宇宙戦艦ヤマトブームを作った先生

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1977年、札幌の高校生だった唐沢俊一先生は宇宙戦艦ヤマトの再放送運動を起こし、一大ムーブメントを巻き起こしたのです。そのブームが現在のアニメ大国と呼ばれることとなる下地を作ったのです。アニメ関係者は唐沢俊一先生に足を向けて眠れないハズです!(キッパリ断言)

2000年04月23日(日曜日)

某所でのアイアンジャイアント批判に曰く、“最後にジャイアントが復活するところがいけない、壊れたままの方が感動は深かった”・・・・・・うーん、懐かしい。かつてのヤマトのTV放映終了直後の、“森雪は生き返るべきではなかった”論者と同じ。オタクって進歩しないんだなあ、イイゾイイゾとうれしくなった(誤解を招く表現だがまあ、説明すると長くなるし馬鹿には説明してもわからないし、いいや)。

2000年04月25日(火曜日)

以前文藝春秋から出た自伝『「劇画の星」をめざして』によると、この佐藤センセイは劇画ブームで儲けて豪邸を建てたとき、食事の時間になると、仕事場の椅子がスイッチひとつでガーッとセリ上がり、天井の穴を抜けて、食堂に上がっていくという宇宙戦艦ヤマトかサンダーバード基地みたいな仕掛けを作らせたそうである。男の夢をとにかくカタチにしてしまう、エラい人というかスゴい人なのである。

2000年10月01日(日曜日)

6時、新宿に出て、区役所通りのカラオケ屋パセラの上のバリ・カフェで、氷川竜介氏をはげます会。少し遅れて入ったが、メンツがさすがに濃い。ヤマトの石黒昇、ガンダムの富野悠由季の大御所二人を筆頭に、岡田斗司夫、竹内博、池田憲章、出渕裕、開田裕治、大森望などなど。岡田斗司夫がオタクエスタブリッシュメントたちと表現していたが、いわゆるプレオタク世代から第一世代。会場に足を踏み入れたとたん感じたこの懐かしい雰囲気は何だろう、と思ったら、全体的に服の色がくすんでるところだ、と思い当たった(笑)。氷川さんのラストの挨拶があがりまくっていたのも、このメンツでは無理なかろうという感じ。

2000年10月22日(日曜日)

今日は昭和四○年代オタク番組の、裏番組との関係がテーマ。まだビデオがなかった時代においては、アニメや特撮番組の、見ていたものの裏番がいったい何であったか、という問題は実は重要で、視聴率に大きな関係があることは勿論、『宇宙戦艦ヤマト』と『猿の軍団』、『海のトリトン』と『快傑ライオン丸』など、オモテとウラのどちらを選択したかで、その後の人生に大きな影響を与える大選択となる場合すらあったのである。会員の一人が東映作品の、実に詳しい裏番組対称表を製作してくれている。

2001年09月03日(月曜日)

なんとか体調回復し、北海道新聞の原稿書く。『スター・ウォーズ』第一作公開の頃のこと。思えば、この公開が一年先送りになったことが、日本のオタク文化発展の土壌を一気に作り上げた感がある。下地はもちろんヤマト再放送運動などによって熟しかかっていたわけだが、それが、あの世界的なブームに一年も乗り遅れてはどうしようもない、という危機感の中で一気に爆発したのだろう。歴史というものは小さな偶然の積み重ねに大きなうねりが加わって現象となる。調べれば調べるほど面白い。

2001年12月04日(火曜日)

北海道新聞コラム原稿、最終回書き上げてメール。毎週一回、4ケ月のコラム連載だったが、これほどアッという間に終わったという感覚のものも珍しい。ヤマトからエヴァまでの、第一次オタク通史といったおもむきのもので、16回もあれば十分に概略を述べられるだろうと思ったがこれが大間違い、あれも書かねばこれも足りないというばかりで、駆け足どころか超特急で通り過ぎたのみに終わった。読んでた方はあまり面白くなかったかもしれない。にも関わらず、書き手としては、これまでオタクの成立について言われていた通説とは違った手塚治虫評価や、宮崎駿の位置づけなど、改めて執筆してみて自分なりにさまざまな発見があった。これはささき氏などの協力も得て、一度ベイシックな通史として書き下ろしてみる価値はあるかもしれん、 と思う。

2002年03月25日(月曜日)

帰ってネットニュースみたら松本零士、西崎義展にヤマトの著作権で敗訴の報。これはまあ、妥当なところと思うが。暖房、入らないのでフトンを冬用のやつ、もう一枚かけて寝る。

2002年06月13日(木曜日)

急遽、戦争アニメを連続上映することが決まったという。“で、上映の後でトークをやりたいんっスが、カラサワさんお願いできますか” “それは了解ですが、何の映画でやります? やっぱり『海の神兵』ですか?”“イエ、それを最初考えていたんですが、たまたまこのことを富野さんに話したら、「ア、ボク、まだフィルムで『海の神兵』見たことないから、見たい!」とおっしゃるんで、その日は富野さんです”とのこと。こりゃすごい。“富野由悠季、『桃太郎 海の神兵』を語る”なら、私も聞きに行こうてなもんである。私はその次の週の『宇宙戦艦ヤマト』を語ることに。こちらは7月28日(日)である。

2002年06月25日(火曜日)

亭主はヤマト世代なので、私の東中野のヤマトトーク行くかもしれない、とのこと。何にせよ、アニドウ時代を知る人は貴重なので、今度ささきはてるさんなどに引き合わせ、今度の本の参考にいろいろ当時のアニメ周辺状況の話をインタビューさせてもらいたい旨を話す。

2002年07月01日(月曜日)

ところで、今月29日のボックス東中野での『宇宙戦艦ヤマト』映画版ニュープリント版上映の私のトークの題名が『アニメの快楽・戦争の快楽』と、まるであつらえたようなのはワザとか?

2002年07月11日(木曜日)

ササキバラさんのオタク史座談会本制作打ち合わせ。ササキバラさんらしく、オタク史をSF・少女まんがなど、いくつかの要素に分けて、それぞれのからみや反発などの部分、それに関わった人々のいた位地、というようなものを通してオタクの成り立ちを考証しようという企画書を出してくる。私の方からは、それにプラスして、技術革新史を入れた方がいいという意見を出す。ガリ版からボールペン原紙に“進化”しただけで、70年代の同人誌作りにとっては大きな革新だったのだ。やがてあのジアゾ液の臭いも懐かしい青焼きコピー機を経て、ヤマトブームのとき、東京では神田のグランデ、札幌では大通駅前のリーブルなにわに十円コピー機が出現、この出現によりヤマトのあの膨大な設定書を個人がコピーして所有することが可能になった。あのオタク原型像の必須アイテムであった肩掛けカバンの中には、この設定書のコピーと、スケッチブック(中には自作のヤマト改良案図など)が入っていた。今のオタク像定着には、ビデオデッキ、コピー機、パソコンなど、こういう周囲のツールの発展という要素が必須としてあったのである。

話はともかくトメドなく、アニドウ時代のこと、上映会文化(これもビデオ以前のオタク前史展望にかかせない)、ぴあ文化、そしてアートアニメと娯楽アニメが分離してきた時代、萩尾望都出現の衝撃(男オタクがヤマトの模写をスケッチブックに描いて持ち歩いていたのと同じ状況が女の子の間で萩尾もどきマンガであったとか)などなどが出てくる。飯面さん頭を抱えて、“ああ、私自分がオタクだなんて今の今まで思ってもいなかったのに、ハッキリオタクだとわかったわ”と言う。5時まで3時間ほぼノンストップでしゃべり、店を出るとすでに夕刻。

2002年07月22日(月曜日)

『マニア蔵』の編プロから電話、宇宙戦艦ヤマトのムックを出すそうで、コメント原稿依頼。この次の日曜にボックス東中野でヤマトについて語るんですよ、と言ったら驚いていた。時代はまたヤマトか? 平塚くんに、ゲラで抜けていた図版キャプションを書いて先にメールしておき、それから家を出、新宿から丸の内線で新中野。

2002年07月28日(日曜日)

7時から『宇宙戦艦ヤマト』第一作を上映。ササキバラさんと“ヤマトで客が入るかね? 10人くらいじゃないの?”と話していたのだが、意外に入って40人ほどの客数。ナンビョーさんのところの嵩くんが来ていた。他はあまり知り合いの顔、なし。……実はあのブーム以来、『さらば宇宙戦艦ヤマト』とか『ヤマトよ永遠に』は原稿書く都合上何度かビデオで目を通したことがあるが、この第一作は、総集編ということもあり、77年の公開時以来、実に四半世紀ぶりの再見である。まあ、感慨もあるかと思ってみたがほとんどなし。と、いうか、ああ、オレはヤマトに関してはこの時点で全部止まっているわ、ということを再確認。タイムラグもなく、あの当時と同じ感興を抱いてしまう(つまり、カットが拙いとか、音楽がダメとか)のである。われわれのオタク活動というのは、つまるところ、“ヤマトを劇場で公開しよう!”というのが最終目標だったオマツリであって、これが実現したところで、もう気はほとんど抜けていたのであった。しかしまあ見ていると、あの頃の“生の実感”の名残みたいなものは感じられ、テーマ曲が流れると“やはりこれは名曲じゃわい”などと思ってしまうのに苦笑。ただし、われわれがリアルタイムで見たバージョンは劇場用にラストが改変され、スターシアが実はすでに死んでいた、ということになっていたヤツだったが、これはあまりの大ヒットにシリーズ化しようとスケベ根性を出した西崎氏が、テレビ版に従ってまとめた再・再編集版であった。……しかし、今気がついたがスターシアの服装ってのは胸と背中が大きく開いた、ずいぶんと大胆なものだったんですな。

 それからササキバラさんと壇上に上がり、ヤマト談義。どうしてもヤマトを話すとなるとオタクの想い出話になり、マンネリなので、今回はテーマの“戦争の快楽”に合わせて、本来、戦争というものはカッコよく、気持ちのいいものなのだ、平和などという陳腐で退屈なものよりはるかに存在の輝きの大きいものなのだ、われわれは実は誰でも心の底で、戦争が大好きなのだ、という持論を述べる。戦争をわれわれが忌避し、遠ざけ、封じ込めておかねばならない理由は実は一にかかってそこにあり、その恐るべき快楽性から目を背けると、戦争がなぜ絶えないかという問題の本質を見損なうことになる、実際、世界の歴史に戦争が絶えないのはそのせいなのである、と語る。これは近く、唐沢流・戦争論としてドコカから発表の予定、と話しながら唐突に決定する。出してくれる出版社募集中。

2002年08月01日(木曜日)

ネットでメール確認、先日、ヤマトトークのとき、この日記に戦争論、どこか出版してくれるところ募集、と書いたらなんと、本当にメールがあった。SF大会で会ったIくんの関係している出版社である。小さい出版社だが、ガメラ本、ゴジラ本などを出していて、オタク系には強いところがミソか。条件面で折り合いがつけば、ということであるが、どういうことになるか、ちょっと打診してみる予定。

2002年08月27日(火曜日)

今日も朝からメール三昧。ただし、それでも午前中にマイストリートの『宇宙戦艦ヤマト』原稿400字詰め5枚、書き上げてメールしたのは感心、と自分で褒めておく。原稿は一時間半で書き上げたが、その後のアンケートにやや、手こずる。ヤマトというのはもはや私にとり、“その存在”に価値というか意義がある作品(直接に、この作品の再放映・映画公開運動などを通じてオタクの世界に入っていった)であり、“どの回(エピソード)が一番好きか”とか、“どのメカが一番好きか”とかいうような設問は、私にはもう意味がないのである。しかし、そんなことを答えていくと、もう一本原稿を書くのと同じ。“どのキャラクターが一番好きか”に“加藤。神谷明に声をアテさせておいてあの地味さがなんとも言えない。そのくせ、一人だけ服の色が違うのは何故か、とずっと気になっていた”などとちゃらっぽこを書く。こう書くと、必ず“あの服の色は……”とか一行知識欄で教えてくれる人がいるだろうが。

2002年12月06日(金曜日)

……などと、妙に自分を殉教者ぶってはいるが、しかし、それもあって見事にオタク第一世代、という上からの影響もシャットアウトし、下には先達者として永久に頭をあげさせない立場を築き上げた私らは、“実にうまいことやったなあ”と言うのが正直なところ、と二人でいやらしく笑う。
「いま、若い連中がどんどんオレに、オレの人生を聞きたがってくるんですよ。何か伝説を求めているのかなあ」
「たぶん、われわれの老後というのは、このオタク文化の草創期のことを偉そうに若い連中に繰り返し語ってきかせる、凄く気分のいいものになると思う」
「うらまれたり悪口いわれてもこりゃ、仕方ないね。それだけのいい目はオレら、見てるもん」
「エヴァのときだって、せっかく下の世代が盛り上げかけたときに、水をかけて悪いことをしたよねえ」
「うん、あれは今思えば非常にすまんかった! あやまるわ!」
「われわれ、ヤマトやガンダムのときにテンション上げすぎて、後で非常に恥ずかしい思いをしたんで、若い奴らには、という親心で水かけたんだけど、考えてみれば、いい思い出というのは、いかに若い頃恥ずかしいことをしたか、なんだ」
「アニメとか特撮をいい年して見る、という行為が、どれだけ三十年前のころには恥ずかしいことだったか。そう思うと、オレら凄まじい量のいい思い出を貯め込んだわ けですね」

2003年01月05日(日曜日)

食って、少し書棚等を整理す。さすがにもう、だらけるのに飽き飽きしたらしい。昔のヤマトファンのころの同人誌も出てくるが、いや、いくら懐かしいとはいえ恥ずかしくて読めないですな。嗚呼、この当時のメンバー達いまいずこ。石川肇は以前開いていた自分のサイトも閉じてしまったようだし、大迫秀人岩谷明も行方知れず。ロリコンマンガ家になったくりいりもなかはまだ同人誌を出していて、こないだの冬コミにもブースを出していたようだが。

2003年01月22日(水曜日)

ササキバラゴウさんと1978年論で情報交換。私はササキバラさんより一年早い1977年をオタク元年と規定して、道新の原稿でも発表している。なにより、映画版『宇宙戦艦ヤマト』公開の年であって、一年後のスター・ウォーズ公開に向けて、“雨前の”タケノコのようにファングループやSF研究グループが結成された時期でもあった。

2003年02月15日(土曜日)

この発言者は1980年生まれということだが、少なくともオタク草創期である1972年(発言中で言及されている『海のトリトン』の放映年)において、アニメオタクが“濃い、薄い”の差が別れるほど多数存在し、薄いオタクがサイレント・マジョリティとして機能していたという、当時を知る者からすれば噴飯ものの状況把握(たぶん、オタクでなくてもアニメ、ゲーム、マンガ等にいくらでも接することのできる現状からの憶測なんだろうが)を元に語っているわけだ。若いから無理もないとはいえ、この人には70年代における、大学を受験する年齢になってアニメを見る、という行為の反社会性というものをイメージできるだけの“歴覚”能力に徹底して欠けているのである(もうひとつ言えば、この斎藤氏の発言はどの文脈からとっても、個人的体験の証言ではなく、状況についての発言であり、その“でかい作品が一つあってあとは極小の作品がちょぼちょぼというメディア環境”という指摘が誤りであることは、ヤマトやトリトンの放映年に他にどういう作品が放映されていたか〜例えばトリトンが放映された1972年時には、マジンガーZ、ど根性ガエル、ガッチャマン、ムーミン、デビルマン等、今なおリメイクされ続けている作品が目白押しに放映されており、これらのどこをとれば“極小”と表現できるのか〜を、ちょっと年表でものぞいて確認する作業を厭いさえしなければ一目瞭然である。こういうことを言う人、またはそういう発言を弁護をする人というのは、学問の基礎である “資料にあたる”という行為を嫌う怠け癖の持ち主でしかないだろう)。こういう人物にまできちんとわからせようと筆を尽くすことは、クラスの最も出来の悪い子にレベルを引き下げた授業を行うに等しい行為なのではないか。そこのレベルの子にわからせることでクラス全員が理解できればいいが、上位の子たちは、授業の退屈さに早々に興味を失ってしまうだろう。ササキバラ氏のおたく論の目指す懇切丁寧さが、そのような結果を生まぬことを切に望む。

2003年11月02日(日曜日)

まず、オタクという言葉が個人レベルで発生したのではなく、“オタク族”というククリから概念が出来たことがある。つまり、家に引きこもって個人でアニメや特撮にハマっている連中はその前からいたのだが、彼らは社会の一員としてリコグナイズされていない、共同体外の存在だった。それが社会現象化したのは、彼らの中に横の連帯が生じ、彼らが社会性を持った瞬間からである(つまり、引きこもりをオタクの主要な性質とするオタク論はそもそもが間違いなのである)。その連帯のきっかけになったのが1975年からのヤマト再放送運動であり、この場合、東京や大阪という大都市に比べ、札幌は地方局が、ある程度リクエスト葉書の数が集まれば、再放送をしてくれていた。このため、最初は普通のドラマなども再放送していたSTV(札幌テレビ)やHBC(北海道放送)の4時〜5時台が完全にアニメ再放送枠として定着してしまった。家庭用ビデオの普及していない時代、再放送で繰り返し繰り返し作品をチェックできるという環境が、オタクのスキルを上げることに直結し、マニアックなオタク語りが出来る状況が揃っていた。また、北大のSF研や映画研が、東映アニメや虫プロアニメの上映会を頻繁に行っていたことも土壌整備には大きい力になっただろう。当時、大学生がマンガやアニメにうつつを抜かすことは世間的にはいい顔をされないことだったが、学生自治を伝統とする北大の気風の中で、比較的自由にアニメびたりを標榜する大学生がいたことで(北大主催の上映会で、挨拶に立った主催者が自らのアニメびたりの“阿呆けた”と自称する日常を披瀝して笑いをとっていたのを覚えている)それより若い世代が“アニメに没頭するのは悪いことではないんだ” という自覚を持ったことは大きい要因だと思う。

2004年05月05日(水曜日)

弁当早めに使い(本日のお菜は鶏と大根の煮物)、進行表を本日の下見メンバーの人数分、コピーし、ページ順にまとめる。座敷の真ん中に座り込んで、せっせとそういう作業に熱中しているうちに、朝からの不快も解消。同人誌製作もこのごろはすっかり印刷屋に原稿をデータで送付というような、プロの仕事と大差ないものになってしまった。ヤマトファンクラブの同人誌を作っていた時分のことを思い出す。ただしあの当時は何百部そういう作業をやろうと元気ハツラツだった。今はたった20部程 度作る作業をやっただけで、腰が痛くなる。

2005年06月20日(月曜日)

アンドレ・ノートン3月17日死去。93歳。『大宇宙の墓場』を読んだのは高校一年の頃だ。宇宙戦艦ヤマトの小説版(若桜木虔とか石津嵐とか)の、ストーリィのひどさはともかく、文章の質はなんとかならんかとひとり慨嘆していた頃だったので、同じジュブナイル作家でもやはり海外は違うなあ、などとこの文章(翻訳は小隅黎)を読んで溜息をついていた。それからこの人の作品は出るたびに一応読んだはず、なのだがほとんど記憶がない。

2006年03月21日(火曜日)

宮川泰氏死去の報。一日に二人も尊敬していた人の訃報があるとさすがにめげる。子供時代は『シャボン玉ホリデー』で、オタクとなってからは『宇宙戦艦ヤマト』で、本当に私の人生に大きな影響を与えてくれた人。
(略)
それだから後年、『宇宙戦艦ヤマト』の初期オープニングの、静から動へのあざやかな切り替わりに文字通り“しびれた”時には、まさにやられたーッ、という感じだった。

2006年07月23日(日曜日)

工藤さん、前田ひろゆきさんとも挨拶。前田さんは新感線の池田成志に似ているような。工藤さんは札幌出身で、私たちの『ヤマト復活運動』をダイレクトに見て育ったという。『アタックヤング』のことなどで盛り上がる。あそこで流れていたアニソンや特ソンはほとんど、私からの提供のレコードだったと言ったら「それを聞いて育った曲の提供者とここで一緒にいるというのは変な気分ですねえ」と言っていた。
(※工藤さん=工藤稜/2009年よりペリーローダンのイラストを担当)

2006年11月18日(土曜日)

そういえば、札幌でヤマト再放送嘆願運動をやっていた頃、どこだったかの雑誌で“ヤマト実写化キャスティング選考”というお遊びがあって、デスラー総統はこの仲谷氏がダントツ人気だった。“顔を青く塗ったらソックリ”がその理由だった。

2007年10月21日(日曜日)

10時、NHK教育で『21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜』を見る。前半は貴重な映像資料とかがあって、かなり興味をもって見られたが後半はまるで『プロジェクトX』風きれいごと。『宇宙戦艦ヤマト』から始まるアニメ、コミックなどのブームの源流にSFがあるのだ、という、間違ってはいないがかなり牽強付会な構成は、何度も“そうか?”とツッコミを口走ってしまう。まあ、それはまだいいが「ヤマトはSF作家が作ったものだったんですね」というのに至っては我田引水が過ぎるというもの。確かに設定だのデザインだのはSF関係者のものだったろうが、最初、低視聴率で打ち切られた作品を、ねばりにねばって大ブームにまでした牽引者は、やはり西崎プロデューサーであった(私はそのあたり、彼の奮闘ぶりやSF関係者の冷淡さも直に見ている)。

西崎氏にはSFマインドがない、とはSF関係者の口を揃えるところで、それは正直正しいと思うが、なら、やはりあのブームはSFとは関係ないところで起こったものだったことになるだろう。実際、本格的ブームになった『さらば宇宙戦艦ヤマト』以降は、スクリーンに泣きじゃくりながら花束を供えたりしていた、SFのエの字も知らない女子高生ファンたちがあのブームの中心者だった(当時SF者だった私が舌打ちしながら見ていたんだから間違いない)。

2008年06月15日(日曜日)

ゲストのささきいさおさん、いまだに声の響きが全盛時とほとんど変わらぬところに驚き。ヤマトの熱唱、そして『真っ赤なスカーフ』を生歌でささきさんの真後ろで聞いて、ちょっと涙が出そうになった。この歌のために私はオタク人生を歩むことになり。わが人生設計は大きくその形を狂わせられたようなもの。それがよかったのか悪かったのか、結論はまだ出ていないが生の声をこの場所で聞いて、“うん、これでよかったのだな”とひとつの答えが自分の中で出たような気がしたことであった。

2008年10月10日(金曜日)

軽い打ち合わせの後、4階の事務所でオーナーと話す。30年ほど前に、編集プロダクションをやっていたそうで、某男性アイドルグループ、そして『宇宙戦艦ヤマト』の特集号で稼いでいた。ちょうど私がオタク活動を最も熱心にやっていた時代と重なるので、話が盛り上がること。

さらにヤマトの話。西崎氏が『さらば宇宙戦艦ヤマト』のプログラムを100万部刷れ、と言ったのに対し配給の東映は「日本の映画プログラムの売り上げ記録は松竹の寅さんシリーズの5万部である」という数字をタテにとって拒否。さんざやりとりがあった挙げ句、30万部刷ったプログラムが、初日にもう品切れ。あわてて増刷に増刷を重ね、最終的には250万部を売り切ったとか。











最終更新:2010年02月15日 23:48
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