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伏見城


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伏見城(伏見桃山城)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
伏見城 (ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区にあった城郭。豊臣秀吉の隠居所として築城された。秀吉没後は徳川家康の居城となったが、豊臣氏滅亡後に破却された。また現在の地名には「治部少丸」「正宗」「伊賀」「本多上野」「松平筑前」「福島太夫南町」「羽柴長吉東町」「毛利町」「島津町」などがあり、当時の城下町や武家屋敷の名残りが見られる。

歴史
記録によれば、室町幕府の家臣であった三淵藤英(細川藤孝の異母兄)が伏見に居城を持っていたとされるが、詳細は不明。天正20年(1592)に豊臣秀吉が自らの隠居所として、宇治川沿いの低地丘陵である指月山に聚楽第の建物の一部を移築して本格的な城郭を建設した(指月城)。しかし文禄5年(1596)の大地震で倒壊したため、やや離れた桃山(現在の木幡山)の地に新たに城が築かれた(木幡山城)。秀吉はここで最期を迎えることとなる。秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康がかわってこの城で政務をとった。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦では、鳥居元忠らが篭る伏見城が石田三成ら西軍に攻められ落城、城は焼失する。元忠と家臣の供養のため、彼らが自刃した廊下の床板を天井板(血天井)としているという伝承が、宝泉院?養源院?正伝寺?源光庵?興聖寺?妙心寺天球院などに残っている。戦いの翌年、伏見城は家康の命により再建され、慶長8年(1603)の将軍宣下の儀式に使用された。江戸幕府の西国支配の拠点となるも、大坂の役で豊臣氏が滅亡した後は伏見城の役割は大坂城へと移り、重要性が薄れた。その後、家康の隠居に伴って取り壊しが決定され、元和9年(1623)の徳川家光の将軍宣下を最後に廃城となる。天守をはじめ建物の大部分は二条城に移され、高台寺南禅寺常寂光寺?などにも一部が移築されたという。石垣は淀城や大坂城の修築に使用。城門は御香宮神社?の表門や西本願寺の唐門、二尊院?の総門、豊国神社の唐門などに転用されたという。櫓は福山城伏見櫓や江戸城伏見櫓などが現存。また竹生島にある都久夫須麻神社の本殿は指月城の日暮御殿を移築したものといい、地震の際に受けたと思われる被害の痕跡が残っている。高台寺にある茶室「時雨亭」「傘亭」は城内から移されたものと伝えられる。廃城後、一帯は掘内村として開墾されて桃畑となったため、これにより俗に桃山城とも呼ばれることとなる。本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(桃山御陵)とされたため立ち入りが禁止されているが、昭和39年(1964)、本丸跡の東側に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が創られ、その目玉として鉄筋コンクリートによって模擬天守が建設された。平成15年(2003)にキャッスルランドは経営母体である近畿日本鉄道のリストラの一環として閉園したが、京都市民の運動によって天守閣は伏見のシンボルとして保存されることとなり、取り壊しを免れた。

文化財

国宝

なし

重要文化財(建造物)

なし

重要文化財(美術工芸品)

なし

拝観情報
住所 京都市伏見区桃山町大蔵45
アクセス 近鉄京都線「桃山御陵前駅」下車徒歩20分

その他

京都検定出題

平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「傘亭とともに伏見城の遺構と伝えられる高台寺の茶室の名前は何か。」

リンク


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