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真如堂
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真正極楽寺(真如堂)
出典: 赤松俊秀『京都寺史考』(法蔵館・1972)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか
出典: 赤松俊秀『京都寺史考』(法蔵館・1972)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか
概略
真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。
真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。
歴史
『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(992)に寺としたのが起源という。正暦5年(994)には一条天皇により勅願寺となり、仁安元年(1166)には覚快親王、養和元年(1181)には天台座主を4回務めた慈円が別当となっている。往時は堂塔伽藍も壮麗をきわめ、正中2年(1325)には後醍醐天皇より仏舎利の寄進もうけたが、永和5年(1379)の火災と応仁2年(1468)の応仁の乱の兵火によって堂塔伽藍をことごとく焼失し、本尊は延暦寺西塔の黒谷青龍寺に移された。その後、近江国坂本(現滋賀県大津市)宝光院を経て、文明10年(1478)に本尊を京都一条町に遷している。文明16年(1484)には室町幕府8代将軍足利義政から神楽岡の東の地を寄進され、明応2年(1493)に本堂が完成。復興にあたり、浄土宗?の念仏者、時宗?の僧徒らの勧進によって堂塔伽藍の建立を推進したが、やがてこれが天台宗?から浄土宗?への転宗をもたらすきっかけとなった。文亀3年(1503)には、かつて寺地とした一条町に再び移転、本堂が上棟されたが、織田信長の旧二条城の建設で替地を与えられ、更に天正15年(1587)には聚楽第建設のため豊臣秀吉の命令で京極今出川に移され、慶長11年(1606)に本堂を竣工。同年12月15日に盛大な落慶遷座式を行っている。一方、神楽岡の東の地は寺領として存続し、天正3年(1585)には秀吉によって寺領を安堵されている。寛文元年(1661)に焼失、元禄4年(1691)に再建竣工するも、翌年に再度焼失した。元禄6年(1693)に東山天皇の勅願によって旧地の西南にあたる現在の地に復帰し、天台宗?に改宗した。その後、輪王寺門跡末寺となり、青蓮院が寺務するところとなった。
『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(992)に寺としたのが起源という。正暦5年(994)には一条天皇により勅願寺となり、仁安元年(1166)には覚快親王、養和元年(1181)には天台座主を4回務めた慈円が別当となっている。往時は堂塔伽藍も壮麗をきわめ、正中2年(1325)には後醍醐天皇より仏舎利の寄進もうけたが、永和5年(1379)の火災と応仁2年(1468)の応仁の乱の兵火によって堂塔伽藍をことごとく焼失し、本尊は延暦寺西塔の黒谷青龍寺に移された。その後、近江国坂本(現滋賀県大津市)宝光院を経て、文明10年(1478)に本尊を京都一条町に遷している。文明16年(1484)には室町幕府8代将軍足利義政から神楽岡の東の地を寄進され、明応2年(1493)に本堂が完成。復興にあたり、浄土宗?の念仏者、時宗?の僧徒らの勧進によって堂塔伽藍の建立を推進したが、やがてこれが天台宗?から浄土宗?への転宗をもたらすきっかけとなった。文亀3年(1503)には、かつて寺地とした一条町に再び移転、本堂が上棟されたが、織田信長の旧二条城の建設で替地を与えられ、更に天正15年(1587)には聚楽第建設のため豊臣秀吉の命令で京極今出川に移され、慶長11年(1606)に本堂を竣工。同年12月15日に盛大な落慶遷座式を行っている。一方、神楽岡の東の地は寺領として存続し、天正3年(1585)には秀吉によって寺領を安堵されている。寛文元年(1661)に焼失、元禄4年(1691)に再建竣工するも、翌年に再度焼失した。元禄6年(1693)に東山天皇の勅願によって旧地の西南にあたる現在の地に復帰し、天台宗?に改宗した。その後、輪王寺門跡末寺となり、青蓮院が寺務するところとなった。
伽藍
1万坪にも及ぶ広大な寺域には本堂を中心に8ヵ寺の塔頭が建つ。墓所には藤原家?、三井家、明智光秀の重臣で春日局の父である斎藤利三、海北友松、俳人向井去来、幕府作事方大棟梁で日光東照宮を手掛けた甲良豊後守らの墓がある。
1万坪にも及ぶ広大な寺域には本堂を中心に8ヵ寺の塔頭が建つ。墓所には藤原家?、三井家、明智光秀の重臣で春日局の父である斎藤利三、海北友松、俳人向井去来、幕府作事方大棟梁で日光東照宮を手掛けた甲良豊後守らの墓がある。
本堂
江戸幕府5代将軍徳川綱吉とその母桂昌院の寄進により、享保2年(1717)に建造された(元禄16年(1703)とする史料もある)。入母屋造、本瓦葺。内部には慈覚大師円仁の作と伝わる本尊阿弥陀如来立像(秘仏)、本尊右側に最澄の作と伝わる千手観音立像、左側には園城寺(三井寺)の開祖である智証大師の作と伝わる不動明王坐像を安置する。阿弥陀如来像は円仁が「女人を救い給え」と願ったところ、3度頷いたことから「うなずきの弥陀(阿弥陀)」とも呼ばれる。不動明王像は、陰陽師安倍晴明の命を救った念持仏という。
三重塔
宝暦7年(1757)に建立されるも安永3年(1774)頃から建て替え、文化14年(1817)に完成したもの。総高は約30m。
本坊・書院
本堂とは回廊で繋がれている。書院東側にある庭園は天龍寺庫裏前の石組などを手掛けた曽根三郎によって昭和63年(1988)に作庭された。東山三十六峰を借景とした枯山水庭園で、中央の石組の向かって左が釈迦のあたまで、右脇を下にして横たわり、その周りを弟子や動物たちが囲んで釈迦の死を嘆き悲しむ様子を表現したという。
元三大師堂
鐘楼
宝暦9年(1759)の建立で切妻造、本瓦葺。京都市内では知恩院の鐘楼につぐ規模を持つ。
元真如堂(念仏堂)
真正極楽寺(真如堂)の東北山麓にある境外仏堂で念仏堂とも号する。寺伝では本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師円仁の作。この地は正暦3年(992)から応仁の乱により移転するまでの旧地といわれる。元禄6年(1693)の再建ののち、元真如堂と名づけられた小堂宇が建てられたというが、天保元年(1830)の京都大地震で荒廃し、天保14年(1843)になって尼僧黙旨により再興された。以来、換骨堂とも号し、尼僧が代々住持する。
鎌倉地蔵堂
寺伝によると、鳥羽上皇が寵愛した絶世の美女と名高い玉藻前という女官が、陰陽師安倍泰親(異説に安倍泰成、安倍晴明とも)によって正体を九尾狐と見破られる。狐は下野国(現栃木県)に逃れるも討たれ、その悪霊が化して殺生石となり、なお人々に害を与えた。その祟りを解き霊を弔うために、室町期の僧、玄翁和尚が殺生石を砕き、その石で地蔵菩薩?を造り、鎌倉にお堂を建てて祀った。この像を信仰していた甲良豊後守が、夢に現れた地蔵菩薩?に「真正極楽寺(真如堂)に移すべし」と告げられて移築したという。
新長谷寺
平安期の貴族、藤原山蔭?が船旅の折、亀によって命を救われ、日頃より信仰する長谷寺観音の加護によるものとして、長谷寺の本尊十一面観音像を模した仏像を造り、吉田山麓に新長谷寺を建立した。明治の廃仏毀釈の際に真正極楽寺(真如堂)の境内に移されたという。洛陽三十三所第五番札所でもある。
文化財
国宝
法華経
重要文化財(建造物)
本堂
重要文化財(美術工芸品)
木造阿弥陀如来立像 紙本著色真如堂縁起絵巻 絹本著色普賢菩薩像 紙本墨書慈円僧正消息
拝観情報
住所 京都市左京区浄土寺真如町82
電話番号 075-771-0915
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 境内自由、本坊拝観500円
アクセス 市バス「真如堂前」下車徒歩8分
駐車場 無料駐車場あり
住所 京都市左京区浄土寺真如町82
電話番号 075-771-0915
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 境内自由、本坊拝観500円
アクセス 市バス「真如堂前」下車徒歩8分
駐車場 無料駐車場あり
主な行事
その他
京都検定出題
平成19年(2007)第4回京都検定2級出題
「寺院名」と「その正式名称」の組み合わせについて誤っているものを選びなさい。 (ア)真如堂-真正極楽寺 (イ)三十三間堂-蓮華王院 (ウ)東寺-教王護国寺 (エ)革堂-頂法寺」
「寺院名」と「その正式名称」の組み合わせについて誤っているものを選びなさい。 (ア)真如堂-真正極楽寺 (イ)三十三間堂-蓮華王院 (ウ)東寺-教王護国寺 (エ)革堂-頂法寺」