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鹿王院


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鹿王院
出典: 京都府教育委員会編『鹿王院文書目録』(京都府教育委員会・1997)、鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版・2000)、『国史大辞典』、『京都市の文化財 記念物』(京都市文化観光局文化部文化財・1992)ほか


概略
鹿王院 (ろくおういん)は、京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗?系の単立寺院。 山号は覚雄山、本尊は釈迦如来、開山(初代住職)は春屋妙葩、開基(創立者)は室町幕府3代将軍である足利義満

歴史
鹿王院は、康暦2年(1380)に足利義満が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まる。開山の春屋妙葩夢窓疎石の俗甥にあたり、貞和元年(1346)より天龍寺雲居庵の塔主となった。夢窓の没後、春屋妙葩は義堂周信とともに夢窓門下の中枢として天龍寺臨川寺焼失後の復旧に尽力するなど活躍したが、応安2年(1369)に延暦寺衆徒の強訴に端を発して管領細川頼之と対立し、春屋は丹後国に隠棲した。康暦元年(1379)に細川頼之が失脚したのち、天龍寺雲居庵に復職。南禅寺に住み、足利義満の信任を得て全国の禅僧を統轄した。宝幢寺と鹿王院の建立は春屋が復帰した康暦元年(1379)のこととみられている。至徳2年(1385)に宝幢寺を十刹に列する旨、また同寺住持職は開山塔頭である鹿王院推挙の人物をもって補任されるという旨を足利義満から得て、寺格を向上させ、宝幢寺は京都十刹の第五位に列せられた。春屋は至徳3年(1386)に宝幢寺住持を退き、嘉慶元年(1388)には体調を崩して居を鹿王院に移し、翌年に同院で没した。その後、宝幢寺とその末寺15ヵ寺は春屋門派として隆盛するも、応仁の乱によって荒廃。所領の実質支配が後退し、次第に門派運営が困難になっていった。門派の諸寺院が退転・統廃合が進行したなかで、本来は宝幢寺の開山塔所にすぎなかった鹿王院のみが残存することとなる。天正11年(1583)に鹿王院は同院領の知行を豊臣政権に認められ、天正13年(1585)に行われた検地において「天龍寺之内鹿王院領」として提出していることから、この間に天龍寺の塔頭に組み込まれたようである。理由については明確ではないが、十刹寺院宝幢寺の由緒を標榜し、春屋門派の拠点寺院としての地位を維持した。寛文年間(1661~1673)には旗本酒井忠知の子で、酒井忠次(徳川家康の功臣)の孫にあたる虎岑玄竹によって再興され、現在の堂宇のほとんどがこの頃に建てられた。庄内藩の酒井家が全面的に後援したという。単立寺院となったのは昭和43年(1968)である。

伽藍

客殿

正面の「鹿王院」の額は足利義満筆。現在は宿坊として利用されている。

本堂

客殿から舎利殿に至る歩廊の中間にある。延宝4年(1676)の建立。内部には運慶の作という釈迦如来像と十大弟子像、後檀の右には開山の普明国師像、左には開基の足利義満像が安置されている。

庭園

客殿の南に広がる庭園は、嵐山を借景とし、舎利殿を中心に樹齢400年の木斛が配された枯山水庭園で、作庭時期は不明。舎利殿の建立と同時期に庭園も整えられたものと考えられている。

舎利殿

宝暦13年(1763)に建てられた。「嵯峨の金閣」とも呼ばれる。内部に安置される多宝塔には鎌倉幕府3代将軍の源実朝が宋から請来したという仏牙舎利が納められており、毎年10月15日(仏舎利が博多に到着した日)に開帳される。

山門

室町時代に建立されたという四脚門。扁額の「覚雄山」は足利義満の筆による。ここから本堂へ竹林を抜ける石畳の参道が美しい。

文化財

国宝

なし

重要文化財(建造物)

なし

重要文化財(美術工芸品)

絹本著色夢窓国師像 絹本著色夢窓国師像 紙本著色釈迦三尊及び三十祖像(明兆作) 紙本墨画蘭石図 絹本墨画出山釈迦像 紙本墨書後醍醐天皇宸翰御消息 紙本墨書鹿王院文書 紙本墨書金剛院文書 夢窓疎石筆臨幸私記 夢窓疎石墨蹟

拝観情報
住所 京都市右京区嵯峨北堀町24
電話番号 075-861-1645
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 300円
アクセス 京福電車嵐山線「鹿王院駅」下車徒歩5分
駐車場 無料駐車場あり

主な行事

その他

リンク


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