京都観光データベース@ wiki内検索 / 「東山区」で検索した結果
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新熊野神社
...じんじゃ)は、京都市東山区今熊野椥ノ森町にある神社。祭神は伊弉册命(いざなみのみこと)。京都三熊野神社のひとつで、後白河上皇や後鳥羽上皇がたびたび参籠し、京都における熊野信仰の中心となった。ご利益は安産祈願ほか。観阿弥?・世阿弥?父子が将軍足利義満の前で初めて猿楽を演じたという由緒の地でもあり、芸能の神としても崇められている。 歴史 熊野信仰のあつかった後白河上皇の御願により、永暦元年(1160)、後白河院御所である法住寺殿の傍に鎮守として紀州熊野本宮大社より熊野の神を勧請したことにはじまる。造営には天台?座主の最雲法親王があたり、このことが妙法院?隆盛の端緒となった。後白河法皇は100余度も参籠しており、後鳥羽上皇も同様に150度にも及ぶ参籠を行っている。文明2年(1470)に兵火によって社殿を全焼し、その後再建されたものの往事の盛観には復さなかった。寛文6年(1666)... -
法観寺
...うかんじ)は、京都市東山区八坂上町にある寺院。山号は霊応山、宗派は臨済宗?建仁寺派。本尊は五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、無量寿如来、不空成就如来)。現在は五重塔と若干の建造物のみが残存し、塔は八坂塔(やさかのとう)の通称で知られる。 歴史 『山城州東山法観寺仏舎利塔記』によると、推古天皇の御世に聖徳太子が四天王寺建立のための材木を山城愛宕郡に求めたときに一寺を建立し、五層の宝塔を設け、仏舎利を奉安して法観寺あるいは八坂寺と称したことを起源としている。塔の周囲の発掘調査でも飛鳥時代の瓦が発見され、この時代の建立が確実視されている。天暦年間(947~57)に天台宗?の僧、浄蔵が入寺した。強盗数十人が押し寄せた時に霊験で強盗を拘束したという説話や、塔が宮中の方角に傾いていたのを、祈祷によって直したという説話で知られる。治承4年(1180)に雷火のため焼失するが、のちに源... -
三十三間堂
...おういん)は、京都市東山区にある寺院。本堂の内陣の柱間が三十三あるため、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の通称で知られる。本尊は千手観音、開基(創立者)は後白河上皇。1,001躯の千手観音を安置する本堂は特に有名。現在は同じ東山区にある天台宗?の妙法院?が所有、管理している。 歴史 この地には後白河上皇の離宮、法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院であり、上皇の勅願により平清盛が私財を投じて長寛2年(1164)に創建された。当時は五重塔などが建つ本格的な寺院だったが、建長元年(1249)の火災で焼失。辛うじて千手観音立像と二十八部衆像を救出したという。建長3年(1251)に後嵯峨上皇の勅願で再建が開始され、仏像の復興には天才仏師運慶の子、湛慶を中心に仏師が総動員された。文永3年(1266)には本堂のみが再建されて落慶法要が執り行われた。天正14年... -
豊国神社
...じんじゃ)は、京都市東山区茶屋町にある神社。俗に「ほうこくじんじゃ」「ほうこくさん」とも呼ばれる。祭神は豊臣秀吉(豊国大明神)。旧社格は別格官幣社。ご利益は立身出世、開運招福など。秀吉に関連のあった土地にも同名の神社がある(大阪城公園・滋賀県長浜市・名古屋市中村区など)。 歴史 慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が没すると、遺命により遺体は方広寺?の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に葬られた。その麓に方広寺?の鎮守社として建立されたのに始まる。同年9月に起工し、翌年(1599)3月中旬に落成、4月16日に仮殿遷宮、18日には後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られた。同日正遷宮の式が行われ、徳川家康が豊臣秀頼の名代として社参。この正遷宮の式が行われた4月18日と豊臣秀吉の命日である8月18日には慶長20年(1615)まで毎年祭礼が盛大に行われたという。しかし慶長7年(... -
円山公園
...ん)は、京都府京都市東山区にある公園。知名度の高い寺社の集積する東山にあり、庭園を囲んで料理屋が並び、花見席をはじめ四季折々の愉しみを有する、全国でも有数の優れた都市公園である。なお「円山」という山があるわけではなく、長楽寺?山の中腹から西麓方面を円山と呼ぶ。この円山は安養寺?の山号「慈円山」の略で、古くは「丸山」とも称された。札幌の円山公園は京都の円山公園をモデルにしている。 歴史 江戸末期の円山界隈は現在の風景とは大きく異なり、安養寺?や長楽寺?などの時宗?寺院の境内で、特に安養寺?においては急斜面を活かした庭園と建築をもつ6つの塔頭が建ち並び(六阿弥)、席貸を営んで文化活動のできる名所として知られていた。山辺の下部は、大きな境内を持つ祇園社(現在の八坂神社)が占めていた。明治4年(1871)正月に布告された上知令(全国の社寺に対し、境内を除くすべての領地と免租地の上知... -
八坂神社
...じんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側にある神社。素戔嗚命(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱神子神(やはしらみこがみ)を祀る。神仏分離以前は祇園感神院・祇園社と称していたため「祇園さん」の愛称で呼ばれる。二十二社のひとつで、旧社格は官幣大社。疫病退散・無病息災・家運長久・商売繁昌などのご利益があるとされ、朝廷や幕府、京の市民の信仰を集めた。 歴史 八坂神社の名称は明治元年(1868)に始まるが、歴史的には祇園感神院・祇園社の名称が長い間使われてきた。貞観18年(876)に僧円如が興福寺の末寺として堂宇を築いたのが始まりとされるが、社伝では斉明天皇2年(656)の創建という。御霊信仰の高まりとともに諸階層の信仰を集め、祇園祭?の前身である6月の御霊会?(祇園会?)も盛大に行われるようになった。10世紀後半に、当時の別当良算がすぐ東にあった延暦寺の末... -
青蓮院
...れんいん)は、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗?の寺院。開基(創立者)は最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。三千院、妙法院?とともに天台宗?の三門跡?寺院とされ、青蓮院門跡とも称する。日本三不動のひとつ「青不動」のある寺としても知られる。 歴史 三千院、妙法院?などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房がその起源とされている。比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊が、平安末期の行玄大僧正の時に山の下に移転し、久安6年(1150)、鳥羽上皇の后である美福門院によって祈願所とされた。嘉応元年(1169)には上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める門跡?寺院となった。移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避けて嘉禎3年(1237)に現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があったため、付近にある... -
高台寺
...こうだいじ)は京都市東山区下河原町にある臨済宗?建仁寺派の寺院で、正しくは高台寿聖禅寺と称する。山号は鷲峰山(じゅぶざん)、本尊は釈迦如来。豊臣秀吉の正妻である妻北政所(出家して高台院)が、夫の菩提を弔うために開創した。禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。 歴史 高台寺は康徳寺を前身とする。その間の事情は明らかでない。両者は創建年代等を異にするが、康徳寺は天正より慶長にかけて北政所が生母のために建立した曹洞宗の寺院であったらしい。寺町にあった康徳寺が東山に移転したのは慶長10年(1605)で、この日に北政所も康徳寺に移った。時の権力者、徳川家康は北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命したという。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。創建当時の高台寺の仏殿は、前述... -
智積院
...ゃくいん)は、京都市東山区東瓦町にある真言宗?智山派総本山の寺院。山号は五百仏頂山(いほぶっちょうさん)、本尊は大日如来、開基・開山は玄宥(げんゆう)である。川崎大師の通称で知られる平間寺や成田不動として知られる成田山新勝寺などを末寺に持つ。長谷川派による国宝の金碧障壁画を所蔵することで特に有名。 歴史 智積院の創建には、紀伊国(現和歌山県)にあった大伝法院と、豊臣秀吉が建立した祥雲寺という2つの寺が関係している。智積院はもともと根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭寺院である。大伝法院は真言宗?の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に高野山に創建したが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)に大伝法院を根来山に移して新義真言宗?を打ち立てた。南北朝時代に大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が智積院を建立、根来山内の学問所という位置づけであった。近世には根来... -
泉涌寺
...にゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗?泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来?の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。 歴史 仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣藤原緒嗣?(おつぐ)が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空... -
知恩院
...おんいん)は、京都市東山区にある浄土宗?総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。浄土宗?の宗祖・法然?が後半生を過ごし、没した地に建てられた。東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓の約7万3000坪におよぶ広大な寺域に、13ヵ寺の塔頭寺院を含めて大小100棟以上の堂宇が建ち並ぶ大寺院である。 歴史 知恩院は、浄土宗?の宗祖・法然房源空?が結んだ草庵をその起源とする。法然?は比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空?と改名した。承安5年(1175)、43歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗?の開宗を決意して山を下り、現在の知恩院勢至堂付近に草庵を建て、そこを念仏道場とした。草庵は地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと呼ばれるようになる。専修念仏とは... -
建仁寺
...んにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗?建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。日本最古の禅寺であり、京都五山?の第三位に列せられている。特に漢詩の素養の高い禅僧を輩出したことから「建仁寺の学問づら」とも呼ばれた。 歴史 建仁寺は日本に臨済宗?を正式に伝えた栄西が建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗?の拠点として建立した。寺名は当時の年号を朝廷から贈られている。伽藍は宋の百丈山に模して造営され、工事にあたっては有力御家人の佐々木定綱や畠山重忠らが協力したという。創建当時の建仁寺は天台?、真言?、禅の三宗並立であったが、これは当時の京都では真言?、天台?の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259)に宋僧の蘭渓道隆(鎌倉建長... -
清水寺
...みずでら)は、京都市東山区にある寺院。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、古くからの観音霊場として知られる。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所でもあり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 宝亀9年(778)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮が、夢のお告げで霊泉を訪ねて辿りついたのが、現在清水寺が建つ音羽山であった。この山には数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていったため、延鎮は行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまり... -
東福寺
...うふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗?東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は九条道家?、開山(初代住職)は聖一国師?、円爾弁円?(えんにべんねん)である。京都五山?の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、特に巨大な建造物群を有したことから「東福寺の伽藍づら」とも呼ばれた。また『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)や、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆ら多くの名僧も輩出する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取っている。 歴史 東福寺が建つ地には、延長2年(924)に藤原忠平?によって建てられた藤原氏?の氏寺、法性寺?の巨大な伽藍があった。嘉禎2年(1236)、九条道家?(鎌倉4代将軍藤原頼経?の父)は、この地に高さ5丈(約15m)の釈迦如来像を安置する大寺... -
京都NEWS
...村ランキング、3位「東山区」2位「中京区」1位は…?(2021年12月9日)|BIGLOBEニュース - BIGLOBEニュース 生誕130年 描く・飾る・デザインする -堂本印象の流儀展 - 京都新聞 まるでホイップクリーム!オールシーズン使用可能な「ホイップコットンケット」が“おもてなしセレクション 2021”を受賞! - PR TIMES <東京リベンジャーズ>東映太秦映画村コラボ タケミチ、マイキー、ドラケンが京都に 新選組の羽織姿のグッズも(MANTANWEB) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 指定管理期間が終わる大江山の市施設 運用の自由度増す「貸し付け」方式に(両丹日日新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 庭園デザイナー監修のセンス良い樹木墓地 彩石:中外日報 - 中外日報 銭湯の新たな魅力に出会える!「京都で meet 湯~!... -
銀閣寺
慈照寺(銀閣寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 慈照寺(じしょうじ)は、京都市左京区にある臨済宗?相国寺派の寺院で相国寺の境外塔頭。通称銀閣寺、山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍足利義政、開山は夢窓疎石とされている(実際には夢窓疎石は創建より100年ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という)。慈照寺の名は足利義政の法名にちなむ。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 室町幕府8代将軍の足利義政が嗣子義尚(よしひさ)に将軍職を譲ったのち、文明14年(1482)に東山の月待山麓に山荘東山殿を造営した。東山殿は祖父足利義満の北山殿(金閣)にならい、義政が自らの美意識を投影して8年の歳月を費やし建立。簡素で枯淡の美を真髄としたその意匠は、後世に東山文化と呼ばれる。当時は... -
足利氏
足利氏 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 足利氏(あしかがし)は、清和源氏(河内源氏)の流れを汲む武家。平安時代に河内源氏の棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男義国が下野国足利荘(現栃木県足利市)を領有し、子の義康から足利氏を称する。義康の子、義兼が源頼朝の挙兵に参加、源平合戦、奥州藤原氏討伐まで頼朝の側近として戦い、鎌倉幕府の有力御家人として源氏将軍家に次ぐ地位を得る。義兼が頼朝の妻、北条政子の妹を妻に迎えたのをはじめとして、鎌倉時代には北条氏と縁戚関係を結ぶが、平家の流れを汲む北条氏は源氏の名家である足利氏を常に警戒していたという。のちに足利高氏(尊氏)が京都に幕府を開き、15代義昭まで続く室町幕府を成立させる。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。3代義満は南北朝の合一を達成し、中国の明から「日本国王」として... -
京都 歴史年表
飛鳥 603 推古11 秦河勝、太秦蜂岡寺(広隆寺)を建立 678 天武7 賀茂別雷神社(上賀茂神社)が創建されたという 奈良 711 和銅4 深草の秦氏によって伏見稲荷大社が創祀される 784 延暦3 乙訓郡長岡京?に遷都する 788 延暦7 最澄が現在の延暦寺の根本中堂となる一乗止観院を建立 平安 794 延暦13 桓武天皇が平安京?に遷都する 798 延暦17 延鎮を開基に坂上田村麻呂が清水寺を建立 823 弘仁14 朝廷より空海が東寺を賜る 869 貞観11 この頃祇園御霊会(祇園祭?)が始まったという 874 貞観16 聖宝が醍醐寺を開く 876 貞観18 大覚寺創建、八坂神社創祀 888 仁和4 宇多天皇が仁和寺を創建 905 延喜5 醍醐天皇の命により、紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒が古今和歌集を編纂 947 天暦1 北野天満宮?が造営される 9... -
真如堂
真正極楽寺(真如堂) 出典 赤松俊秀『京都寺史考』(法蔵館・1972)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか 概略 真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。 歴史 『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(99... -
西本願寺
西本願寺(本願寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の寺院で浄土真宗?本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は親鸞?の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の知恩院の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は天台宗?の末寺と... -
哲学の道
哲学の道 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 哲学の道(てつがくのみち)は、北は慈照寺(銀閣寺)の参道にある銀閣寺橋から、南は若王子神社?付近の若王子橋に至る約2kmの小径で、琵琶湖疏水?の分流に沿って続く。疏水?の両岸に植えられた桜や紅葉の美しさは見事であり、また夏には蛍が飛び交うことから、四季を通じて多くの観光客で賑わう。 歴史 明治23年(1890)に東山山麓に琵琶湖疏水?に続く分流が開通し、疏水?沿いに小径が造られた。もともと「思索の小径」と呼ばれていたが、大正時代に活躍した京都帝国大学の講師だった西田幾多郎、田邉元ら哲学者が好んで散策し、思索にふけったことなどから「哲学の道」や「哲学の小径」と呼ばれるようになった。また、疏水?より東の山際にある細い道が、ドイツのハイデルベルクの「哲学者の道」と地形がそっくりなた... -
伏見稲荷大社
伏見稲荷大社 出典 『重要文化財伏見稲荷大社本殿修理工事報告書』(京都府教育庁文化財保護課・1960)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)ほか 概略 伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都市伏見区深草薮之内町にある神社で、稲荷神を祀る全国4万余の稲荷社の総本社。稲荷山の麓に本殿があり、山全体を神域とする。祭神は宇迦之御魂大神。旧社格は官幣大社。ご利益は五穀豊穰、商売繁盛など。 歴史 創建については『二十二社註式』によると和銅4年(711)のこととされる。『山城国風土記』には、秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が餅を的としたところ、白鳥となって飛び立ち「伊祢奈利(いねなり=稲)」が生えたので、それを社の名としたという(餅が新たな稲を生むという、稲荷神の農耕神としての性格がみえる)。稲荷神は当初稲荷山の山頂三ヶ... -
狩野派
狩野派 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『別冊太陽 狩野派決定版』(2004・平凡社) 概略 狩野派(かのうは)は、室町時代後期、将軍足利義政に重用された狩野正信を始祖とする、代表的な御用絵師の流派である。工房を組織して、共同作業によって多数の需要に対応し、幕府の絵画制作をほぼ独占した。おもに「漢画」とよばれる中国風の絵画を制作したが、日本風の大和絵も手掛けた万能集団。狩野探幽以下、江戸に本拠地を移した江戸狩野に対して、京都に留まった狩野山楽の系統を一般に京狩野と称している。江戸狩野が血縁関係を基礎とする家元制度を重視したのに対し、強力な支持基盤を持たない京狩野は優秀な弟子を取り込むことで存続を図った。 人物史・作風と代表的な作品 狩野正信(かのうまさのぶ) 永享6年~享禄3年(1434~1530) 足利将軍御用絵師とな... -
平安神宮
平安神宮 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区にある神社。祭神は平安京?遷都を行った第50代桓武天皇と第121代孝明天皇(明治天皇の父)。社殿は平安京?の朝堂院(大内裏の正庁)を模し、約八分の五に縮小して創建された。神門は応天門、外拝殿は大極殿を模している。旧社格は、官幣大社。京都市民の氏神として篤く信仰されている。 歴史 平安神宮は明治28年(1895)年に平安京?遷都千百年を記念して建てられた。当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがあり、幕末の戦乱と火災で市街地は荒廃し、明治維新によって天皇が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えていた。その状況下で京都を救ったのは京都復興への市民の情熱であり、数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新... -
豊臣氏
豊臣氏 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 豊臣氏(とよとみし)は、豊臣の姓を下賜された氏族で、豊臣は関白となって政権を掌握した羽柴秀吉に与えられた本姓。公卿の姓である源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏?・橘氏の総称)や菅原氏・賀茂氏・中原氏・大江氏などと並ぶ新姓として朝廷から天正14年(1586)に下賜されたことに始まる。平民の出自である秀吉は本能寺の変や山崎の戦いを経て天下統一に乗り出す。一門衆家臣団を持たなかった秀吉は、有力家臣である大名や全ての武家に任官の際に豊臣朝臣を賜姓授与し、羽柴の名字を与えて「羽柴何豊臣朝臣某」と名乗らせて一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治した。秀吉は弟秀長や甥秀次を後見に実子鶴松を後継者と定めていたが、天下統一を果たした直後に秀長、鶴松を相次いで失う。朝鮮出兵に加えて関白職を譲った秀次を... -
妙心寺
妙心寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗?妙心寺派大本山の寺院。山号は正法山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄である。三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には46ヵ寺に及ぶ塔頭寺院が建ち並ぶ。日本にある臨済宗?寺院約6,000ヵ寺のうち約3,400ヵ寺を妙心寺派が占めており、寺院運営に秀でた妙心寺は俗に「妙心寺のそろばんづら」とも呼ばれる。 歴史 京都の禅寺は、五山十刹?に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」と呼び、妙心寺は大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする林下の代表的寺院である。建武2年(1... - @wiki全体から「東山区」で調べる