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青蓮院
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青蓮院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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概略
青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗?の寺院。開基(創立者)は最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。三千院、妙法院?とともに天台宗?の三門跡?寺院とされ、青蓮院門跡とも称する。日本三不動のひとつ「青不動」のある寺としても知られる。
青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗?の寺院。開基(創立者)は最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。三千院、妙法院?とともに天台宗?の三門跡?寺院とされ、青蓮院門跡とも称する。日本三不動のひとつ「青不動」のある寺としても知られる。
歴史
三千院、妙法院?などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房がその起源とされている。比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊が、平安末期の行玄大僧正の時に山の下に移転し、久安6年(1150)、鳥羽上皇の后である美福門院によって祈願所とされた。嘉応元年(1169)には上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める門跡?寺院となった。移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避けて嘉禎3年(1237)に現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があったため、付近にある花園天皇陵は「十楽院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)」と称されている。青蓮院の基礎を築いたのは第3代門主の慈円である。関白藤原忠通?の子で歌人としても知られ、歴史書『愚管抄』の著者として有名な慈円は、迫害を受けた法然?を匿ったり、死罪を言い渡された親鸞?の減刑を求めるなど、他宗派にも救いの手を差し伸べた。そのため青蓮院は浄土宗?や浄土真宗?にとっても聖地とされている。伏見天皇の第六皇子で第17代門主の尊円親王は名筆家として知られ、その書風は「青蓮院流」と呼ばれて江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流となった。天明8年(1788)、大火により内裏?が焼失した際、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となったため、「粟田御所」の名前でも呼ばれるようになる。また門前の5本の楠は親鸞?お手植と伝わり、市の登録天然記念物に指定されている他、多数の指定を受けている。
三千院、妙法院?などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房がその起源とされている。比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊が、平安末期の行玄大僧正の時に山の下に移転し、久安6年(1150)、鳥羽上皇の后である美福門院によって祈願所とされた。嘉応元年(1169)には上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める門跡?寺院となった。移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避けて嘉禎3年(1237)に現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があったため、付近にある花園天皇陵は「十楽院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)」と称されている。青蓮院の基礎を築いたのは第3代門主の慈円である。関白藤原忠通?の子で歌人としても知られ、歴史書『愚管抄』の著者として有名な慈円は、迫害を受けた法然?を匿ったり、死罪を言い渡された親鸞?の減刑を求めるなど、他宗派にも救いの手を差し伸べた。そのため青蓮院は浄土宗?や浄土真宗?にとっても聖地とされている。伏見天皇の第六皇子で第17代門主の尊円親王は名筆家として知られ、その書風は「青蓮院流」と呼ばれて江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流となった。天明8年(1788)、大火により内裏?が焼失した際、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となったため、「粟田御所」の名前でも呼ばれるようになる。また門前の5本の楠は親鸞?お手植と伝わり、市の登録天然記念物に指定されている他、多数の指定を受けている。
伽藍
本堂
堂内の厨子の前に立つ国宝の不動明王二童子像は平安時代の作で「青不動」と呼ばれている。高野山明王院の赤不動、園城寺(三井寺)の黄不動と並んで三不動のうちのひとつ。なお本堂で観覧できるのは複製品である。厨子内には青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅を安置するが、通常は非公開である(天台宗開宗1,200年を記念し、平成17年(2005)9月28日より12月28日まで公開された)。熾盛光如来とは、天台宗?最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊であるが、寺院の本尊とするのは珍しい。寺伝では文禄5年(1596)作の掛軸で、中央に梵字で表わした熾盛光如来、周囲に八大菩薩を表わしたものという。
宸殿
徳川秀忠の息女が後水尾天皇の女御として入内した時に造営された女御御殿が不要になったため、青蓮院に下賜されたもの。歴代天皇と歴代門主の位牌を安置し、主要な法要を行うのに用いられている。内部の障壁画「浜松図」(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。なお、昭和37年(1962)に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明。宸殿正面は美しい苔庭となっているが、本来は白砂を敷いていた。左近の桜と右近の橘が仮御所の名残りとして残る。
小御所
後桜町天皇の小御所が移築されたものだったが、明治期に焼失し、のちに復元された。手水鉢は「一文字手水鉢」と呼ばれ豊臣秀吉の寄進と伝わる。
華頂殿
青蓮院の書院で正面には相阿弥の庭が広がる。お庭を眺めながら抹茶をいただくこともできる(有料)。
霧島の庭・相阿弥の庭
好文亭の周囲を囲むのが霧島の庭と呼ばれる庭園で小堀遠州の作と伝わるが、近年、七代目小川治兵衛?によって大幅に改修された。5月頃に樹齢数百年という霧島つつじが咲くことから名付けられたという。相阿弥の庭は華頂殿前に広がる池泉回遊式庭園で、粟田山を借景とする。中心の龍心池には跨龍橋(こりゅうのはし)という石橋が架かる。相阿弥の作庭と伝わる。
好文亭
相阿弥の庭にある築山の上に建つ茶室で、青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として使用した建物。平成5年(1993)に天皇の沖縄訪問に反対するものによる放火で焼失し、平成7年(1995)に創建当初の平面図を基にして、材料や工法も同様のもので復元された。数寄屋造で、四畳半の茶室三部屋と六畳の仏間、水屋等からなる。障壁画は日本画家上村松園?の孫淳之による花鳥図。
将軍塚大日堂
大日堂は青蓮院の南東、華頂山頂の青蓮院の飛び地境内にあり、華頂山中で発見された石仏の大日如来を祀る。4,000坪の敷地には枯山水庭園や展望台があり、紅葉の名所として有名。春・秋には夜間拝観が実施される。境内にある将軍塚は、桓武天皇が平安京?遷都にあたり、王城鎮護のために甲冑と弓矢、太刀を持たせた将軍像(一説に征夷大将軍の坂上田村麻呂がモデルとも)を埋めたところといい、国家に異変が起きたときには激しく鳴動したという。展望台からは京都市街の見晴らしがよい。
文化財
国宝
絹本著色不動明王二童子像(青不動)
重要文化財(建造物)
なし
重要文化財(美術工芸品)
金地着色浜松図 紙本墨書後光厳院宸翰御消息 紺紙金泥大灌頂光明真言 解深密経 門葉記 夜鶴庭訓抄 往生要集 観音応験記 八家秘録及び諸真言目録 慈円一期思惟記 青蓮院吉水蔵聖教類 円仁自筆書状 皇慶附嘱状・皇慶起請 円仁入唐請来書目録 慈円自筆四天王寺聖霊院願文案
史跡
青蓮院旧仮御所
拝観情報
住所 京都市東山区粟田口三条坊町69-1
電話番号 075-561-2345
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 500円
アクセス 市バス「神宮道」下車徒歩5分
地下鉄東西線「東山駅」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
住所 京都市東山区粟田口三条坊町69-1
電話番号 075-561-2345
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 500円
アクセス 市バス「神宮道」下車徒歩5分
地下鉄東西線「東山駅」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
主な行事
その他
ライトアップ・夜間拝観
青蓮院・将軍塚大日堂ともに、春は3月中旬~4月上旬、秋は10月下旬~12月初旬に行われる。
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「青蓮院は粟田御所ともいわれ、天台宗三門跡のひとつである。門前には天然記念物の巨木があり、一見の価値があるが、何の木か。」
「平成15年(2003)から行われている京都・花灯路は、北は( )から南は清水寺までを花と灯りで結び、早春の風物詩となっている。」
「青蓮院は粟田御所ともいわれ、天台宗三門跡のひとつである。門前には天然記念物の巨木があり、一見の価値があるが、何の木か。」
「平成15年(2003)から行われている京都・花灯路は、北は( )から南は清水寺までを花と灯りで結び、早春の風物詩となっている。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「皇族・貴族の師弟が入寺・継承した特定の寺院を門跡寺院と称したが、天台宗の三門跡といえば、青蓮院、妙法院と、もうひとつはどこか。」
「青蓮院の不動明王二童子画像(国宝)は通称何というか。」
「皇族・貴族の師弟が入寺・継承した特定の寺院を門跡寺院と称したが、天台宗の三門跡といえば、青蓮院、妙法院と、もうひとつはどこか。」
「青蓮院の不動明王二童子画像(国宝)は通称何というか。」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「天台宗三門跡のひとつで、書道に優れた第17世門主尊円親王が、江戸時代の公文書の書体となった御家流を創始した寺院はどこか。」
「京都府立医科大学の前身は、明治5年(1872)に木屋町御池付近に開設された療病院とされるが、その後どこに移転したか。」
「天台宗三門跡のひとつで、書道に優れた第17世門主尊円親王が、江戸時代の公文書の書体となった御家流を創始した寺院はどこか。」
「京都府立医科大学の前身は、明治5年(1872)に木屋町御池付近に開設された療病院とされるが、その後どこに移転したか。」