月15日 01:28
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