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狩野派


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狩野派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『別冊太陽 狩野派決定版』(2004・平凡社)


概略
狩野派 (かのうは)は、室町時代後期、将軍足利義政に重用された狩野正信を始祖とする、代表的な御用絵師の流派である。工房を組織して、共同作業によって多数の需要に対応し、幕府の絵画制作をほぼ独占した。おもに「漢画」とよばれる中国風の絵画を制作したが、日本風の大和絵も手掛けた万能集団。狩野探幽以下、江戸に本拠地を移した 江戸狩野 に対して、京都に留まった狩野山楽の系統を一般に 京狩野 と称している。江戸狩野が血縁関係を基礎とする家元制度を重視したのに対し、強力な支持基盤を持たない京狩野は優秀な弟子を取り込むことで存続を図った。

人物史・作風と代表的な作品

狩野正信(かのうまさのぶ)   永享6年~享禄3年(1434~1530)

足利将軍御用絵師となった、狩野派の創始者。京では幕府御用絵師の小栗宗湛に師事し、文明15年(1483)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。画風は、現存作品から見る限りでは漢画系の水墨画法によるものが多いが、職業絵師として、多様な画題、画風をこなしていたものと思われる。
竹石白鶴図屏風  大徳寺真珠庵所蔵  重要文化財

狩野元信(かのうもとのぶ)   文明9年?~永禄2年(1477?~1559)

正信の長男。狩野派の基礎を築いた。“画体”とよばれる画法(【真体・馬遠様…写実的】【行体・牧谿(和尚)様…印象派的】【草体・玉澗様…抽象的】の3つに分類した書き分け法)を提示したことにより、弟子による集団的な作画活動を可能にした功績は大きい。漢画系の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派?の様式を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した点に特色がある。山水・人物・花鳥風月と幅広い画題をこなしたほか、肖像画や絵馬などの作品も現存する。
四季花鳥図  大徳寺大仙院所蔵  重要文化財
瀟湘八景図  妙心寺東海庵所蔵  重要文化財

狩野松栄(かのうしょうえい)   永正16年~文禄元年(1519~1592)

元信の三男で名は直信(なおのぶ)。長兄の祐雪宗信(ゆうせつむねのぶ)が早世したので狩野家を継いだ。永徳の父。天才といわれる永徳を育てた陰の功労者といえる。作風は柔軟で優しい画風を持ち味とする。
涅槃図  大徳寺所蔵  重要文化財

狩野永徳(かのうえいとく)   天文12年~天正18年(1543~1590)

松栄の長男で名は州信(くにのぶ)。織田信長、豊臣秀吉から寵愛された天才画家。
安土城建設において、天下一の画工として参画、嫡男光信と共に天守閣や城内の障壁画制作に取り組む。後に秀吉にも呼ばれ大坂城・正親町院御所・聚楽第・天瑞寺・京都御所?など、秀吉が手がけた大建築の障壁画制作を狩野派による集団制作で独占する。長谷川等伯海北友松、雲谷等顔ら、他派の絵師達への影響も非常に大きい。永徳の死が狩野派に与えた衝撃は大きく、永徳の死後、豊臣秀吉からの作画依頼が狩野派から長谷川等伯一派に移されるという事態も招いた。
四季花鳥図襖  大徳寺聚光院所蔵  国宝
仙人高士図屏風  京都国立博物館所蔵  重要文化財

狩野光信(かのうみつのぶ)   永禄8年~慶長13年(1565~1608)

永徳の長男。長谷川等伯一派に立場を逆転された屈辱を晴らすべく、豊臣秀頼の命に応えて制作を行い、徳川家の御用も務めた記録が残る。父永徳風の巨樹を中心とした豪快な構成と力強い作風とは対照的に、光信の画風はそれらと異にして繊細で優美さを特色としている。偉大すぎる父永徳と比較され、光信の絵に対する評価は低かったが、近年、再評価の気運が高まっている。
蟠龍図  相国寺所蔵
四季花木図襖  園城寺(三井寺)勧学院所蔵  重要文化財

狩野孝信(かのうたかのぶ)   元亀2年~元和4年(1571~1618)

永徳の次男。父と兄光信の没後、狩野派の中心的存在として活躍したが現存する作品は少ない。後に江戸狩野派の中核を担う探幽、尚信、安信の3人の子を養育する。
賢聖障子絵  仁和寺所蔵

狩野長信(かのうながのぶ)   天正5年~承応3年(1577~1654)

松栄の四男、永徳の末弟と伝わる。長寿を保ち、光信や孝信亡きあとは狩野派の長老として活躍。宗家光信の子、貞信が早世した際には孝信の三男安信を養子として継がせた。狩野派の絵師では最も早く徳川家の御用絵師となり、江戸狩野の礎を創った功労者。
花下遊楽図屏風  東京国立博物館所蔵  国宝
二条城白書院障壁画  二条城所蔵  重要文化財

狩野興以(かのうこうい)   永禄9年?~寛永13年(1566?~1636)

下野国(現栃木県)生まれで、本姓は松屋、名は定信(さだのぶ)。光信の高弟として牧溪や雪舟らの水墨画の古典的画法を研究し、人物や山水、草花等をよくした。紀州徳川家に仕え、探幽、尚信、安信の後見として、江戸狩野の成立と様式に影響を与えた功績を以て、狩野姓を名乗ることを許された。
二条城白書院障壁画  二条城所蔵  重要文化財

狩野内膳(かのうないぜん)   元亀元年~元和2年(1570~1616)

戦国武将、荒木村重の家臣の家に生まれたが、のちに松栄に入門。狩野姓を名乗ることを許された。名は重郷(しげさと)。豊臣秀吉秀頼の御用絵師として活躍したが、同家が滅亡した翌年、後を追うように死去。
豊国祭礼図屏風  豊国神社所蔵  重要文化財

狩野探幽(かのうたんゆう)   慶長7年~延宝2年(1602~1674)

孝信の長男で名は守信(もりのぶ)。祖父永徳の再来と言われた巨匠。江戸狩野の確立者とされる。後に僧籍に入り探幽と称した。政権の動きに機敏に対応して勢力を伸ばした狩野派は、徳川幕府の成立と共に江戸への進出する。探幽もその一人として父孝信と共に京都から江戸へ進出して幕府御用絵師となり、弟達を江戸へ進出させ、幕藩体制の中で御用絵師としての地位を固める。探幽の名声を頼り諸大名達も狩野派の絵師を招くことにより、狩野派は画壇を席捲する事になる。探幽が江戸絵画史上残した功績として、未開発な江戸に絵画文化の芽を移植した事にある。これを母胎として浮世絵に代表される江戸庶民芸術が誕生する。
方丈障壁画  大徳寺所蔵  重要文化財
四季松図屏風 大徳寺所蔵  重要文化財
雲龍図  妙心寺所蔵

狩野山楽(かのうさんらく)   永禄2年~寛永12年(1559~1635)

浅井長政の家臣、木村長光の子として近江に生まれる。名は光頼(みつより)。豊臣秀吉に仕え、秀吉の推挙で狩野永徳の弟子となる。東福寺法堂の雲龍図制作中に永徳が病気で倒れると、あとを継いで完成させた。豊臣家とはとくに関係が深く、秀吉による内裏?造営の障壁画制作に参加したほか、伏見城障壁画の制作で活躍。そのため豊臣家滅亡後、剃髪して山楽と号し、徳川の追及を逃れて身を潜めるが、弟子の松花堂昭乗?の仲介で許された。作風は豪快な永徳風をわずかに残しながらも、装飾性を強調した安定感のあるもの。動植物の描写にすぐれていたが、山水・人物・風俗を主題とした優品も多い。探幽ら狩野派の多くが江戸に本拠を移して江戸狩野と称されるのに対し、山楽の家系は代々京都に残り京狩野と呼ばれた。
牡丹図襖  大覚寺所蔵  重要文化財
龍虎図屏風  妙心寺所蔵  重要文化財

狩野山雪(かのうさんせつ)   天正18年~慶安4年(1590~1651)

肥前国出身。16歳で山楽の門人となる。のちに山楽の養子となり京狩野を相続する。名は光家(みついえ)。山楽の影響を受けながらも独自の画風を形成した。画風は形態の執拗な追求、幾何学性のつよい意匠、強烈な明暗のコントラストなど、きわめて特異な様相をしめしており、伊藤若沖?や曾我蕭白など個性的画家の先駆としても評価されている。
籬に草花図屏風  妙心寺天球院所蔵  重要文化財
蘭亭曲水図屏風  隨心院?所蔵  重要文化財
寒山拾得図  真正極楽寺真如堂)所蔵

系図

その他

京都検定出題

平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「二条城二の丸御殿に残る絢爛豪華な障壁画は何派の作品か。」

平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「狩野派の家系として、正しく並んでいるのはどれか。 (ア)正信→元信→永徳→探幽 (イ)元信→永徳→探幽→正信 (ウ)永徳→探幽→正信→元信 (エ)探幽→正信→元信→永徳」

平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「相国寺の法堂天井に描かれている龍は「鳴き龍」として知られるが、この「蟠龍図」の作者は誰か。」

リンク
作品を収蔵する博物館・美術館
京都国立博物館 http://www.kyohaku.go.jp/


そうだ 京都、行こう。


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