京都観光データベース@ wiki内検索 / 「山科区」で検索した結果
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...京区 南区 伏見区 山科区 カテゴリ別検索 国宝のある寺院 国宝のある神社 いい仏像がある寺院 いいお庭がある寺院 五重塔や三重塔がある寺院 雲龍図がある寺院 血天井がある寺院 -
勧修寺
...じゅうじ)は、京都市山科区にある門跡?寺院で真言宗?山階派の大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音。寺名は「かんしゅうじ」と読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。 歴史 創建の時期については諸説あるが、寺伝によると昌泰3年(900)に醍醐天皇の生母藤原胤子?の追善のため、胤子?の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めて、天皇等身の千手観音像を安置したという。寺名は外祖父藤原高藤?の諡号をとって勧修寺と号した。開山である承俊律師は東大寺出身の法相宗の僧。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王が入寺してから、代々法親王が入寺する宮門跡?寺院としての地位が確立し、広大な寺域を有することになった。文明2年(1470)の兵火によって堂宇のほとんどを... -
毘沙門堂
...いずもじ)は、京都市山科区安朱稲荷山町にある天台宗?延暦寺派の寺院で天台五門跡?のひとつ。毘沙門天を本尊とすることから毘沙門堂(びしゃもんどう)という通称で親しまれている。山号は護法山、開基と開山は行基と伝わる。宸殿前にある樹齢百数十年のしだれ桜は特に有名。 歴史 文武天皇の御願による大宝3年(703)の創建と伝え、はじめ出雲路の地にあったとするが同時代史料にみえず、詳細は不明。一時廃絶し、建久6年(1195)に平親範が太秦にあった平等寺、五辻にあった尊重寺、伏見にあった護法寺の三ヵ寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したという。この三ヵ寺はいずれも桓武平氏ゆかりの寺院で、出雲路に5間の堂を3棟建立し、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺になぞらえて一寺としたのが毘沙門堂の起こりである。中世後半には戦乱などで廃絶する。慶長16年(1611)に天海が僧正叙任の際にこの門... -
や行
寺院 八坂塔(やさかのとう)→法観寺(ほうかんじ) 山科聖天(やましなしょうてん)→毘沙門堂(びしゃもんどう) 善峯寺(よしみねでら) 神社 八坂神社(やさかじんじゃ) 城・御所離宮 地名・園池 人物 栄西(ようさい) 仏像 薬師如来(やくしにょらい) 語句 融通念仏宗?(ゆうずうねんぶつしゅう) -
西本願寺
西本願寺(本願寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の寺院で浄土真宗?本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は親鸞?の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の知恩院の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は天台宗?の末寺と... -
応仁の乱
応仁の乱(応仁・文明の乱) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代、8代将軍足利義政のときに起こった内乱である。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(出家して宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、日本が戦国時代に入るきっかけとなった。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。 乱の推移 義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、幕政は実力者の管領家細川勝元・四職家山名宗全、正室日野富子に左右されていた。飢饉や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、29歳になって後継男子がないことを理由に将軍職を僧となっていた実弟の義尋に譲ることを思い立った。義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍就任要請を固辞し続けた... -
東本願寺
東本願寺(真宗本廟) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の一派、真宗大谷派の本山寺院。「お東さん」の愛称でも呼ばれるが「東本願寺」は通称であり、正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は教如(本願寺光寿)。徳川家康より本願寺(現在の西本願寺)の東側に寺領を与えられて創建された。近接する飛地境内地の渉成園も管理する。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の末娘覚信尼によって興った本願寺が、越前国(福井県)吉崎から京都の山科、大坂の石山と各地を移転しながら発展。石山での織田信長との10年間のわたる抗争・和睦を経て、天正19年(1591)に豊臣秀吉からの土地の寄進を受け、京都市下京区堀川六条に移転する。本願寺11世顕如の死後、長男の教如と... -
泉涌寺
泉涌寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗?泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来?の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。 歴史 仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣藤原緒嗣?(おつぐ)が、自らの山荘に神修... -
南禅寺
南禅寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗?南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は正式に「太平興国南禅禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門?(大明国師?)である。皇室の発願になる禅寺としては日本最初のもので、京都五山?の上位(第一位の天龍寺よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院として、最も高い格式を誇る。 歴史 正応4年(1291)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門?を開山として「龍安山禅林禅寺」と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇を悩ましたが、無関普門?が弟子を引き連れて入り、座禅をしただけで妖怪は退散したので、法皇は無関?を開山に請じたという... -
延暦寺
延暦寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にある天台宗?の本山寺院。山号は比叡山、本尊は薬師如来、開基(創立者)は最澄。標高848.3mの比叡山全域を境内とし、「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内の東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三塔と、東塔の北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷、西塔の東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷、横川の香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷の十六谷に点在する堂塔の総称である。滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群がある。日本仏教の代表的な聖地であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 比叡山は古代から山岳信仰の山であり、東麓にある日吉大社には、比叡山の地主神である... - @wiki全体から「山科区」で調べる