訃報日記2001:07月〜12月

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【円谷浩】

2001年07月24日(火曜日)
帰宅12時ころ、ネットニュースみたら円谷浩死去の報あり、驚く。37歳。内臓不全の持病があるとは聞いていたが、祖父の生誕100周年でわくこの年に世を去るとは。しかし、早世の一族だなあ。


【山田風太郎】

2001年08月01日(水曜日)
昨日の夕刊の山田風太郎の死亡記事を読み返す。“忍法帖・魔界転生 山田風太郎氏死去”という見出しは少しオカシい。魔界転生も立派な忍法帖のひとつだからだが、この見出しを書いた記者は、たぶん、魔界転生が『おぼろ忍法帖』というタイトルだったことなど知らない世代なんだろう。

 確かエッセイ集『風眼抄』にも収録されていたと思うが、牧逸馬・林不忘・谷譲次の『一人三人全集』(河出書房新社)に山田氏は解説を書いていて、その中で “大衆小説の名作の大半は、たいてい出たとこ勝負のところがあるようだ”と、丹下左膳や大菩薩峠、宮本武蔵、赤穂浪士などのストーリィ運びの矛盾の例をあげ、“おそらく好評のため延長拡大されたせいであろうが、それだけに作者の筆に天馬空をゆく高揚があらわれ、かくていよいよ一世を風靡するということになったのであろう。こうなるとすでに作者と読者の合作といっていい”と、そのデタラメさを魅力の本質としてとらえている。軽く書いているからツイ読みのがしてしまいがちだが、これはいわゆる評論ズレした頭でっかちには決して吐けないセリフであり、大衆文化というものの本質を見事にツイた達見なのだ。思うに、大衆ヒーローもの小説の傑作が世に出なくなって久しいのは、作者たちが読者とでなく、評論家と合作を始めたためなのではないか。


【青柳裕介】

2001年08月09日(木曜日)
帰宅したら青柳裕介氏死去の報。耳下腺基底細胞がんとはまた聞きなれぬ病気。そう言えば蛭子能収さんの奥さんも血液の病気で亡くなったというし、訃報が続く。

【フレッド・ホイル】

2001年08月24日(金曜日)
作家・天文学者フレッド・ホイル死去。86歳。ビッグ・バン理論というのは、彼が定常宇宙理論の立場から、悪口として“あんなもの、ドッカーン理論じゃないか”と言ったセリフから定着した。思いもかけず、その語呂のよさが受け、いまや提唱者たちまでがその名称を使っているのを、どう思っていたか。皮肉な結果である。


【白石義明】

2001年08月30日(木曜日)
帰ってニュースみたら、回転寿司の開発者の白石義明氏、死去。87才。うーむ、さすがの西手新九郎も夏バテで、ちょいハズしたようである。小沢昭一の『私は河原乞食考』の中に、大阪人の直截的発想の典型例のひとつとして、特出しストリップと共にこの回転寿司のことが記載されている。昭和40年代当初、回転寿司は江戸っ子の目に情緒こそないがいかにも現代的な発明として映ったのである。それから三○数年、いまや回転寿司は日本を制覇し、世界をねらっている。これが大阪出自のシステムであることの証左として、初期の回転寿司には必ずバッテラが混じって回っていた(嘉門達夫の歌でも歌われていた)が、最近はそれも無くなってしまった。私は日本を代表する科学技術のあり方として、H2ロケットよりも回転寿司の方に感心する。


【トロイ・ドナヒュー】

2001年09月03日(月曜日)
トロイ・ドナヒュー死去、65歳。まだ65というのが意外なほど、 “過去の人”という感じだった。新聞には出演作として『ゴッド・ファーザーPartΙΙ』などと書いてあったが、あの映画での彼は“どこに出てたの?”という程度の役でしかない。ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノ、ロバート・デュバルといったニューシネマ・スターの台頭で、彼のような古いアメリカの二枚目は出番がなくなった、その象徴のような映画だった。私にとってのドナヒューは何といってもTVの『ハワイアン・アイ』。これは北海道だけだったのだろうか、この番組が三十年くらい前、お昼の時間帯にエンエンと再放送されており、学校を風邪で休んだり(本当の風邪だったり、ズル休みだったり)したときの楽しみは、TVで『ウルトラ・ファイト』と『ハワイアン・アイ』を見ることだった。番組中での私のひいきは久野四郎が吹き替えていたポンシー・ポンスのタクシー運転手・キムだった(彼のセリフで“モチコース”という言い方を覚えた)けれど、あのテーマソングの“ジャ、ジャジャジャジャジャジャジャジャジャジャ、ハワイアン・ア〜イ”というオープニングを聞くだけで今でもシビれる。死んだ親父が、夫婦ゲンカをして、母がしかめっ面をしているのをにらみつけて、“なんだ、『ハワイアン・アイ』みたいな顔して”と言い(オープニングに出てくるハワイの神像の顔がそういうしかめっ面なのである)、母も含めて家中が吹き出したのも、昨日のような思い出である。

【ジョン・チェンバース】

2001年09月03日(月曜日)
ドナヒューの死亡記事の詳細をネットで調べていたら、先月25日に『猿の惑星』の特殊メーキャップアーティスト、ジョン・チェンバースが78歳で死去とのこと。新作公開中に死去というのもなかなか。同じ大御所のディック・スミスがリアリズム派だとすると、チェンバースはファンタジック派で、現実の物に似せるのではなく、現実にはないものを想像力で作り上げることに長じていた。『猿惑』の猿だって決してリアルな猿ではなく、猿を演じるロディ・マクドウォールやキム・ハンターの目をしっかり強調して、知性ある猿、というクリーチャーにしていた。技術でははるかに上を行く、リック・ベイカーの新・猿惑が評判が悪いのは、あまりにソレが猿そのものだからではないだろうか。しゃべる猿は猿ではない、新しい生き物の筈なのだ。そういうチェンバースの仕事の中で私が特に好きなのは『ファントム・オブ・パラダイス』のウィリアム・フィンレイの、顔の片面にレコードのミゾを焼きつけられたメイク、それから『怪奇! 吸血人間スネーク』のゲテ趣味全開のヘビ男である。特に後者の、手足がない全身メイク故に、ほとんど体を上にそらせるくらいしか動かせない蛇人間の姿は爆笑もので、この作品にパリ国際ファンタスティック映画祭が特殊メイク賞を与えたと知ったときにはワカッテルネエと大喝采したものだ。私にとってチェンバースは『猿の惑星』でアカデミー特別賞(この時代にはまだ特殊メイクアップ賞がなかった)を受けた人ではなく、『Sssssss』(原題)で賞をとった人、な のである。


【相米慎二】

2001年09月10日(月曜日)
夕刊を見たら、相米慎二肺ガンで死去との報。53歳という若さ。うーん、はっきり言ってこの人の映画が私は苦手だった。最後に観たのが銀座の松竹試写室での『東京上空いらっしゃいませ』で、ウェルメイドプレイを日本映画に取り込もうとしてこじんまりと挫折していたこの作品で、何故か私は無闇に腹がたち、ついでナサケなくなり、あ、もういいや、になってしまったのである。一方で、“今やあらゆる日本映画は相米慎二の映画との距離を比較され、その正しさを測られる”(某サイトの映画評より)とまで評されるカルト監督ではあったが。『台風クラブ』などをもう一度、見直してみようかと思う。


【橘家文蔵】

2001年09月10日(月曜日)
訃報もうひとつ、落語家橘家文蔵氏死去、62歳。え、そんな若かったっけ。正蔵仕込みの怪談噺を受け継いだ人がまた、ひとりいなくなった。あ、JOCの八木会長も急死とか。オリンピック大阪招致失敗で心労がたまってたんだろう。サウナでいきなり、というのは心不全か脳溢血か、何にせよ他人事でない。


【古今亭志ん朝】

2001年10月01日(月曜日)
新宿行きのタクシーの電光ニュースで、古今亭志ん朝の死去を知る。享年63歳。ゆうべ、ジオポリスの楽屋で、談之助さんと“志ん朝師匠ももう、再起不能でしょうねえ”と話していたばかり。兄弟揃っての早世はシャレにならない。正月の三木助に続いて、落語界には今年は凶年である。それも、三木助の死がジャブだとすると、志ん朝の死はカウンターのストレートだ。中学生のころ、ラジオの公開録音会場で『干物箱』を聴いて、その演出のあまりのサラリとした、うまさを超えた自然さ(まあ、本人のアダ名が“若旦那”だったんだから若旦那ものが自然だったのは当然か)に愕然とした。続いて上がった談志が(何をやったか忘れた)負けじと熱演すればするほど、生得の血の違いのようなものが歴然として、何か談志が気の毒になってきて、それ以来、私はがんこな談志派になったものである。

 そのせいで、私は志ん朝をきちんと聴き込まぬままに来てしまった。もちろん、落語会などで山ほど聴いてはいるものの、いわゆる独演会に、志ん朝目当で聴きに通ったことは一回もない。その若さと、若さに似合わぬ円熟ぶりに、これは“いつでも聴ける”人だ、というイメージがあり、それよりもクセのある人ある人、と選んで足を運んでいた。まさかこんなに早く逝ってしまうとは。今になって無茶苦茶にくやしい思いがする。

2001年10月02日(火曜日)
昨日の読売夕刊に志ん朝死去の報があるが、メガネをかけた写真を掲載している。芸人なんだから、高座での顔を載せてもらいたかったろうに。こういうところ、新聞記者というのは無神経だなあ。歌舞伎役者はメガネをかけた素顔で出るが、あれは舞台では化粧をしていて、シロウトには誰が誰だかよくわからないからだろう。それにしたって、歌舞伎役者がメガネかけた顔で写真出すのは不見識だと、私はしょっちゅう思っているのだが。

【秋山正美】

2001年10月15日(月曜日)
と学会パティオで猟奇・ノイズミュージック等の研究家、秋田昌美氏死去との書き込みがあり、あわてて調べたら亡くなっていたのは古書・児童文化研究家の秋山正美氏の方だった。これも見落としていた。今月1日、心筋梗塞で死去、72歳。河北新報社のニュースサイトで見てみると、“葬儀・告別式は故人の遺志により行わない”という記載のあとに“(注)通夜も行わない”とダメ押し。それほど世間に忘れられた人でなく、最近まで児童文化・生活史の本を執筆したり監修したりして活躍されていた方だけに、一切何も行わないというのはかえって関係者をとまどわせないかと思うのだが。

 これは、書こうか書くまいか迷ったのだが、秋山氏を初めて知ったのは、変態セックス研究家としてであった。雑誌『薔薇族』の出版元である第二書房から、昭和四○年代に、『ホモ・テクニック』『レズビアン・テクニック』『へんたい学入門・性と愛大百科』というような研究書をやつぎばやに出版していた。なかんずく、若者のオナニーの研究・教則本『ひとりぼっちの性生活』は名著で、かの立川談志が高座でネタにしていたくらいであった。
「最近の若い連中はせんずりのやり方まで本で覚えやがる。こないだ読んで見たら、書いてあったヨ。“第一章、原則として手を用いる”……まア、決して間違っちゃいないが……」
 これを聞いてからずっと古書店を探し回り、見つけて読んでみると、さすがに第一章ではなかったものの、ホントに“原則として手を用いる”と書いてあって抱腹したのを覚えている。だが、このような生真面目さで書かれたオナニーのマニュアル本が出版され、自慰に対する真摯な考察が行われたのは画期的なことだった。この本の出現により、オナニーは初めて不品行な夜のいたずらから脱却し得たのである。数年前に、少しお固めの某誌で“思い出の一冊”という企画コーナーに原稿を依頼され、この本のことを書いた。そのとき、著者の秋山氏に編集者が図版使用の許可を取るため連絡したのだが、秋山氏からは、“あれは自分の文筆歴の汚点のような本なので、どうか触れないでいただきたい”と返事が来た、と連絡があった。私は、いや、汚点どころか、あれは出版史上極めて価値あるものだと考えている、と返答したのだが、氏はかたくなに拒否され、泣く泣く、これを取り上げるのを諦めたことがある。

 しかし、汚点と言っても、なにしろ当時第二書房のそれらの本は隠れたベスト・セラーであり、出版点数もやたら多く、いろんな古書目録に堂々と秋山正美著として記載されている。いまさら隠せるものでもあるまい、と思ったのだが、児童文化史家として、教育関係の仕事にも関わっていた秋山氏にとり、やはり変態研究書を出版していた、という記録を、そういう人たちも目を通すお固い雑誌に残しておくのはまずいということだったのだろう。お亡くなりになって、もはや解禁と思うし、そんなことで秋山氏の名誉が毀損されると考える教育関係者の方が間違っている。いや、これら一連の書籍の価値は後の児童文化史関係での氏の業績に、勝るとも劣らないと私は固く信じるものだ。ここで再評価することを、泉下の秋山氏も許して下さると思うのである。

【アンソニー・シェーファー】

2001年11月07日(水曜日)
夕刊にアンソニー・シェーファー死去の報、75才。大ヒット戯曲『探偵/スルース』の原作者で映画化の際の脚本も担当し、『フレンジー』『ナイル殺人事件』、さらにあのカルト・ホラー・ミュージカル(?)『ウィッカーマン』などのシナリオも手掛け……という、実にもって私好みの作品を書いてくれた人だった。『アマデウス』のピーター・シェーファーとは双児の兄弟。才能と名声と成功に満ちた結構な一生だった、と思う。女性に関しても艶福家で、なにしろ奥さんのダイアン・シレントは元ショーン・コネリー夫人。あのジェームズ・ボンドから女性を横取りしたんだから、ソッチの腕も大したモノだったんではないか、と想像できるのである。


【横山隆一】

2001年11月08日(木曜日)
夕刊に『フクちゃん』の横山隆一死去の報。92才。日本のマンガ家の中で一番のモダニストだったのではないか、と思う。私が中学生のときくらいまで、毎日新聞でフクちゃんは連載されていたが、『サザエさん』の泥臭さに比べ(サザエさんの強みはその泥臭さなのだが)、その線の洗練は段違いと言っていいものだった。フクちゃんは代表作とはいえ、『百馬鹿』『人造首相』といった作品の方にその特色はよく表れていて、そのスタイルのスマートさとナンセンスは現在見てもまったく色褪せていない。また、アニメへの興味も手塚治虫に先駆けてもので、名作『ふくすけ』を残している。『フクちゃん』のみで横山隆一が語られるのはいくぶん残念なのだが、それでもその最終回は、極めて印象深いものだった。四コマという形式を取りながらも、ギャグを排した大河マンガ的展開を見せ、でんすけやら、“アカチバラチ”のドシャ子など、他の横山作品のキャラまでが登場して(アカチバラチの意味までちゃんとあかしてくれる。“赤いバラが散った”だそうだ)、一ヶ月かけてこれまで謎に包まれていたフクちゃんの両親の秘密があきらかにされていくという趣向がとられていた。こんなことを新聞の四コママンガでやったのは横山隆一が最初だろう。そういう作品にあふれていたセンスに比べると、漫画集団を率いてのさまざまなユーモアパフォーマンスはちょっと寒いものがあったけれど、とにかく一世の才人であったことは確かだと思う。なお、フクちゃんに関しては下記のサイトがくわしい。
http://www1.sphere.ne.jp/kobataka/manga/hukutyann/hukutyanntop.html

 横山隆一は眠るがごとき往生だったようだが、ジョージ・ハリスンはガンの放射線治療中で衰弱が進み、明日をも知れぬ状態だとか。また、ソニーの大賀社長も脳溢血で倒れたとか。どうも最近、新聞読むとこういう記事が目について仕方ない。自分の健康に不安を感じている証拠か。


【大出俊】

2001年11月09日(金曜日)
新聞に“国会の止め男”・大出俊氏死去の報。79歳。よく差別的に“女性は政治家を見てもそのネクタイの趣味しか見ようとしない”と言うことがあるが、この言葉は大出氏から生まれたのではないか、と思ったことがある。それくらい、あのネクタイと縞のシャツの取り合わせの趣味は悪かった。“みんな反対、社会党”の代表みたいな政治家だったな(ちなみに、フルバージョンは“数におごりの自民党、みんな反対社会党、ロボットばかりの公明党、日本に合わない共産党、あるのかないのか民社党”である。作られた時代がわかるねえ)。全然関係ないが、むかし少年マガジンに連載されていた峯たろう・しのだひでおの『パンパカ学園』というマンガで、社会科の先生の名前が“民名半大(みんなはんたい)”という名前だったが、途中からこの先生だけ変えられてしまった。クレームがついたんだろうか。



【左幸子】

2001年11月12日(月曜日)
おとついの夕刊を改めて読み、左幸子死去の報を確認。見損ねていたのである。夕刊は無駄だから取るのをやめようか(産経新聞は夕刊を廃止したそうである)と思うのだが、こういう風に夕刊にしか載らない記事があるからそうもいかぬ。左幸子というと肉感女優、というイメージがあったが、もう71歳だったか。『暖流』『にっぽん昆虫記』『飢餓海峡』などと日本映画の金字塔みたいな作品が代表作として並んでいるが、私にとっての左幸子は、なんといっても『草を刈る娘』と『軍旗はためく下に』の二本。『軍旗……』での、息子夫婦の夜のいとなみを隣の部屋で聞いてもだえてしまう戦争未亡人の演技、というか肉体は、まさに“熟れた”という感じで、まだ若かったこちらを完全にノックダウンさせた。その後で見た若き日の主演作『草を刈る娘』(新東宝版。1953、中川信夫監督)でも冒頭で水浴びのシーンがあり、こちらでは若々しい肉体を見せてくれた。田舎なまり丸出しでの宇津井健とのラブシーンもほほえましく、石坂洋次郎原作のタアイない話なのだが、演技陣の好演もあって楽しめた。お互いの家の親が二人の仲をまじない師の婆さんに占わせて、そのお告げが“時造とモヨ子の二人は、あつらえたモモヒキみてえにぴったりだぞよ!”というのにひっくり返って笑ったな。この作品、その後日活で吉永小百合、浜田光夫のコンビでリメイクされていて、それと区別するためか新東宝版は『思春の泉』というタイトルになっていることもある。吉永版の方は見ていないのだが、左版では、宇津井健が農作業の最中に、何だったか大事なものをなくしてしまう。記憶をたどると、畑仕事の最中に野グソをして、その脇に置いたと思うのだが、どこでクソたれたか忘れてしまった、というのを、左幸子がそのクソの匂いを嗅ぎ当てて、なくしたものを見つけてやる、という話だった(若い諸君は信じないかもしれないが、ホントにそういう件りがあり、しかもそれがこの映画のクライマックスなのである)。吉永小百合も、 浜田光夫の野グソを嗅いでやったのであろうか?


【ジョージ・ハリスン】

2001年12月01日(土曜日)
ジョージ・ハリスン死去。58歳。ビートルズ世代ではないのだが、彼らの映画のファンだった。『ヘルプ!』のハリスンは美青年だったよなあ。彼がその映画の中で縮小されてしまい、オールヌードになるシーンは、当時の女性ファン失禁モノではな かったろうか。


【小松崎茂】

2001年12月09日(日曜日)
小松崎茂氏が7日に死去、86歳。ここらになってくると人間、ひょっとして死なないんではないか、と思えてくるもので、感覚から言うと“早死に”である。戦記・SFものでの功績は私などよりはるかに詳しい人がいるだろうが、カストリ雑誌にときおり挿絵を描いていたのはどれくらいの人が御存じか。晩年に描いた東京シリーズの絵も素晴らしいが、S.KOMATSUZAKI画になる夜の銀座の灯に舞う女たちの図も、また捨てがたい味わいがあったものである。それにしても、この人も量を極めた天才であった。大衆文化は量がポイントなのである。ちなみに、ネットで7日の死亡記事を検索していたら“山下耕作氏死去”との記事があって、あれ、もう亡くなっていたと思ったが、とちょっと驚いた。アタカ工業常務だってさ。同姓同名。


【江戸家猫八】

2001年12月10日(月曜日)
江戸家猫八死去の報。今年は芸人さんがよく死ぬなあ。まあ、名跡を継ぐ息子がいるだけ芸人としちゃ幸せか。ちなみに言うと、猫八と小猫は、親子であって義理の兄弟でもあった。つまり、猫八の再婚した女性と、小猫の奥さんとが姉妹なのである。


【南原宏治】

2001年12月22日(土曜日)
昨日の夕刊で南原宏治死去の報を確認。『殺しの烙印』の陰鬱なユーモアをたたえた存在感が何といっても印象的であるが、とにかくこの人の魅力は声であったろう。『夜叉ケ池』などで最もよく確認できるが、この人のセリフ回しは一種の歌い調子とでも言うべきうねりがあって、そのアクが、最近の軽いドラマには似合わず、出演作品を狭められてしまった感がある。しかし、その深みのある声質は日本の俳優の中でも一、二を争うものだった。その証拠が、ジョージ・ルーカスによるダース・ベイダーの日本語版役へのオファーであったろう。まあ、あれが代表作と言うのもナンであるが。

最終更新:2010年02月15日 01:29
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