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豊臣氏


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豊臣氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
豊臣氏 (とよとみし)は、豊臣の姓を下賜された氏族で、豊臣は関白となって政権を掌握した羽柴秀吉に与えられた本姓。公卿の姓である源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏?・橘氏の総称)や菅原氏・賀茂氏・中原氏・大江氏などと並ぶ新姓として朝廷から天正14年(1586)に下賜されたことに始まる。平民の出自である秀吉は本能寺の変や山崎の戦いを経て天下統一に乗り出す。一門衆家臣団を持たなかった秀吉は、有力家臣である大名や全ての武家に任官の際に豊臣朝臣を賜姓授与し、羽柴の名字を与えて「羽柴何豊臣朝臣某」と名乗らせて一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治した。秀吉は弟秀長や甥秀次を後見に実子鶴松を後継者と定めていたが、天下統一を果たした直後に秀長、鶴松を相次いで失う。朝鮮出兵に加えて関白職を譲った秀次を実子秀頼との後継者問題で切腹させるなど混乱が続いたため、秀吉の死後は徳川家康が台頭し、関ヶ原の戦いで豊臣政権擁護派の諸大名を家康に打倒されて政権の座を失う。慶長19~20年(1614~1615)の大坂の役で大坂城を家康に攻められ秀頼は自害、秀頼の遺児国松は、同年に三条河原にて処刑され、ここに秀吉の興した豊臣宗家は断絶した。わずかに豊臣氏の系譜を継ぐのは、秀吉の正妻ねねが晩年に養子に迎えた木下利次(ねねの兄・木下家定の次男利房の子)である。

人物史

豊臣秀吉・羽柴秀吉(とよとみのひでよし・はしばひでよし)   天文6年~慶長3年(1537~1598)

尾張国(現愛知県)に木下弥右衛門の子として生まれた。はじめ藤吉郎と名乗り今川氏に仕えたが、天文23年(1554)頃から織田信長に仕える。清洲城の普請奉行や台所奉行などを引き受けて大きな成果をあげ、次第に家中で頭角をあらわす。永禄4年(1561)に浅野長勝の養女ねね(北政所・高台院)と結婚。永禄11年(1568)、信長の上洛に際して明智光秀らとともに京の政務を任され、当時の文書に秀吉の名乗りが見られる。天正元年(1573)に浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江に封ぜられ、今浜の地を長浜と改称して長浜城主となる。この頃、織田家重臣の丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めている。天正10年(1582)に織田信長が本能寺において明智光秀の謀反により殺されたため(本能寺の変)、備中高松城を攻めていた秀吉は敵と講和して京に軍を返し、山崎の戦いで光秀を破って京の支配権を掌握した。その後、柴田勝家ら反秀吉陣営を次々に滅ぼし、信長の後継者としての地位を確立。天正13年(1585)に近衛前久?の猶子として関白宣下を受け、翌年9月には豊臣の姓を賜る。12月には太政大臣に就任して豊臣政権を樹立した。天正14年(1586)、秀吉の政庁兼邸宅として京に聚楽第が着工され翌年完成、ここで政務をみた。天正16年(1588)には後陽成天皇の行幸を迎えて饗応し、天正少年使節や徳川家康との謁見もここで行われた。天正18年(1590)には北条氏を小田原城に包囲し、上杉謙信や武田信玄も落とせなかった堅城・小田原城を三ヶ月の籠城戦ののちに下し、全国統一を成し遂げた。百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。天正19年(1591)には関白を甥の秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。またこの頃に秀吉に仕えていた茶人千利休?に自害を命じている。文禄元年(1592)から朝鮮半島への出兵を行う。文禄2年(1593)に側室の淀殿との間に秀頼が産まれたため、その2年後に「『殺生関白』(摂政関白のもじり)と呼ばれるほどの過ぎた乱行」を理由として関白秀次に切腹を命じた。秀次の妻子らも処刑して三条河原に晒し、秀次のものとなっていた聚楽第を破却して建物の一部を秀吉の隠居所とした築かれた伏見城に移築させるなど、この頃から衰えが目立ち始める。慶長3年(1598)8月18日、伏見城にて五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して没する。享年61。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。秀吉の墓は京都東山の阿弥陀ヶ峰の地に築かれたものの、朝鮮戦役の引き上げによる混乱の為、葬儀は遂に行なわれることがなかった。秀吉は豊国大明神として豊国神社に祀られたが、豊臣家滅亡後、徳川家康により全ての建造物は破却され、大明神の号も剥奪された。

豊臣秀長・羽柴秀長(とよとみのひでなが・はしばひでなが)   天文9年~天正19年(1540~1591)

秀吉の異父弟といい、秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて兄の天下統一に貢献。大和国(現奈良県)を中心に100万石近い領地を支配し、大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。温厚な人柄で兄の補佐役に徹し、後には大名からも頼りにされる人格者であった。大友宗麟は秀長を評して「内々の儀は宗易(千利休?)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたという。 天正18年(1590)頃から病が悪化、小田原征伐には参加できなかった。同年10月には羽柴秀次が秀長の病気本復を祈願するため談山神社に訪れたといい、両者の関係も良かったと思われる。天正19年(1591)1月に郡山城で病死、享年52。菩提寺は大徳寺大光院。秀吉の朝鮮出兵には終始反対し、生存中は兄を諌めることができたが、秀長の死後、秀吉は朝鮮出兵や千利休?切腹、豊臣秀次事件などの愚行を次々に起こす。男子がいなかったため、家督は甥の秀保が養嗣子として継いだ。有力な家臣に藤堂高虎や島清興(嶋左近)がいる。両者は秀保の死後、関ヶ原の戦いで東軍・西軍に分かれて戦うことになる。

豊臣秀次・羽柴秀次(とよとみのひでつぐ・はしばひでつぐ)   永禄11年~文禄4年(1568~1595)

秀吉の姉、とも(日秀)の子で、のちに秀吉の養子となる。秀吉の数少ない縁者として重用された。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康軍に惨敗して秀吉から激しく叱責されるも、天正13年(1585)の紀伊雑賀攻めと四国征伐で軍功を挙げ、近江八幡に43万石を与えられた。天正19年(1591)に秀吉の養子となり、同年12月には秀吉の後継者として関白職を継ぐ。朝鮮出兵に専念する秀吉の代わりに内政を司り、聚楽第に居住した。しかし文禄2年(1593)に秀吉に秀頼が生まれると次第に疎まれるようになり、秀次自身も将来に不安を感じて奇行を繰り返すようになったという。文禄4年(1595)に高野山に追放され、同年7月に切腹を命じられた。享年28。秀次の遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら39名が処刑されて三条河原に晒され、さらに秀次に関係した大名は切腹もしくは追放、聚楽第も破却された。三条河原に近い瑞泉寺には秀次と処刑された人々の墓がある。

豊臣秀頼(とよとみのひでより)   文禄2年~慶長20年?(1593~1615?)

幼名は拾丸(ひろいまる)、母は秀吉の側室の茶々(淀殿)。秀吉57歳のときの子で、大坂城で生まれたとされているが、秀吉の他の大勢の側室に子ができなかったことから、当時から秀吉の実子ではないとの噂が絶えなかった。文禄4年(1595)に豊臣秀次が失脚したため秀吉の後継者として育てられた。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立されるも敗北、全国に220万石あった所領を没収され摂津・河内・和泉の65万石まで減らされてしまう。慶長8年(1603)には家康が征夷大将軍に任じられ、秀頼は実質的に権力の座から外された。この頃から方広寺?相国寺教王護国寺東寺)、北野天満宮?などの寺院に対する寄進・再建が頻繁になる(通説では豊臣家の莫大な蓄銭を浪費させるための徳川方の策謀といわれる)。同年に秀吉の遺言もあり徳川秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹・於江与)と結婚し、表面上は和解。慶長16年(1611)に上洛し、二条城家康との会見を行った。慶長19年(1614)に起こった方広寺?鐘銘事件をきっかけに家康と決裂、大坂の役が勃発する。大坂夏の陣で大坂城を攻め落とされ、秀頼、淀殿らは炎上する城内で自害したという。享年23。墓所は養源院?清凉寺にある。小柄なお坊ちゃまというイメージが強いが、実際は並外れた巨漢であったという。身長が5尺(約152cm)も無いといわれ、小柄な武将で有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因になっている。ただし祖父浅井長政や祖母お市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。こうした説の正当性を示す根拠は存在せず、江戸時代以降に豊臣家と縁故の武将の地位を不当に貶めるために、殊更論われたともいわれている。

北政所・高台院(きたのまんどころ・こうだいいん)   天文11年?~寛永元年(1542?~1624)

尾張国の杉原(木下)定利の次女として生まれ、叔母の嫁ぎ先の浅野長勝の養女となる。名は一般的に「ねね」とされるが、秀吉や高台院の署名などにおね、祢 (ね)、寧(ねい)と言う表記があるため「おね」と呼ばれることも多い。永禄4年(1561)に秀吉に嫁ぐ。政略結婚が普通であった当時、秀吉とは珍しい恋愛結婚だったといわれており、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。天正13年(1585)、秀吉が関白に任官したことに伴い、従三位に叙せられ、北政所と称した。関白就任後の秀吉に対し、諸大名の面々の前で尾張訛りの口喧嘩をしたとの逸話もある通り、気の強い女性であったという。慶長3年(1598)に秀吉が没すると落飾し、高台院湖月尼と称した。慶長10年(1605)に秀吉の冥福を祈るために家康に諮り、高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。大坂の役で豊臣氏が滅亡したのち、寛永元年(1624)に死去。近年、高台寺周辺の参道が整備され、「ねねの道」の愛称で親しまれている。

淀殿(よどどの)   永禄12年?~慶長20年?(1569?~1615?)

秀吉の側室で、本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)。近江の戦国大名・浅井長政の娘で、母は織田信長の妹のお市。同母妹に初(常高院、京極高次正室)と於江与(崇源院、徳川秀忠正室)がいる。また秀吉との子に棄丸(鶴松、夭折)と拾丸(秀頼)がいる。通称は淀の方、西の丸殿、二の丸殿などが知られる。現在最も一般的に用いられる淀殿の名は同時代の史料には一切見られず、後世の呼び名である可能性が高い。天正16年(1588)頃、秀吉の側室となる。秀吉は母お市の方に憧れていたといい、三姉妹の中では母の面影を一番受け継いでいた長女茶々を側室に迎えたという。天正17年(1589)に棄丸を懐妊したことを喜んだ秀吉から淀城を賜り、以後淀の方と呼ばれるようになった。秀頼を出産した際に父母の菩提を弔うために養源院?を建立。秀吉の死後は秀頼の後見人として豊臣家の実権を握った。慶長19年(1614)と慶長20年(1615)の大坂の役で徳川勢に敗北し、大坂城落城に際して秀頼と共に自害したとされる。墓所は養源院?と大阪市の太融寺にある。

その他

京都検定出題

平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「大徳寺は(中略)安土桃山時代には(  )が織田信長の葬儀を行い(後略) (ア)豊臣秀吉 (イ)後陽成天皇 (ウ)柴田勝家 (エ)徳川家康」
「醍醐寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)山の上の上醍醐と山の下の下醍醐からなる寺院である (イ)秀吉の醍醐の花見で知られる桜の名所である (ウ)国宝の金堂、五重塔は上醍醐にある (エ)塔頭の三宝院の表書院は桃山時代の書院造の遺構として知られる」

平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「寺町通の名前の由来は、都市改造政策によって洛中に散在する寺院をこの地に集中させたことによるが、この政策を行ったのは誰か。」
「西本願寺は(中略)天正19年(1591)に(  )が現在地に寺地を寄進し(後略) (ア)豊臣秀吉 (イ)豊臣秀頼 (ウ)豊臣秀次 (エ)豊臣秀吉の夫人北政所」
「高台寺は、豊臣秀吉の菩提を弔うため、妻の北政所が創建した寺院であるが、前身は北政所が生母のために建立した寺院である。その寺院は何というか。」

平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「天正15年(1587)、豊臣秀吉が平安時代の内裏跡である内野に築造した居館の名称はどれか。」
「ねねの道とは、(  )の正室が高台寺で余生を送ったことにちなんで名づけられた。」
「北野天満宮について、誤っているものを選びなさい。 (ア)祭神である菅原道真の怨霊を鎮めるために建立された (イ)古くから、学問・文芸の神として信仰されている (ウ)中門は、太陽、月、星の彫刻から別名「三光門」とも称される (エ)現在の社殿は、豊臣秀吉が片桐且元を奉行に再興したものである」

平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「秀吉が行った京都の都市改造政策を、具体的に5つ書きなさい。」

平成18年(2006)第3回京都検定1級出題
「天正16年(1588)、豊臣秀吉が造営した聚楽第に行幸した天皇は誰か。」


そうだ 京都、行こう。


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