「詩仙堂」(2008/12/02 (火) 16:53:47) の最新版変更点
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&sizex(6){&bold(){丈山寺(詩仙堂)}}
出典: 石川琢堂編『詩仙堂』(詩仙堂丈山寺・1971)、山本四郎『石川丈山と詩仙堂』(私家版・2002)、久恒秀治『京都名園史』中(誠文堂新光社・1968)
&ref(shisendo.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){丈山寺}(じょうざんじ)は、京都市左京区一乗寺にある史跡で、現在は曹洞宗永平寺派の寺院。山号は六六山、開基(創立者)は石川丈山で、晩年の隠棲所であった。中国の詩人36人の肖像画を掲げた「詩仙の間」があることに因み「&bold(){詩仙堂}(しせんどう)」とも呼ばれる。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
石川丈山は三河国(現愛知県)の人で[[徳川家>徳川氏]]譜代の臣であったが、大坂夏の陣で抜駆けをして3人を討ち取ったため軍律違反の罪に問われて蟄居の身となり、[[妙心寺]]に入った。友人であった儒学者林羅山の勧めで藤原惺窩(ふじわらのせいか)に師事し、文武に優れると評判になる。老いた母のため一時期仕官したものの、のちに京都に隠棲し、終生風雅を友としたという。寛永17年(1640)に着工され、翌年に完成した草庵は、その地形より「凹凸窠(おうとつか)」と呼ばれた。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。詩仙の間には中国の詩仙36人の額が掲げられ、額は[[狩野探幽>狩野派]]・[[尚信>狩野派]]が肖像を描き、丈山が隷書で詩を書き入れたもの。詩仙は日本の三十六歌仙にならい、林羅山の意見をもとめながら、漢晋唐宋の各時代から選ばれた。庭園には凹凸窠十境と呼ばれる、小有洞(しょうゆうどう)・老梅関・詩仙堂・猟芸巣(りょうげいそう)・嘯月楼・膏肓泉(こうこうせん)・躍淵軒(やくえんけん)・洗蒙瀑(せんもうばく)・流葉陌(正しくはさんずいの右に陌、りゅうようはく)・百花塢(ひゃくかお)の要素がある。丈山は寛文12年(1672)に90歳で没するまで30余年間、この地に住んだ。隠遁の間も苛烈の気魂は衰えず、過言した商人を斬殺し、また川で米研ぎをしていた際に上流で小便をした少年を刺殺したという。丈山没後、門人平岩仙桂が継いだが、多くの人が丈山を慕ってここを訪れており、黒川道祐・尾形乾山・霊元天皇もここを訪れている。昭和38年(1963)に三十六詩仙の額が復元再興され、昭和41年(1966)に詩仙堂丈山寺と改称し、曹洞宗の寺院に改められた。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***詩仙堂
西から嘯月楼・詩仙堂・読書堂の各室が配置され、嘯月楼は3層となっている。上部檜皮葺、腰廻桟瓦葺。蜂要・半山床は文政7年(1824)に増築されたもの。
***庭園
[[蓮華寺]]庭園や[[酬恩庵>一休寺]]([[一休寺]])庭園、[[渉成園]]([[枳殻邸>渉成園]])などの作庭・改修に関わったとされる丈山の設計による庭園。建物南側の平坦部に白砂を敷き、奥にはさつきの刈り込みを配する。刈り込みの先にある下庭には、丈山が接ぎ木したとされる朝鮮松や添水(そうず=ししおどし)がある。添水は玄賓僧都がその創始者とされ、僧都を添水と洒落たもの。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
なし
***史跡
詩仙堂 石川丈山墓
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市左京区一乗寺門口町27
電話番号 075-781-2954
拝観時間 9:00~17:00(受付終了16:45)
拝観料 500円
アクセス 市バス「一乗寺下り松町」下車徒歩5分
駐車場 徒歩圏内(約1分)に私営駐車場あり(500円)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「徳川家康の側近であった石川丈山が、隠居所として建てた草庵に始まる寺院はどこか。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
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&sizex(6){&bold(){丈山寺(詩仙堂)}}
出典: 石川琢堂編『詩仙堂』(詩仙堂丈山寺・1971)、山本四郎『石川丈山と詩仙堂』(私家版・2002)、久恒秀治『京都名園史』中(誠文堂新光社・1968)
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&bold(){丈山寺}(じょうざんじ)は、京都市左京区一乗寺にある史跡で、現在は曹洞宗永平寺派の寺院。山号は六六山、開基(創立者)は石川丈山で、晩年の隠棲所であった。中国の詩人36人の肖像画を掲げた「詩仙の間」があることに因み&bold(){詩仙堂}(しせんどう)とも呼ばれる。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
石川丈山は三河国(現愛知県)の人で[[徳川家>徳川氏]]譜代の臣であったが、大坂夏の陣で抜駆けをして3人を討ち取ったため軍律違反の罪に問われて蟄居の身となり、[[妙心寺]]に入った。友人であった儒学者林羅山の勧めで藤原惺窩(ふじわらのせいか)に師事し、文武に優れると評判になる。老いた母のため一時期仕官したものの、のちに京都に隠棲し、終生風雅を友としたという。寛永17年(1640)に着工され、翌年に完成した草庵は、その地形より「凹凸窠(おうとつか)」と呼ばれた。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。詩仙の間には中国の詩仙36人の額が掲げられ、額は[[狩野探幽>狩野派]]・[[尚信>狩野派]]が肖像を描き、丈山が隷書で詩を書き入れたもの。詩仙は日本の三十六歌仙にならい、林羅山の意見をもとめながら、漢晋唐宋の各時代から選ばれた。庭園には凹凸窠十境と呼ばれる、小有洞(しょうゆうどう)・老梅関・詩仙堂・猟芸巣(りょうげいそう)・嘯月楼・膏肓泉(こうこうせん)・躍淵軒(やくえんけん)・洗蒙瀑(せんもうばく)・流葉陌(正しくはさんずいの右に陌、りゅうようはく)・百花塢(ひゃくかお)の要素がある。丈山は寛文12年(1672)に90歳で没するまで30余年間、この地に住んだ。隠遁の間も苛烈の気魂は衰えず、過言した商人を斬殺し、また川で米研ぎをしていた際に上流で小便をした少年を刺殺したという。丈山没後、門人平岩仙桂が継いだが、多くの人が丈山を慕ってここを訪れており、黒川道祐・尾形乾山・霊元天皇もここを訪れている。昭和38年(1963)に三十六詩仙の額が復元再興され、昭和41年(1966)に詩仙堂丈山寺と改称し、曹洞宗の寺院に改められた。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***詩仙堂
西から嘯月楼・詩仙堂・読書堂の各室が配置され、嘯月楼は3層となっている。上部檜皮葺、腰廻桟瓦葺。蜂要・半山床は文政7年(1824)に増築されたもの。
***庭園
[[蓮華寺]]庭園や[[酬恩庵>一休寺]]([[一休寺]])庭園、[[渉成園]]([[枳殻邸>渉成園]])などの作庭・改修に関わったとされる丈山の設計による庭園。建物南側の平坦部に白砂を敷き、奥にはさつきの刈り込みを配する。刈り込みの先にある下庭には、丈山が接ぎ木したとされる朝鮮松や添水(そうず=ししおどし)がある。添水は玄賓僧都がその創始者とされ、僧都を添水と洒落たもの。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
なし
***史跡
詩仙堂 石川丈山墓
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市左京区一乗寺門口町27
電話番号 075-781-2954
拝観時間 9:00~17:00(受付終了16:45)
拝観料 500円
アクセス 市バス「一乗寺下り松町」下車徒歩5分
駐車場 徒歩圏内(約1分)に私営駐車場あり(500円)
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***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「徳川家康の側近であった石川丈山が、隠居所として建てた草庵に始まる寺院はどこか。」
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