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龍安寺
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龍安寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、重森千靑著『京の庭』(ウェッジ・2003)ほか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、重森千靑著『京の庭』(ウェッジ・2003)ほか
概略
龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗?妙心寺派の寺院。山号は大雲山。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗?妙心寺派の寺院。山号は大雲山。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
歴史
龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家?の流れを汲む徳大寺実能?以来、徳大寺?家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたもの。初代住職として妙心寺第5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、嵐電の線路のあたりまでが境内であったというが、応仁の乱(1467~1477)で伽藍を焼失。勝元の子の細川政元と、第4世住持・特芳禅傑によって長享2年(1488)から復興に着手し、明応8年(1499)に方丈が再建された。寺では特芳を中興開山と称している。最盛期の龍安寺には塔頭が21ヵ寺、軒を連ねていたという(3ヵ寺現存)。『都名所図会』によると、当時、龍安寺の池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりもむしろ、池を中心とした池泉回遊式庭園のほうが著名であったらしい。イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。女王が絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、一躍有名になった。
龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家?の流れを汲む徳大寺実能?以来、徳大寺?家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたもの。初代住職として妙心寺第5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、嵐電の線路のあたりまでが境内であったというが、応仁の乱(1467~1477)で伽藍を焼失。勝元の子の細川政元と、第4世住持・特芳禅傑によって長享2年(1488)から復興に着手し、明応8年(1499)に方丈が再建された。寺では特芳を中興開山と称している。最盛期の龍安寺には塔頭が21ヵ寺、軒を連ねていたという(3ヵ寺現存)。『都名所図会』によると、当時、龍安寺の池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりもむしろ、池を中心とした池泉回遊式庭園のほうが著名であったらしい。イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。女王が絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、一躍有名になった。
伽藍
庭園
鏡容池(きょうようち)を中心とした池泉回遊式庭園。かつては龍頭鷁首(貴人の御座船)を浮かべた舟遊式庭園であったという。広さ約2万6000平方メートル。池の中央には北岸から延びた弁天島がある。池の周囲は堤が取り巻き、周回することもできる。睡蓮や花菖蒲などの草花も豊富で四季折々に美しく、国の名勝にも指定されている。
方丈
寛政9年(1797)の火災で主要伽藍を焼失したため、塔頭のひとつである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)としたもので、慶長11年(1606)の建築。仏間に釈迦如来と義天玄承・特芳禅傑の木像が安置されている。内部には皐月鶴翁(さつきかくおう)が昭和28年(1953)から5年の歳月をかけて描いた、金剛山と龍の襖絵がある。
方丈庭園
いわゆる「龍安寺の石庭」である。方丈の南側の幅25m、奥行10mほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を5ヵ所に点在させただけのシンプルな枯山水庭園。15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているという。作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。作者は(1)細川政元、(2)相阿弥、(3)金森宗和?、(4)夢窓疎石、(5)小堀遠州、(6)小太郎・彦二郎の説があり、有力なのは応仁の乱後に龍安寺を再興した細川政元が方丈を再建した時に作られたという説である。6番目の小太郎・彦二郎説とは、庭の南側土塀近くにある石の裏側に2人の名前が刻み込まれていることによる。他の庭園に使われていた石を持ってきた可能性を否定できないが、石に名前が彫られているのは極めて珍しい。いずれにせよ、謎だらけの庭園ではあるが、その空間構成は現代の意匠にも通用し、日本を代表する抽象的芸術として特に著名。また別名として「虎の子渡しの庭」とも呼ばれる。国の特別名勝及び史跡に指定されている。
仏殿
江戸時代の古図を元に昭和56年(1981)に再建された。天皇家や歴代住職の位牌が安置され、天井には雲龍図が描かれている。内部は通常非公開。
蔵六庵
方丈から東庭を隔てた北東隅の茶室。蔵六という語は亀の別名で甲羅の中に頭、尾、四肢の六つを隠すのでこの名がつけられた。茶室への露地に置かれた蹲踞は徳川光圀の寄進といわれ、また侘び助椿は豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰ったものと伝わる。銭型の蹲踞は中央の口を四方の偏(へん)や旁(つくり)などとして共用すると「吾唯知足(吾唯足ることを知る)」と読める。蔵六庵は通常非公開だが、蹲踞の複製が方丈の北東に置かれている。
細川廟
仏殿の西側に広がる通常非公開の庭園にある建物で、内部には細川勝元像が安置されている。
主な塔頭
西源院
龍安寺に現存する塔頭のうちのひとつ。現在は精進料理(湯豆腐)が食べられる食事処となっている。
文化財
国宝
なし
重要文化財(建造物)
方丈(本堂)
重要文化財(美術工芸品)
紙本墨書太平記(全13冊うち1冊欠。太平記の古写本の代表的なもので、徳川光圀が本書を借用したことでも知られる。昭和4年(1929)に火災に遭い、1冊を焼失。残りの12冊も焼損痕が残っている。)
特別名勝
龍安寺方丈庭園
名勝
龍安寺庭園
史跡
龍安寺方丈庭園
拝観情報
住所 京都市右京区龍安寺御陵下町13
電話番号 075-463-2216
拝観時間 8:00~17:00(12~2月 8:30~16:30)
拝観料 500円
アクセス 市バス「龍安寺前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(無料)
住所 京都市右京区龍安寺御陵下町13
電話番号 075-463-2216
拝観時間 8:00~17:00(12~2月 8:30~16:30)
拝観料 500円
アクセス 市バス「龍安寺前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(無料)
主な行事
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「龍安寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)鎌倉時代に創建された寺院である (イ)有名な枯山水庭園は「虎の子渡し」とも呼ばれている (ウ)山門をくぐると鏡容池と呼ばれる広い池がある (エ)水戸光圀が寄進したと伝わる「吾唯知足」の手水鉢がある」
「龍安寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)鎌倉時代に創建された寺院である (イ)有名な枯山水庭園は「虎の子渡し」とも呼ばれている (ウ)山門をくぐると鏡容池と呼ばれる広い池がある (エ)水戸光圀が寄進したと伝わる「吾唯知足」の手水鉢がある」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「禅宗を篤く信仰し、妙心寺の義天玄承を招いて龍安寺を創建した武将は誰か。」
「禅宗を篤く信仰し、妙心寺の義天玄承を招いて龍安寺を創建した武将は誰か。」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「龍安寺の茶室蔵六庵の前にある、水戸光圀が寄進したといわれる手水鉢には、漢字4文字で何と書かれているか。」
「龍安寺の茶室蔵六庵の前にある、水戸光圀が寄進したといわれる手水鉢には、漢字4文字で何と書かれているか。」