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角倉了以
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角倉了以
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『京都大事典』(淡交社・1984)、『新装版 京都事典』(東京堂出版・1993)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『京都大事典』(淡交社・1984)、『新装版 京都事典』(東京堂出版・1993)
概略
角倉了以(すみのくらりょうい)は戦国・安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した京都の豪商。海外貿易や河川開発事業に活躍したことで知られる。琵琶湖疏水?の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名。本姓は吉田光好といい、了以は号。天文23年~慶長19年(1554~1614)
角倉了以(すみのくらりょうい)は戦国・安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した京都の豪商。海外貿易や河川開発事業に活躍したことで知られる。琵琶湖疏水?の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名。本姓は吉田光好といい、了以は号。天文23年~慶長19年(1554~1614)
人物史
角倉家は本姓を吉田といい、近江国(現滋賀県)佐々木氏の分家であるという。室町中期に上洛して幕府お抱えの医者をつとめ、医業で得た財を元に土倉(質屋・高利貸し)を営むようになる。了以の祖父である宗忠の代には洛中の帯座座頭職を取得、京都の帯の販売権を把握して経済的基礎を固めた。宗忠は長男に土倉業を継がせ、了以の実父である次男の宗桂に医者を継がせる。宗桂は2度も明(中国)に渡って先進医術を学んだ開明派の人物で、父親から諸外国の経済事情を聞かされた了以は、家長となった18歳の頃から海外貿易がもたらす莫大な利益に着目するようになる。文禄元年(1592)に豊臣秀吉から朱印状を得て、朱印船で安南国(現ベトナム)を相手に交易を行う。国内では河川の開発事業を盛んにおこない、慶長11年(1606)には大堰川を開削して丹波の木材の搬入を可能にし、慶長16年(1611)には加茂川(鴨川)の川底を深めて、淀からの舟運を市中へと進めることに成功。さらに高瀬川を開いて大坂と京都を水運によって直結した。これによって京都の経済交通路は飛躍的に向上し、角倉家は通航料の一部を収益することによって巨万の富を得る。その他の河川疎通事業としては、富士川、天竜川、さらに琵琶湖疏水?の計画をも立案したといわれる。こうして了以は茶屋町四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家と並ぶ、いわゆる「京都の三長者」という地位を確立した。大堰川を見下ろす大悲閣千光寺?の楼上には遺命によって造られた了以の木像が祀られている。墓所は京都市嵯峨野の二尊院?にある。
角倉家は本姓を吉田といい、近江国(現滋賀県)佐々木氏の分家であるという。室町中期に上洛して幕府お抱えの医者をつとめ、医業で得た財を元に土倉(質屋・高利貸し)を営むようになる。了以の祖父である宗忠の代には洛中の帯座座頭職を取得、京都の帯の販売権を把握して経済的基礎を固めた。宗忠は長男に土倉業を継がせ、了以の実父である次男の宗桂に医者を継がせる。宗桂は2度も明(中国)に渡って先進医術を学んだ開明派の人物で、父親から諸外国の経済事情を聞かされた了以は、家長となった18歳の頃から海外貿易がもたらす莫大な利益に着目するようになる。文禄元年(1592)に豊臣秀吉から朱印状を得て、朱印船で安南国(現ベトナム)を相手に交易を行う。国内では河川の開発事業を盛んにおこない、慶長11年(1606)には大堰川を開削して丹波の木材の搬入を可能にし、慶長16年(1611)には加茂川(鴨川)の川底を深めて、淀からの舟運を市中へと進めることに成功。さらに高瀬川を開いて大坂と京都を水運によって直結した。これによって京都の経済交通路は飛躍的に向上し、角倉家は通航料の一部を収益することによって巨万の富を得る。その他の河川疎通事業としては、富士川、天竜川、さらに琵琶湖疏水?の計画をも立案したといわれる。こうして了以は茶屋町四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家と並ぶ、いわゆる「京都の三長者」という地位を確立した。大堰川を見下ろす大悲閣千光寺?の楼上には遺命によって造られた了以の木像が祀られている。墓所は京都市嵯峨野の二尊院?にある。
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「嵐山を流れる大堰川は、上流を保津川とも呼び保津川下りでも知られているが、江戸時代初期に、この大堰川を開削し、保津峡を船で通れるようにした人物は誰か。 (ア)前田玄以 (イ)角倉了以 (ウ)茶屋清延 (エ)淀屋常安」
「嵐山を流れる大堰川は、上流を保津川とも呼び保津川下りでも知られているが、江戸時代初期に、この大堰川を開削し、保津峡を船で通れるようにした人物は誰か。 (ア)前田玄以 (イ)角倉了以 (ウ)茶屋清延 (エ)淀屋常安」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「大堰川は、河川開発事業に活躍した( )が慶長11年(1606)に開削、これにより丹波からの農産物や材木がより多く京の都へ運ばれるようになった。」
「大堰川は、河川開発事業に活躍した( )が慶長11年(1606)に開削、これにより丹波からの農産物や材木がより多く京の都へ運ばれるようになった。」
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