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関山慧玄


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関山慧玄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
関山慧玄 (かんざんえげん)は鎌倉時代末期の臨済宗?の僧。開山(初代住職)として妙心寺の創建に関わる。明治天皇から無相大師と追諡された。師の南浦紹明?大応国師?)や宗峰妙超大燈国師)から受け継がれた純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗?はほとんどこの法系に属する。建治3年~正平15年/延文5年(1277~1361)

人物史
信濃国(現長野県)の出身で、信濃源氏の一族とされる。徳治2年(1307)に鎌倉の建長寺に入り、南浦紹明?に師事。慧眼の法名を授かり、南浦?寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅する。建長寺開山の蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じた際、ここで宗峰妙超を紹介され、大徳寺宗峰妙超に師事。やがて「雲門の関字」の公案で開悟し、宗峰妙超がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、のちに美濃国(現岐阜県)の伊深に草庵を結んで隠棲する。建武4年(1337)に花園法皇が離宮を禅寺に改め、その寺名の命名と、開山となることを宗峰妙超に依頼。開山には関山慧玄が推挙され、美濃の草庵から呼び出されて妙心寺の開山となる。禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、法嗣は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。延文5年(1360)、関山慧玄は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。関山慧玄には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師の法を受け継いだ証明書)以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、関山像は後世に作成された物である。彼の禅は、のちに白隠慧鶴が出て大いに繁栄し、他の臨済宗?諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日まで伝えている。

その他

京都検定出題

平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」

リンク
臨済禅・黄檗禅オフィシャル  http://www.rinnou.net/


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