トリビアの泉1

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  1. トリビアの泉1(2002年〜2003年)
  2. トリビアの泉2(2004年〜2007年)

2002年10月04日(金曜日)

3時、時間割。フジテレビK氏と待ち合わせだが、なかなか来ない。電話あり、制作スタジオを出たところで車がオカマ掘られてしまい、いま、警察の到着待ちなので1時間ほど時間をズラしてほしい、とのこと。一旦家に帰る。帰っても時間が半チクなのでまとまったことは出来ず。1時間後にまた時間割。別に怪我もなかった模様である。番組にスーパーバイザーとして名前貸すこと、ネタ提供に一行知識掲示板のものを使用する許可(私がチェックする)のことなど。番組は来週月曜深夜1時半(もう月曜じゃない)から。番組名は『トリビアの泉』。“トレビの泉”のシャレであるらしい。

2002年10月07日

深夜枠で「トリビアの泉」が始まる。〜2003年3月17日
第1回放送
  • 小便少女もいる→元ネタ『一行知識の逆襲』ブリュッセルには小便少女もいる
  • ジャイアント馬場の足は16文なかった→元ネタ『一行知識の世界』ジャイアント馬場の足は本当は十五文しかなかった
  • 国立競技場には女性用立ち小便器がある→元ネタ『一行知識の世界』国立競技場には二十年以上も使われていない“開かずのトイレ”があり、その中には東京オリンピックのときにつくられた「女性用立ち小便器」が現存している。外国女子選手のために造ったものらしい
  • 美川憲一と美輪明宏は同じ誕生日である→元ネタ『一行知識の世界』美輪明宏と美川憲一は同じ誕生日(五月十五日)である
  • 忠犬ハチ公は今ハク製になっている→元ネタ『一行知識の逆襲』忠犬ハチ公は上野の博物館ではく製になっている


2002年10月14日

第2回放送
  • JR目黒駅は目黒区にない、品川駅は品川区にない→元ネタ『一行知識の世界』JR目黒駅は品川区、品川駅は港区にある
  • 国宝十一面観音立像の11の顔のうち1つだけ大爆笑している→元ネタ『一行知識の世界』十一面観音立の11の顔のうち、頭の後ろにあるひとつは大笑いしている


2002年11月12日(火曜日)

Kさん、『トリビアの泉』の話を持ち出して、最近の番組の中ではダントツに面白い、こういうやり方があったかと感心した、と言う。あれ、私がスーパーバイザーなんですが、と言ったら驚いていた。これも世界の狭さの例だが、やはり最後のスタッフロールなんか見てないよなあ、みんな。

2003年01月11日(土曜日)

さらにスーパーバイザーで名前の出ている『トリビアの泉』からは有料サイトを作ることになったのでこれこれのネタを使うのだがよろしいか、という問い合わせ。なんか、どんどんいろんなものが出来ていくな、この番組は。

2003年02月15日(土曜日)

スポーツ新聞を読んだら、『トリビアの泉』が深夜ワクにも関わらず視聴率6パーセントをとる人気となっており、通常ワクに移行も、と書かれていた。あれ、深夜だからいいという性格を持った番組だと思う。できれば移行してほしくない。帰宅して、その件ではないが、ちょっとスタッフにメール。

2003年02月20日(木曜日)

『トリビアの泉』スタッフからメール。一応、私がブレーンになっていることを、著書のオビとかで謳うことはかまわない、という許可が出た。次の新刊からの著者紹介にはそのように書こう。テレビは契約の関係上いろいろ制約が多いので、いちいち許可をもらわないといけない。

2003年03月17日

深夜版「トリビアの泉」放送終了

2003年04月25日(金曜日)

帰宅してメール見る。フジテレビから『トリビアの泉』ゴールデンタイム移行の件について。本も出るらしい。テレビというのは本当に細かくめんどくさい。

2003年04月27日(日曜日)

Xくんには“『トリビアの泉』、こんどゴールデンですねえ!”とうらやましがられた。別段、私には何の得することもないのだが。

2003年05月29日(木曜日)

渋谷へとって返して時間割。フジテレビ『トリビアの泉』プロデューサーM氏と打ち合わせ。深夜1時からいきなり水曜9時移行ということで、いろいろあわただしい。引き続き、スーパーバイザーとしてネタ担当をやることになる。こちらからの要望としては、深夜ワクで見ていた人たちを置いてきぼりにするような変更はなるべくしないでほしい、というだけ。番組本にもかかわることになるが、てっきりフジだから扶桑社かと思ったら、講談社からの出版なのだそうな。
6時、海拓舎H社長来宅。『壁際の名言』著者校用ゲラを持参してくれる。オビに『トリビアの泉』の名を入れたいという。ちょうど番組再開の時期と刊行が重なるし、それもいいか。

2003年07月02日

ゴールデンで「トリビアの泉」放送開始
〜2006年09月27日

2003年07月04日(金曜日)

先日、水曜9時のゴールデンタイムに移行してから初めて放送された『トリビアの泉』、視聴率27パーセントいったとかで、OTCのIさんからメール。1パーセントで100万人が見たことになるというから、日本全国であの番組を2700万人が見たということか。つくづく、出版という世界とのスケールの違いに天を仰ぎたくなる。テレビなにするものぞと言いたくはあるがこれでは勝負にならない。せめて、今後自分の本のオビに“あの『トリビアの泉』のスーパーバイザー!”とかせっせと入れて、一般大衆に媚びを売らねばなるまい。小泉サンの気持ちがよく わかる。

2003年07月10日(木曜日)

そう言えば、フジテレビからも、『トリビアの泉』のビデオがまだ届いていないということについてのお詫びの電話があった。以前の放送枠のときと担当が変わっていて、私の住所がわからなくなっていたらしい。で、メールが来て知ったのだが、その電話番号を、『すごいけど変なひと』のサンマーク出版に電話して訊いたらしい。どうにもバカげている。こういう連中が作ったものが、日本で一番の影響力 を持ったメディアなのである。

『壁際の名言』著者インタビューで、『週刊プレイボーイ』の取材。漫談風にいろいろしゃべる。海拓舎Hさんがしきりにライターさんに、“『トリビアの泉』のことを書いてください、書いてください”と勧める。苦笑。
終わって取材クルーは帰社。私とHさんは残って以降の打ち合わせ。まだ『トリビア』のこと言うので、いや、テレビの人と仕事するとストレスたまりますよ、とグチる。『トンデモ一行知識の世界』は何してるんです、あれに“ネタ元の宝庫!”とかオビつけて、講談社のあの番組本の隣に並べてもらうだけでもかなり動くでしょう、と言うので、そういうことサクサク動ける行動力あったら、本ってのはもっと売れてますよ、と笑う。ところでH氏は今回のこの本で、書店回り中に、自社で出した本が目の前で売れるという光景を初めて見たそうだ。“もう涙が出てきて、代金を立て替えてあげようかと思いました”と。
外を見たら雨はあがっていたので帰宅。帰ったらトリビアのスタッフからメールが来ていた。とにかくスローモー。ゴールデンになってガタイがでかくなった分だと思うが、神経がイラつく。そのくせ、こっちには早く、早くとせき立てる。

2003年07月29日(火曜日)

トリビアの泉のK氏に電話。連絡不行き届きの件、K氏レベルでは知らなかったようである。まったく、テレビの仕事はストレスがたまる。本来、高視聴率でこっちは喜んでいなくてはならないのだが。原稿書き出すがすぐ停頓。

2003年07月31日(木曜日)

帰宅したら本家『トリビアの泉』のMプロデューサーから留守録、人を通じて決定事項をFAXしてくれと伝えていたのだが、やはり直に話したいとのこと。さっそく 電話、二回目につながって、ちょっといろいろとやりとり。「例の件ですが♂◎⇔☆?;ゞ∮£¢√∂ということでひとつ」「うーん、こちらとしては∬∀ΦΘЖИ☆♀だったんですが」「しかし、うちでは他の放送作家さんが⇔;$‰Å∂∇なんで先生にもひとつ」「とはいえЙЦΠΥ♂√∋∞Чですからねえ、そこをご賢察あっていただきたい」「むうう。……わかりました。それで了承しましょう」ということで、全部こちらの希望通りとはいかないが、まずまとまる。オトナの事情の会話で、あまり後口よくなし

2003年08月04日(月曜日)

ちくま書房Mくんと3時、時間割にて打ち合わせ。『トンデモ一行知識の逆襲』の赤入れ本を手渡す。『〜世界』の方も、オビに『トリビアの泉』という文字を入れて実験的に並べてみたところ、凄いハケ方をしめしているという。なんだかんだ言ってテレビの方には出版ごときは足を向けて寝られないねえ、ということか。あと、懸案だった『トンデモ落語の世界』、どうにか企画が通ったという。
『トリビアの泉』の話また。なんであの番組の本がフジテレビなのに扶桑社ではなく講談社から出ているのか、と思ったら、フジが各出版社を集めてコンペをやったんだそうな。

2003年08月08日(金曜日)

S社から文庫のお誘い、やはり『トリビアの泉』がらみである。さてブームの間に何冊、私はオビに“『トリビアの泉』のスーパーバイザー” と記した本を出すであろうか?

2003年08月20日(水曜日)

荷物もうひとつ、フジテレビから『トリビアの泉』のビデオ。前回放送分のものが送られてきていない、と電話したら速攻のバイク便で送ってきた。さすがフジ、金を惜しまないことである。
テレビで『トリビアの泉』。オンエアで見るのはこれが初めてだったかも。
自分がスーパーバイザーやっている番組に関しては言いづらい(仕事の秘匿義務上言えない)ことも多々なのだが、見るたびに“しかし、ウスい番組だなあ”と、感心する。勘違いしないで欲しいが、“憤慨”ではない。感心、である。なるほど、テレビというのはこう作らなければいかんのか、と毎度思う。私には絶対に出来ない。これを作れと言われても無理である。テレビの世界に行かなくてよかった、と、胸をな で下ろしているのである。
の番組が高視聴率をキープし続けている理由というのは、一にかかって、視聴者のレベルを知りつくした、その内容の希釈の度合いにある。先日、コミケで同人誌を買いに来たオタク体型の客が、“あの番組、ウスくないですか”と話しかけてきたとき、K子が間髪を入れず、“ウスいからウケてるのッ!”と切って捨てた。今日の番組でも、“トリビアの種”コーナーなど、あのネタでここまで引っ張れるかと、そっ ちの方が、私にとっては“へぇ”であった。
私は我人共に認めるマニア人種だし、オタクである。そのことにいささかのアイデンティティも賭けている。この番組だって、こう言っては口幅ったいが、私の著作がなければ企画されなかった番組(このことは制作スタッフもちゃんと明言してくれている)である。しかし、私の一行知識の本が数万部にとどまり、この番組の公式本が70万部を軽く突破していることも事実だ。そこらへん(マニアでこれからもあり続けるためにも)自分の限界として、きちんと押さえておかないといけないな、と自戒する。夜郎自大になったマニアほど醜いものはない。……ところで、ビデオでチェックしていると、いつでもネタだけを確認してスイッチを切ってしまうので気がつかなかったが、エンディングロールで私の名前というのは、かなり前の方の、いい位地で出してもらっているのであった。もっと、うっかりしていると他の音響とか照明さんに混じって見過ごしてしまうような最後の方に出るだけかと思っていた。

2003年08月21日(木曜日)

開田さんと『トリビアの泉』ばなし。昨今のバラエティ番組の中ではコンセプトがきちんとしている、ということで意見一致。薄い中にも必ずひとつはこっちも“へぇ”と言うようなネタを入れているし。

2003年08月27日(水曜日)

朝の雨、昼過ぎにはあがる。12時半に家を出て、キッチンハチローでエビフライライスで昼食。駅前の大盛堂文庫タワーに立ち寄り、『新潮45』を探すが置いてない。『愛のトンデモ本』は小林よしのり氏の『戦争論3』の脇にいまだ平積み。『トリビアの泉』の脇には松尾貴史の便乗本がある。私の本は置いてないのかな、と思って店内を見渡したら、タレント本のコーナーに『壁際の名言』と『裏モノ日記』の二冊が、表紙を見せて並べられていた。タレント本コーナーというのが妙にうれしくて ニヤニヤしてしまう。勘違いして買ってくれるヒトがいるといいが。

テレビで『トリビアの泉』、今回もネタ自体は大したことなかったが、“テンガロンハットに実際に10ガロンの水が入るかどうか試してみる”映像のナンセンスさがよかった。だいたい、試すまでもなく10ガロン(38リットル)の水が入るわけがないのだが、そこをきちんと実験し、しかもテンガロンハットならこのヒト、という片山晋呉からわざわざ借りた帽子でやるぜいたくさがいかにも高視聴率番組ならでは。黒服の男が二人、まじめくさって台の上から帽子に水を注ぐ絵はモンティ・パイソンのコントみたいであった。実験が終わったあと、水浸しでぺちゃんこになった愛用の帽子を見つめる片山の、呆然というか憮然というかの表情を一瞬映すのがまたいい。この番組はそっちの方のセンスで人気を得ているんだろう。
それにしても番組本、すでに90万部にせまるイキオイだとか。腹立たしいので、こないだ扶桑社に“どうです、講談社に番組本取られたんだから、扶桑社で「元祖・便乗本」出しませんか?”と打診してみたが、さすがに一蹴されたことであった。

2003年09月01日(月曜日)

文藝春秋編集者のMくん(以前からの私のファン)から、トリビアの泉がらみで対談の依頼。そのトリビアの泉スタッフからは、さんざデータを送れと言ってきて(高視聴率ではあるが慢性的ネタ不足なのである)、いざ送ってみると、届いたんだか届かないんだか、開けたんだか開けなかったんだか、うんだものがつぶれたとも言ってこない。忙しすぎて迅速な応対が出来ないのかもしれないが、なんとも困ったもの。

2003年09月03日(水曜日)

食べながら『トリビアの泉』。裏情報によればフジテレビでは“あの番組はオレが通した”“あの番組の元企画を出したのはオレ”という人物が続出しているそうである。呵々。見終わったとたん、電話が鳴る。『創』のS編集長から。“あの番組、カラサワさん関わっているの?”と。家でテレビ見ていて、テロップ見て驚いて電話してきたのであろう。対談企画をやろうと思っていたので是非、とのこと。文藝春秋と あわせ、これがらみでの露出が今後多くなりそう。

2003年09月04日(木曜日)

総武線で新宿まで、談之助夫妻と一緒。女性漫才のいいのをプロデュースしたい、というような話。ユキさん、職場で『トリビアの泉』みんな見ているので、あの番組のスタッフと友達だと自慢が出来て嬉しいです、とのこと。実は今日、あの番組に関する基本的重大事で、笑ってしまうようなことを発見。その話で談之助さんと二人、イヒヒ、と人の悪い笑みを浮かべる。

2003年09月07日(日曜日)

なんとかそれで時間も埋まり、二次会会場へと場を移す。西原と高須父氏は帰り、息子高須氏のみが参加。高須氏には会員のイットリウム氏が脇について、いろいろとレクチャー(?)してやっていた。開田あやさんからオタクホストくん(確かにコスプレが似合いそうなかなりの美形)の写真を見せてもらったり、皆神さんから、全部前半を聞いただけで答えるので家族から“お父さんは『トリビア』見ているときは向こう行ってて!”と排斥されている、という話を聞いたり。

2003年09月11日(木曜日)

3時、時間割にて光文社Oさん。いつの間にか、ヒゲ面になっていた。赤入れ本を渡し、しばし雑談。やはり話題はトリビアがらみになる。あの時間帯、始まったときには“雨傘番組”とかバカにされていたが、雨傘どころか、こないだ“やじうまワイド”で阪神優勝が決定する日はいつか、という話題が出たとき、“水曜日となると、『トリビアの泉』とかちあってしまうんで、ここは阪神も避けたいでしょう”などと言っていた。今年の阪神が裏になるのを避けたいと怖れるというのはいったい、どういう番組なのかと呆れたことであった。

2003年09月16日(火曜日)

中村屋5階の中華料理のなんとかという店で、『創』対談。お題は例によって『トリビアの泉』。
詳しい内容は対談の載る『創』を読んでいただきたいが、岡田さんもやはり、あの番組の成功の秘密は“マニアどっか行け”な姿勢にあること、と断言していたのが、やはり見えているな、という感じ。

2003年09月17日(水曜日)

テレビで『トリビアの泉』を丁度やっていたので見てみる。筒井康隆がゲストだが、見ていた限りでは一言もしゃべらない。筒井康隆を呼んできてしゃべらせないと いうゼイタクなことをしたバラエティも珍しいのではないか。

2003年09月18日(木曜日)

メールチェックしたらフジテレビから相談ごと、ちょっといろいろ今の仕事とからんでくるので考えるが、混乱を防ぐためににも引き受けることにする。要は『トリビアの泉』のネタ選定にもう少し深く関わることになるということ。確かにネタの希釈度というのも前回で底打ち(岡田さんはまだまだ、と言っているが)だろうし、少しはマニアック度を上げてもいい、と、局側で判断したのかもしれない。まあ、程度問 題だろうが。

2003年09月22日(月曜日)

多少手間取ってしまったので急いで家を出て、西永福S歯科へ。(略)
代金の支払いのとき、受付のお姉さんが上目使いで、探りを入れるような口調で、“…… いま、お仕事お忙しいんですか?”と訊かれる。“ええまあ、かなりドタバタとしていて”と答えると、“テレビのお仕事とかで?”と訊いてくる。エエ、と頷いたら、目を輝かせて“あれ、カラサワさんが全部ネタを選んでいるんですか?”と質問された。もちろん、『トリビアの泉』のことである。苦笑して、仕組みをちょっと 説明したら、感心したように、「でも、視聴率が凄くて、よかったですねえ。おめでとうございます」とお祝いを言われた。年中診察券で見ている名前がテレビのスタッフロールに出てくるのに驚き、来たら聞こう、来たら聞こうと思っていたのだろう。

2003年09月24日(水曜日)

1時、時間割で二見書房Yさんと打ち合わせ。打ち合わせというより、トリビア騒ぎで二見の書き下ろし本が遅れに遅れていることのお詫び。Yさん、知人の某文化人の例を挙げて、その人も長年サブカル的な知る人ぞ知る文化人だったのが、テレビ関係で名を売ったとたんに、メインカルチャーとして扱われるようになった、本人の資質や言っている内容は変わらないのに、扱いがそうなったとたんに、世間がそう発言を受け取るようになったわけで、大衆的知名度が薄さにつながるわけではないから、カラサワさんも安心して、今まで通 りにものを書いていればいい、と励ましてくれる。

2003年09月29日(月曜日)

『トリビアの泉』の件でフジテレビKさんとメールやりとり。つかまえにくくて困る。日記を読んでくれている方々からの、胃の不調へのお見舞いや御心配のメー ルもいただく。忝なし。

2003年10月03日(金曜日)

食べてタクシー、お台場のフジテレビまで。(略)
到着して、案内してくれたのが新人スタッフの人で、途中で“あ、すいません、道を間違えました”と、あっちこっちへ。まあ、それだけ内部が複雑な作りのビルなのである。関連会社のポニーキャニオンなどまで移ってきてしまっているので、部屋数が足りなく、廊下に仕切りを設けて部屋みたいにしているところもある。“『トリビアの泉』視聴率○○パーセント達成!”などと墨痕淋漓に書いた紙がべたべたと貼ら れているのは選挙事務所みたいである。
『トリビアの泉』ディレクターKくんと打ち合わせ。詳しい内容はオフレコ。ただ、これまではネタ提供のスーパーバイザーという(あたかも先日のトンデモ落語会で、ブラ汁に“いったい何をしてるんだか” と言われたような)ナンジャモンジャなかかわり方であったのが、一気に、かなり深く番組製作そのものに関わる部分をまかされてしまうような成り行きである。こちらで用意していった番組への意見具申が、まさに今、現場でも課題になっていることであったためらしいが。人気番組ゆえのツラさもいろいろコボしてくる。もちろん、協力は惜しまないし、ある程度の腹案もあるけれど、やっぱり仕事量が増えるからには少しギャランティも上げて欲しい、と要求。テレビ局というところは、放っておくとどんどんタダ働きをさせられてしまうところである故に。いろいろ番組のウラ事情も聞く。こんな人気番組なのに“ええっ”という話も聞き、ああ、さすが人気番組で、大変だな、という話も聞く。テレビというの は本当に、毎日よく穴もあかずに放送されているものだ、という思い切。

2003年10月06日(月曜日)

岡田さん、最初の収録回のゲストの山本弘さん、声ちゃんと弁当使いながら雑談。山本さんは『トリビアの泉』にアンパンマンネタのトリビアを送ったそうだ。

2003年10月08日(水曜日)

その合間に打ち合わせ。2時、時間割にて廣済堂Iさん。原稿はすでにメールしてあるので、今後のスケジュール確認中心。トリビア騒ぎでいろいろご迷惑をかけているが、考えてみればあの番組の元本である『トンデモ一行知識の世界』の単行本時の企画者は、当時大和書房編集者だったこのIさんなのである。この人がいなければ、今のこのオマツリ状況もなかったかもしれない、と思うと、世の中のつながりというものの不思議さが身に染みる。懸案だった件をちょっと、ご相談。思ったより簡単に (編集者レベルで、であるが)応諾の返事が貰えて、ホッとひと安心。

某出版社から電話。こんど雑学知識もののレディース四コマ漫画雑誌を立ち上げるので(どういうものだかちょっと想像しにくいが)、それに参加してくれますでしょうか、とのおたずね。お仕事でしたら何でも、と答える。まだ年内創刊というだけで何も決まっていない(大丈夫か)ので、カラサワさん参加ということでまた会議して、決定したらお電話します、とのこと。トリビアブームの特徴というのは、中心からその波及がいきなり末端に及ぶことではなかろうか。

2003年10月09日(木曜日)

彼を送り出して、1時、入れ替わりという感じでサンマーク出版Tさん。ゲラを貰うが、ネタ数多すぎの感。500円でこれだけサービスすることはない(第一、続編が出しにくい)のではないか? と思うのだが。スケジュール確認。トリビアがらみの仕事(これもそうだ)でお忙しいんじゃないですかと言われるが、まあネット関連でひとつ、大きめのが入ってきた以外は、これといったものもまだ無しの状況。テレビの仕事と言うと派手に聞こえるが、そんな実入りのいいものじゃない。ブームに乗ることは絶対必要だが、乗りつつも同時に、その騒ぎが終わった後、を考えて布石を打っておかないと本当にあぶない。エヴァンゲリオンブームのときに、オマツリ感覚でいた連中がいま、どうなっているかという先例がちゃんとあるのである。

2003年10月11日(土曜日)

と学会MLや、一行知識掲示板に、『噂の真相』のハシラ情報を読んだという書き込み。私の『トリビアの泉』のギャラは月100万円であるとやら。あはは、そうだと良いですなあ。まあ、情けない額ではない、ということは確かであるし、特番とかがあったりすると瞬間風速でかなりのモノになることもあるが、20歳代ならともかく、この年齢の一家の主としては、さまでうらやましがられる特別収入ではないであろう。実はあちこちでギャラのことを訊かれるたびに、少しづつ金額を変えて答えている。今回の額が出たということは、なるほど、あのあたりがソースか、と、ルート を大体たどれるんである。

3時半、家を出て、お台場までタクシー。
例によりフジ内部をえんえんと歩き、打ち合わせ室へ。ディレクターK氏と二人切りで顔をつきあわせながら話を詰める。内容はオフレコ。こっちの示した提案、二案とも結果的には却下。ただし、むこうの提案がちょっと意外であったし(逆に手間かかるであろうに)、それならば……とこちらも納得することにする。満足というわけではないが、所詮テレビのすることである。
帰りのエレベーターを待つ間に、30歳くらいの局員に“ヤッ”という感じで挨拶された。顔に見覚えがないが、いやに親しげな挨拶だったので、やはり前に会った『トリビア』のスタッフだったっけかな、と思い、ニコッと笑って挨拶を返す。が、どうも、見ているとこの人物、出会う人物出会う人物に、片端から“ヤッ”“ヨーウ”“どうなの、最近”などと声をかけている。相手は無視しているのが大半なところをみると、どうもいつものことであり、見境なしらしい。一般の社会なら、どこか精神に異常を来した行動と思われるだろうが、テレビ局内では、この程度はさ まで奇態にも思われないのである。

2003年10月23日(木曜日)

このトリビア便乗騒ぎが納まったらすぐ出さねばならない『戦争論』『ヒーロー論』関係の書籍を何冊か揃えて、メモとりながら読む。世界文化社の『世界征服論』ももう一度まとめなおさねば。これはスタッフ集めて事典形式にしようか、とも考える。

2003年10月28日(火曜日)

途中、光文社から電話。『女性自身』からトリビアがらみのインタビュー依頼。担当の人はと学会のファンでもあるという。光文社にはと学会ファンが多い。ファンでなかったのが、光文社(週刊宝石)で連載したときの担当者だけだったというのが何とも。トリビアがらみのインタビューと言えば、『噂の真相』から鶴岡のところに依頼があったそうだ。私がらみの裏ネタを仕入れようという魂胆か。“出演者のアイドル全員に手をつけている、とか言っておくように”と電話で命令しておいたが、さて。

2003年10月31日(金曜日)

メール類をチェックする。各ML、こないだの『トリビアの泉』のウンポーコのネタはあれはひどい、と言う話題で持ちきり。確かに、トリビアでもなければヒネリもない。このあいだ聞いた話では、あの番組、有名になりすぎて年少の視聴者が増えているので、それに合わせろという上からの指示が出ているとのことだが、それにしても。……とはいえ、ちょっと本でも読んでいる人には逆に“へぇ”だろうが、今の若い女の子たちには、埴輪を知らない子もいれば、ゼロ戦を知らない子もいる(男の子ももの知らずなのだろうが、見栄を張るのであまり人前で“知らない”とは言わないのだと思われる)。事前リサーチで“○○は……××である”の、○○を知らない、という答が多いと、いくら面白いネタでも没になる。バイザーとしてどんなにアイデアを出しても、スタッフにも出演者にもそういうのがいて、そういうのを集めてそういう視聴者向けに番組が作られている以上、いかんともしがたいのである。

2003年11月04日(火曜日)

時間割に移動して、『トリビアの泉』に関するインタビュー。前に『創』でしゃべったようなこと。たぶん、これから何度もこういうことはしゃべるのだろう。ならばもっとコンパクトに、聞かせどころを作ってパッケージ化しておい た方がいいか。

2003年11月07日(金曜日)

Dさんと近くの喫茶店で、今後の仕事のスケジュールを打ち合わせ。書籍の取次の業界新聞に、私の本が最近は“トリビア関係書籍”としてよく取り上げられているとのこと。まあ、騒がれること自体はまことにありがたいが、所詮あのブームで本が売れる期間というのはあと一年といったところだろう。その後に、多少売れた名前をどう利用するか、が別れ道である。

2003年11月11日(火曜日)

『噂の真相』12月号も買う。トリビア関連で私の名前が山ほど出ている。……しかし、あれだけ言ってあったのに “出演者の女性タレントに手をつけまくっている”というのが載っていないではないか、“フリーライター(鶴岡法斎)”。頼りにならん男である。まあ、私が被害者、という感じで記事が仕立てられている以上、そういうことも言えないか。しかし、それはいいとして、れっきとした民放局、営利企業であるフジに向かって“金儲けのために番組を作っている”と非難する神経はよくわからない。サラリーマンに“給料を貰うために会社に行っている”と文句を言うようなものだ。難癖にしたってもう少しうまくつけられそうなものである。しかし、噂真ファンというのはこの記事を読んで、“なぜ、取材者は正体のわからぬフリーライターとか、匿名の番組スタッフなどにばかり取材せず、あの番組に出演して楽屋裏を見ている筈の筒井康隆のところに訊きに行かないのか?”と疑問に思わないのだろうか。そのタブーを犯してこそ噂真ではないか。

2003年12月15日(月曜日)

ニッポン放送高嶋ひでたけの『お早う! 中年探偵団』出演。
時間は10分ほどだそうで、“今年のヒット仕掛人”のコーナー。仕掛人どころかブームに便乗して、しかもさほど儲けも出来ていないナサケナイ立場なのだが、まあ“雑学ブーム”のはるか前からそういうものを書いてきたということで。ちなみに、明日のゲストはヌーブラの開発者だそうである。で、放送室に入って、すぐ本番。いろいろ雑学に関して話をする。一箇所、一行知識の披露の中で“肥溜め”という言葉が出てくるのだが、朝から肥溜めはマズイかと思い、咄嗟に“ドブ”に直す。高嶋さんが『トンデモ一行知識の逆襲』の紹介を女性アナがしたのに追っかぶせるように、「で、何冊プレゼントしていただけるの?」と来て、ちととまどったが、独断で「いま、プレゼントのことがいきなり出て、この放送聞いているちくま書房の編集さんも驚いているでしょうが、せっかくご紹介してくれたんだから十冊、提供します」と言う。十分はあっという間。

フライデーTさん、大慌てでやってくる。向こうも連絡とれてホッとしたろうが、私も無駄に時間使ったのでなくてホッとした。インタビューはやっぱり今年のヒット仕掛人という感じの記事で、トリビアのこと。朝話したようなことをもう一度話す。もっとも、こっちはも少し本のこと中心。
カメラマンさん、“アヤシゲな表情をお願いします”と言う。まず、カメラマンさんは誰であれ、私のそういう表情の写真を大喜びする。私もアヤシイ目つきとは得意だし、デジカメの画面を見てカメラマンさんが嬉々として“こんな風な感じですよ!”と見せてくれるところを見ると、堂に入っているんであろう。とはいえ、私のモノカキとしての今後の目標は、この注文をされないですむモノカキになることではないか。

●→トリビアの泉2に続く










最終更新:2010年02月26日 16:55
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