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勧修寺


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勧修寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
勧修寺 (かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡?寺院で真言宗?山階派の大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音。寺名は「かんしゅうじ」と読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。

歴史
創建の時期については諸説あるが、寺伝によると昌泰3年(900)に醍醐天皇の生母藤原胤子?の追善のため、胤子?の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めて、天皇等身の千手観音像を安置したという。寺名は外祖父藤原高藤?の諡号をとって勧修寺と号した。開山である承俊律師は東大寺出身の法相宗の僧。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王が入寺してから、代々法親王が入寺する宮門跡?寺院としての地位が確立し、広大な寺域を有することになった。文明2年(1470)の兵火によって堂宇のほとんどを焼失し、また豊臣秀吉伏見城を築いた際、寺地内を貫通する形で伏見街道を敷いたために、寺地は分割され衰退する(名石はすべて醍醐寺三宝院に運ばれたという説もある)。のちに徳川氏と皇室の援助により江戸時代に入ってようやく復興された。現存の主な建物はその時に移築されたものである。

『今昔物語集』には次のような藤原高藤?胤子?の説話が伝えられている。
鷹狩が趣味であった高藤?は、南山階(現京都市山科区)へ鷹狩に向かった際、雨宿りのため通りかかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに宮道邸に泊した高藤?は弥益の娘、列子に一目惚れし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた父・良門?は激怒し、今後鷹狩に行くことを厳禁した。それから6年後、高藤?はようやく列子と再会する。列子は娘を連れていた。6年前の一夜の契りで宿した子であった。この娘が後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子?である。

伽藍
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡?寺院の格式を表わしている。境内北側には宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内南側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂が建つ。

宸殿

元禄10年(1697)に明正天皇の旧殿を下賜されたもので、明正殿とも呼ばれる。入母屋造、桟瓦葺。内部は書院造である。明治以降は小学校として利用されていた。内部は通常非公開。

書院

元禄10年(1697)に明正天皇の旧殿を下賜されたものというが、貞享3年(1686)に後西院天皇の旧御殿を移築したものという説もある。入母屋造、こけら葺。一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。「近江八景図」や「龍田川紅葉図」などの障壁画は、作風から土佐派?の画家によるものとされ、寺伝では「近江八景図」が土佐光起?、「龍田川紅葉図」が光起?の子光成?の筆という。書院前の庭には樹齢750年と伝わる「ハイビャクシン」という名木と、「勧修寺型灯籠」と呼ばれる徳川光圀寄進という雪見灯籠がある。書院内は通常非公開。

本堂

寛文12年(1672)に近衛家?の建物を移築したものという。本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。

庭園・観音堂

約2万平方メートルの氷室池を中心とする池泉舟遊式庭園で、池には大小3つの島が浮かぶ。水際には杜若や花菖蒲、睡蓮、蓮などが四季折々に咲き、雄大な自然を有する典型的な平安時代の庭園の趣きを見せる。古くは1月2日に氷室池に張った氷を宮中に献上し、その厚さによって五穀豊穣を占ったという。鳳凰をいただいた観音堂は昭和2年(1927)の再建で、大悲閣や望京楼とも呼ばれる。

主な塔頭

佛光院

養父の凶刃で両腕を切り落とされてのち出家するも、不屈の精神で字を習得し、口で筆を持ったという故・大石順教尼が再興した。内部は通常非公開。

文化財

国宝

なし

重要文化財(建造物)

書院

重要文化財(美術工芸品)

蓮花蒔絵経筥 紙本墨書仁王経良賁疏(伝空海筆)

拝観情報
住所 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
電話番号 075-571-0048
拝観時間  9:00~16:00
拝観料  400円
アクセス  地下鉄東西線「小野」下車徒歩6分
駐車場 駐車場あり(無料)

主な行事

その他

リンク


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