京都観光データベース@ wiki

延暦寺


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

延暦寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
延暦寺 (えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にある天台宗?の本山寺院。山号は比叡山、本尊は薬師如来、開基(創立者)は最澄。標高848.3mの比叡山全域を境内とし、「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内の東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三塔と、東塔の北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷、西塔の東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷、横川の香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷の十六谷に点在する堂塔の総称である。滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群がある。日本仏教の代表的な聖地であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。

歴史
比叡山は古代から山岳信仰の山であり、東麓にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。延暦寺は、延暦7年(788)最澄が現在の根本中堂の地に営んだ小堂がその起源である。最澄は薬師堂、文殊堂、経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。時の桓武天皇は最澄に帰依し、延暦25年(806)に日本天台宗?の開宗が正式に許可された。天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。一乗止観院は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824)のこととなる。
延暦寺は日本仏教史に残る数々の名僧を輩出している。円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)はどちらも入唐して多くの仏典を将来し、比叡山の密教?の発展に尽くした。また、「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建、寺内の規律維持、学業の発展に尽くした。他に比叡山で修行した著名な僧としては、『往生要集』の著者・源信恵心僧都)、融通念仏?の唱導者・良忍(聖応大師)、日本浄土宗?の開祖・法然?、日本臨済宗?の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、浄土真宗?の開祖・親鸞?、日蓮宗の開祖・日蓮。
その後比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、武装化した法師の中から「僧兵」が現われてくる。延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力を持った白河法皇も思いのままにならぬものとして「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」を挙げている。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をもって強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物流を握ることによる財力をも持っており、一種の独立国のような状態となる。
初めて延暦寺を制圧しようとしたのは室町幕府6代将軍の足利義教である。永享7年(1435)、度重なる制圧をことごとく失敗していた義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢は変わらず、絶望した僧侶たちは根本中堂に火を放って焼身自殺した。その際円珍以来の仏像がほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、また、宝徳2年(1450)にわずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元させた。
戦国末期に織田信長が京周辺を制圧し、足利義昭との政治的対立を起こすと、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。信長は元亀2年(1571)に延暦寺に武装解除を通達、これを拒否されたのを受け、9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。延暦寺の堂塔は炎上し、多くの僧侶が殺害された。京から比叡山の炎上の光景がよく見えたようで、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている。
信長の死後、豊臣秀吉徳川家康らによって各僧坊は再建された。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、宗務の実権は江戸に移ることとなった。

伽藍(東塔)
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。

根本中堂

最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は寛永19年(1642)に徳川家光によって再建されたもの。入母屋造、栩葺(とちぶき=サワラの割り板葺)を模した銅版葺で内外は総丹塗り。周囲には幅37.5m、奥行23.9m、棟高24.2mの大建築である。内部は内陣・中陣・外陣に分かれており、中陣・外陣は板葺だが、内陣は外陣より3m低く、石敷きの土間になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある薬師如来立像を安置する。絶対秘仏だが、開創千二百年記念の昭和63年(1988)に開扉された。本尊厨子前の釣灯籠に灯るのが、最澄の時代から絶やしたことがないという「不滅の法灯」である。

総門文殊楼

寛文8年(1668)の火災後の再建。二階建ての門で、楼上に文殊菩薩を安置する。他の寺院における山門にあたる。

大講堂

寛永11年(1634)の建築。もとは坂本の東照宮の讃仏堂であったものを昭和39年(1964)に移築した。旧大講堂は昭和26年(1951)に火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然?親鸞?、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。

法華総持院東塔

昭和55年(1980)再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形をしている。下層内陣には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置。

戒壇院

授戒・説戒が行われる建物で、延宝6年(1678年)の再建。 3間四方、栩葺で宝形造。裳階があるため外観は二重屋根に見える。建築様式は桟唐戸や花頭窓を用いるなど禅宗様であるが、やや趣が異なり簡素な組物が使われている。

国宝殿

山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。

無動寺明王堂

根本中堂から南へ1.5kmほど離れたところにあり、千日回峰行の拠点である。貞観7年(865)、回峰行の創始者とされる相応和尚が創建した。不動明王が祀られている。

伽藍(西塔)
根本中堂から東海自然歩道を30分ほど歩いた所にある。転法輪堂(釈迦堂)を中心として、杉木立に囲まれた堂宇が点在する。瑠璃堂は信長の焼き討ちを逃れた唯一の遺構(異説有)。

転法輪堂(釈迦堂)

最澄自作と伝わる本尊釈迦如来立像を安置することから、一般に釈迦堂の名で呼ばれる西塔の中心堂宇。信長の焼き討ち後の文禄4年(1595)、豊臣秀吉により園城寺(三井寺)中院の弥勒堂が移築されたもの。貞和3年(1347)の建造で山内では最古の建築物。

常行堂・法華堂(にない堂)

2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。共に栩葺、宝形造で桁行22.7m、梁間23mでほぼ正方形をなす。向かって左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、右が普賢菩薩を本尊とする法華堂。文禄4年(1595)の建築。堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「にない堂(担い堂)」の別称がある。常行三昧(90日間本尊の周りを歩き続ける)、法華三昧(ひたすら法華経を読誦する)と呼ばれる厳しい修行が行われる場所。

黒谷青龍寺

西塔地区から1.5kmほど離れた黒谷にあり、法然?が修行した場所として有名。本尊は阿弥陀如来像。慈恵大師良源の創建と伝える。浄土宗?では俗に元黒谷(もとくろだに)と呼ばれる。現在は知恩院が管理を行っている。

瑠璃堂

西塔地区から黒谷へ行く途中にある。様式上は室町時代の建築の特徴を備えるため、信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。入母屋造、檜皮葺。東塔の戒壇院と同様に禅宗様の手法が用いられている。内部には堂名の元ともなった本尊薬師瑠璃光如来が須弥壇に安置されている。

浄土院

西塔地区と東塔地区の中間にある。宗祖最澄の御廟があり、山内で最も神聖な場所とされている。ここには12年籠山修行の僧がおり、最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されている。

伽藍(横川)
西塔から北東4km、東海自然歩道で1時間30分の距離にある。慈覚大師円仁によって開かれ、源信恵心僧都)をはじめ、親鸞?、日蓮、道元ら後世に名を残す僧が修行した。横川中堂を中心に、三塔のなかで最も宗教的な雰囲気が残っている。

横川中堂

延暦寺横川の中心となる堂で、嘉祥元年(848)に根本観音堂として創建された。信長の焼き討ち後、豊臣秀頼によって再建されたが、昭和17年(1942)に落雷で再び焼失、現在の堂は昭和46年(1971)に再建されたもの。懸崖に突き出した舞台造で、外観は鮮やかな朱塗り。本尊は聖観音?立像。

根本如法塔

横川中堂の北側にある朱塗りの多宝塔。円仁が天長年間(824~832)に法華経を書写し、これを如法堂に安置したとされている。以後、如法堂が横川における信仰の中心になった。現存の塔は大正14年(1925)の建造。本尊は釈迦如来、多寶如来の二仏。

元三大師堂(四季講堂)

慈恵大師(元三大師)良源の住居跡と伝わる。康保4年(967)、村上天皇の勅命で四季に法華経が講義されたことから、四季講堂と呼ばれるようになった。元三大師像を本尊とし「横川のお大師さん」と親しまれている。

恵心院

恵心僧都は、『往生要集』を著わし、現世の悪や浄土の美や地獄の恐ろしい有様を具体的に描きだし、浄行三昧念仏を唱えることにより、人々に極楽浄土への往生をすすめた人物。恵心院はその恵心僧都の旧跡といわれ、ここに籠もり仏堂修行と著述に専念したとされる。

比叡山行院

天台宗?の修行道場であり、一般観光客の立ち入りも禁止されている。

文化財

国宝

根本中堂 金銅経箱 宝相華蒔絵経箱 七条刺納袈裟・刺納衣 伝教大師請来目録 羯磨金剛目録(最澄筆) 天台法華宗年分縁起(最澄筆) 六祖恵能伝 伝教大師入唐牒 光定戒牒(嵯峨天皇宸翰)

重要文化財(建造物)

根本中堂回廊 転法輪堂(釈迦堂) 戒壇院 瑠璃堂 相輪橖(そうりんとう) 常行堂及び法華堂

重要文化財(美術工芸品)

木造釈迦如来立像(釈迦堂安置) 木造聖観音?立像(横川中堂安置) 木造光定大師立像(旧所在山麓大師堂) 木造不動明王二童子像(旧所在無動寺明王堂) 木造降三世明王立像(旧所在無動寺明王堂) 木造軍荼利夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂) 木造大威徳明王像(旧所在無動寺明王堂) 木造金剛夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂) 木造四天王立像(旧所在根本中堂) 木造四天王立像2躯(旧所在釈迦堂) 木造千手観音立像(旧所在山王院) 木造不動明王立像(旧所在飯室不動堂) 木造維摩居士坐像(青龍寺旧蔵) 木造慈恵大師坐像(青龍寺旧蔵) 木造慈恵大師坐像(本覚院旧蔵) 木造阿弥陀如来立像(滋賀院旧蔵) 木造吉祥天?立像(滋賀院旧蔵) 木造大黒天立像(律院旧蔵) 木造薬師如来坐像 絹本著色天台大師(智顗)像 絹本著色天台大師像 絹本著色相応和尚像 絹本著色不動明王三大童子五部使者像 絹本著色文殊菩薩像 絹本著色山王本地仏像 紙本著色山王霊験記  尾長鳥繍縁花文錦打敷 紺紙金銀交書法華経 紺紙銀字法華経 華厳要義問答 悉曇蔵 伝述一心戒文 延暦寺楞厳三昧院解 山門再興文書 道邃和尚伝道文 宗存版木活字(付属品共)ほか多数

史跡

延暦寺境内

拝観情報
住所 滋賀県大津市坂本本町4220
電話番号 077-578-0001
拝観時間 8:30~16:30(1月と2月 9:00~16:30、12月 9:00~16:00)
拝観料 550円(東塔・西塔・横川共通)
アクセス 京都・京阪バス「延暦寺バスセンター」下車
駐車場 駐車場あり(無料)、別途有料道路の通行料が必要

主な行事
12月31日~1月3日 修正会
1月3日 元三会
2月節分 節分会
3月13日 世界平和祈願大護摩供
3月彼岸 彼岸会
4月4日~11日 御衣加持御修法(ぎょいかじみしほ)
4月14日 日吉山王祭奉幣
4月18日 慈恵大師御影供
4月20日~21日 山家会
4月22日 聖徳太子講式
4月下旬~5月上旬 桜まつり
5月8日 灌仏会・舎利会
5月14日 慈覚大師御影供
5月17日 桓武天皇講
5月26日 山王礼拝講
6月3日 伝教大師御影供
6月4日 長講会
6月10日 恵心講
6月の土日6回 結縁灌頂
7月3日~8日 如法写経会
8月13日~16日 盂蘭盆会
8月21日~25日 戸津説法
10月8日 本願講・夜叉供
10月20日~22日 仏名会
10月23日~24日 天台会
10月26日~27日 円頓授戒会
10月下旬~11月下旬 紅葉まつり

5年に1回  法華大会

その他

ライトアップ・夜間拝観

根本中堂周辺が8月9日~11日の期間にライトアップされる。

京都検定出題

平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「延暦寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)比叡山で修行した親鸞が、薬師堂を建立したのに始まる (イ)元亀2年(1571)織田信長の焼き討ちにより焼失、その復興は徳川家光の時代までかかった (ウ)根本中堂は東塔にあり、全山の総本堂である (エ)園城寺の寺門に対して山門と呼ばれる」

平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「延暦寺は天台宗の総本山で、(  )が比叡山で修行して、自ら彫った(  )を祀ったことに始まる。南都(奈良の諸大寺)に対して(  )、園城寺に対しては山門と呼ばれる。(中略)根本中堂は寛永19年(1642)の落慶で国宝。(  )にあって全山の総本堂である。平成18年(2006)には開宗(  )を迎え、多くの記念行事が行われる。」

リンク
延暦寺オフィシャル  http://www.hieizan.or.jp/


そうだ 京都、行こう。


更新履歴
取得中です。

@wiki