「春屋妙葩」(2008/09/02 (火) 17:23:01) の最新版変更点
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){春屋妙葩}(しゅんおくみょうは・しゅんのくみょうは)は室町時代の[[臨済宗]]の禅僧で、[[天龍寺]]や[[臨川寺>天龍寺]]の住職を歴任。師である[[夢窓疎石]]を勧請開山とし、第二世住職(事実上の開山)として[[相国寺]]を開き、臨済宗五山派を興して五山版の刊行なども行い、五山文化の発展に寄与した。諡号は知覚普明国師。応長元年~元中5年/嘉慶2年(1311~1388)
&sizex(5){&color(red){人物史}}
甲斐国(山梨県)の生まれで、姓は平氏。7歳のとき、母方の叔父である[[夢窓疎石]]について出家。[[夢窓>夢窓疎石]]に随侍し己事の究明に励んだ。観応2年(1351)に[[夢窓>夢窓疎石]]が77歳で没すると、すでに一流の禅僧に成長していた春屋は、『[[夢窓国師>夢窓疎石]]年譜』を撰し、教えを集めた法語集『西山夜話』を世に出した。室町幕府初代将軍[[足利尊氏>足利氏]]は[[夢窓>夢窓疎石]]の後継者として春屋に目をつけ、延文2年(1357)には[[等持寺>等持院]]に請じている。同3年に[[天龍寺]]が焼失した際は、自ら復興の幹事を務め、土木の労役の先頭に立った。その熱意と誠意でほどなく旧観に復したという。康安元年(1361)に今度は[[臨川寺>天龍寺]]が災いにあうと、同門諸老の間に「春屋でなければとても復興の見込みなし」との意見が一致。春屋は再三辞退したものの、11月に住職を託され復興工事を完成されるに至った。[[天龍寺]]の住職当時、五山第一の[[南禅寺]]造営の命を受けたが、楼門(山門)の新築に際しての関銭徴収をめぐって園城寺(三井寺)が抗議。[[比叡山>延暦寺]]の門徒もこれに加わり楼門撤去や春屋の配流を求めたことから、紛争は政治問題にまで発展した。応安2年/長慶24年(1369)に幕府管領の細川頼之は楼門を撤去させる。春屋は頼之と対立して[[天龍寺]]住職を辞し、勝光院、さらに丹後国の雲門寺にへ隠棲し、和解をも拒否。康暦元年/天授5年(1379)の政変で頼之が失脚した後、春屋は再び入京、[[南禅寺]]住職として復帰した。その後、3代将軍[[足利義満>足利氏]]の帰依を受け、初代の僧録となる。晩年は[[相国寺]]の初代住職となったが、落慶に間に合わず示寂した。
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
臨済禅・黄檗禅オフィシャル http://www.rinnou.net/
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&sizex(6){&bold(){春屋妙葩}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){春屋妙葩}(しゅんおくみょうは・しゅんのくみょうは)は室町時代の[[臨済宗]]の禅僧で、[[天龍寺]]や[[臨川寺>天龍寺]]の住職を歴任。師である[[夢窓疎石]]を勧請開山とし、第二世住職(事実上の開山)として[[相国寺]]を開き、臨済宗五山派を興して五山版の刊行なども行い、五山文化の発展に寄与した。諡号は知覚普明国師。応長元年~元中5年/嘉慶2年(1311~1388)
&sizex(5){&color(red){人物史}}
甲斐国(山梨県)の生まれで、姓は平氏。7歳のとき、母方の叔父である[[夢窓疎石]]について出家。[[夢窓>夢窓疎石]]に随侍し己事の究明に励んだ。観応2年(1351)に[[夢窓>夢窓疎石]]が77歳で没すると、すでに一流の禅僧に成長していた春屋は、『[[夢窓国師>夢窓疎石]]年譜』を撰し、教えを集めた法語集『西山夜話』を世に出した。室町幕府初代将軍[[足利尊氏>足利氏]]は[[夢窓>夢窓疎石]]の後継者として春屋に目をつけ、延文2年(1357)には[[等持寺>等持院]]に請じている。同3年に[[天龍寺]]が焼失した際は、自ら復興の幹事を務め、土木の労役の先頭に立った。その熱意と誠意でほどなく旧観に復したという。康安元年(1361)に今度は[[臨川寺>天龍寺]]が災いにあうと、同門諸老の間に「春屋でなければとても復興の見込みなし」との意見が一致。春屋は再三辞退したものの、11月に住職を託され復興工事を完成されるに至った。[[天龍寺]]の住職当時、五山第一の[[南禅寺]]造営の命を受けたが、楼門(山門)の新築に際しての関銭徴収をめぐって園城寺(三井寺)が抗議。[[比叡山>延暦寺]]の門徒もこれに加わり楼門撤去や春屋の配流を求めたことから、紛争は政治問題にまで発展した。応安2年/長慶24年(1369)に幕府管領の細川頼之は楼門を撤去させる。春屋は頼之と対立して[[天龍寺]]住職を辞し、勝光院、さらに丹後国の雲門寺にへ隠棲し、和解をも拒否。康暦元年/天授5年(1379)の政変で頼之が失脚した後、春屋は再び入京、[[南禅寺]]住職として復帰した。その後、3代将軍[[足利義満>足利氏]]の帰依を受け、初代の僧録となる。晩年は[[相国寺]]の初代住職となったが、落慶に間に合わず示寂した。
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
臨済禅・黄檗禅オフィシャル http://www.rinnou.net/
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