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大徳寺
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大徳寺
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概略
大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野にある臨済宗?大徳寺派大本山の寺院。山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。茶の湯の文化と縁が深いことから「大徳寺の茶づら」とも呼ばれた。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20ヵ寺を超える塔頭寺院が建ち並び、建造物、庭園、障壁画、茶道具、書画など多くの文化財を今に伝えている。
大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野にある臨済宗?大徳寺派大本山の寺院。山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。茶の湯の文化と縁が深いことから「大徳寺の茶づら」とも呼ばれた。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20ヵ寺を超える塔頭寺院が建ち並び、建造物、庭園、障壁画、茶道具、書画など多くの文化財を今に伝えている。
歴史
開祖である宗峰妙超は、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)や京の南浦紹明?(なんぽじょうみん)に参禅し、徳治2年(1307)には師から印可を得る。播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上(うらのえ)家の出身であった縁で、正和4年(1315)、赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂の寄進を受けた。これが大徳寺の起源とされる。ついで正中2年(1325)に花園上皇から大徳寺を祈願所とする院宣を賜り、翌年の法堂の完成をもって正式に大徳寺と称することとなった。後醍醐天皇も大徳寺を保護し、建武元年(1334)には大徳寺を京都五山?のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発し、広大な寺領が寄進された。しかし建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹?から除かれてしまう。至徳3年(1386)には、五山十刹?の最下位に近い第9位とされている。このため幕府の庇護と統制下で世俗化しつつあった五山十刹?から離脱し、坐禅修行に専心する独自の道をとった。その後、貴族や大名、商人、文化人など幅広い層の保護や帰依を受け、一休宗純?をはじめとする名僧を多数輩出した。享徳2年(1453)の火災と応仁の乱で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純?が堺の豪商、尾和宗臨らの協力を得て復興。また公家や貴族、武家が嗜んだ書院座敷の茶の湯に対し、庶民風の草庵で楽しむ茶の湯をはじめた村田珠光?が一休宗純?に参禅して以来、茶の湯の世界とも縁が深まり、武野紹鷗?や千利休?ら多くの茶人が大徳寺と関係を持つようになる。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受け、塔頭寺院などの寺容が整備された。江戸時代には「たくあん漬」の考案者として有名な沢庵宗彭?が、大徳寺を統制下に置こうとする江戸幕府に抗議し流罪となるが、沢庵宗彭?の人柄に心服した3代将軍家光が大徳寺に多大な寄進を行い、法堂や仏殿などの伽藍が現在の姿に整えられた。
開祖である宗峰妙超は、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)や京の南浦紹明?(なんぽじょうみん)に参禅し、徳治2年(1307)には師から印可を得る。播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上(うらのえ)家の出身であった縁で、正和4年(1315)、赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂の寄進を受けた。これが大徳寺の起源とされる。ついで正中2年(1325)に花園上皇から大徳寺を祈願所とする院宣を賜り、翌年の法堂の完成をもって正式に大徳寺と称することとなった。後醍醐天皇も大徳寺を保護し、建武元年(1334)には大徳寺を京都五山?のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発し、広大な寺領が寄進された。しかし建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹?から除かれてしまう。至徳3年(1386)には、五山十刹?の最下位に近い第9位とされている。このため幕府の庇護と統制下で世俗化しつつあった五山十刹?から離脱し、坐禅修行に専心する独自の道をとった。その後、貴族や大名、商人、文化人など幅広い層の保護や帰依を受け、一休宗純?をはじめとする名僧を多数輩出した。享徳2年(1453)の火災と応仁の乱で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純?が堺の豪商、尾和宗臨らの協力を得て復興。また公家や貴族、武家が嗜んだ書院座敷の茶の湯に対し、庶民風の草庵で楽しむ茶の湯をはじめた村田珠光?が一休宗純?に参禅して以来、茶の湯の世界とも縁が深まり、武野紹鷗?や千利休?ら多くの茶人が大徳寺と関係を持つようになる。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受け、塔頭寺院などの寺容が整備された。江戸時代には「たくあん漬」の考案者として有名な沢庵宗彭?が、大徳寺を統制下に置こうとする江戸幕府に抗議し流罪となるが、沢庵宗彭?の人柄に心服した3代将軍家光が大徳寺に多大な寄進を行い、法堂や仏殿などの伽藍が現在の姿に整えられた。
伽藍
勅使門、三門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の東側に浴室、経蔵、鐘楼などが配されている。中心伽藍の北・南・西には別院2ヵ寺と塔頭22ヵ寺が並ぶが、その多くは非公開寺院である。
勅使門、三門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の東側に浴室、経蔵、鐘楼などが配されている。中心伽藍の北・南・西には別院2ヵ寺と塔頭22ヵ寺が並ぶが、その多くは非公開寺院である。
勅使門
慶長年間(1596~1614)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640)に移築したもの。 切妻造、檜皮葺の四脚門。
三門(金毛閣)
五間三戸の朱塗りの二重門で、入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗様。連歌師である宗長(そうちょう)の寄進で享禄2年(1529)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589)に千利休?が上層を完成させた。楼上には釈迦像を安置し、天井には長谷川等伯による雲龍図が描かれ、柱や梁は極彩色で装飾されている。上層に安置させた利休?の木像が豊臣秀吉の怒りを買い、利休?は自決を迫まられたという説話も残る。東福寺の三門についで現存2番目に古い門。楼上は通常非公開。
仏殿
寛文5年(1665)、京の豪商である那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられた。入母屋造、本瓦葺、一重裳階付き。 内部正面の須弥壇に本尊釈迦如来像を安置する。上部は一面板張りのいわゆる鏡天井で、狩野元信の筆とされる天人と雲が描かれている。
法堂
寛永13年(1636)、小田原城主稲葉正勝の遺命により、子の正則が建立した。入母屋造、本瓦葺、一重裳階付き。内部正面に須弥壇を配し、天井には狩野探幽の筆という雲龍図が描かれている。通常非公開。
本坊方丈・玄関
将軍家光の時代に行われた大改修の際、方丈は寛永12年(1635)、玄関はその翌年、京都の豪商後藤益勝の寄進で新造された。入母屋造、桟瓦葺。禅宗の方丈内部は前後2列左右3列の計6室を並べる形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列左右4列の計8室をもつ特異な形式。中央の室中の間は板敷きで、他室は畳敷き。84面の襖には狩野探幽の筆による水墨山水図が描かれている。また大徳寺は宗峰妙超の遺言で開山塔を設けていないため、方丈背面に突き出すような形で雲門庵を置き、そこに宗峰妙超の木造坐像を安置している。通常非公開。
本坊方丈庭園・唐門
方丈は南側と東側に枯山水庭園を持つ。東庭は七五三または十六羅漢の石組と呼ばれ、酬恩庵?(一休寺?)の方丈東庭や塔頭真珠庵の方丈東庭の石組と酷似している。南庭は方丈の再建と同じ頃に完成されたものいわれ、天祐和尚の作庭とされる。東南隅に三尊石組と枯滝を配し、一面に白砂を敷き詰めた典型的な禅宗の方丈前庭。国の特別名勝及び史跡に指定されている。
庭園の南側には秀吉の聚楽第の遺構という唐門が配されている。聚楽第破却の際に村上周防守義明が秀吉から拝領したものを寄進されたと伝わる。華麗な装飾彫刻と彩色を持つ桃山建築で、切妻造、檜皮葺の四脚門。明治の中頃まで勅使門の西側に東面して建っていた。扉上の冠木(かぶき)の上に麒麟や孔雀、鯉などの彫刻が施され、じっくりと鑑賞すれば1日では足りないという意味で別名「日暮門」と呼ばれる。平成12年(2000)より3年掛りで修復され、創建当時を思わせるような姿に復元された。
庭園の南側には秀吉の聚楽第の遺構という唐門が配されている。聚楽第破却の際に村上周防守義明が秀吉から拝領したものを寄進されたと伝わる。華麗な装飾彫刻と彩色を持つ桃山建築で、切妻造、檜皮葺の四脚門。明治の中頃まで勅使門の西側に東面して建っていた。扉上の冠木(かぶき)の上に麒麟や孔雀、鯉などの彫刻が施され、じっくりと鑑賞すれば1日では足りないという意味で別名「日暮門」と呼ばれる。平成12年(2000)より3年掛りで修復され、創建当時を思わせるような姿に復元された。
鐘楼(西)
塔頭総見院の創建当時の建物で、明治元年までは総見院所有だった。入母屋造、本瓦葺。下層部に漆喰による「袴腰」を遺す貴重な鐘楼。鐘も創建当時のものといい、織田信長配下の武将、堀久太郎秀政が、信長の一周忌に寄進したものといわれる。
大仙院
永正6年(1509)に古岳宗亘(こがくそうこう)を開祖として、近江守護の六角正頼が創建した。方丈庭園は享禄3年(1530)頃に作庭されたとされ、北東角には大小の石を配して深山幽谷の趣を見せる枯山水があり、滝が大河となって方丈南庭の大海に注ぐという意匠になっている。創建当時の姿を現在に留める枯山水庭園の傑作とされ、国の特別名勝及び史跡に指定されている。本堂の壇那の間には狩野元信の筆と伝わる襖絵を有する。
龍源院
文亀2年(1502)に東渓宗牧(とうけいそうぼく)が開いた寺院を起源とし、永正年間(1504~1521)に仏恵大円を開祖として能登守護の畠山義元、周防守護の大内義興、豊後守護の大友義長によって塔頭龍源院として建立された。創建当初の建物である方丈の周囲には、東に4坪の坪庭「東滴壺(とうてきこ)」、南に白砂の中心に楕円形の苔島を配した「一枝坦(いっしだん)」、北には相阿弥の作庭と伝わる苔庭に三尊石組を配した「龍吟庭」という3つの枯山水庭園がある。
瑞峯院
天文4年(1535)に徹岫宗九(てつしゅうそうきゅう)を開祖として、豊後守護大友義鎮(宗麟)が創建した。方丈は創建当時のもので、室町時代の禅宗建築様式を留める貴重な遺構。千利休?作の待庵を模した「平成待庵」をはじめ「安勝軒」「餘慶庵」と3つの茶室がある。方丈南庭の「独坐庭」は蓬莱山を表す巨石を中心に白砂や苔を配した枯山水庭園。北庭はキリシタン大名であった大友義鎮にちなみ、7つの石が十字架を描く「閑眠庭」。共に昭和の作庭家、重森三玲?の手による。
高桐院
慶長6年(1601)に利休?七哲のひとり、細川忠興(三斎)が父藤孝(幽斎)の菩提寺として、玉甫紹琮を開祖に創建した。方丈南庭は苔と楓のみの簡素な庭で、秋の紅葉の頃が特に美しい。利休?屋敷を移築したと伝わる書院「意北軒」や、忠興の建てた二畳台目の茶室「松向軒」のほか、忠興とその妻ガラシャの墓がある。
総見院
豊臣秀吉が主君織田信長の菩提寺として、千利休?の禅の師として知られる古渓宗陳を開祖として天正11年(1583)に建立した。織田信長の坐像や秀吉遺愛の侘び助椿、加藤清正が朝鮮より持ち帰った石を使ったという井戸のほか、境内墓地には信長と息子信忠・信雄の墓や近衛家?の墓がある。秋の公開期間を除き、通常非公開。
興臨院
大永年間(1521~1528)に能登守護、畠山義総が畠山家の菩提寺として建立した。本堂前庭は桃山風の豪放な石組を配して蓬莱神仙島を象った枯山水庭園で、昭和53年(1978)の本堂解体修理の際、作庭家中根金作?が復元したもの。古田織部?好みの四畳台目に隅板を加えた茶室「涵虚亭(かんきょてい)」も有名。春と秋の公開期間を除き、通常非公開。
黄梅院
はじめ黄梅庵といい、永禄5年(1562)に春林宗俶によって創建された。のちに毛利元就の三男小早川隆景が玉仲宗琇に帰依し、天正16年(1588)に再興された。方丈は六室からなる禅宗特有の建築で、玄関とともに細部に桃山風の豪壮な彫刻がみられる。庫裏は創建当初の建築といわれ、現存の禅院建築の中で最も古いとされる。永禄元年(1558)に武野紹鷗?によって建てられたという茶室「昨夢軒」は、四畳半の台目床をそなえた桃山初期の席。方丈前庭「波頭庭」は前後を白砂と苔で二分し、苔の部分の中央やや右に二石を配置した枯山水庭園。方丈背後には枯滝を配した「作仏庭」がある。書院南庭「直仲庭」は瓢箪型の池を中心とした庭園。境内墓地には小早川隆景夫妻や毛利元就、蒲生氏郷ら戦国武将をはじめ、画家の雲谷等益や小田海僊の墓がある。通常非公開。
真珠庵
永亨年間(1429~1441)に一休宗純?によって創建された。応仁の乱で焼失し、延徳3年(1491)、堺の豪商尾和宗臨によって再興された。草庵風、二畳台目の茶室「庭玉軒」は茶人金森宗和?が元の庵を茶室に造り替えたもの。方丈北側にある通仙院は正親町天皇女御の化粧殿を移築したものと伝わる。国の名勝及び史跡に指定されている庭園は、方丈庭園と通仙院庭園からなり、前者は細長い地割に十五個の石を七五三に配した枯山水庭園で、一休?に参禅した村田珠光?または連歌師宗長の作庭といい、後者は書院式露地で金森宗和?の作といわれる。境内墓地には村田珠光?や能楽観世流の始祖観世清次・元清らの墓がある。通常非公開。
聚光院
室町幕府の管領職を務めた細川家の重臣、三好長慶の菩提寺として永禄9年(1566)に創建された。千利休?が永代供養料を寄進し、一族の墓所とした。長方形の苔庭の直線上に多くの庭石を配した「百積庭」は千利休?の作と伝わり、国の名勝に指定されている。利休?好みの三畳台目の茶室「閑隠席」や狩野永徳筆の障壁画でも知られる。通常非公開。
芳春院
慶長13年(1608)、前田利家の正室まつ(芳春院)が、玉室宗珀を開祖として建立した塔頭で、加賀前田家の菩提寺。開山宗峰妙超を祀る二重楼閣「呑湖閣」は小堀遠州が造営したといわれ、寛政8年(1796)に焼失し、現在のものは江戸後期の再建。内部には前田家一族の位牌を安置する。方丈前庭は「花岸庭」と呼ばれる枯山水庭園で、昭和の作庭家、中根金作?の手による。通常非公開。
大光院
天正19年(1591)に没した秀吉の弟秀長の菩提寺として、はじめは大和国(現奈良県)に建立されたが、慶長4年(1599)に藤堂高虎によって大徳寺山内に移転されたと伝わる。その後焼失するも昭和30年(1955)に現在地に再興された。通常非公開。
龍光院
慶長11年(1606)、黒田長政が父の官兵衛孝高(如水)の菩提寺として建立した。慶長13年(1608)には春屋宗園の隠居所となり、江月宗玩が入寺して春屋宗園を勧請開山とした。建物は創建当初のもので、屋根の後面左右が兜のように突き出た「兜門」が有名。茶室「密庵」は宋の密庵咸傑の墨書を掛けることに因る。四畳半台目の席で小堀遠州好みといわれ、書院式の茶席としては孤蓬庵の「忘筌」とともに代表的なものとされる。江月宗玩に帰依した有栖川宮仁親王と一族の墓所がある。通常非公開。
玉林院
慶長8年(1603)に後陽成天皇の侍医であった曲直瀬正琳(まなせしょうりん)が月岑和尚を開祖として創建した。のちに大坂の豪商鴻池了瑛が大龍宗丈に帰依し、その祖先である出雲守護尼子氏家臣、山中鹿之助幸盛の墓をつくり、一族の昭堂を建立したことから、鴻池家の菩提寺となった。寛保2年(1742)に昭堂として建立された「南明庵」には、「霞床席」「蓑庵(さあん)」という書院風と草庵風の2つの茶室がある。境内墓地には山中鹿之助や片桐且元、曲直頼正琳の墓がある。通常非公開。
孤篷庵
慶長17年(1612)に小堀遠州が龍光院に小庵を営んだが、寺地狭隘のため、寛永20年(1643)に現在地に移転し塔頭寺院とした。寛政5年(1793)に焼失するも、松江藩主松平治郷(不昧公)によって再興される。寺名は境内から見える船岡山を孤蓬(弧独な舟の意)に見立てて名付けたといわれ、茶室や庭園も湖水に浮かぶ舟に擬して造られている。茶室「忘筌」は書院式茶室の傑作といわれ、庭に面して広縁と落縁とを設けて「舟入板の間」とし、前方に庭の景をとり入れた独創的なもの。庭園はいずれも遠州作のものを復元修復されたもので、本堂前庭は二重の刈り込みをつくって水平線とし、船岡山を舟に見立ててた借景庭園であり、書院前庭は近江八景を模しており、遠州が故郷を追憶して作ったといわれる。庭園は国の名勝及び史跡に指定されている。通常非公開。
三玄院
天正年間(1573~1592)に石田三成が浅野幸長や森忠成らとともに春屋宗園を開祖として建立したと伝わる。茶室「篁庵」はもと西本願寺にあったものを、明治期に移築したものといわれ、古田織部?好みの三畳台目、八ッ窓の名席として知られる。境内墓地には石田三成、森忠政(森蘭丸の弟)、古田織部?、薮内紹智?らの墓がある。通常非公開。
文化財
国宝
唐門 本坊方丈及び玄関 絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図(牧谿筆) 絹本著色大燈国師像 虚堂智愚墨蹟 後醍醐天皇宸翰御置文 大仙院本堂 大燈国師墨蹟(大仙院所蔵) 絹本墨画山水図(高桐院所蔵) 大燈国師墨蹟(真珠庵所蔵) 聚光院方丈障壁画(紙本墨画花鳥図・紙本墨画淡彩琴棋書画図・紙本墨画瀟湘八景図・紙本墨画竹虎遊猿図) 龍光院書院 燿変天目茶碗(龍光院所蔵) 密庵咸傑墨蹟(龍光院所蔵) 竺仙梵僊墨蹟(龍光院所蔵) 大覚禅師筆金剛経(龍光院所蔵) 井戸茶碗(孤篷庵所蔵)
重要文化財(建造物)
勅使門 仏殿(附明月橋) 法堂(附廊下) 三門 浴室 経蔵 廊下 寝堂 庫裏 侍真寮 鐘楼 大仙院書院 龍源院本堂・表門 瑞峯院本堂・表門 興臨院本堂・表門 黄梅院本堂・庫裏 真珠庵本堂・庫裏・通仙院 聚光院茶室・本堂 龍光院本堂及び盤桓廊・兜門 玉林院南明庵及び茶室・本堂 孤篷庵本堂(方丈)・書院・忘筌
重要文化財(美術工芸品)
絹本墨画竜虎図(牧谿筆) 絹本墨画竜虎図(伝牧谿筆) 絹本著色運庵和尚像 絹本著色虚堂和尚像 絹本著色大応国師?像 絹本著色大燈国師像 絹本著色長生比丘尼像 紙本淡彩楊岐和尚像 紙本淡彩養叟和尚像 絹本著色五百羅漢像 絹本著色後醍醐天皇御像 絹本著色十王像 絹本著色楊柳観音像 絹本著色楊柳観音像 絹本著色楊柳観音像 紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経 紙本墨画柏鷹芦鷺図 紙本墨画芙蓉図(伝牧谿筆) 方丈障壁画(紙本墨画山水図・紙本墨画禅会図・紙本墨画竜虎図・紙本墨画竹林禽鳥図・紙本墨画梅柳禽鳥図・紙本墨画隠士図・紙本墨画猿曳図・紙本墨画芦雁図・附紙本墨画山水図・附紙本墨画鳳凰図衝立、狩野探幽筆) 木造大燈国師坐像(雲門庵安置) 鳳凰沈金経箱 花園天皇大燈国師御問答書 紺紙墨書法華経 紙本墨画大蔵経 紙本墨画法華経 徹翁義亨墨蹟 虚堂智愚墨蹟 花園天皇宸翰御置文 宗峰妙超墨蹟 宗峰妙超墨蹟 紙本墨書大燈国師自筆法語 景徳伝燈録 紙本墨書大燈国師自筆書状 紙本墨書大燈国師自筆書状 紙本墨書大燈国師自筆書状 紙本墨書大燈国師自筆置文 紙本墨書大燈国師自筆置文 紙本墨書大燈国師自筆置文 紙本墨書大徳寺諸庄園文書目録 紙本墨書中納言奉書並高家庄絵図 紙本墨書徹翁和尚筆七ヶ条制法 紙本淡彩四季耕作図(大仙院所蔵) 紙本著色花鳥図(伝狩野元信筆、大仙院所蔵) 紙本墨画瀟湘八景図(伝相阿弥筆、大仙院所蔵) 紙本墨画瀟湘八景図(相阿弥筆、大仙院所蔵) 牡丹孔雀模様堆朱盆(大仙院所蔵) 木造釈迦如来坐像(龍源院所蔵) 絹本著色牡丹図(高桐院所蔵) 絹本著色稲葉良籌像(高桐院所蔵) 木造織田信長坐像(総見院所蔵) 椿尾長鳥模様堆朱盆(興臨院所蔵) 紙本墨画竹林七賢図(伝雲谷等顔筆、黄梅院所蔵) 紙本墨画山水図(伝雲谷等顔筆、黄梅院所蔵) 紙本墨画芦雁図(伝雲谷等顔筆、黄梅院所蔵) 紙本著色百鬼夜行図(真珠庵所蔵) 紙本墨画竹石白鶴図(伝狩野正信筆、真珠庵所蔵) 紙本著色苦行釈迦像(真珠庵所蔵) 紙本墨画達磨像(真珠庵所蔵) 紙本淡彩臨済和尚?図(真珠庵所蔵) 紙本墨画白衣観音図(真珠庵所蔵) 絹本著色六祖大鑑禅師像(真珠庵所蔵) 紙本墨画真山水図(真珠庵所蔵) 紙本墨画花鳥図(真珠庵所蔵) 紙本墨画草山水図(真珠庵所蔵) 紙本墨画商山四皓図(伝長谷川等伯筆、真珠庵所蔵) 紙本墨画蜆子猪頭図(伝長谷川等伯筆、真珠庵所蔵) 絹本墨画観音像(真珠庵所蔵) 紙本墨画山水図(真珠庵所蔵) 絹本著色十一面観音像(真珠庵所蔵) 紙本墨画淡彩一休宗純?像(真珠庵所蔵) 絹本著色一休宗純?像3幅(真珠庵所蔵) 木造一休和尚?像(真珠庵所蔵) 紙本墨書一休和尚?自筆法堂再興書状(真珠庵所蔵) 南浦紹明墨蹟(真珠庵所蔵) 一休宗純?墨蹟(真珠庵所蔵) 真珠庵枡(真珠庵所蔵) 絹本著色三好長慶像(聚光院所蔵) 絹本著色多賀高忠像(芳春院所蔵) 大燈国師墨蹟(芳春院所蔵) 絹本淡彩山水図(龍光院所蔵) 絹本著色十六羅漢像(龍光院所蔵) 紙本墨画栗図・柿図(伝牧谿筆、龍光院所蔵) 紙本墨画淡彩琴棋図(龍光院所蔵) 油滴天目茶碗(龍光院所蔵) 紙本墨書後西天皇宸翰御消息(龍光院所蔵) 南浦紹明墨蹟(龍光院所蔵) 宗峰妙超墨蹟(龍光院所蔵) 大川普済語録鈔(龍光院所蔵) 絹本著色釈迦如来像(玉林院所蔵) 紙本墨書大燈国師墨蹟(孤篷庵所蔵) 絹本著色大宝円鑑国師像(三玄院所蔵) 紙本墨書金剛般若経(正受院所蔵) 大燈国師墨蹟(徳禅寺所蔵) 大燈国師墨蹟(徳禅寺所蔵) 徳禅寺法度(徳禅寺所蔵) 徹翁義亨墨蹟(徳禅寺所蔵) 紙本淡彩中達磨左右臨済徳山像(養徳院所蔵) 絹本著色足利義詮像(養徳院所蔵)
特別名勝
大徳寺方丈庭園 大仙院書院庭園
名勝
大仙院庭園 真珠庵庭園 聚光院庭園 孤篷庵庭園
史跡
大徳寺方丈庭園 大仙院書院庭園 真珠庵庭園 孤篷庵庭園
拝観情報
住所 京都市北区紫野大徳寺町53
電話番号 075-491-0019(本坊)、075-491-8346(大仙院)、075-491-7635(龍源院)、075-491-1454(瑞峯院)
075-492-0068(高桐院)、075-492-2630(総見院)、075-491-7636(興臨院)、075-492-4539(黄梅院)
075-492-4991(真珠庵)、075-492-6880(聚光院)、075-492-6010(芳春院)、075-492-3305(大光院)
075-491-8818(玉林院)、075-491-3698(孤篷庵)
拝観時間 大仙院 9:00~17:00(12月~2月は9:00~16:30)
龍源院 9:00~16:30
瑞峯院 9:00~17:00
高桐院 9:00~16:30
拝観料 境内自由、大仙院拝観400円(抹茶付600円)、龍源院拝観350円、瑞峯院拝観400円、高桐院拝観400円
アクセス 市バス「大徳寺前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(500円)
住所 京都市北区紫野大徳寺町53
電話番号 075-491-0019(本坊)、075-491-8346(大仙院)、075-491-7635(龍源院)、075-491-1454(瑞峯院)
075-492-0068(高桐院)、075-492-2630(総見院)、075-491-7636(興臨院)、075-492-4539(黄梅院)
075-492-4991(真珠庵)、075-492-6880(聚光院)、075-492-6010(芳春院)、075-492-3305(大光院)
075-491-8818(玉林院)、075-491-3698(孤篷庵)
拝観時間 大仙院 9:00~17:00(12月~2月は9:00~16:30)
龍源院 9:00~16:30
瑞峯院 9:00~17:00
高桐院 9:00~16:30
拝観料 境内自由、大仙院拝観400円(抹茶付600円)、龍源院拝観350円、瑞峯院拝観400円、高桐院拝観400円
アクセス 市バス「大徳寺前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(500円)
主な行事
10月第2日曜日 曝凉展
10月第2日曜日 曝凉展
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建。建武の親政を断行した( )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興。さらに安土桃山時代には( )が織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭( )を建立した(後略)。」
「大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建。建武の親政を断行した( )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興。さらに安土桃山時代には( )が織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭( )を建立した(後略)。」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「大徳寺の塔頭と創建者の組み合わせで誤っているものを選びなさい。 (ア)龍光院・三好長慶 (イ)高桐院・細川三斎 (ウ)孤篷庵・小堀遠州 (エ)大仙院・六角政頼」
「茶人が活躍した年代順として、ふさわいいのはどれか。 (ア)村田珠光→武野紹鷗→金森宗和→千利休 (イ)武野紹鷗→村田珠光→金森宗和→千利休 (ウ)村田珠光→武野紹鷗→千利休→金森宗和 (エ)村田珠光→千利休→武野紹鷗→金森宗和」
「大徳寺の塔頭と創建者の組み合わせで誤っているものを選びなさい。 (ア)龍光院・三好長慶 (イ)高桐院・細川三斎 (ウ)孤篷庵・小堀遠州 (エ)大仙院・六角政頼」
「茶人が活躍した年代順として、ふさわいいのはどれか。 (ア)村田珠光→武野紹鷗→金森宗和→千利休 (イ)武野紹鷗→村田珠光→金森宗和→千利休 (ウ)村田珠光→武野紹鷗→千利休→金森宗和 (エ)村田珠光→千利休→武野紹鷗→金森宗和」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「大徳寺の塔頭、芳春院にある「京の四閣」のひとつと称される楼閣を何というか。」
「大徳寺の塔頭、芳春院にある「京の四閣」のひとつと称される楼閣を何というか。」