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知恩院


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知恩院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
知恩院 (ちおんいん)は、京都市東山区にある浄土宗?総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?浄土宗?の宗祖・法然?が後半生を過ごし、没した地に建てられた。東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓の約7万3000坪におよぶ広大な寺域に、13ヵ寺の塔頭寺院を含めて大小100棟以上の堂宇が建ち並ぶ大寺院である。

歴史
知恩院は、浄土宗?の宗祖・法然房源空?が結んだ草庵をその起源とする。法然?比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空?と改名した。承安5年(1175)、43歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗?の開宗を決意して山を下り、現在の知恩院勢至堂付近に草庵を建て、そこを念仏道場とした。草庵は地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと呼ばれるようになる。専修念仏とは、いかなる者も一心に阿弥陀如来の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想で、旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然?は建永2年(1207)には讃岐国(現香川県)に流罪となり、4年後には許されて戻るものの、建暦2年(1212年)1月、80歳で没した。法然?の死後、草庵跡に御廟が建てられたが、嘉禄3年(1227)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。文暦元年(1234)、法然?の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されて、ようやく祖師の遺跡から浄土宗?の総本山へと発展した。その後も永享3年(1431)の火災や応仁の乱などで焼失し、現在の伽藍は江戸時代に整えられたもの。浄土宗?徒であった徳川家康は慶長8年(1603)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。慶長12年(1607)には宮門跡?を申請し、のちに後陽成天皇の第八皇子、良純法親王を門主に向かえて正式に宮門跡?となり、徳川家の菩提寺として発展する。伽藍の造営は2代将軍秀忠にも引き継がれた。寛永10年(1633)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍家光のもとで再建が進められ、寛永18年(1641)までにほぼ完成している。徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、京都における拠点とするとともに、徳川家の威勢を誇示して朝廷を牽制するといった、政治的な背景もあったといわれる。

伽藍
境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然?廟などのある上段の3つに分かれている。このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川家の全面的な援助で新たに造営されたもの。また知恩院には「鴬張りの廊下」「白木の棺」「忘れ傘」「抜け雀」「三方正面真向の猫」「大杓子」「瓜生石」という七不思議が古くから伝わるという。

三門

元和7年(1621)の建立。五間三戸、高さ約24m、横幅約50mの堂々たる二重門で、現存する木造の三門としては最大級という。組物(軒の出を支える構造材)を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様で、禅寺の三門に似ている。三門の「三」は空・無相・無願の3つの解脱の境地を表す。楼上には釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、鏡天井や柱、虹梁には雲龍や飛天などが極彩色で描かれている。

御影堂(本堂)

寛永16年(1639)、3代将軍徳川家光によって再建。入母屋造、本瓦葺。法然?の像を安置することから御影堂と呼ばれる。間口44.8m、奥行34.5mの壮大な建築で、建築様式は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には唐様(禅宗様)の要素を取り入れている。内部の外陣と内陣が蔀で仕切られるのは、浄土宗?寺院特有の形式。内陣中央には須弥壇と宮殿があり、ここに法然?坐像を安置する。東側には法然?の護持仏という鎌倉時代の阿弥陀如来立像、西側には徳川家康秀忠と伝通院(家康生母)の像を安置する。平成14年(2002)、三門とともに国宝に指定された。

阿弥陀堂

明治期に建てられた唯一の建造物。知恩院第2代勢観房源智上人が勢至堂前に創建し、宝永7年(1710)に現在の地に移された。のちに荒廃し、明治43(1910)年に再建された。本尊の阿弥陀如来坐像は像高2.7m。

勢至堂

境内東側の小高い場所にある。法然?の住房のあった地であり、寺内の建物では最も古く、享禄3年(1530)の建築。入母屋造、本瓦葺。内陣と外陣の境に蔀を吊る。建立当初は本堂(御影堂)であった。本尊の勢至菩薩坐像は鎌倉時代の作で、平成15年(2003)に重要文化財に指定されている。勢至菩薩を本尊とする堂は他にほとんど例を見ないが、浄土宗?では法然?を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものと思われる。

大方丈・小方丈

共に寛永18年(1641)の建築で、単層入母屋造、檜皮葺。大方丈は五十四畳敷の「鶴の間」を中心に、狩野派の筆による豪華な襖絵に彩られた部屋が続く。仏間には快慶作という本尊阿弥陀如来像が安置される。「上段の間」は玉座が据えられており、床や棚、書院、帳台構えを備えた最上の部屋で、天井は二重折上小組格天井。南側中央の高い桟唐戸の左右に蔀が吊られているのは御影堂や勢至堂と同じ趣向。小方丈は六室から成り、襖には狩野派の絵が描かれているが、大方丈とは違い水墨画である。また方丈庭園「二十五菩薩の庭」は寛永16年(1641)の作庭の池泉回遊式庭園で、作者は小堀遠州とも関係が深かったという僧、玉淵坊。

唐門

大方丈玄関に通ずる門で、寛永10年(1633)造営。江戸初期の建築であるが、桃山時代の彫刻を活かしている。入母屋造、檜皮葺、前後の軒には唐破風のある四脚門である。

経蔵

三門と同じく元和7年(1621)に立てられた二重屋根、宝形造、本瓦葺の建物で、唐様と和様が加味された意匠。内部には2代将軍秀忠の寄進によって納められた宋版大蔵経6,000巻あまりを安置する八角の輪蔵が備えられ、その輪蔵を一回転させれば、大蔵経読誦と同じ功徳を積むことができるとされる。天井や側壁の絵は狩野山楽の筆と伝わる。

法然上人御廟

慶長18年(1613)に寄進された。方三間、宝形造、本瓦葺で中央に両開桟戸がある。内部は瓦敷で中央に須弥壇を設けて厨子があり、その奥に法然?上人の遺骨が納められている。正面の向唐破風の門にある蟇股や欄間の華やかな彫刻は桃山時代の様式である。

大鐘楼

大鐘楼は延宝6年(1678)に造営された。入母屋造、本瓦葺、方四間、吹放屋形式で天竺様式である。この大鐘が鳴らされるのは法然?上人の御忌大会と大晦日の除夜の鐘だけである。大鐘は高さ3.3m、口径2.8m、重さ約70tと、方広寺?、東大寺とならぶ大鐘として知られ、寛永13年(1636)に鋳造された。当初この鐘を吊る環が、何度造り替えてもその重さに耐えかねていたところ、ある日、刀匠正宗・村正兄弟が知恩院へ参詣の折りこの事を聞き、精魂込めて鋳造し、ついにこの大鐘を吊るすことができたと伝えられる。

友禅苑

宮崎友禅斎?の生誕300年を記念して造られた。池泉回遊式庭園枯山水庭園を組み合せた意匠で、中央の補陀落池には高村光雲作の観音像がある。また苑内には裏千家?15代が命名した茶室「華麓庵」が建つ。通常非公開。

文化財

国宝

御影堂 三門 紙本著色法然?上人絵伝 絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図 菩薩処胎経 大楼炭経 上宮聖徳法王帝説

重要文化財(建造物)

勢至堂 経蔵 大方丈 小方丈 集会堂 大庫裏 小庫裏 唐門 大鐘楼

重要文化財(美術工芸品)

木造阿弥陀如来立像  木造善導大師立像 木造勢至菩薩坐像 押出鍍金三尊仏 綾本著色毘沙門天像 絹本著色阿弥陀経曼荼羅図 絹本著色観経曼荼羅図  絹本著色紅玻璃阿弥陀像 絹本著色地蔵菩薩?像 絹本著色阿弥陀浄土図 絹本著色桃李園金谷園図 絹本著色蓮花図 絹本著色牡丹図 紙本著色法然?聖人絵 紙本墨書天平年間写経生日記 紙本墨書大唐三蔵玄奘法師表啓 刺繍須弥山日月図九条袈裟 海竜王経 紺紙金字後奈良天皇宸翰阿弥陀経 十地論歓喜地 順次往生講式 大通方広経 中阿鋡経 註楞伽経 超日明三昧経 菩薩地持論 法華経玄贊巻第三・法華経玄贊巻第二・第七・第十 瑜伽師地論 宋版一切経 三略

拝観情報
住所 京都市東山区林下町400
電話番号 075-531-2111
拝観時間 9:00~16:00(閉門16:30)
拝観料 境内と御影堂は自由拝観、方丈・方丈庭園拝観400円
アクセス 市バス「知恩院前」下車徒歩5分
駐車場 徒歩圏内(約1分)に市営駐車場あり

主な行事

その他

京都検定出題

平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「浄土宗の総本山である知恩院には知恩院の七不思議があるといわれるが、次のうち七不思議に含まれないものはどれか。 (ア)三鈷の松 (イ)瓜生石 (ウ)大杓子 (エ)忘れ傘」

リンク
知恩院オフィシャル  http://www.chion-in.or.jp/


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