訃報日記2002:07月〜09月

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【パンチョ伊東】

日記 :: 2002年 :: 07月 :: 05日(金曜日)
パンチョ伊東氏死去の報。棺の中をのぞきこんで髪の毛を引っ張ってみたい、という裏モノは多かろうなあ。パンチョという名は当然パンチョ・ビラから来ていると思われるが、あのメキシコ革命の英雄は本当にデブだったんだろうかな。デブでヒゲのパンチョはウォレス・ビアリーの『奇傑パンチョ』(1937)が定着させたイメージだが、古すぎてこれがストレートに日本人のパンチョイメージだとは考えにくい。ペキンパー脚本の『戦うパンチョ・ビラ』ではユル・ブリンナーが痩せたパンチョを演じていたし。だいたい、メキシコではパンチョというと口ヒゲがシンボルらしいが、伊東氏にはヒゲがなかった。ヒゲ+デブで日本で有名だったのは、『ピンキーとキラーズ』のパンチョ加賀美氏か? そう言えば、日活無国籍アクションの極致とも言うべき宍戸錠主演『メキシコ無宿』では藤村有弘がデブ・ヒゲ完備で中国系メキシコ人(凄い設定)の殺し屋を演じていたが、この役名がもう、当然という感じでパンチョ・サンチェスであった。

【ジョン・フランケンハイマー】

日記 :: 2002年 :: 07月 :: 09日(火曜日)
昨日の日記で書き忘れていたが、映画監督ジョン・フランケンハイマー死去。何と言っても『フレンチ・コネクション2』(75)。あのラストの大追跡は映画史上に不滅の輝きを残す。安達Oさんの日記にもある通り、『大列車作戦』のようなスケールの大きいアクションの名人であったが、個人的には『終身犯』(61)の、刑務所の独房の中に限定されたドラマをじっくり見せた手際が感服ものだった。テレビ東京でやってたコメディ番組『ソープ』で、刑務所に入れられたチェスター(ロバート・マンダン)が“この独房はひどい。小鳥も飛んでこない”とボヤいていたのはこの映画のことを踏まえたギャグである。……しかし、基本的には70年代までの人だったかと思う。79年に撮った“カイジュウ”映画『プロフェシー/恐怖の予言』はお笑い草だったし、マーロン・ブランドがモロー博士を文字通り怪演した『D・N・A』(96)も、やる気のなさアリアリのダメ演出で、逆にそのためにカルト映画になってしまった作品だった。ケレンのない硬派な人に、SFとかホラーの演出はむかんのである。遅まきながら本人もそれに気がついて、正統派アクションにロバート・デ・ニーロ主演の『RONIN』(98)で復帰したときにはすでに往年の才気も失せ、まったく見どころのない映画になっていたのは無惨だった。報道によれば、70年代のフランケンハイマーはアルコール依存症に苦しんでいたが、80年代にそれを克服したんだそうな。依存症時代の方がいい映画を撮れていたというのは皮肉である。酒はやはり飲んだ方がよろしい。

【ロッド・スタイガー】

日記 :: 2002年 :: 07月 :: 11日(木曜日)
ロッド・スタイガーが9日に死去とかや。巨体にどこか幼児的ダアダアな顔が乗っかっている俳優、という印象である。そのタイプの役の代表作は『ラブド・ワン』における、マザコンのエンバーマーの神経症的演技だろう。ハリウッド嫌いであまり映画に出ない俳優、というイメージだったが、出演歴を見るとそれどころか、つい最近まで、ほぼ一年一〜三作の割で出続けていたのであった。大スターにしちゃ仕事好きの方であろう。
http://www.fmstar.com/movie/r/r0035.html

【林美雄】

日記 :: 2002年 :: 07月 :: 15日(月曜日)
林美雄氏死去の報、58歳。私の高校時代は当然のことながら深夜放送が受験勉強の友で、クラスはだいたいニッポン放送オールナイトニッポン派とTBSのパックインミュージック派に別れていて、私はタモリを擁するオールナイトニッポン派の切込隊長的な立場だったが、それでもときどきこっそりとTBSも聞いており、野沢那智と白石冬美、小島一慶などと並んで、林美雄の声から東京の香りを雪深い北海道で受け取っていた。彼ら四人の歌っている“ヤバド、ヤバドヤバドバ、たまんないな〜”という歌『赤頭巾ちゃん気をつけろ』の録音テープ、まだ押入のどこかにあるはずだ、探してみよう。

【佐伯清】

日記 :: 2002年 :: 07月 :: 17日(水曜日)
またまた訃報、佐伯清監督死去。『昭和残侠伝』シリーズを創始した、という一事で映画史にその足跡を残した人。映画作家としては天才・マキノ雅弘に一歩を譲るが、しかし娯楽作品とは“定番シーンの組み合わせにある”ということを、徹底してよく心得ていた職人監督であった。変に新しいことをしたがる(新しいことしかしたがらない)坊や監督たちにツメのアカでも煎じて飲ませたい。今の時代からは考えられもしないが(私の時代ですら一種異様に思えた)、その演出する義理と人情の古くささを強調した世界に、時代の変革を求めた70年代安保世代が熱狂したのである。佐伯清自身が作詞した『昭和残侠伝』の主題歌、“背中で泣いてる唐獅子牡丹”の歌詞をもじって橋本治が“背中の銀杏が泣いている”とやったのはまさに時代の叫びであった。

日記 :: 2002年 :: 07月 :: 23日(火曜日)
しばらくネットで資料集め。自分の以前書いた筈の文章などを探すのがおかしい。ちゆ12歳で話題にされていた、読書感想文の書き方のページ『読書感想文は一行読めば書ける!』が面白い。読書感想文の課題で夏休みが陰鬱なものになった小中学生時代を送ったものには溜飲が下がるサイトだろう。実際、これは文章の鍛錬によろしい。江國滋が俳句の練習に新聞の訃報欄の、会ったことも名前を聞いたこともない人の訃報を読んで、その追悼句を作るということを勧めていたが、あれに通じるものがある。ただし、惜しいのは、このサイトでその実例としてあがっている例文が、どれもあまり面白くないことだ。発想の飛躍に欠けるというか。ロバート・ベンチリーのエッセイに、橋のかけ方を土木の知識も建築の知識もない人物が大まじめに解説するというナンセンスなものがあった(早川書房『ユーモア・スケッチ傑作選1』所収)が、あのシャレっ気を少し学んでいただきたい気がする。短いものだし、別に感想文を書くわけでもないから、これは通して読んでも無駄にはならないと思う。
http://www.ne.jp/asahi/ymgs/hon/index03_kansou.htm

【藤本敏夫】

日記 :: 2002年 :: 08月 :: 01日(木曜日)
新聞に藤本敏夫死去の報。ただ、“歌手・加藤登紀子さんの夫”とだけしか書かれていない。かつての全学連のヒーロー、反帝全学連委員長ももはや遠い々々過去の話か(ATOK12では全学連という単語も学習させないと出ない)。Googleで検索しても、出てくる記述の四分の三が、加藤登紀子との獄中結婚のことである。ところで、肺炎で死去と出ていた。58歳という若さで肺炎とは、と思いネットで調べると(最近、フレッシュアイの機能が変わって使いにくくなったのは困ったもの)、肝臓ガンが肺に転移し、治療中に肺炎を併発したとあった。抗ガン剤、または放射線療法による治療で免疫力が低下していると、通常は無害であるグラム陰性桿菌等によって肺炎になる場合がある。これを医学用語で“日和見感染”という。全学連の先頭に立つ闘士であった人物が“日和見”で死亡とは、あまりに。

【レオ・マッカーン】

日記 :: 2002年 :: 08月 :: 23日(金曜日)
ネットで、昨日話題に出たレオ・マッカーンのことを調べたらちょうど一ト月前、7月の23日に亡くなっていた。オーストラリア出身だということは初めて知った。シェイクスピア劇の俳優として著名で、『ロミオとジュリエット』の神父役のスチールを見たことがあるが、なるほど適役だ。モンティ・パイソンのギャグの中に、歴史上の人物のデタラメ紹介で“父親はレオ・マッカーン”と言うのがあったから、イギリスではポピュラーな名前だったのだろう。歴史劇からコメディ、SF(『スペース1999』にゲスト出演していた)まで、イギリスの役者らしくありとあらゆる役を楽しげに演じていた。映画の代表作は昨日も書いた『HELP! 四人はアイドル』の他、『わが命つきるとも』では策士のクロムウェル(あの清教徒のクロムウェルではない)を演じ、直属のボスであるウルジー枢機卿(オーソン・ウェルズ)を追い落として自分がヘンリー8世(ロバート・ショー)の腹心となり、その再婚に反対するトマス・モア(ポール・スコフィールド)を反逆罪で死刑に追い込む。スコフィールドとマッカーンの法廷対決が、この役者の顔ぶれ以外は非常に地味な映画の、クライマックスになっていた。その他『レディホーク』の神父(あきらかに『ロミオとジュリエット』の神父役をイメージしたキャスティング)とか、『プリズナーNO.6』のNO.2(もっとものこの役は出てくるたび違う役者が演じている)とか、『新・シャーロック・ホームズおかしな弟の大冒険』のモリアーティ教授とか、とにかくこの人が出てくるとテレビであれ映画であれ、その達者な演技で作品に幅が出て、大したことのない作品でも楽しく見られたものである。英国映画界にはこういう、悪玉だろうが善玉だろうが何でもこいで演じわける、芸達者な名優たちが実に豊富にいたものである。ロバート・モーレイとか、ピーター・ブルとか、クライブ・レビルとか、コリン・ブレイクリーとか、ロイ・キニアとか、フレディ・ジョーンズとか、ジェイムス・ロバートソン・ジャスティスとか、ストラトフォード・ジョーンズとか、英国のこういう万能俳優たちについて語らせてくれる本を、どこかで出さないかなあ。

【テッド・アシュレー】

日記 :: 2002年 :: 08月 :: 27日(火曜日)
夕刊を読む。昨日脚本家(ディーン・ライズナー)の死が報じられた『ダーティ・ハリー』の、今度は配給会社ワーナーの会長、テッド・アシュレーが死去。経営難に陥ったワーナー・ブラザーズ再建に取り組み、ダーティハリーシリーズをはじめ『時計仕掛けのオレンジ』『スター誕生』『エクソシスト』『スーパーマン』等をヒットさせ、見事成功させた映画界の功労者。……この時代はまだ、ヒット作と傑作が(まあ、『スーパーマン』はともかく)シンクロしていたのだな、と思う。『エクソシスト』なんて公開当時は大ゲテ扱いされていたが、改めてみると文芸映画なみの質の高さをさすがフリードキン、維持していたことがよくわかる。……ところで、私はダーティハリーを、と、いうかイーストウッドの映画を、『ダーティハリー3』以降、一本も観ていないのだった。もちろん、『マディソン群の橋』も『スペース・カウボーイ』も観てない。まだ学生時代に『ダーティハリー3』を観て、あんなにけなげで可愛いタイン・デイリーをラストで殺しやがったことに腹を立て、“もう、こんなヤツの映画なんか二度と観るもんか”と、心に誓ったのであった。

【マイケル・ウェイン】

日記 :: 2002年 :: 09月 :: 05日(木曜日)
新聞、産経が雨のせいか、配達少し遅れ気味。その遅れた産経に、マイケル・ウェイン死去の報。ジョン・ウェインの長男で、親父の映画のプロデュースをしていたとか。彼を筆頭に、ジョン・ウェインには七人の子供がいるそうで、いつだったか、ジョン・ウェインを讃えるあちらの番組をテレビ東京で見たとき、ボブ・ホープがこんなジョークを言っていた。「ジョンは七人の子持ちだ。なかなか出来ることじゃない。一日一人作っても一週間かかる……週明けは仕事にならんだろうネ」

【フィリップ・ヨーダン】

日記 :: 2002年 :: 09月 :: 05日(木曜日)
この死亡についてネットを調べていたら、脚本家フィリップ・ヨーダンが3日に死去していたという記事を発見。88歳。『キング・オブ・キングス』『エル・シド』みたいな歴史・宗教劇、『バルジ大作戦』のような戦争もの、『黒い絨毯』のようなスペクタクル、『大砂塵』みたいな西部劇、『探偵物語』のような犯罪もの、『人類SOS(トリフィドの日)』みたいなSFもの、さらには『悪魔の祭壇/血塗られた処女』のようなB級ホラーまで、行くところ可ならざるはない器用ぶりと、単なる器用な才人に終わらぬ骨太いストーリィテラーとしての力量を示し、『折れた槍』ではアカデミー原案賞を受賞、ハリウッドの脚本家の一典型として君臨した大物、と言ってオシマイであれば、通例の追悼でかまわないのだろうが、実はこの人物、単なる脚本家に終わらず、“ハリウッド史上最もミステリアスな男”と称されて、赤狩り時代のハリウッドに隠然たる位地をしめていた、クセモノであった。その怪物ぶりは
http://www.esquire.co.jp/scenario_i/scenario_06.html
から始まる論考にくわしいが、さて、果たしてヨーダンはベン・マドゥのような才能ある人物を食い物にしていたのか、それとも赤狩りで仕事を奪われた人々にとって彼のような存在は救いの手だったのか。また、ヨーダン自身には本当の才能がどれくらいあったのか、なにはともあれ一筋縄ではいかない怪人である。アメリカのことだから、いずれ生前には発表できなかった様々な資料がこの後出てきて、詳細な研究書 が刊行されるだろうが、楽しみなことではある。

【桜井昌一】

日記 :: 2002年 :: 09月 :: 05日(木曜日)
で、この訃報について、あちこちの訃報サイトを回っているうちに、またまた訃報を発見。訃報日記みたいな感じだが、4日、劇画家・劇画出版社経営者、桜井昌一氏死去、70歳。水木しげるのマンガに出てくる、四角い顔のメガネのデッパ男のモデルと言えば、今の若い人にもなじみが深いのではあるまいか。あのメガネ氏は、日本人の典型のような、欲望に弱い俗物で、しかしながら悪にも染まりきれない律儀さを持ち、努力を厭わない好人物でありながら、どこかでいつも人生のタイミングを踏み外し、幸運の星からは縁遠い存在であった。この人物像は、そのまま、桜井氏に当てはまるのではないかと思われる。桜井氏が佐藤まさあき、さいとうたかを、そして実弟の辰巳ヨシヒロなどと設立した『劇画工房』は、大阪の一隅から確実に日本のマンガ史を変革させ、彼らの東京進出にノイローゼとなった手塚治虫は仕事場の階段を踏み外して転げ落ちたという。しかし、そのようなニュー・ウェーヴの中心にいて、才能あるもの同士の集団ゆえの集合離散常無き状況の中、最も律儀な態度をとり続けた結果、常に貧乏くじを引きっぱなしだったのが桜井氏であった。そのあたりの状況は佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして』(文藝春秋)、桜井昌一『僕は劇画の仕掛人だった』(東考社〜桜井氏自身の出版社である)に詳しい。そして、両者における視点の違い(成功者とそうでない者からの)も確認しておきたいところである。長い間病床にあったというが、最期は安らかなものであったことを祈りたい。
日記 :: 2002年 :: 09月 :: 06日(金曜日)
新聞、読売、産経共に桜井昌一氏の訃報を、大きくというわけではないが劇画工房の名と共にきちんと報じている。せめてもの慰めであろう。トキワ荘のエピソードは映画になりテレビドラマになり、昭和の伝説として人口に膾炙しているが、この劇画工房の話も、面白さではそれをしのぐものがあり、登場メンバーも、さいとうたかをや佐藤まさあきをはじめ、川崎のぼる、水島新司などと、ヒケをとらぬ豪華さでありながら、金や女という“オトナ”の話がからむが故に、知名度ではかなり後塵を拝している。手塚治虫という神様へのあこがればかりが強調され、生活感が抜け落ちているトキワ荘より、生々しい引き抜きや裏切り、成功(金と女)を手中にした若者の狂乱、そして、時代が音を立てて変わっていく昭和三十年代の躍動が、こちらの記録からはダイレクトに伝わってくるのだ。階段落っこちの手塚治虫はますます神格化され、鉄腕アトムの誕生日が盛大に祝われようとしている今、この時期に、ひっそりと、劇画の仕掛人がひとり、この世を去る。やはり寂しい。

【山内雅人】

日記 :: 2002年 :: 09月 :: 09日(月曜日)
新聞に山内雅人氏死去の報。声優の草分けというか、小学二年生の頃観た、劇場版『サイボーグ009』のブラックゴースト役で記憶したのだから、私が名前を覚えた最も早期の声優の一人である。アニメでは『新造人間キャシャーン』の東博士、『未来少年コナン』のラオ博士が代表作か。読売新聞は“海外ドラマ『ドクター・キルデア』のリチャード・チェンバレンの声を吹きかえた他、テレビアニメ『未来少年コナン』のラオ博士の声などを担当した”という程度の記述だったが、産経は“外国映画やテレビドラマの吹き替えのほか、アニメ『未来少年コナン』のおじいとラオ博士の2役などで親しまれた”と、ちょっとオタク風な記述。ネットで調べると毎日及び朝日も“おじいとラオ博士”となっているが、この二役はネットなどで検索すればすぐわかること。二つのうち、主要キャストであるラオ博士のみを記す読売の記者の方が“きちんと見ている”ということなのかも知れない。74才。

【松本善之助】

日記 :: 2002年 :: 09月 :: 09日(月曜日)
ちなみに、産経には他に松本善之助氏の訃報も。他の新聞は報じず。産経の記事も単に“ホツマ研究家”とあるのみで、ホツマとは何なのか、松本氏がどういう人なのか、の説明がないから、一般読者には何でこの人の訃報が載っているのか、わからないかも。言うまでもなくホツマは“ホツマツタヱ(松本氏表記ではホツマツタヘ)”のことで、いわゆる神代文字により書かれた歴史書で、記紀の原典と言われているものである。この文書の写本を昭和41年にこの松本氏が神田の古書店で偶然発見したことから世に知られることになったという、いわくつきの古文書であって、これが本当であるならば、漢字伝来以前に日本には独自の文字があり、その文字で歴史がちゃんと記録されていた、ということになる。当然のことながら偽書として学会からは無視されたが、今なお少なからぬ信奉者がいるのは、日本が古代から大陸の影響とは無関係に文化を独立させていた、という考え方が、ナショナリストたちにとって快いものだからであろう。産経新聞にのみ、その訃報が載ったのも故なしとしない。ネットでは確認できなかったが、著書『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』を出した毎日には載ったのか? なお、氏はホツマ研究家になる前は『現代用語の基礎知識』で有名な自由国民社の編集者であり、翻訳事業に深く携わっていた(氏の著者が日本翻訳センターから英語に翻訳されているのはそのつながり)そうで、“コピーライター”なる言葉を日本で初めて使用したのも、編集者時代の氏であったとか。83才。

【華倫変】

日記 :: 2002年 :: 09月 :: 15日(日曜日)
ネットで、マンガ家の華倫変死去の報。3月19日に亡くなっていたとのこと。人の死に関して、いちいち動揺はしないタイプの人間なのだが、今回のこれに関してはいささか愕然とせざるを得ず。心不全という発表があったが、その死因をこれほど信じられない人も珍しい。大体、連絡がぷっつりとれなくなってから、あちこちから電話やメールが何度も何度も届いていながら、なぜ一ヶ月近くも、その死を家族は出版社や知人等に報せなかったのか? いろいろネットなどを回り情報を集めるが、どうも塚原尚人くんのときと似たような精神状態であったようだ。痛々しい。

私が最初に彼の『カリクラ』を取り上げて評論したのは、1999年、ぶんか社の『ホラーウェイヴ』で、であったか。それから同時期に出た『B級学』でもやはり取り上げ、私はいささかはしゃぎながら、この、たぶん現代のマンガ状況の中でのおさまりどころがなさそうな才能を、喧伝しまくったように記憶している。そういうタイプの作家が好きなのである。偶然だが、彼もまた私の本はよく買って読んでいたそうで、また、後に私が連載をはじめたWeb現代の初代担当Iくんが、彼の担当だったこともあって、これだけご縁があるのならと、その連載をまとめた『裏モノ見聞録』を出版するとき、彼に前書きマンガを描いてもらった。しかし、なにしろその頃彼の住まいが東京から遠い土地であったため、なかなか顔をあわせる機会がなく、また、たまの上京のときはこっちが忙しいというようなことで、Iくんに、会える折があったら一緒に飲ませてよ、と頼んであった。結局、一度も会えないままになってしまった(彼の日記の中には何回か“カラサワ先生がこう言った”とかいう文章が出てきているが、全てウソである。会ったことも、メール一通交わしたこともなかった。あ、ナンビョーさんの旧BBSに書き込みしてきたことがあったな)。

彼の作品を読むたびに感じていたのは、現実感覚の消失である。ちょうど今の自分が風邪をひいて、味覚があまり効かなくなっているのが、何だか華倫変の作品に似た感覚だなあ、とぼんやり思う。ものを食べても、味がぼんやりとしか感じられない。はっきり感知できるのは、苦みや辛味ばかりである。彼の作品の登場人物たちは、まあ最初から世間との折合いが悪い者たちばかりなのだが、それがさらにまた、摩擦係数の大きい方へ、大きい方へと自らハマりこんでいく。逃げればいいのに、なにも自分からつらい方へ近づかずともいいのに、と思うのだが、傷つき、痛みを感じなくては、現実感覚が取り戻せないのだろう。サイトでも、自虐的なばかりに露悪的な発言を行う一方で、鬱病などについては凄まじい真剣さで、その病気への理解を訴えていた。一人の人間の中に二つの人格があった、などというと陳腐な言い方になるが、どちらも、彼の本質であったと思う。自分を救う(現実社会とのつながりを取り戻す)ためには、自分を破滅の淵にまで追い込まねばならない、という二律背反の中で、華倫変はもがいていた。……そのつらさを、作品を描くことで客観視し、昇華できればよかったのだが、彼は作品の中にまで、ストレートにその状況を反映させてしまっていた。こう言ってはなんだけれども、死の報を聞いて驚きながらも、どこかで、その意外性のなさもまた、感じてしまっているのである、私は。冥福を祈りたいのはやまやまだが、まず、どうしたって冥福などしそうにないタマである。永劫に中有の闇に迷っているのではないか、そんな気がして仕方ない。














最終更新:2010年02月19日 22:55
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