「千本釈迦堂」(2008/09/26 (金) 11:22:39) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){大報恩寺(千本釈迦堂)}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『日本歴史地名大系』27(平凡社・1979)、竹内秀雄『天満宮』(吉川弘文館・1968)、『日本美術全集』10(講談社・1991)、『古写経』(京都国立博物館・2004)
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){大報恩寺}(だいほうおんじ)は、京都市上京区溝前町にある[[真言宗]]智山派の寺院。俗に&bold(){千本釈迦堂}(せんぼんしゃかどう)、北野釈迦堂とも呼ばれる。山号は瑞応山、本尊は[[釈迦如来]]。本堂は旧京都市街に現存する本堂建築としては最も古く、また重要文化財の仏像19躯を有する中世彫刻の宝庫でもある。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
承久3年(1221)に猫間中納言[[藤原光隆>藤原氏]]の従者、岸高が藤原秀衡の孫にあたる僧、求法上人義空に土地を寄進し、小堂に仏像を安置したことに始まる。昭和26年(1951)の解体修理で発見された義空の願文によれば、上棟は安貞元年(1227)2月26日である。嘉禎元年(1235)に綸命を受け、倶舎・[[天台>天台宗]]・[[真言>真言宗]]三宗弘通(ぐずう)の道場となったが、その後[[天台宗]]となり、近世初期には庶民の信仰を集めた。天正9年(1581)には[[豊臣秀吉>豊臣氏]]より寺領100石を朱印され、江戸時代にも同石高の朱印を受けているが、住僧の違法を理由に京都所司代の板倉勝重によって[[真言宗]]に改宗された。創建当初の伽藍はつまびらかでない。釈迦堂や能登守平教経が幼時、筆法を学んだと伝える方丈養坊、仏舎利供灯明料を施入された金安院等があったとされるが、釈迦堂のみを残して[[応仁の乱]]や享保15年(1730)の大火で焼失。現在に至っている。また近隣の[[北野天神>北野天満宮]]([[北野天満宮]])門前にあった北野経王堂の遺物も保管されている。北野経王堂は、室町幕府3代将軍[[足利義満>足利氏]]が明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者を悼んで応永8年(1401年)に建立したものであったが、明治の神仏分離によって破却された。
#blockquote(){本堂建立の際のエピソードとして以下のおかめ伝説が残されている。「大工の棟梁であった長井高次が柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組(ますぐみ)を用いたらどうかとアドバイスし、無事に竣工することができた。おかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと、上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り、宝篋印塔(おかめ塚)を建て、上棟式の当日、御幣の先にお多福(おかめ)の面を飾り冥福を祈った」。その後の度重なる戦禍から奇跡的に逃れた本堂に因み、厄除けと招福にご利益がある「おかめ信仰」が生まれたという。}
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***本堂(釈迦堂)
鎌倉時代の建築で、入母屋造、檜皮葺、寝殿造の様式を備える。延喜には貞応2年(1223)の建立とされるが、棟木に安貞元年(1227)の銘があり、建立年代が特定できる京都の本堂建築としては最も古い。寛文年間(1661~1673)や延享年間(1744~1748)、明治31年(1898)に修理が行われ、昭和29年(1954)の解体修理によって建立当初の姿に復元された。奥行二間の外陣は大虹梁をかけて正面2本の柱を抜く構造で、この形式は以後中世[[密教]]本堂の典型となる。厨子も堂と同時期のもので、内部には[[快慶>慶派]]の弟子、[[行快>慶派]]の作である本尊の秘仏[[釈迦如来]]坐像を安置する。
***観音堂(経王堂)
本堂西南に位置する。明徳3年(1392)に[[足利義満>足利氏]]が明徳の乱に敗死した山名氏清を弔って建立した経王堂が廃寺となり、その廃材で再建された。正面には[[義満>足利氏]]筆の「経王堂」の額が残る。観音堂右手にある山名氏清碑は延宝5年(1677)に氏清の末裔が祖跡の隠滅を恐れて建てたという。
***霊宝館
本堂の北西に建つ。内部には釈迦十大弟子像や六観音像を中心に多数の諸仏や経王堂の遺物を安置する。釈迦十大弟子像は[[快慶>慶派]]晩年の作。各像とも前後に材を矧ぐ寄木造で、表面の彩色や截金文様がよく残っている。六観音像は、[[聖観音]]、[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[如意輪観音]]、[[馬頭観音]]、[[准胝観音]]の6躯。作風には宋風が顕著で、写実的な表情と複雑な衣文が特色であり、等身大の六観音像が揃って残るのは珍しい。寺伝によると「経王堂に祀られていたものが寛文年間(1655~1672)に本寺に移された」とあるが、実際には明治の廃仏毀釈によって経王堂の諸仏が近隣であった当寺に遷されたことによる。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
本堂
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
木造[[釈迦如来]]坐像([[行快>慶派]]作) 木造十大弟子立像([[快慶]]作) 木造六観音菩薩像 木造[[千手観音]]立像 銅造[[誕生釈迦仏>釈迦如来]]立像 北野経王堂一切経(漆塗経箱・木造傳大士及び二童子像・経王堂覚蔵坊関係文書) 鼉太鼓縁
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市上京区今出川七本松上ル溝前町1305
電話番号 075-461-5973
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 境内自由、本堂・霊宝館拝観500円
アクセス 市バス「上七軒」下車徒歩3分
駐車場 無料駐車場あり
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「( )の大根焚きは、三世慈禅が大根の切り口を鏡に見立て、面に梵字を書き、諸病退散を祈ったことにはじまる。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「(京都府下の)現存する最古の木造建築物として国宝に指定されているのはどれか。 (ア)法界寺阿弥陀堂 (イ)平等院鳳凰堂 (ウ)大報恩寺本堂 (エ)醍醐寺五重塔」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
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&sizex(6){&bold(){大報恩寺(千本釈迦堂)}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『日本歴史地名大系』27(平凡社・1979)、竹内秀雄『天満宮』(吉川弘文館・1968)、『日本美術全集』10(講談社・1991)、『古写経』(京都国立博物館・2004)
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){大報恩寺}(だいほうおんじ)は、京都市上京区溝前町にある[[真言宗]]智山派の寺院。俗に&bold(){千本釈迦堂}(せんぼんしゃかどう)、北野釈迦堂とも呼ばれる。山号は瑞応山、本尊は[[釈迦如来]]。本堂は旧京都市街に現存する本堂建築としては最も古く、また重要文化財の仏像19躯を有する中世彫刻の宝庫でもある。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
承久3年(1221)に猫間中納言[[藤原光隆>藤原氏]]の従者、岸高が藤原秀衡の孫にあたる僧、求法上人義空に土地を寄進し、小堂に仏像を安置したことに始まる。昭和26年(1951)の解体修理で発見された義空の願文によれば、上棟は安貞元年(1227)2月26日である。嘉禎元年(1235)に綸命を受け、倶舎・[[天台>天台宗]]・[[真言>真言宗]]三宗弘通(ぐずう)の道場となったが、その後[[天台宗]]となり、近世初期には庶民の信仰を集めた。天正9年(1581)には[[豊臣秀吉>豊臣氏]]より寺領100石を朱印され、江戸時代にも同石高の朱印を受けているが、住僧の違法を理由に京都所司代の板倉勝重によって[[真言宗]]に改宗された。創建当初の伽藍はつまびらかでない。釈迦堂や能登守平教経が幼時、筆法を学んだと伝える方丈養坊、仏舎利供灯明料を施入された金安院等があったとされるが、釈迦堂のみを残して[[応仁の乱]]や享保15年(1730)の大火で焼失。現在に至っている。また近隣の[[北野天神>北野天満宮]]([[北野天満宮]])門前にあった北野経王堂の遺物も保管されている。北野経王堂は、室町幕府3代将軍[[足利義満>足利氏]]が明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者を悼んで応永8年(1401年)に建立したものであったが、明治の神仏分離によって破却された。
#blockquote(){本堂建立の際のエピソードとして以下のおかめ伝説が残されている。「大工の棟梁であった長井高次が柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組(ますぐみ)を用いたらどうかとアドバイスし、無事に竣工することができた。おかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと、上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り、宝篋印塔(おかめ塚)を建て、上棟式の当日、御幣の先にお多福(おかめ)の面を飾り冥福を祈った」。その後の度重なる戦禍から奇跡的に逃れた本堂に因み、厄除けと招福にご利益がある「おかめ信仰」が生まれたという。}
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***本堂(釈迦堂)
鎌倉時代の建築で、入母屋造、檜皮葺、寝殿造の様式を備える。延喜には貞応2年(1223)の建立とされるが、棟木に安貞元年(1227)の銘があり、建立年代が特定できる京都の本堂建築としては最も古い。寛文年間(1661~1673)や延享年間(1744~1748)、明治31年(1898)に修理が行われ、昭和29年(1954)の解体修理によって建立当初の姿に復元された。奥行二間の外陣は大虹梁をかけて正面2本の柱を抜く構造で、この形式は以後中世[[密教]]本堂の典型となる。厨子も堂と同時期のもので、内部には[[快慶>慶派]]の弟子、[[行快>慶派]]の作である本尊の秘仏[[釈迦如来]]坐像を安置する。
***観音堂(経王堂)
本堂西南に位置する。明徳3年(1392)に[[足利義満>足利氏]]が明徳の乱に敗死した山名氏清を弔って建立した経王堂が廃寺となり、その廃材で再建された。正面には[[義満>足利氏]]筆の「経王堂」の額が残る。観音堂右手にある山名氏清碑は延宝5年(1677)に氏清の末裔が祖跡の隠滅を恐れて建てたという。
***霊宝館
本堂の北西に建つ。内部には釈迦十大弟子像や六観音像を中心に多数の諸仏や経王堂の遺物を安置する。釈迦十大弟子像は[[快慶>慶派]]晩年の作。各像とも前後に材を矧ぐ寄木造で、表面の彩色や截金文様がよく残っている。六観音像は、[[聖観音]]、[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[如意輪観音]]、[[馬頭観音]]、[[准胝観音]]の6躯。作風には宋風が顕著で、写実的な表情と複雑な衣文が特色であり、等身大の六観音像が揃って残るのは珍しい。寺伝によると「経王堂に祀られていたものが寛文年間(1655~1672)に本寺に移された」とあるが、実際には明治の廃仏毀釈によって経王堂の諸仏が近隣であった当寺に遷されたことによる。
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***国宝
本堂
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
木造[[釈迦如来]]坐像([[行快>慶派]]作) 木造十大弟子立像([[快慶]]作) 木造六観音菩薩像 木造[[千手観音]]立像 銅造[[誕生釈迦仏>釈迦如来]]立像 北野経王堂一切経(漆塗経箱・木造傳大士及び二童子像・経王堂覚蔵坊関係文書) 鼉太鼓縁
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住所 京都市上京区今出川七本松上ル溝前町1305
電話番号 075-461-5973
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 境内自由、本堂・霊宝館拝観500円
アクセス 市バス「上七軒」下車徒歩3分
駐車場 無料駐車場あり
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***京都検定出題
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「( )の大根焚きは、三世慈禅が大根の切り口を鏡に見立て、面に梵字を書き、諸病退散を祈ったことにはじまる。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「(京都府下の)現存する最古の木造建築物として国宝に指定されているのはどれか。 (ア)法界寺阿弥陀堂 (イ)平等院鳳凰堂 (ウ)大報恩寺本堂 (エ)醍醐寺五重塔」
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