「徳川氏」(2008/08/21 (木) 17:42:19) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){徳川氏}}
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){徳川氏}(とくがわし)は、信憑性に乏しいが系図上では新田氏系得川氏の流れを汲む清和源氏の末裔という。徳川家康が創始し、ルーツは三河国(現愛知県)の領主松平氏に婿養子に入った[[時宗]]の遊行僧、徳阿弥。還俗して松平親氏と名乗った。松平親氏を初代とした九代目が家康で、永禄9年(1566)に朝廷の許可を得て、「徳川」に復姓(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。覇権を賭けた[[豊臣家>豊臣氏]]との関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開く。家康個人の男系子孫たる徳川氏諸家(尾張・紀伊・水戸の御三家、一橋・田安・清水の御三卿など)は、松平の名乗りのみを認められた家康子孫の諸松平家(越前松平家・会津松平家など)とともに親藩を構成し、15代将軍慶喜まで約260年間、日本の支配層として君臨。明治維新の後も、徳川氏は武家の最上流として華族(宗家は公爵、御三家は侯爵、御三卿は伯爵)に遇せられ、また慶喜は宗家から別家して徳川慶喜家を創設し、同じく公爵を授けられて伝統的な地位を保った。
&sizex(5){&color(red){人物史}}
***徳川家康(とくがわいえやす) &nobold(){天文11年~元和2年(1543~1616)}
三河国岡崎の小大名松平家に生まれる。幼い頃は織田家や今川家の人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じて勢力を拡大し東海道一の弓取りと呼ばれた。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]とは小牧・長久手の戦いを経て臣従し、[[豊臣>豊臣氏]]政権の五大老筆頭に列せられるが、[[秀吉>豊臣氏]]の死後は[[豊臣>豊臣氏]]政権と決別。関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に[[二条城]]にて征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。慶長19年(1614)には[[豊臣氏]]が再建した[[方広寺]]の梵鐘の銘文に不吉な語「国家安康」「君臣豊楽」があると言いがかりをつけ、豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に宣戦を布告。大坂冬の陣、夏の陣で大坂城に立て籠もる[[豊臣氏]]を滅ぼして戦国の世に終止符を打った。[[知恩院]]や[[智積院]]など、戦乱で衰退した寺社の復興を積極的に手掛ける一方で、秀吉に授けられた豊国大明神の神号を廃して[[豊国神社]]と[[豊国廟>豊国神社]]を閉鎖するなど、京都と共にあった[[豊臣>豊臣氏]]政権の存在を徹底的に否定。戦国時代最大の宗教勢力であった[[一向宗>浄土真宗]]に対しては第11世門主顕如の死後に起こった長男教如と三男准如の対立に介入。教如が独立する形で[[東本願寺]](真宗大谷派)を設立する際に、教如を支持して土地を寄進した。これに対して准如が[[西本願寺]](浄土真宗本願寺派)を設立。この東西分裂により、家康は諸大名を脅かした強大な武装宗教勢力である[[一向宗>浄土真宗]]を弱体化させることに成功した。また朝廷に対しては禁中並公家諸法度の制定や後陽成天皇への譲位要求([[秀吉>豊臣氏]]の猶子でもあった弟の八条宮智仁親王への譲位に反対し、政仁親王(後水尾天皇)に譲位させた)、秀忠の娘和子を入内させるなど、朝廷を支配下に置くためにかなりの専横を行っている。元和2年(1616)に太政大臣に任ぜられたものの、同年4月に駿府城において死去、享年75。死後、正一位を贈られた。日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。
***徳川秀忠(とくがわひでただ) &nobold(){天正7年~寛永9年(1579~1632)}
家康の三男だが長兄信康は秀忠の生まれた年に信長の命で切腹、庶兄の秀康は[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の養子に出されてのち結城氏を継いだため、実質的な世子として処遇された。文禄4年(1595)に信長の姪於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹お市)と結婚。関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めに時間を奪われて戦いには参加できなかった。慶長10年(1605)に2代将軍となってからは、律儀に父の政治方針を守り、成立間もない江戸幕府の基盤を強固にした。家康の死後は将軍親政を開始し、大名統制を強化して多くの外様大名を改易、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置した。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行い、娘の和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船の寄港を平戸と長崎に限定させている。晩年には紫衣事件を起こして[[大徳寺]]住職の沢庵宗彭ら幕府に反抗した高僧を流罪に処した。
***徳川家光(とくがわいえみつ) &nobold(){慶長9年~慶安4年(1604~1651)}
秀忠の次男として生まれる。兄が早世していたため世子として扱われ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられ、明智光秀家臣の斎藤利三の娘である福(春日局)を乳母として育てられた。元和9年(1623)に父秀忠とともに上洛し、7月に[[伏見城]]で3代将軍の宣下を受ける。このとき後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。同年8月には[[五摂家>藤原氏]]の[[鷹司家>藤原氏]]から孝子が輿入れする。寛永3年(1626)、後水尾天皇の行幸のために再度上洛、[[二条城]]において天皇に拝謁した。この時期には[[二条城]]をはじめ、[[知恩院]]、[[清水寺]]、[[大徳寺]]、[[教王護国寺>東寺]]([[東寺]])などの寺院が改修・復興され、徳川将軍の権威を大いに誇示することとなる。寛永12年(1635)には武家諸法度を改訂し、大名に参勤交代を義務づけた。貿易統制とキリシタン弾圧を強化し、島原の乱を経て鎖国体制を完成させた。
***徳川和子・東福門院(とくがわまさこ・とうふくもんいん) &nobold(){慶長12年~延宝6年(1607~1678)}
秀忠の八女で、家光の妹。徳川家を天皇外戚とするべく後水尾天皇の中宮となる。しかし産まれた2皇子が共に早世したため、夫と別の女性との間に生まれた後光明天皇を養子として実娘・明正天皇の後継者とし、夫と徳川家双方の面目を立てた。天皇家を押さえつけようとする江戸幕府の間を取り持ち、[[修学院離宮]]を建てた費用の大半を幕府より捻出させるよう奔走するなど、気苦労の多い人生を送ったとされる。また後光明天皇の崩御後に、その弟の後西天皇の即位を渋った幕府を説得し(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)即位を実現させたのも彼女の尽力によるとされる。後に僧籍に入り、名を東福門院と改めた。
***徳川家綱(とくがわいえつな) &nobold(){寛永18年~延宝8年(1641~1680)}
家光の長男。父の死後、江戸城において宣下を受け、数え11歳にして4代将軍となる。これ以後、将軍宣下は京都ではなく江戸で行われることとなった。家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められ、殉死禁止令が出されるなど、これまでの武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。[[八坂神社]]本殿の再建、[[泉涌寺]]の伽藍復興などを手掛け、自身が帰依する中国僧隠元には宇治の土地を与えて[[萬福寺]]創建の援助をした。
***徳川綱吉(とくがわつなよし) &nobold(){正保3年~宝永6年(1646~1709)}
3代将軍家光の四男で、母は京堀川の八百屋の娘お玉(桂昌院)。4代家綱に世嗣がなかったことから、その養嗣子として江戸城に迎えられ5代将軍となる。諸藩の政治を監査するなど積極的に幕政に関与して将軍権威の向上に努め、儒学者林信篤を召して経書の討論を行い、四書や易経を幕臣に講義し、さらに学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど学問好きな将軍であった。儒学の影響から尊皇心も篤く、皇室領の献上や、御陵の修復、公家達の所領の加増なども行われた。このような治世の前半は善政として称えられている。貞享元年(1684)以降は側用人の柳沢吉保を重用して老中らを遠ざけ、母桂昌院の政治への介入を許した。この頃から“悪政”といわれる政治を次々と行い、悪名高い「生類憐みの令」を発布。大奥の奢侈を許して幕府の財政を悪化させ、貨幣の改鋳により経済を混乱させた。近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ好景気の元禄期であったものの、元禄11年(1698)の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し300町余を焼失、死者3,000人以上)や宝永4年(1707)の富士山噴火などの天災、忠臣蔵として語り継がれることになる赤穂浪士事件が発生するなど不安定な情勢が続いた。跡継ぎがいなかったために将軍後継問題が起こり、徳川光圀の反対を無視して娘を嫁がせていた御三家の紀州徳川綱教を候補とするも綱教は死去、6代将軍は甥で甲府藩の徳川家宣に決定する。綱吉の死後、「生類憐みの令」はすぐに廃止された。
***徳川光圀(とくがわみつくに) &nobold(){寛永5年~元禄13年(1628~1701)}
徳川御三家である水戸藩2代目藩主で家康の孫に当たる。学者肌で好奇心が強かったことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメン、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆がある。5代将軍綱吉が制定した生類憐れみの令をも無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。またオランダ製の靴下を使用し、ワインを飲み、朝鮮人参やインコを取り寄せるなど、海外のものに非常に興味を示したという。歴史書である『大日本史』の編纂作業にも着手し、完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなるが、後の水戸学とよばれる歴史学の形成に繋がり、思想的影響も与える。しかし編纂作業に水戸藩年間収入の三分の一近くを注ぎ込んだため財政難に陥る。光圀の死後、養子である綱條が財政改革に乗り出すも失敗、これにより幕閣から「将軍の器にあらず」との認識を持たれたため、7代将軍家継の後継者選びにおいては、綱條が御三家当主の最年長であるにも関わらず、紀州藩主の徳川吉宗が8代将軍に選ばれた。以後、水戸徳川家は将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐し、「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。その後水戸藩9代藩主斉昭の子にあたる一橋慶喜が15代将軍に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者は出なかった。没後には「水戸黄門」としての諸国行脚伝説が生まれ、講談や歌舞伎の題材として流布され、現代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。もっともその内容は大半がフィクションである。なお黄門とは中納言の唐名であるが、徳川光圀は中納言になった事は無い(権中納言まで)。
***徳川家茂(とくがわいえもち) &nobold(){弘化3年~慶応2年(1846~1866)}
初名は慶福(よしとみ)。はじめ御三家の紀伊藩13代藩主であったが、嗣子の無い13代将軍家定に近い血筋の人物であるとして、井伊直弼ら支持を受け13歳にして14代将軍となる。正室は孝明天皇(明治天皇の父)の妹である和宮親子内親王(静観院宮)。政略結婚ではあるが2人の関係は良好で、歴代将軍と正室の中で最も夫婦仲がよいといわれた。英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望も厚かった。文久3年(1863)に3代家光以来229年ぶりとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に尊皇攘夷を約束するも、慶応2年(1866)、第2次長州征伐の途上に大坂城で病により死去。あまりに若すぎるその死は、一説に毒殺といわれる。
***徳川慶喜(とくがわよしのぶ) &nobold(){天保8年~大正2年(1837~1913)}
御三家の水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれる。若い頃から英邁さで知られ、早くから将軍候補であった。弘化4年(1847)に御三卿の一橋家を相続して元服、12代家慶に拝謁して慶喜と改名する。14代家茂の後見職を務め、越前国福井藩主の松平春嶽(慶永)と共に文久の改革と呼ばれる幕政改革を行い、松平容保の京都守護職就任([[金戒光明寺]]を本陣とした)、参勤交代制の緩和、軍制改革を推進する。元治元年(1864)に武力によって朝廷における主導権の奪回を図って長州藩が[[禁門の変]]を起こすが、慶喜や容保は幕府軍を指揮して長州藩勢力を京都から駆逐。長州藩を朝敵として長州征伐を軍を興すも、坂本龍馬を仲介に密かに長州藩と同盟を結んだ薩摩藩が出兵を拒否し、各地で軍事的失敗が続いた。その最中に将軍家茂が逝去したため慶喜はやむなく休戦し、徳川宗家を継いで15代将軍に就任する。就任直後には、家茂の後を追うがごとく孝明天皇が急死。薩長が武力倒幕路線に突き進むことを見越して、慶応3年(1867)に[[二条城]]において大政を奉還して将軍職を辞し公武合体を目指す。王政復古の大号令後の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍を残したまま大坂から江戸城へ海路で逃げ帰った。その後朝廷からの追討令を受け、恭順を主張して謹慎、江戸無血開城を迎えた。明治に入り謹慎を解かれると趣味に生き、公爵として大正時代まで天寿を全うした。
***松平容保(まつだいらかたもり) &nobold(){天保6年~明治26年(1835~1893)}
美濃国高須藩主松平義建の子で、会津藩松平容敬の養子に入り、嘉永5年(1852)に跡を継いで9代藩主となる。桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害された後、将軍後見職となった一橋慶喜(徳川慶喜)と政事総裁職となった福井藩主松平春嶽らが改革を開始すると、新設の幕政参与に任ぜられ、のち京都守護職に就任する。容保は会津藩兵を率いて上洛し、[[金戒光明寺]]を本陣とした。当初、倒幕派の者とも話し合っていく方針を推し進めたが、[[等持院]]の[[足利将軍>足利氏]]木像の首が晒されるという事件が起因で方針を180度変針。上洛した14代将軍家茂の警護と京の治安維持の名目で、壬生浪士組(後の新選組)などを用いて倒幕派浪士を取り締まり、元治元年(1864)の[[禁門の変]]では長州藩の勢力排除に動いた。慶応3年(1867)の大政奉還により江戸幕府が消滅すると、京都守護職も廃止され、大坂へ退いていた慶喜と共に軍艦で江戸へ下る。会津へ帰国後に謹慎するも、容保は幕府派の重鎮として敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍と戦い(会津戦争)、のち降伏勧告に応じて開城した。戦後は東京に移されて蟄居するが、嫡男容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。まもなく蟄居を許されると、明治13年(1880)には日光東照宮の宮司となった。幕末維新については周囲に何も語らず、[[禁門の変]]での働きを孝明天皇から認められた際に賜った書簡と御製(和歌)を小さな竹筒に入れて首にかけ、手放すことはなかったという。
&sizex(5){&color(red){系図}}
家康&sup(){1}┬秀忠&sup(){2}─家光&sup(){3}┬家綱&sup(){4}
│ ├綱重─家宣&sup(){6}─家継&sup(){7}
│ └綱吉&sup(){5}
├頼宣─光貞─吉宗&sup(){8}┬家重&sup(){9}─家治&sup(){10}
│ └宗尹─治斉┬家斉&sup(){11}┬家慶&sup(){12}─家定&sup(){13}
│ │ └斉順─家茂&sup(){14}
│ └斉匡─慶頼─家達
└頼房┬頼重┬頼候─頼豊─宗堯─宗翰─治保─治紀─斉昭─慶喜&sup(){15}
└光圀└綱條
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「東本願寺の別邸である渉成園は誰から与えられた地に作られたか。 (ア)徳川家康 (イ)徳川秀忠 (ウ)徳川家光 (エ)徳川家綱」
「京都守護職であった松平容保率いる会津藩は( )を本陣とした。」
「慶応3年(1867)、徳川慶喜は( )で大政奉還を行った。」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「清水寺成就院は寛永6年(1629)に焼失したが、( )の寄進により再興された。 (ア)中輪門院 (イ)待賢門院 (ウ)東福門院 (エ)美福門院」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「二条城は将軍上洛の際の居館として築かれたが、徳川家光の次に、久方ぶりに上洛した将軍は誰か。」
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***徳川家康(とくがわいえやす) &nobold(){天文11年~元和2年(1543~1616)}
三河国岡崎の小大名松平家に生まれる。幼い頃は織田家や今川家の人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じて勢力を拡大し東海道一の弓取りと呼ばれた。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]とは小牧・長久手の戦いを経て臣従し、[[豊臣>豊臣氏]]政権の五大老筆頭に列せられるが、[[秀吉>豊臣氏]]の死後は[[豊臣>豊臣氏]]政権と決別。関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に[[伏見城]]にて征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。慶長19年(1614)には[[豊臣氏]]が再建した[[方広寺]]の梵鐘の銘文に不吉な語「国家安康」「君臣豊楽」があると言いがかりをつけ、豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に宣戦を布告。大坂冬の陣、夏の陣で大坂城に立て籠もる[[豊臣氏]]を滅ぼして戦国の世に終止符を打った。[[知恩院]]や[[智積院]]など、戦乱で衰退した寺社の復興を積極的に手掛ける一方で、秀吉に授けられた豊国大明神の神号を廃して[[豊国神社]]と[[豊国廟>豊国神社]]を閉鎖するなど、京都と共にあった[[豊臣>豊臣氏]]政権の存在を徹底的に否定。戦国時代最大の宗教勢力であった[[一向宗>浄土真宗]]に対しては第11世門主顕如の死後に起こった長男教如と三男准如の対立に介入。教如が独立する形で[[東本願寺]](真宗大谷派)を設立する際に、教如を支持して土地を寄進した。これに対して准如が[[西本願寺]](浄土真宗本願寺派)を設立。この東西分裂により、家康は諸大名を脅かした強大な武装宗教勢力である[[一向宗>浄土真宗]]を弱体化させることに成功した。また朝廷に対しては禁中並公家諸法度の制定や後陽成天皇への譲位要求([[秀吉>豊臣氏]]の猶子でもあった弟の八条宮智仁親王への譲位に反対し、政仁親王(後水尾天皇)に譲位させた)、秀忠の娘和子を入内させるなど、朝廷を支配下に置くためにかなりの専横を行っている。元和2年(1616)に太政大臣に任ぜられたものの、同年4月に駿府城において死去、享年75。死後、正一位を贈られた。日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。
***徳川秀忠(とくがわひでただ) &nobold(){天正7年~寛永9年(1579~1632)}
家康の三男だが長兄信康は秀忠の生まれた年に信長の命で切腹、庶兄の秀康は[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の養子に出されてのち結城氏を継いだため、実質的な世子として処遇された。文禄4年(1595)に信長の姪於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹お市)と結婚。関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めに時間を奪われて戦いには参加できなかった。慶長10年(1605)に2代将軍となってからは、律儀に父の政治方針を守り、成立間もない江戸幕府の基盤を強固にした。家康の死後は将軍親政を開始し、大名統制を強化して多くの外様大名を改易、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置した。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行い、娘の和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船の寄港を平戸と長崎に限定させている。晩年には紫衣事件を起こして[[大徳寺]]住職の沢庵宗彭ら幕府に反抗した高僧を流罪に処した。
***徳川家光(とくがわいえみつ) &nobold(){慶長9年~慶安4年(1604~1651)}
秀忠の次男として生まれる。兄が早世していたため世子として扱われ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられ、明智光秀家臣の斎藤利三の娘である福(春日局)を乳母として育てられた。元和9年(1623)に父秀忠とともに上洛し、7月に[[伏見城]]で3代将軍の宣下を受ける。このとき後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。同年8月には[[五摂家>藤原氏]]の[[鷹司家>藤原氏]]から孝子が輿入れする。寛永3年(1626)、後水尾天皇の行幸のために再度上洛、[[二条城]]において天皇に拝謁した。この時期には[[二条城]]をはじめ、[[知恩院]]、[[清水寺]]、[[大徳寺]]、[[教王護国寺>東寺]]([[東寺]])などの寺院が改修・復興され、徳川将軍の権威を大いに誇示することとなる。寛永12年(1635)には武家諸法度を改訂し、大名に参勤交代を義務づけた。貿易統制とキリシタン弾圧を強化し、島原の乱を経て鎖国体制を完成させた。
***徳川和子・東福門院(とくがわまさこ・とうふくもんいん) &nobold(){慶長12年~延宝6年(1607~1678)}
秀忠の八女で、家光の妹。徳川家を天皇外戚とするべく後水尾天皇の中宮となる。しかし産まれた2皇子が共に早世したため、夫と別の女性との間に生まれた後光明天皇を養子として実娘・明正天皇の後継者とし、夫と徳川家双方の面目を立てた。天皇家を押さえつけようとする江戸幕府の間を取り持ち、[[修学院離宮]]を建てた費用の大半を幕府より捻出させるよう奔走するなど、気苦労の多い人生を送ったとされる。また後光明天皇の崩御後に、その弟の後西天皇の即位を渋った幕府を説得し(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)即位を実現させたのも彼女の尽力によるとされる。後に僧籍に入り、名を東福門院と改めた。
***徳川家綱(とくがわいえつな) &nobold(){寛永18年~延宝8年(1641~1680)}
家光の長男。父の死後、江戸城において宣下を受け、数え11歳にして4代将軍となる。これ以後、将軍宣下は京都ではなく江戸で行われることとなった。家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められ、殉死禁止令が出されるなど、これまでの武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。[[八坂神社]]本殿の再建、[[泉涌寺]]の伽藍復興などを手掛け、自身が帰依する中国僧隠元には宇治の土地を与えて[[萬福寺]]創建の援助をした。
***徳川綱吉(とくがわつなよし) &nobold(){正保3年~宝永6年(1646~1709)}
3代将軍家光の四男で、母は京堀川の八百屋の娘お玉(桂昌院)。4代家綱に世嗣がなかったことから、その養嗣子として江戸城に迎えられ5代将軍となる。諸藩の政治を監査するなど積極的に幕政に関与して将軍権威の向上に努め、儒学者林信篤を召して経書の討論を行い、四書や易経を幕臣に講義し、さらに学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど学問好きな将軍であった。儒学の影響から尊皇心も篤く、皇室領の献上や、御陵の修復、公家達の所領の加増なども行われた。このような治世の前半は善政として称えられている。貞享元年(1684)以降は側用人の柳沢吉保を重用して老中らを遠ざけ、母桂昌院の政治への介入を許した。この頃から“悪政”といわれる政治を次々と行い、悪名高い「生類憐みの令」を発布。大奥の奢侈を許して幕府の財政を悪化させ、貨幣の改鋳により経済を混乱させた。近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ好景気の元禄期であったものの、元禄11年(1698)の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し300町余を焼失、死者3,000人以上)や宝永4年(1707)の富士山噴火などの天災、忠臣蔵として語り継がれることになる赤穂浪士事件が発生するなど不安定な情勢が続いた。跡継ぎがいなかったために将軍後継問題が起こり、徳川光圀の反対を無視して娘を嫁がせていた御三家の紀州徳川綱教を候補とするも綱教は死去、6代将軍は甥で甲府藩の徳川家宣に決定する。綱吉の死後、「生類憐みの令」はすぐに廃止された。
***徳川光圀(とくがわみつくに) &nobold(){寛永5年~元禄13年(1628~1701)}
徳川御三家である水戸藩2代目藩主で家康の孫に当たる。学者肌で好奇心が強かったことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメン、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆がある。5代将軍綱吉が制定した生類憐れみの令をも無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。またオランダ製の靴下を使用し、ワインを飲み、朝鮮人参やインコを取り寄せるなど、海外のものに非常に興味を示したという。歴史書である『大日本史』の編纂作業にも着手し、完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなるが、後の水戸学とよばれる歴史学の形成に繋がり、思想的影響も与える。しかし編纂作業に水戸藩年間収入の三分の一近くを注ぎ込んだため財政難に陥る。光圀の死後、養子である綱條が財政改革に乗り出すも失敗、これにより幕閣から「将軍の器にあらず」との認識を持たれたため、7代将軍家継の後継者選びにおいては、綱條が御三家当主の最年長であるにも関わらず、紀州藩主の徳川吉宗が8代将軍に選ばれた。以後、水戸徳川家は将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐し、「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。その後水戸藩9代藩主斉昭の子にあたる一橋慶喜が15代将軍に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者は出なかった。没後には「水戸黄門」としての諸国行脚伝説が生まれ、講談や歌舞伎の題材として流布され、現代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。もっともその内容は大半がフィクションである。なお黄門とは中納言の唐名であるが、徳川光圀は中納言になった事は無い(権中納言まで)。
***徳川家茂(とくがわいえもち) &nobold(){弘化3年~慶応2年(1846~1866)}
初名は慶福(よしとみ)。はじめ御三家の紀伊藩13代藩主であったが、嗣子の無い13代将軍家定に近い血筋の人物であるとして、井伊直弼ら支持を受け13歳にして14代将軍となる。正室は孝明天皇(明治天皇の父)の妹である和宮親子内親王(静観院宮)。政略結婚ではあるが2人の関係は良好で、歴代将軍と正室の中で最も夫婦仲がよいといわれた。英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望も厚かった。文久3年(1863)に3代家光以来229年ぶりとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に尊皇攘夷を約束するも、慶応2年(1866)、第2次長州征伐の途上に大坂城で病により死去。あまりに若すぎるその死は、一説に毒殺といわれる。
***徳川慶喜(とくがわよしのぶ) &nobold(){天保8年~大正2年(1837~1913)}
御三家の水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれる。若い頃から英邁さで知られ、早くから将軍候補であった。弘化4年(1847)に御三卿の一橋家を相続して元服、12代家慶に拝謁して慶喜と改名する。14代家茂の後見職を務め、越前国福井藩主の松平春嶽(慶永)と共に文久の改革と呼ばれる幕政改革を行い、松平容保の京都守護職就任([[金戒光明寺]]を本陣とした)、参勤交代制の緩和、軍制改革を推進する。元治元年(1864)に武力によって朝廷における主導権の奪回を図って長州藩が[[禁門の変]]を起こすが、慶喜や容保は幕府軍を指揮して長州藩勢力を京都から駆逐。長州藩を朝敵として長州征伐を軍を興すも、坂本龍馬を仲介に密かに長州藩と同盟を結んだ薩摩藩が出兵を拒否し、各地で軍事的失敗が続いた。その最中に将軍家茂が逝去したため慶喜はやむなく休戦し、徳川宗家を継いで15代将軍に就任する。就任直後には、家茂の後を追うがごとく孝明天皇が急死。薩長が武力倒幕路線に突き進むことを見越して、慶応3年(1867)に[[二条城]]において大政を奉還して将軍職を辞し公武合体を目指す。王政復古の大号令後の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍を残したまま大坂から江戸城へ海路で逃げ帰った。その後朝廷からの追討令を受け、恭順を主張して謹慎、江戸無血開城を迎えた。明治に入り謹慎を解かれると趣味に生き、公爵として大正時代まで天寿を全うした。
***松平容保(まつだいらかたもり) &nobold(){天保6年~明治26年(1835~1893)}
美濃国高須藩主松平義建の子で、会津藩松平容敬の養子に入り、嘉永5年(1852)に跡を継いで9代藩主となる。桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害された後、将軍後見職となった一橋慶喜(徳川慶喜)と政事総裁職となった福井藩主松平春嶽らが改革を開始すると、新設の幕政参与に任ぜられ、のち京都守護職に就任する。容保は会津藩兵を率いて上洛し、[[金戒光明寺]]を本陣とした。当初、倒幕派の者とも話し合っていく方針を推し進めたが、[[等持院]]の[[足利将軍>足利氏]]木像の首が晒されるという事件が起因で方針を180度変針。上洛した14代将軍家茂の警護と京の治安維持の名目で、壬生浪士組(後の新選組)などを用いて倒幕派浪士を取り締まり、元治元年(1864)の[[禁門の変]]では長州藩の勢力排除に動いた。慶応3年(1867)の大政奉還により江戸幕府が消滅すると、京都守護職も廃止され、大坂へ退いていた慶喜と共に軍艦で江戸へ下る。会津へ帰国後に謹慎するも、容保は幕府派の重鎮として敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍と戦い(会津戦争)、のち降伏勧告に応じて開城した。戦後は東京に移されて蟄居するが、嫡男容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。まもなく蟄居を許されると、明治13年(1880)には日光東照宮の宮司となった。幕末維新については周囲に何も語らず、[[禁門の変]]での働きを孝明天皇から認められた際に賜った書簡と御製(和歌)を小さな竹筒に入れて首にかけ、手放すことはなかったという。
&sizex(5){&color(red){系図}}
家康&sup(){1}┬秀忠&sup(){2}─家光&sup(){3}┬家綱&sup(){4}
│ ├綱重─家宣&sup(){6}─家継&sup(){7}
│ └綱吉&sup(){5}
├頼宣─光貞─吉宗&sup(){8}┬家重&sup(){9}─家治&sup(){10}
│ └宗尹─治斉┬家斉&sup(){11}┬家慶&sup(){12}─家定&sup(){13}
│ │ └斉順─家茂&sup(){14}
│ └斉匡─慶頼─家達
└頼房┬頼重┬頼候─頼豊─宗堯─宗翰─治保─治紀─斉昭─慶喜&sup(){15}
└光圀└綱條
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「東本願寺の別邸である渉成園は誰から与えられた地に作られたか。 (ア)徳川家康 (イ)徳川秀忠 (ウ)徳川家光 (エ)徳川家綱」
「京都守護職であった松平容保率いる会津藩は( )を本陣とした。」
「慶応3年(1867)、徳川慶喜は( )で大政奉還を行った。」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「清水寺成就院は寛永6年(1629)に焼失したが、( )の寄進により再興された。 (ア)中輪門院 (イ)待賢門院 (ウ)東福門院 (エ)美福門院」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「二条城は将軍上洛の際の居館として築かれたが、徳川家光の次に、久方ぶりに上洛した将軍は誰か。」
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