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智積院


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智積院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、林田光禅編『智積院誌』(総本山智積院・1915)、村山正栄編『智積院史』(弘法大師遠忌事務局・1934)、京都市埋蔵文化センター編『総本山智積院境内祥雲寺客殿跡の発掘調査』(真言宗智山派総本山智積院・1995)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本庭園史大系』14(社会思想社・1973)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか


概略
智積院 (ちしゃくいん)は、京都市東山区東瓦町にある真言宗?智山派総本山の寺院。山号は五百仏頂山(いほぶっちょうさん)、本尊は大日如来、開基・開山は玄宥(げんゆう)である。川崎大師の通称で知られる平間寺や成田不動として知られる成田山新勝寺などを末寺に持つ。長谷川派による国宝の金碧障壁画を所蔵することで特に有名。

歴史
智積院の創建には、紀伊国(現和歌山県)にあった大伝法院と、豊臣秀吉が建立した祥雲寺という2つの寺が関係している。智積院はもともと根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭寺院である。大伝法院は真言宗?の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に高野山に創建したが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)に大伝法院を根来山に移して新義真言宗?を打ち立てた。南北朝時代に大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が智積院を建立、根来山内の学問所という位置づけであった。近世には根来山は広大な伽藍と根来衆と称される鉄砲隊によって強勢を誇ったが、豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)の根来攻めで全山炎上。2,000もの堂舎が完全に焼失した。当時智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれ高野山に逃れていた。玄宥は新義真言宗?の法灯を守るため智積院の再興を志したが、秀吉在世中には叶わず、十数年が過ぎた。秀吉が没して間もない慶長3年(1598)に徳川家康に再興を願い出、慶長6年(1601)に豊国社の坊舎3ヵ所が与えられ、上下二寺を建立して上を住房、下を講堂とし、五百仏頂山根来寺智積院と号した。豊臣家が滅亡した元和元年(1615)以降、豊国社の付属堂舎や梵鐘以下の資財が智積院に移され、秀吉が夭折した愛児鶴松(棄丸)のために妙心寺の僧・南化玄興を開山として建てた祥雲寺さえも与えられた。これに伴い祥雲寺本尊像は妙心寺に移され、建造物や祥雲寺建立の際に製作された長谷川等伯一派による金碧障壁画は智積院に引継がれた。天和2年(1682)に火災によって焼失するが、幕府は直ちに再建に乗り出し、東福門院の旧殿・南対屋・同下家などを客殿・大書院・小書院として貞享2年(1685)に再建し、被害を免れた障壁画も元に戻された。こうして智積院は真言宗?智山派の専門学寮として大いに栄え、一時は諸国から三千人もの学僧が参集する。教学の中心となる智山勧学院は、大坂の陣の際に使われた茶臼山の陣所が移築された。その後明治2年(1869)に土佐藩の弾薬庫として転用されていた勧学院が爆発炎上し、同15年(1882)には金堂を焼失、同27年(1894)には小書院と居間書院が取壊され、障壁画は新しく建立された宸殿に張り替えられた。昭和22年(1947)には客殿・宸殿・書院が原因不明の失火で焼失、唐門・大書院も半焼した。国宝の障壁画は38面が猛火の中運び出されたが、枇杷図4面・竹図4面・柏図1面・芦図1面・柳図1面が焼失した。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。昭和50年(1975)になって金堂が、平成7年(1995)10月に講堂が再建されている。

伽藍

金堂(本堂)

元禄14年(1701)に智積院第十世専戒が発願し、桂昌院(徳川綱吉生母)からの喜捨と学侶らの寄付金を基にして、宝永2年(1705)に建立。明治15年(1882)に焼失したが、昭和48年(1973)に弘法大師誕生1200年記念事業として再建に着手し昭和50年(1975)に完成。入母屋造、本瓦葺で、本尊大日如来像を安置する。参道には冠木門(かぶきもん)という2本の柱を渡した略式の門がある。

大書院

伏見城の遺構とも伝わる建物で、入母屋造、桟瓦葺。後水尾天皇の中宮であった東福門院徳川秀忠の娘)の旧殿より移築された。池泉が書院の床下に這入りこんでいるが、作庭当時はそうではなく、再建された際に乗りだしたのがそのままになっている。障壁画(松に草花図、桜楓図、松に梅図、松に黄蜀葵及び菊図、附 違棚貼付・袋棚小襖等)は長谷川等伯久蔵父子の作。画風の差異により「桜楓図」のうちの「桜図」が久蔵の筆とされる。久蔵は「桜図」完成の翌年、26歳の若さで急逝したため「桜図」が遺作となった。「楓図」は等伯畢生の名作。久蔵を失った等伯が無常観を振り切り、画面いっぱいに躍動する生命力を表現したといわれ、明るくて寂しい「日本の晩秋」が見事に描かれている。「桜図」「楓図」は平成13年(2001)にCGによって創建時の姿が再現された。

大書院庭園

利休?好み」といわれた桃山期作庭の祥雲寺庭園を修復したものという。『瑞応泊如僧正年譜』によると、延宝2年(1674)に新しく居室と庭園を作ったと記されており、延宝2年(1674)には完成していたと考えられている。中国の廬山の景色を表現したとされ「廬山の景」とも称される。大書院の東庭になっており、石橋によって枯滝石組の上部付近を回遊することができる池泉回遊式庭園である。南北に広がる池泉の東側には山畔を利用した築山を配する意匠で、平安期の寝殿造の釣殿のように、池泉が書院の縁の下に入り込んでいる。作庭当初から芝生の築山に皐月や躑躅の刈り込みと多数の石を配置し、築山下部の石組も作庭当初の意匠が残される。国の名勝に指定されている。

講堂

祥雲寺の法堂を移築したものだが、天和2年(1682)に焼失。その後東福門院旧殿を移築し、貞亨元年(1684)に再建された。しかし昭和22年(1947)に再び焼失。平成4年(1992)の覚鑁入滅後850年を記念して再建を計画し、平成7年(1995)完成した。再建に先だって発掘調査が実施されたが、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。毎月21日には「写経の集い」が行われている。

大師堂(遍照金堂堂)

遍照金剛殿とも呼ばれる。浅草宝持院の学侶真融の寄付金をもとに、末寺に寄附を働きかけて寛政元年(1789)に建立された。入母屋造、本瓦葺。教王護国寺東寺)の大師堂にある弘法大師像を模した尊像を安置する。

密厳堂(開山堂)

寛文7年(1667)に智積院第七世運敞が学侶らの寄付をもとに建立。入母屋造、本瓦葺で額の「密厳堂」は運敞の自筆。須弥壇の厨子内に興教大師(覚鑁)像を安置する。堂前の石畳の落椿が有名。

明王殿(不動堂)

根来寺より伝わるという不動明王像を安置することから不動堂とも呼ばれる。入母屋造、本瓦葺。もとは明治4年(1871)に建立された大雲院?祇園閣?)の本堂で、昭和26年(1951)に移築された。以降、本堂として用いられたが、講堂再建の際に金堂の南側に移された。

総門(惣門)

大書院や講堂と同様に、東福門院旧殿より移築された四脚門。通常は開かずの門となっている。

収蔵庫

講堂の南東脇に位置する。昭和43年(1968)に建設された。大書院の紺碧障壁画を中心とする寺宝を一般公開している。

宸殿

昭和33年(1958)に造営された建物で、能化(住職)が賓客を迎える際に使用される。襖絵は堂本印象の筆による。

文化財

国宝

紙本金地著色松に草花図 紙本金地著色桜楓図 紙本金地著色松に梅図 紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 附 違棚貼付・袋棚小襖等 紙本金地著色松に草花図(二曲屏風) 金剛経

重要文化財(建造物)

なし

重要文化財(美術工芸品)

絹本墨画滝図 絹本著色孔雀明王像 金地著色松に梅図 絹本著色童子経曼荼羅図 増一阿含経

名勝

智積院庭園

拝観情報
住所 京都市東山区東大路七条下ル東瓦町960
電話番号 075-541-5361
拝観時間 9:00~16:30(16:00受付終了)
拝観料 境内自由、伽藍・収蔵庫拝観500円
アクセス 市バス「東山七条」下車徒歩3分
駐車場 無料駐車場あり

主な行事
1月1日 修正会
1月15日 新年祝祷会・お昆布式
2月3日 節分会
2月15日 常楽会
3月春分の日 春季彼岸会法要
3月21日 正御影供
4月8日 仏生会(はなまつり)
6月15日 青葉まつり
8月12日 総本山施餓鬼会
8月24日 地蔵盆会
8月30日 永代・納骨・日月牌総供養法要
9月10日 運敞僧正忌
9月秋分の日 秋季彼岸会法要
10月3日 戦没者慰霊法要
10月4日 玄宥僧正忌
12月8日 成道会
12月11日~12日 冬報恩講
12月31日 除夜の鐘

その他

京都検定出題

平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「智積院の「楓図」(国宝)の作者は誰か。」

リンク
智積院オフィシャル  http://www.chisan.or.jp/sohonzan/


そうだ 京都、行こう。


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