悪文は読みにくい


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1999年12月18日(土曜日)

東急ハンズで買い物。昼は昨日寿司屋でもらったいなり寿司。結膜炎にいいかと思い消炎剤をのんだらボーッとしてしまい、寝転がって高橋晄正『自然食は安全か』など拾い読む。この本、データも充実しており、内容も示唆に富んでいるのだが、著者の、 学生運動家あがりの理系の人独特の悪文 と、妙に文学的感傷を漏らし、堀口星眠という、ほとんどの読者が知らない俳人(著者の友人で、水原秋桜子亡きあとの句界の主流だそうな)の句をやたら引用する悪癖で、 非常に読み難いもの になってしまっている。これまで数回、読み通そうとして読み通せないでいるのである。

2000年01月01日(土) 飽食の正月

正月の初読みは丸谷才一『忠臣蔵とは何か』。御霊信仰と忠臣蔵の結びつけは斬新な視線で知的興奮ものの理論だが、この説が学会から反発をくって論争が巻き起こったのは、学説にしては“面白すぎる”からだろう。おまけにこの人、文章のレトリックがうますぎて、どうも結論が“うまく言いくるめられてしまった”ような気分にさせられる。 学者の書く評論は悪文で書かれているがゆえに説得力を持つ のだなあ。

2000年03月29日(水曜日)

『恐怖の臨界』、前の『モンスター・ショー』がホラーマニアのオタク的研究から出発してポストモダンに行き着く内容なのに対し、こちらはカルチュラル・スタディーズの方法論者たちが、最初からポスト構造主義的見地でホラーを読み解く内容。いわば、上から下々の世界に降りてくるという姿勢。当然ながらその分、ホラーファンには物足りない。 翻訳も生硬で読みにくい 。とはいえ、随所にナルホド、と膝を叩かせる視点が出てくる。
「カンフー映画やソープオペラや、ホラーを理解するのも、ある一定の言語運用能力が必要なのだ。このレベルの解読によって、ある特定の受け手が、たとえばイデオロギー的には対立するテキストを楽しめるのはなぜなのかを説明できるだけではなく、なぜ別のグループには理解不能なものにあるグループが楽しみをみいだすのかをも説明できることになる。それはある特定の人々が、なぜほかの人々の文化的活動にとってパニックの原因や恩着せがましいものとなるのかを部分的に説明してくれる」
例えば 東浩紀グループのアニメ評論 が、多くの純粋アニメオタクたちにとっていまいちピンとこず、それどころかどこか押し付けがましくて腹立たしい感じを与えるのも、 東氏たちにこの言語運用能力が欠けている ことが原因なのであろう。

2000年06月27日(火曜日)

今日は気圧乱れ、原稿書けないなとハナからあきらめ、『機械化の文化史』(鹿島出版会)など読む。面白くてたまらない家庭生活への機械への侵入の歴史。ブタ屠殺機械の図解などのたくまざるブラック・ユーモアがいい。 訳はいささか読みにくい 。ルイス・ブニュエルをルイ・ブニュエルなどと表記するのもちょっと。

2000年07月02日(日曜日)

東浩紀氏の悪口はあまり言いたくない。“またか” と思われるからだが、それにしても東氏ファンに聞きたい。今日の書評もそうだったが、 彼、文章があまりに下手すぎないか?  彼の著作におけるデリダ論などは内容が内容だけに、わかりにくいこともあたりまえ、と思ってその難解さを不思議に思ってもいないだろうが、多くの雑誌に掲載されている彼の文章を読むと、その著作の難解さの大部分は 彼の文章の下手くそさ に起因しているのではないか、と思わざるを得ないのである。今日の書評欄の文章(内容のことは措く)などは最たるものだ。悪文ならまだよろしい。 単なる幼稚な文章なのである。 ウソだと思うなら、同じ書評欄の他の評者の文章と比較してみるといい。読売の書評欄は評者に多く大学関係者を起用するという悪癖を有しており、大学関係者の文章の読みづらいことは(まあ、読みやすい面白い文章を、という要求を大学というところはそもそもされないところなので致し方ないが)夙に大方より指摘されている通りなのだが、その中でも 東氏の文章は群を抜いて下手 である。中学生以下である。若くして名をなした故に、誰も直截にそれを指摘してくれないのは、東氏の不幸だろう。東氏よ、師匠の浅田氏の文章は、そこはやはり学者文であったが、それでも若い読者に向けての工夫と、1パーセントの“売文の徒”としての媚びがあった。この媚びを卑下と思ってはいけない。自分の文章を金を払って読んでくれる者への礼儀としての愛想である。人脈を見るに回りにあまりいい文章書きがいないようだが、誰でもいい、今のうちに上手な文章を書ける人を選んで、半年くらいその人について作文のお勉強をすることだ。さもないと、 後で苦労するよ

2000年09月21日(木曜日)

スチュアート・スイージー『デス・パフォーマンス』(第三書館)。首吊りだの自己去勢だの四肢切断だのといった、死に直結する行為の中での陶酔感にとらわれた人々の事例。犯罪者に捕らわれたり襲われたりして拘束され、殺される、と意識した人々たちの脳内にほとばしる快感ハルシネーションの事例までたっぷり載っており、こないだのバスジャック事件や少女監禁拉致事件などを思い合せてもアブなくてアブなくて、面白いっちゃない本なのだが、もともとが精神分析医の報告書や警察のデータなどをやたら引用したものであることにくわえ、 翻訳が生硬で読みにくい ことおびただしく、まだ全部を読み切れていない。文章が下手というより、怪奇作家のエーベルスをエバースとしたり、前のページでコーツワラという表記で出てきた人物が、その後ではカッツワラになっているなど、チェックの甘さも( 人の本のことは言えないが )読みにくさの原因のひとつとなっている。

2001年03月05日(月曜日)

東京大学出版会『日本の階層システム5・社会階層のポストモダン』はいかにも大学の論文、といった悪文羅列、 内容曖昧の読みにくいシロモノ だが、いろいろと興味深い本だった。第6章『文化的寛容性と象徴的境界』において、関東学院大学教授の片岡栄美氏は文化的オムニボア(雑食性)仮説を紹介して、エリート階級ほどこのオムニボアであり、文化的寛容度が高い、というデータを示している。つまり、文化的高位置者はハイ・カルチャーであるクラシック音楽やアートも観賞できるし、大衆文化である歌謡曲、マンガなどにも寛容性を示す、という。ここらへん、東浩紀ハマリなどの方々には大変耳に心地よい理論であろう。ところが結論部分で、片岡氏は、わが国の大衆文化は、文化の象徴的境界の存在を隠蔽する機能を果している、と記す。つまり、文化的優位が正当化されていない組織文化の中にある日本のサラリーマン社会(別にサラリーマンに限らぬ、同化を強要する構造の社会のことである)では、文化エリートは大衆文化に対する理解を示すことで階層的ルサンチマンを回避する戦略をとっている、ということだ。
「それゆえ文化的再生産メカニズムは人々の意識しにくいメカニズムとして隠蔽されみえにくくなっている。(中略)そしてあたかも日本は文化的に平等であるかのような言説が流布するのである」
 そういう隠蔽のコロモの裾からはみ出た鎧が、例えば村上隆の“オタク引き上げ”発言であり、そのウサン臭さを肌で感じ取った反発が、ゆうべのやまけん氏などの発言につながっていると見るべきだと思う。とにかく、文化的寛容性を示す自分にナルシズムを感じている馬鹿どもの、“みんななかよく”的に軽薄な開放論一辺倒では、今に日本人は自意識を持たぬ連中であふれた、壊滅的なアイデンティティ危機に陥る予感がする。もっと石を投げろ。立てこもれ。

2001年05月30日(水曜日)

貞水の講談をラジオで聞きながら。食後、また企画書。参考資料をネットで拾う。同じ対象を取り上げても、商品になる視点とならない視点、商品になる書き方とならない書き方の差がサイトによって露骨である。これは名文悪文にも、また分析の深さや、正しさなどには関係ない尺度なのだ。タイトルを『売文の技術』とでもしようか。

2001年07月08日(日曜日)

読売新聞朝刊日曜板にモスラの歌のことが載っており、開田夫妻のコメントが。これ、こないだ本多夫人宅で電話インタビューがあった奴か。他にも本紙の方で、全面で大きくゴジラの顔。新作映画の宣伝かと思ったら、公明党の広告だった。まあ、どこがゴジラを宣伝に使おうがそれはかまわないのだが、この広告が『日本を文化芸術大国にしよう』というタイトルで、「日本が経済大国への道を歩み始めたころ、ゴジラは日本の映画界にデビューしました。その背後には独自の特撮技術やセット美術での工夫を編み出した映画人たちの涙ぐましい努力がありました。それは、やがて世界に誇る映画芸術として、実を結びます。ゴジラは、総合芸術といわれる映画の世界で、日本が生み出した象徴的な存在となりました。やがて日本の経済はバブルの崩壊へ。一方、ゴジラは世界が認める日本のヒーローへ。日本人が真に誇りにすべきものとは何か? それは経済一辺倒の誇りだけではなく、文化や芸術といった分野の誇りではないでしょうか? そのことをゴジラは教えてくれています」などという文章が添えられている。 まるで意味不明瞭の悪文 である。経済と文化はシーソー関係にあるわけではないだろう。 文化を持ち上げるのに経済をクサす必要はどこにもない
そもそもがこの文章の内容、事実誤認だらけであって、ゴジラが生まれた昭和29年の日本はまだまだ戦後を引きずっており(『ゴジラ』の中にそれを象徴するセリフがある)、経済こそ順調ではあったものの、当時日本が経済“大国”になる、などと予想したものは誰一人いなかった筈である。昭和35年に池田首相が高度経済成長論を唱え、所得倍増計画を発表したとき、識者はこれを机上の空論扱いしたくらいだ。真に日本が高度経済成長のピークを迎え、経済大国の末席に座れるようになったのは『キングコング対ゴジラ』の公開された昭和37年あたりからだろうが、すでにその第一作から、ゴジラは海外で日本が生んだ傑作怪獣映画との扱いをうけており、別に日本のバブル崩壊を待つことなどなかった(大体においてバブル崩壊が高度経済成長からの流れとすること自体に無理がある。東宝がゴジラ映画をどんどん大型化させていけたのは高度経済成長で映画業界の活気があったからだし、今回の新作を最後にゴジラを投げ出すことを決定したのも、不況による経営悪化が原因ではないか。会社経営が傾けば文化も芸術もあったものではないのだ)。日本が真の文化大国になるためには、まず、こういう どうしようもないクソ文を新聞紙上から追放するところから始めなくては いけないと思う。
「この考えには各分野で活躍されている方々からの多数の賛同をいただきました。ゴジラもそのひとりでした」というのには笑う。東宝はこういう使われ方をされることを認めているのかね?

2002年01月05日(土曜日)

書庫からジェラール・ブランシャール『劇画の歴史』(河出書房新社)を持ってきて読み始める。箱入り豪華本で、1974年発行、3200円。当時の私(高校一年生)にとっては天文学的値段だったはずだが、無理して買ったのは当時からすでに将来、マンガについて何か語る職業につこうと思っており、そのための教養を仕込まねば、という使命感(?)からだったろう。ところが、買ってすぐにどこかの雑誌に、訳も図版もよくない駄本、という辛口の評価が載っていたのを読んで落胆し、背伸びして買った本にも関わらずそれから一回も開くことなく、書庫のホコリを積もらせっぱなしだった。今回、なんと買ってから28年ぶりに読んでみたわけだが、うーむ、 やはりつまらん 、という感想。内容もフランス人のこのテの本によく見られる大仰な文化史観と(マンガの歴史をギリシアの壷絵などから始めて威厳をつける、という事大主義はこの当時の文化人の常套手段だが)しち面倒くさく持ってまわった言い回しがハナにつくし、 窪田般彌の訳(下訳者の訳)が生硬で読みにくい 上に、訳語に首をかしげざるを得ないものが多々、ありすぎる。要するに、マンガにまったくくわしくない人物が訳を担当していることによる内容の未消化が露呈しているのだ。そればかりではない。その書評でも指摘されていたが、バンド・デシネ(絵物語)の訳に“劇画”という、すでに別の意味のある訳語を当てるのは、はっきり言って誤訳であり、これだけの高価本なのにも関わらず、図版の印刷が極めて不鮮明だし、その図版キャプションも、キャプション中に“図1、図2”とあるのに図版にそのナンバーが付されていないなどの不手際が多すぎる。 編集者のチェックがまた極めていいかげん で、気になることおびただしい。どれくらいいいかげんかというと、242ページの章タイトルが『戦場におけるヒーローたちと《ピン・ナップ》の』という、チョン切れたようなものであることからもわかるだろう。これがインデックスにもそのまま記載されているのだ。

2002年08月18日(日曜日)

読売新聞書評欄、長谷川清美『叩かれる女たち』を大原まり子氏が書評し、当該書第一章で取り上げられているオルタカルチャー裁判を“小谷真理が夫の巽孝之のペンネームであり、本人は男性であるという記述をされた”という要約で紹介。この新聞の書評欄は、一概に言って一般読書人にはとっつきにくい人文系の本を、そういう本に興味のある人たちにはとうに知られきった頃にタイミングを外して、一般読者には何のことやらよくわからない身内コトバの解説で紹介する、という特色を有しているが、この本の評も文章がブツ切れで、あの事件だの現在のSF界のジェンダー問題意識の高まり(ホントウに高まっているのか、という疑問はさておいて)だのについて知識のない人には、いったいどこらあたりが読むポイントなんだか、さっぱりつかめぬ、 主語の在処も判然とせぬ悪文 で紹介している。なんで作家と名乗るものがこうまで 質の低い文章 を、と首をひねり、何度か意味をとるために読み返してみるうちに、どうもオルタ裁判のところでワルモノとして山形浩生という実名を出したかったが故に、全体のバランスを著しく崩し、後の章の紹介を端折らなくてはいけなくなってしまったらしく推量できた。うらみは深し、といったところである。裁判の結果がどうだろうとテクスチュアル・ハラスメントがどういう意味だろうといいけれど、そのことの強調に気を取られてこんなひどい文章を書くようでは、そもそも 物書きとして問題 ではないかと思う。

2002年09月21日(土曜日)

一緒に買ってきた佐藤秀明『アザラシは食べ物の王様』(青春文庫)を読む。イヌイットと一緒にアザラシを解体し、生の肉を齧り、女の子たちに混じって腸の内容物をすすり、子供が大好物の目玉を一個もらって、口にほうばる。なんともグロテスクだが、読んでいてうまそうに思えてしまうところが妙である。さんなみで山鳥を解体したときや、ハンニバルでウサギの丸焼きを食ったときに感じる、自分が生命連鎖の一環に位地しているんだ、という感覚を味わえる描写だからだろう。著者の筆は軽く、時に軽薄っぽく、どちらかといえば悪文家なのだが、しかし、生き物を食らうギリギリの最前線からの報告には、やはり飽 食のこの国に生きるものにとって学ぶものが多い。

2003年02月16日(日曜日)

シャレとかお遊びというのは受け手の基礎教養を信じてのものである。先日、サイトで『お父さんたちの好色広告』を評してくれている人がいて、私の文章を「推敲と修辞を突き詰めてストイックなのに遊び心のある書き手」と認めてくれているのだが、「本書は初心者向けに平易に書こうと媚びていて 逆に読みにくい 」と苦言を呈し、“お父さン”などという表記は不愉快ですらある、とイキドオッていた。あの文体を“初心者向けの平易なもの”ととられては、こっちは泣くに泣けないのである。昭和高度経済成長期のお父さんたちの文化を伝えるのにはどういう文体がふさわしいか、と、“推敲と修辞を突き詰め”かつ“遊び心をもって”、 小沢昭一のラジオ『小沢昭一的こころ』の口調を取り入れている のだが。たぶん、この人は小沢昭一のあの名番組を聞いたこともないのだろう。こういう評に接すると、ああ、 やはり初心者向けに平易に書く 、ということを基本にしないといけないのかな、と思っ てしまうんである。

2003年02月25日(火曜日)

最近の楽しみである読売日曜版『本・よみうり堂』の大原まり子氏の トンデモ文章 、今回もなかなか。佐藤亜紀『天使』(文藝春秋)を評して「ジョルジュの魂を動かすものは、女でも国家でも血を分けた子供でもない。実の父の正体を知り、自分をかばって死んだ仲間の復讐のために殺人を犯すところで幕は下りるが、この後、彼がどうなるのか、私には想像できない。タイトルの通り“天使”を見るような思いだ」
ほう、復讐で殺人を犯す者をこの評者は天使と見るのか。なかなかユニークな感覚ではある。もちろん、この語に評者はさまざまな意味を込めているのであろうし、佐藤亜紀氏は実際、天使のような純粋性を主人公に与えているのであろう。しかし、いまだその書を読んでいない読者(この書評に有効性を求めるユーザー)にとって、こういう理解に苦しむ比喩は、何の意味も持たない。評の最初にこの作品がSFであるとも、ミステリであるとも、ファンタジーであるとも説明せずに“青春小説として読める”と別の読み方を提示されてもとまどうばかりなのだ。 タソクにならぬ評 、とはこういうのをして言うのだろう。文学ならばいい。どんな言葉を用いようと、その選択は著者の自由のままだ。それについてくる読者がいれば問題はない。だが、批評・評論というものにはある種の論理性がどうしても求められる。それが新刊書評となればなおさらである。書評の読者はその評を頼りに、乏しい書籍購買費の中から、どの本を買うか、やめておくかを判断するのだから。独りよがりの評であっても、その奥に“この本を薦めたい”という闇雲な熱意があればまた別だろうが、 大原氏の書評はそれすら感じさせない 。私は別に佐藤亜紀氏の小説のファンではないから、ただこのような悪文も、文章マニアとして笑って自分のコレクションに加えるだけだが、実際にこの書評欄を購買の基準にしようとしている読者には、まことに 迷惑至極な文章 でしかあるまい。

2003年03月16日(日曜日)

日曜が来て読売新聞書評欄で大原まり子氏の書評を読むたびに、それが口をついて出てくる。この商売をやっている限り、書評欄にはきちんと目を通さねばならず、なまじB級本などを専門領域にしている関係上、 駄文悪文にはアンテナが働く ようになってしまっている。ただし、私のメシのタネは笑える駄文悪文であり、この人のような、 単なるヘタクソ は、実例をひとつコレクションしていれば、それでいい類のものだ。毎度々々、恒例のように彼女の文章をつついていては、かえって変な粘着男と思われかねない。しかし、 毎回ここまでヘタだと 、言及しないわけにいかないのである。まったく、誰か引き受けてくれれば譲ってやりたいくらいのものなのだが。
今回は大原氏、新潮社の日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作である小山歩の『戒(かい)』を書評している。いや、書評という言葉が果たしてあたっているかどうか。21文字×20行というスペースの中で、大原氏が、この小説のあらすじを紹介することに費やしているのがなんと16行。評というよりはダイジェストだ。そのダイジェストにしたって、主人公の前半の悲惨さばかりを紹介し、彼が本当に活躍しはじめ“自らの道を拓いてゆく”肝心の部分の紹介はないわけで、中途半端極まりない。興味をつないだのだ、というつもりなのかも知れないが、主人公がなにゆえに鬱屈に耐え、すべてを失うまでになりながらも死んだ母の命令に縛られていたのか、その母の影を何をきっかけに断ち切れたのか、そのあたりの説明が何もないから、未読のこちらとしては雲をつかむような気分にしかなれない。おまけに、その紹介文中に“軍事将軍”などとわけのわからぬ言葉がはさみこまれる。将軍なら軍人なのだろうから、軍事を司るのはアタリマエだろう。あるいは、この作品の中だけの造語なのかも知れないが、そういう場合はきちんと断りを入れないと読者の混乱を招く。さらに主人公が、仕える公子を補佐し、“その賢帝ぶりを世に示す”とあるが、賢帝とは聡明な皇帝に対する呼称なのだから、いまだ公子である人物にこの語を用いるのは適当ではあるまい。 この人の学生時代の国語の成績表をのぞいてみたくなってしまった 。こんなひどい文を書いている者が“あまりに達者な筆に舌を巻いた”と作者(小山)の筆力を褒めても、映りの悪いテレビでハイビジョン番組の美しさを宣伝するCMを見ているようなもので、全然ピンとこないのだが。

2003年07月25日(金曜日)

SFマガジン9月号届く。蒼夜魔森氏による、先般のと学会東京大会レポートが掲載されている。蒼夜魔森というのは 某女流作家さんの仮の名 なのだが、なんというか本道を横目で見ながら脇道に入りこみ、やっと通りに出たかと思うとそこのひなびた雑貨屋の店先で立ち止まりという感じの、猥雑というのが一番褒め言葉になるであろうというような文体で、読んでいて馬鹿笑いをしてしまった。SFマガジンの執筆者ほぼ全てから感じ取れる優等生モードの、鰻で言えば(鰻で言わなくたっていいが)“蒸しのよく効いた”、脂っ気のほどよく落ちた文章とは正反対である。

良い文章か悪文かという区分で言えば 悪文に違いない 。なくもがなの脱線部分もあれば、語の誤用もいくつか見られる。しかしながら、文章全体から、ああいうオタクなイベントの雰囲気というか、混乱の中での熱気というかが強烈に立ち上ってくる。これはスッキリとソフィスティケートされた文章しか書けない者には描写できない雰囲気だ。自分のトンデモ理論からの足抜けの経験を語って、「彼らはたいてい理想が高邁で魂の進化を望み万人の“めざめ”や“理想”を持っており、それを知りさえすればただちにユートピアの訪れるスゴイ秘密を知っていてしかもそれを熱心に広めようとする。しかしある時ど田舎在住の不思議ちゃんはめざめ気づいたのである。自分が彼らの掲示する安いユートピアなんぞには全然住みたくなく、汚濁の巷で活きていくことのほうがずっと好きだということに。高邁でなく進化を知らず貪欲で享楽主義的な半身の自分を失いたくないことに」というのは、対象がトンデモばかりでなく、われわれをリスペクトしようと語りかけてくる、全ての思想や哲学に対しての、“オトナ”の反発だろう。

2003年08月11日(月曜日)

しかしくたびれて寝転がってしまい、宮尾しげを『芸能民俗学』(伝統と芸能社)読む。宮尾しげをと言えば『団子串助漫遊記』で著名な漫画家で、後に民俗芸能研究家に転じた人。日本中の祭事をこまめに歩き、記録しているその資料は今になってみれば貴重極まりないものなのだが、文章が悪文で、 読んで内容を理解するのがかなりの苦労 である。決して難解な用語を使っているわけではないのだが、文章表現が唐突で、ときおりこんがら かり、何ヲ言ッテイルのかよくわからなくなる。
「民族芸能には、見方によって狂態に属するものと断定してよいものも少なくない。断定できないものは、第三者が見て狂態そのものと言う。本人も狂態がかっていることを充分に知ってそれを演じている。そうなると狂態そのものではないともいえる」
一見、非常に簡明な表現でわかりやすい文章のように思えて、中の部分の“断定できないものは〜狂態そのものと言う”というところが意味不明瞭であるため、全体として、何をもって狂態とするのかが非常に判断しにくくなっている。 タチの悪い悪文 と言えるだろう。

2003年08月23日(土曜日)

地下鉄車中で多木浩二『天皇の肖像』(岩波現代文庫〜岩波文庫赤帯版の増補改訂)を読了。明治の日本がそれまで持ったことのない “国家”という意識を持つにあたり、絶大な力を発揮した御真影の謎を解く著者の理論は、“当時の、文化、社会、経済的状況も含め、それは頂点にある天皇から最下層の民衆にいたるまでの一切の要素を、政治的に全体として統合する象徴的意図として現れることを見逃すべきではない”というような学者風悪文にかなりさっ引かれてはいるものの、刺激的で非常に面白い。

2003年09月25日(木曜日)

休息室で新聞読んでいたら、読売夕刊に大原まり子氏が自分の闘病体験記を書いていた。お大事に、とはこちらも現在病中のこととて同情するが、 相変わらず文章は前後のつながりが朦朧としている悪文 。僅々2000字程度のエッセイの中で言わんとしていることが三つくらいに分裂し、そのベクトルがてんでんばらばらで、冒頭と結末に論理がつながっていないのである。まあ、こういう文章を書くのは彼女に限ったことではないのだが、SF作家の文章というのは非常に論理性の高いものが多いので(奇想天外な事物をリアリティをもって扱うには、論理をあやつる術が必要不可欠)、それが欠如している人の文章というのはどうしても目立つのだ。病後は意識的に野菜を多く摂るようになり、また古典小説に親しむようになったという。で、「どちらも温故知新というのだろうか」との感想を述べているが、野菜を多く食べることを“温故知新”と言うとは知らなかったですな。古典を読んだからといって、 半可通で覚えた言葉をすぐ使おうとはしない ことである。

2005年02月24日(木曜日)

寝床で三浦博史『洗脳選挙』(光文社)読む。ペーパーバック装丁、横書きというアメリカっぽい感じを出しているのはいいが、ところどころに、文中の単語や文章の英訳表記がはさまれている。それが「定量調査 quantitative research」とか「無党派層 the independent votes」「サクラ decoy」 といった用語であれば、同じような資料を英語で読む際に役立つ、といった性質を 持つかもしれないが、「高校野球 high school baseball」だの「恥ずかしい I am ashamed」だのといった別にナンでもない言葉まで英訳して載せているのは単なるカッコつけで意味がない。 第一読みにくい 。内容はまあ、ナルホドと思うところと、普通これくらいはネット回っていれば誰でも知られる内容だな、と思うところが半々か。とはいえ、仮にも人をプロデュースしようと考えている私のような者にとっては なかなか興味深い

2005年06月17日(金曜日)

ちなみにその襲名を報じたスポニチのサイトに曰く、「三語楼の実姉でバレエダンサー、俳優としても名高い十市(じゅういち)、落語家・柳家花緑の母でもある喜美子さんも将来、花緑が七代目小さんを継ぐことを視野に実弟が継ぐことに賛成している」最初、“実姉”と十市をカン違いしているのかと驚いたが、文脈で“実姉”は“喜美子さんは”につながるのだとわかった。 なんという悪文 。カン違いしたままの人も多かろうからここに書いておく。小さんの息子がまさかバレエダンサーとは想像しに くいと思うが、レッキとした男でありますぞ。

2006年05月07日(日曜日)

ディクスン・カー『毒のたわむれ』読みつつ45分ほど。出てベッドに入り、カーの続きを読むうちにその翻訳の悪文(村崎敏郎という名でちょっと笑う)に眠気誘われる。カーが 翻訳に恵まれぬ悲劇の作家だった というのもむべなるかな。

2007年12月21日(金曜日)

アンドレ・モラリーダニノス『性関係の歴史』(文庫クセジュ)など。文庫クセジュってどれくらい読まれているのだろうか。この本は高校生くらいのとき、題名にドキドキしながら読んで、 訳文のあまりの生硬さにヘキエキ した記憶がある。「やがては下部生命機構と機能の発見によってもたらされた一種の情熱的な客観性」なんて文章はどういう意味か、 一回読んだきりでは理解できない 。また、アン・ボレイン(アン・ブリーン)、サミュエル・ペピイス(サミュエル・ピープス)、ソネ(ソネット)、サバ(サバト)のような、独特の表記(後ろ二つはフランス語読みか)にもてこずった。
しかしながら、何となくこういう独特の表現や表記が、高校生であるこちらに、“アタマいいことを言っているなあ”というような感じを抱かせたのも事実である。すっと読み飛ばしてしまえばそれほど大したことを言っていない内容でも、こういう風に書けば、読者の目をそこで一時ストップさせ、アイドリングさせたまま、内容に思いを馳せさせることが可能なのだ。 悪文の効用というのは確かにある な、と今回も感心させられ、訳者名を見たら篠沢秀夫だった。まえがきで「訳者は、本書の主題に関しては全く専門家といいがたい」と逃げを打っているのがおかしい。あるいは、初版刊行の一九六六年当時の大学内で、こういう性的な内容のものを翻訳した、ということであらぬ噂がたたぬよう、故意に訳文を硬いものにしたのかもしれない。ちなみに、高校生であった私に一番受けた個所は「播種に伴う性行為は或る種族のインディアンにおいて発見された(マスカキ族)」という一行であり、エロトリビアの定番ネタになっている。

2008年02月19日(火曜日)

牛田あや美『ATG映画+新宿』読み継ぐ。論文を仕立て直した書籍に ありがちな悪文 なのだが、それが、60年代から70年代の新宿の混沌の中での発展の状態を表現するのにむしろぴったりで、盛り場・新宿成立史として読んでゾクゾクする魅力と迫力を持ち得ている。 悪文には読者をフックするパワーがある のだ。ビデオやDVDと異り、映画館時代の映画は、その上映された場所との関係性が不可欠という視点には大いに膝を打つものあり。

2008年03月04日(火曜日)

仕事場に戻って、ミクシィをのぞいたら、マイミクさんたち大激怒の最中。ミクシィの4月からの新規約中に「第18条 日記等の情報の使用許諾等1  本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。2 ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします」とあり、ご丁寧に附則で「本利用規約の施行前にユーザーによって行われた行為についても本利用規約が適用されます」とある。これにみんな一斉に反発したらしい。要するにミクシィ、俺等の日記を勝手に本にして出版するけど金は払わないぞと言うておるんか、というわけである。
しかしながら、常識で考えてこんな無茶なことが通るわけもない。著作物における財産権は憲法で定められている権利であって、規約がどうあれ、上位にある法律や憲法を無視できるものではない。そんなことをしたら、というよりそんな規約を作った段階でアウトだ。
よくよく条文の他の部分を読んでみれば、要するにミクシィがRSSなどのサービスを行う際の、著作者人格権における改変の拒否権を放棄すること、という程度のことなのである。
それをこんな書き方にしてしまったために、もの凄い誤解をされてしまった。実際、 悪文にしてもわかりにくすぎ、悪くとれすぎである 。どこのバカが書いた文章かと思うが、しかし、フツーに考えてミクシィ運営者(一応ここまでミクシィを成功させたのである。ビジネスセンスは十二分に持っている人物だろう)がそんなバカな考えを抱くとはとても思えない。本気でこんなことを考えるのはヤクザしかあるまい。
この文章をアップした奴の文章表現力のなさ 、及び法務部などにノーチェックで(チェックして上げたとしたら法務部、顧問弁護士などが無能すぎ)アップしたことが問題なだけである。
それを、悪の陰謀を向うがたくらんでいる、みたいにとらえて、ミクシィを退会する、とか最初に騒いで火をつけた奴が 誰かと思ってサーチしてみたら…… 。やれやれ。

2008年05月20日(火曜日)

新聞で、今日泊亜蘭氏死去を知る。97歳。日本SFにハマったかなり初期のころに『光の塔』を読んだその衝撃が、かなり私をひねくれたSF者にしたような、そんな気がする。レトロフューチャーという便利な言葉がその後発明されたが、『光の塔』はレトロでもない、アナクロフューチャーとでも言うべき作品であった。伝法な江戸言葉を人々が駆使する未来世界! 思いつこうッたッてなかなか思いつけやしない世界観である。 読みにくいっちゃアありゃしない小説だった が、しかしこの世界観に一度ひたると、小松左京も光瀬龍も子供っぽく見えたのは確かであった。
















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