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阿弥陀如来


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阿弥陀如来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


概略
阿弥陀如来 (あみだにょらい)は、浄土教の中心をなす仏で、大乗仏教?における最も重要な仏のひとつ。西方極楽浄土の教主として最も人気があり、浄土思想?の発達とともに中国および日本で隆盛した。密教では五仏(五智如来)の一如来である。

名称
サンスクリット語ではAmitabha(無限の光明をもつもの、無量光)、Amitayus(無限の寿命をもつもの、無量寿)のふたつの名があり、音写によって「阿弥陀仏」「阿弥陀」と呼び、略して「弥陀」ともいう。中国では、阿弥陀と相並んで無量寿という意訳語がよく用いられたので、阿弥陀如来のことを無量寿如来とも呼ぶ。

像容
中国では4世紀にはすでに造像があったと伝えられ、6世紀以降から7世紀後半を頂点として彫像や阿弥陀浄土変相が盛んに制作された。日本には7世紀初頭に伝わり、浄土宗?浄土真宗?融通念仏宗?時宗?などの浄土教諸宗派が成立するに至った。日本の遺例の場合、阿弥陀如来の像容は立像・坐像とも、白鳳から天平時代では浄土変相図の請来や制作が流行し、印相は釈迦仏のそれと変らない右手施無畏印・左手施願印か、極楽で説法するのを象った転法輪印(説法相)であることが多い。

日本における造像例
阿弥陀如来の信仰を主題とする経典『無量寿経』によると、阿弥陀仏はむかし世自在王仏の時、悟りを得ようと志し、衆生救済のための本願(四十八願)を立て、修行を重ねて仏と成り、阿弥陀仏と呼ばれた。この仏は西方極楽浄土について説法しており、衆生は念仏などによって浄土へ往生することができる、と説いている。その信仰はインド・中央アジア・チベット・中国・日本の仏教において広まった。末法思想?にともなう浄土教?の隆盛により、平安中期以降、急激に阿弥陀如来像の作例は増加する。そのような中で理論的牽引をなしたのは源信恵心僧都)の『往生要集』である。源信は端厳なる阿弥陀如来像を造ることを奨め、迎接来迎図を発案した。『往生要集』の隆盛により、浄土教?は中級官人のみならず、貴族社会に急激に浸透した。のちに浄土宗?法然?浄土真宗?親鸞?時宗?一遍?が出てからは全国的に広まることになる。

平安中期から印相は来迎相と定印相とが一般的となる。定印相は密教?の所説に従うもので、両界図の西方に位置するこの仏の印とされ、単独像では10世紀頃から遺例があり、定朝様もこの像相である。来迎相は、ふつう右手施無畏印・左手施願印の手勢のままで拇指(ぼし)と食指とを相捻ずる形とし、以後大部分の阿弥陀の印相となった。阿弥陀如来を中央に、その左に観音、右に勢至の両菩薩を配する阿弥陀三尊のほか、三尊に地蔵・竜樹の二菩薩を加えた阿弥陀五尊(天台宗系)、さらに二十五菩薩を従えて往生者を迎えにくる二十五菩薩来迎、九品来迎の阿弥陀と関連する九体(くたい)阿弥陀、密教?の影響を受けた宝冠阿弥陀如来、阿弥陀如来が西方に極楽浄土を作る前、五劫の間(永遠ともいえる長い時間)思惟したという五劫思惟阿弥陀如来、見返り阿弥陀如来などの造形も伝わっている。

また、阿弥陀如来を安置するための阿弥陀堂が11世紀初め頃から数多く造営された。方三間または方五間の宝形造の建物が主で、延暦寺の常行堂・法華堂(にない堂)以来、方一間の内陣を中心として周囲に行道の外陣がめぐらし、屋頂に宝珠露盤をあげ、内部は柱、壁、天井などに極彩色の荘厳を施し、多くは前面に池をそなえて阿弥陀浄土を表す様式をとる。平等院鳳凰堂は翼廊、尾廊を取付け、外観でも阿弥陀浄土の宮殿の様を模した特殊なもの。また九品往生に関連して九体阿弥陀堂は法成寺を初めとして記録に残るだけでも二十余例が知られるが、現在では浄瑠璃寺?阿弥陀堂が九体堂の唯一の遺構である。

日本における代表的な阿弥陀如来像

飛鳥時代(白鳳期)

奈良・法隆寺三尊像  国宝

平安時代

仁和寺金堂坐像  国宝  ※現在は霊宝館安置
広隆寺講堂坐像  国宝
平等院鳳凰堂坐像  国宝  定朝
法界寺?阿弥陀堂本尊坐像  国宝
浄瑠璃寺?九体阿弥陀坐像  国宝
三千院阿弥陀堂三尊坐像  国宝  伝恵心僧都
清凉寺嵯峨釈迦堂)三尊像  国宝  ※霊宝館安置

鎌倉時代以降

兵庫・浄土寺阿弥陀堂三尊立像  国宝  快慶
神奈川・高徳院銅像坐像(鎌倉大仏)  国宝


そうだ 京都、行こう。


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