「三十三間堂」(2008/08/22 (金) 15:36:05) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){蓮華王院(三十三間堂)}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){蓮華王院}(れんげおういん)は、京都市東山区にある寺院。本堂の内陣の柱間が三十三あるため、&bold(){三十三間堂}(さんじゅうさんげんどう)の通称で知られる。本尊は[[千手観音]]、開基(創立者)は後白河上皇。1,001躯の[[千手観音]]を安置する本堂は特に有名。現在は同じ東山区にある[[天台宗]]の[[妙法院]]が所有、管理している。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
この地には後白河上皇の離宮、法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院であり、上皇の勅願により平清盛が私財を投じて長寛2年(1164)に創建された。当時は五重塔などが建つ本格的な寺院だったが、建長元年(1249)の火災で焼失。辛うじて[[千手観音]]立像と二十八部衆像を救出したという。建長3年(1251)に後嵯峨上皇の勅願で再建が開始され、仏像の復興には天才仏師[[運慶>慶派]]の子、[[湛慶>慶派]]を中心に仏師が総動員された。文永3年(1266)には本堂のみが再建されて落慶法要が執り行われた。天正14年(1586)に[[秀吉>豊臣氏]]が建立した[[方広寺]]の山内寺院とされたが、江戸時代には[[妙法院]]の管理下に移り、以降[[妙法院]]の最大の塔頭として栄えた。本尊を中心として左右に各500躯の[[千手観音]]と二十八部衆が建ち並んだ堂内は異質な空間であり、16世紀初めに三十三間堂を訪れた平戸商館のリチャード・コックスは、日記に「悪魔のような激した形の群像が、中尊の前下に3列、4列と重なり合うように並べられていた」と書き記したほどである。
また小正月に近い日曜日に催される「通し矢」は、もともと戦国時代から江戸時代に行われた「堂通し」がもととなっている。これは夕方から一昼夜かけて西広縁の南端から北端までを弓で射通し、その総通し矢数を競ったもので、武芸者の栄誉を賭けた武技として盛んに行われた。これまでの最高記録は貞享3年(1686)に18歳の紀州藩士和佐大八郎が残した総矢数1万3,053本中8,133本通しである。明治の半ばに「堂通し」が終了するまで200年以上破られなかった。和佐の優勝を記念した額が残されている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***本堂(三十三間堂)
南北約125m、東西約22mの細長い形をした建物で、文永3年(1266)の再建。高さは約15mで、入母屋造、本瓦葺。堂内は外陣と内陣に分かれている。内陣のうち中央の三間は内々陣と呼ばれ、独立した須弥壇を設け本尊の[[千手観音]]坐像を安置する。本尊の左右には十段の階段状の須弥壇が据えられ、1,000躯の[[千手観音]]立像が10躯の50列横隊で安置されており、その前に眷属である二十八部衆が建ち並んでいる。天井は千体仏の上方に高い空間をとるために、山型の化粧屋根裏天井となっている。和様の流れを受け継いだ「二重虹梁蟇股式」と呼ばれる木組みの構造が天井部分にある。
***南大門
昭和29年(1954)の修理の際、虹梁の刻銘により慶長5年(1600)に[[豊臣秀頼>豊臣氏]]によって建立されたことが判明した。切妻造、本瓦葺、三間一戸の巨大な八脚門。梁や蟇股に彫刻されている花鳥禽獣は桃山建築の特色を示すもの。なお西門は明治28年(1895)、[[教王護国寺>東寺]]([[東寺]])に移築されて南大門となっている。
***太閤塀
寺域の南側に建つ築地塀で、太閤[[秀吉>豊臣氏]]によって寄進されたもの。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
蓮華王院本堂 木像[[千手観音]]坐像([[湛慶>慶派]]作) 木像二十八部衆立像 木像風神・雷神像
#blockquote(){本尊の[[千手観音]]坐像は建長6年(1254)に[[湛慶>慶派]]とその門弟によって2年半の歳月をかけて造られた。像高約3.4m、寄木造、玉眼入りで漆箔が施されている。表情はやや伏し目がちで理知的、洗練された端正な作風を示す。1,000躯の[[千手観音]]立像は仔細に見れば作風の違いがある。建長元年(1294)の火災の際に救出された長寛仏は124躯で、建長以後の再興仏876躯の内、作者名があるものが[[湛慶>慶派]]の9躯を含めて273躯である。長寛仏は[[定朝]]様式を忠実に守った作風で、穏やかな表情と丸い額と頬、上瞼がふくらみ、合掌した両肘の間がゆったりしているなどの特徴をもち、再興仏の鎌倉様式とは違う雰囲気を見せる。また1,000躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に長期出品中である。
二十八部衆の尊名は以下の通り。括弧内は持物。北から順番に那羅延堅固、大弁功徳天、緊那羅王(鞨鼓)、金色孔雀王(剣)、大梵天王(薬壺)、乾闥婆王(転法輪)、満善車王(槌・蛇)、沙羯羅王(剣・蛇)、金大王(独鈷)、金毘羅王(弓・矢)、五部浄(剣・短剣)、神母天王(銅拍子)、東方天、毘楼勒叉(独鈷)、毘楼博叉(三叉戟・独鈷)、[[毘沙門天>四天王]](三叉戟・宝塔)、迦楼羅王(横笛)、摩和羅女、難陀龍王(龍)、婆藪仙人(経巻・杖)、摩醯首羅王(鳥杖)、毘婆迦羅王、阿修羅王、帝釈天王(宝鏡)、散脂大将(剣)、満仙人(独鈷・三叉戟)、摩睺羅王(琵琶)、密遮金剛。いずれも鎌倉彫刻の傑作といえる。
風神・雷神像は内陣の両端(風神が南端、雷神が北端)に安置されている。風神は緑青塗りの青鬼、雷神は朱塗りの赤鬼、風と雷という自然現象を神格化し、風雨をつかさどり「五穀豊穣」をもたらす神々への信仰を形にした鬼神像である。通常は二十八部衆に含まれるのだが、ここではそれに風神・雷神を加えた三十躯の眷属として構成されている。}
***重要文化財(建造物)
南大門 築地塀
***重要文化財(美術工芸品)
木像[[千手観音]]立像
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区三十三間堂廻り町657
電話番号 075-561-0467
拝観時間 8:00~17:00(11/16~3/31は9:00~16:00)
拝観料 600円
アクセス 市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐ
京阪本線「七条駅」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「三十三間堂について誤っているものを選びなさい。 (ア)毎年1月3日には弓引き初めの行事である通し矢が行われる (イ)三十三間堂の名前の由来は、本堂正面柱間が三十三あることによる (ウ)築地塀は太閤塀の名で知られている (エ)本尊の千手観音坐像は、仏師湛慶の作である」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「三十三間堂は後白河上皇の勅願によって建立されたが、私費を投じて造進した武将は誰か。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
三十三間堂オフィシャル http://sanjusangendo.jp/
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&sizex(6){&bold(){蓮華王院(三十三間堂)}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&bold(){蓮華王院}(れんげおういん)は、京都市東山区にある寺院。本堂の内陣の柱間が三十三あるため、&bold(){三十三間堂}(さんじゅうさんげんどう)の通称で知られる。本尊は[[千手観音]]、開基(創立者)は後白河上皇。1,001躯の[[千手観音]]を安置する本堂は特に有名。現在は同じ東山区にある[[天台宗]]の[[妙法院]]が所有、管理している。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
この地には後白河上皇の離宮、法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院であり、上皇の勅願により平清盛が私財を投じて長寛2年(1164)に創建された。当時は五重塔などが建つ本格的な寺院だったが、建長元年(1249)の火災で焼失。辛うじて[[千手観音]]立像と二十八部衆像を救出したという。建長3年(1251)に後嵯峨上皇の勅願で再建が開始され、仏像の復興には天才仏師[[運慶>慶派]]の子、[[湛慶>慶派]]を中心に仏師が総動員された。文永3年(1266)には本堂のみが再建されて落慶法要が執り行われた。天正14年(1586)に[[秀吉>豊臣氏]]が建立した[[方広寺]]の山内寺院とされたが、江戸時代には[[妙法院]]の管理下に移り、以降[[妙法院]]の最大の塔頭として栄えた。本尊を中心として左右に各500躯の[[千手観音]]と二十八部衆が建ち並んだ堂内は異質な空間であり、16世紀初めに三十三間堂を訪れた平戸商館のリチャード・コックスは、日記に「悪魔のような激した形の群像が、中尊の前下に3列、4列と重なり合うように並べられていた」と書き記したほどである。
また小正月に近い日曜日に催される「通し矢」は、もともと戦国時代から江戸時代に行われた「堂通し」がもととなっている。これは夕方から一昼夜かけて西広縁の南端から北端までを弓で射通し、その総通し矢数を競ったもので、武芸者の栄誉を賭けた武技として盛んに行われた。これまでの最高記録は貞享3年(1686)に18歳の紀州藩士和佐大八郎が残した総矢数1万3,053本中8,133本通しである。明治の半ばに「堂通し」が終了するまで200年以上破られなかった。和佐の優勝を記念した額が残されている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***本堂(三十三間堂)
南北約125m、東西約22mの細長い形をした建物で、文永3年(1266)の再建。高さは約15mで、入母屋造、本瓦葺。堂内は外陣と内陣に分かれている。内陣のうち中央の三間は内々陣と呼ばれ、独立した須弥壇を設け本尊の[[千手観音]]坐像を安置する。本尊の左右には十段の階段状の須弥壇が据えられ、1,000躯の[[千手観音]]立像が10躯の50列横隊で安置されており、その前に眷属である二十八部衆が建ち並んでいる。天井は千体仏の上方に高い空間をとるために、山型の化粧屋根裏天井となっている。和様の流れを受け継いだ「二重虹梁蟇股式」と呼ばれる木組みの構造が天井部分にある。
***南大門
昭和29年(1954)の修理の際、虹梁の刻銘により慶長5年(1600)に[[豊臣秀頼>豊臣氏]]によって建立されたことが判明した。切妻造、本瓦葺、三間一戸の巨大な八脚門。梁や蟇股に彫刻されている花鳥禽獣は桃山建築の特色を示すもの。なお西門は明治28年(1895)、[[教王護国寺>東寺]]([[東寺]])に移築されて南大門となっている。
***太閤塀
寺域の南側に建つ築地塀で、太閤[[秀吉>豊臣氏]]によって寄進されたもの。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
蓮華王院本堂 木像[[千手観音]]坐像([[湛慶>慶派]]作) 木像二十八部衆立像 木像風神・雷神像
#blockquote(){本尊の[[千手観音]]坐像は建長6年(1254)に[[湛慶>慶派]]とその門弟によって2年半の歳月をかけて造られた。像高約3.4m、寄木造、玉眼入りで漆箔が施されている。表情はやや伏し目がちで理知的、洗練された端正な作風を示す。1,000躯の[[千手観音]]立像は仔細に見れば作風の違いがある。建長元年(1294)の火災の際に救出された長寛仏は124躯で、建長以後の再興仏876躯の内、作者名があるものが[[湛慶>慶派]]の9躯を含めて273躯である。長寛仏は[[定朝]]様式を忠実に守った作風で、穏やかな表情と丸い額と頬、上瞼がふくらみ、合掌した両肘の間がゆったりしているなどの特徴をもち、再興仏の鎌倉様式とは違う雰囲気を見せる。また1,000躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に長期出品中である。
二十八部衆の尊名は以下の通り。括弧内は持物。北から順番に那羅延堅固、大弁功徳天、緊那羅王(鞨鼓)、金色孔雀王(剣)、大梵天王(薬壺)、乾闥婆王(転法輪)、満善車王(槌・蛇)、沙羯羅王(剣・蛇)、金大王(独鈷)、金毘羅王(弓・矢)、五部浄(剣・短剣)、神母天王(銅拍子)、東方天、毘楼勒叉(独鈷)、毘楼博叉(三叉戟・独鈷)、[[毘沙門天>四天王]](三叉戟・宝塔)、迦楼羅王(横笛)、摩和羅女、難陀龍王(龍)、婆藪仙人(経巻・杖)、摩醯首羅王(鳥杖)、毘婆迦羅王、阿修羅王、帝釈天王(宝鏡)、散脂大将(剣)、満仙人(独鈷・三叉戟)、摩睺羅王(琵琶)、密遮金剛。いずれも鎌倉彫刻の傑作といえる。
風神・雷神像は内陣の両端(風神が南端、雷神が北端)に安置されている。風神は緑青塗りの青鬼、雷神は朱塗りの赤鬼、風と雷という自然現象を神格化し、風雨をつかさどり「五穀豊穣」をもたらす神々への信仰を形にした鬼神像である。通常は二十八部衆に含まれるのだが、ここではそれに風神・雷神を加えた三十躯の眷属として構成されている。}
***重要文化財(建造物)
南大門 築地塀
***重要文化財(美術工芸品)
木像[[千手観音]]立像
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区三十三間堂廻り町657
電話番号 075-561-0467
拝観時間 8:00~17:00(11/16~3/31は9:00~16:00)
拝観料 600円
アクセス 市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐ
京阪本線「七条駅」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
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&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「三十三間堂について誤っているものを選びなさい。 (ア)毎年1月3日には弓引き初めの行事である通し矢が行われる (イ)三十三間堂の名前の由来は、本堂正面柱間が三十三あることによる (ウ)築地塀は太閤塀の名で知られている (エ)本尊の千手観音坐像は、仏師湛慶の作である」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「三十三間堂は後白河上皇の勅願によって建立されたが、私費を投じて造進した武将は誰か。」
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三十三間堂オフィシャル http://sanjusangendo.jp/
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