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宗峰妙超


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宗峰妙超
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
宗峰妙超 (しゅうほうみょうちょう)は鎌倉時代末期の臨済宗?の僧。開山(初代住職)として大徳寺を創建する。諱は妙超、道号は宗峰、諡号は興禅大燈国師。師の南浦紹明?大応国師?)から宗峰妙超(大燈国師)、のちに妙心寺の開山となる弟子の関山慧玄へと流れる純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗?はほとんどこの法系に属する。弘安5年~延元2年/建武4年(1282~1337)

人物史
弘安5年(1282)に播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上家(うらのえ)の子として生まれた。11歳の時に書写山圓教寺で天台?を学ぶが、のち禅にめざめ、鎌倉の高峰顕日や京の南浦紹明?に参禅。南浦紹明?が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307)には師から印可(師の法を受け継いだというお墨付き)を得る。嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)の修行に励み、托鉢と坐禅の日々を送る。禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向した。自ら公案をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便(釈迦の説法)を使わず、正面より禅の極みを打ち出した。正和4年(1315)、一族の赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。また花園天皇は宗峰妙超に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めた。建武4年(1337)、病に伏し重態となるが、花園法皇の求めに応じて、没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙する。花園法皇が離宮を禅寺とした際、その山号寺号を正法山妙心寺と命名した。その年の12月22日に死去。妙心寺では、この年を開創の年とし、宗峰妙超の遺命を受けた関山慧玄が開山となっている。著作に『大燈国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』など。

その他

京都検定出題

平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「大徳寺は、鎌倉時代末期に(  )が創建。建武の親政を断行した(  )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商(  )の援助で復興した(後略)。」 

平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」

リンク
臨済禅・黄檗禅オフィシャル  http://www.rinnou.net/


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